政治時評

杭州・西湖

法制度や行政によって社会に実現するべきだと思われる具体的方法

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二大政党制に未来はあるか

民主党が台頭して、日本はアメリカやイギリスと同じように二大政党制になるのだろうか。戦後の日本は、中小政党が乱立し、様々な曲折はあったけれども、自民党が安定した多数を占めて今日に至っている。1980年代から21世紀にかけてはほとんど一党独裁だったこともあって2大政党制は少しは民主主義の発達から見ると進歩したように見える。

民主党が自民党に匹敵する得票数を持ち、拮抗しあう関係になりそれはイギリスにみられるような政権交代を伴って議会制民主主義政治の理想的な形態に近づくのではないかと期待する向きもあろう。だが、果たしてそれでいいのだろうか。

イギリスやアメリカにおける二大政党制の形をよく検討し、それが国民の声を正しく吸い上げているかを検証する必要がある。二大政党制は一党独裁に比べればもちろん好ましい形といえようが、それは二つの政党の性格が大きく異なっている場合に限られる。そして両政党はまとまっていなければならない。

国会議員たちは内心さまざまな考えを持っているとしても、党首の考えに従わなければその政党は機能しないのである。つまり早く言えば統率のとれた政党政治とは実はイエスマンの集まりに過ぎないのである。人々の中には二党間で整然と政権の交代が行われそれぞれが特色のある政治を行うのではないかと淡い期待を抱いている者もいるようだが、これがまったくの幻想にすぎない。

一方の政党がある特定の利益団体に肩入れすれば当然それ以外の団体から反発を食らう。そうなれば政党は「誰でもを喜ばせる政策」を取らざるを得ない。となれば政党同士の政策が似通ってくるのはごく自然なことだ。典型的な例としては、アメリカのクリントン大統領の政策は敵である共和党の政策を大部分取り込んでしまい、ブッシュ大統領の場合には民主党の政策をいただくという形になる。

しかも、混迷を深める国際関係に巻き込まれ、グローバル化が進む環境では、イデオロギーによる大きな方向の違いはほとんど不可能になっている。ましてや現代はそれぞれの利害を主張するロビーイスト(圧力団体)が横行する時代だ。勢い大政党はどんな方面の人々も満足させるような玉虫色の政策を打ち出さざるを得ない。

もし特定のイデオロギーに基づいて今までとまったく異なる政策を実行に移したりすれば、生活水準の向上によって保守化している人々の変革を嫌う流れに逆らうことになりかねない。大政党の弱みはここにつきる。独自色を出すことができないのだ。

さらに大政党を維持していくためには、多額の金がいるが、これは一般の個人の党費ぐらいでまかなえる額ではない。当然大手企業の献金を仰ぐことになる。そうでなければとても総選挙を戦えない。スポンサーの付いた政党はテレビ局と同じで独自性を維持し続けることが難しくなる。

このような観点からアメリカの共和党と民主党をみてみよう。昔から共和党は白人富裕層に人気があり、民主党は有色人種や民権運動を目指す人を引きつけると言われてきた。だがそれも第2次大戦前の話であって、もし現代において大恐慌が起こったとしてもこれに対する方策はみな同じになるのである。

共和党が黒人やヒスパニックの票が欲しくないはずはない。勢い彼らを喜ばせる政策を優先させるだろう。とくに大都市においては。そして大統領選挙のたびにささやかれる途方もない金額の選挙資金調達の話。ブッシュ大統領が、自分を当選させてくれた企業に恩返しをするのは当然といえば当然だ。イラクでもどこでも彼らに仕事を見つけてあげるのだ。極言すれば民主党と共和党の違いはそれぞれの陣営を応援する企業が違うということだけなのかもしれない。

転じてイギリスではどうだろう。議会制の老舗(しにせ)といわれるこの国では、かつては保守党と自由党、そして現代では保守党と労働党が対立する構図になっている。だが、労働党の政策というのが保守党の政策と違いを見つけることが年ごとに困難になってきている。

かつて労働党は福祉国家の実現を目指し、労働者に対する手厚い年金や健康保険制度を徹底させたことで有名である。だが、不況と経済の悪化がそれらの予算を切りつめざるを得なくなり、保守党のサッチャー首相が、なにもかも切り落として「小さな中央政府」を作り上げてしまってからは、取って代わった労働党政権は元のコースに舵を戻すことすらほとんどしていない。

このように特色のない政策、だが現実社会に妥協していく政策を追求していくと、結局のところ二大政党制といってもほとんど差がないものになるのだ。しかもかつて言われていたような猟官制度を防止する機能もすっかり失われてしまっている。つまり、政権が変わると役人もきれいに入れ替えられて腐敗の土壌が一掃されるという利点も官僚制度の巨大化と専門化が進むにつれてどんどん失われている。

このようにみていくと、二大政党によるメリットはほとんどない。巨額の選挙費用がむなしく費やされるだけである。しかも国民もこれに対して敏感である。どちらに投票しても結果が同じだとすれば何でわざわざ投票所に足を運んだりしょうか。実際のところ二大政党制の安定しているところは投票率はどんどん低下している。

振り返って日本の現状をみてみよう。民主党が生まれたのは最近のことだ。大部分はかつて自民党の出身だ。これにかつての社会党や民社党の生き残りのうち、あまりイデオロギーにこだわらない連中が加わって作られた。中には自民党と民主党を行ったり来たりしているものすらいる。

そもそも名前が「自由民主」から、「自由」をとっただけだから、自由がなくなっただけという印象だって冗談ながらささやかれているくらいだ。そうなれば政策においても、相手がやるからそれに対して反対の立場をとろうというぐらいしか、「違い」を強調できない。これでは、国のさまざまな面で行き詰まりを見せている現状を打開する力はとうてい生まれてこない。

国会における、議論不在の一方的審議は、もし二つの力が伯仲すれば少しは改善されるかもしれないが、それは二大政党でなくてもできること。すでに述べたような欠点を考えれば、二つの大きな政党では錯綜する国民の置かれている問題を解決する力はとうてい得られない。

かつてから、私は小党乱立の長所を強調してきた。乱立といえば、政局の不安定を誰でも想像するであろう。だが、戦後のイタリア、フランス、スペインにおけるめまぐるしく変わる内閣は、決して国全体に悪い影響を与えなかった。というよりむしろ人々は政治に関係なく自分たちの国を勝手に運営していたといってもよい。強力な支配者がいない方がかえって好都合な場合もあるのだ。

しかも小党乱立では、腐敗が起こりにくい。官僚と政治家がゆっくり話をつける暇もないからだ。国民の間にますます多様化するさまざまな主張は政党が多い方が、取り込みやすい。しかも一つの政党が力を握っていないので、議論不在の一方的審議は起こりにくい。不安定な連立内閣では、どんな決定でも組閣した相手を怒らせないように、慎重に行う必要がある。

いわばぐらつきながらゆっくり走る自転車であるが、倒れないように各自が最善の努力を払い、これが政治的議論を盛んにするもとになり、国民ももし自分の好みにあう政党があれば政治に対する関心も上がり、投票率の低下も防げるだろう。今一番問題になっているのは「無党派層」なのだ。彼らが気に入る政党が見つかれが、それに越したことはない。

急速な経済発展や激しい戦乱の後には、誰しも安定した中央政府を求めるだろうが、現在その経済成長が安定期に入った諸国においては、むしろこれはじゃまになる。政治家が座り心地のいいソファにどっかり座ってしまったらおしまいなのだ。彼らはコマネズミのように各政党を回り必死に妥協点を見つけるさまが似合っている。

このようにに大政党制は、資本家と労働者のように社会がかなり明確な境界線によって別れている場合には機能するが、現代のあまりに複雑な政治関係の中ではとても流動的な情勢に対応できなくなっているのである。すでに議院内閣制によっていわゆる「行政府」の「立法府」からの分離により専門家や官僚たちに政治の実質的な部分が持ち去られている今なおさらこのことが痛感される。

国民の多様な声は少数政党の乱立でしか届き得ないのだ。そのために政局が不安定になり、「回転扉(revolving door )内閣」と陰口をたたかれてもしょうがない。現代においては「テロとの戦い」のように人民受けするスローガンのもとに多数横暴が起こりやすい。これを未然に防止するためには、政党には「中道」「中道左派」「中道右派」のほかに「過激派」の存在ががどうしても必要になるのだ。

これを無視して主流派だけで強引に政策を行おうとすると参加することを認められなかった過激グループが不満層を取り込んでかえって問題を難しくするのだ。今必要なのは強力な行政能力などではなく、すでにグローバリズムや自由競争によって生じた貧富の格差の拡大、機会均等の崩壊という現象における被害者をできるだけカバーできるようなシステムなのである。

このような弾力的な構造を用意しておかないと、将来的に社会に大きな負荷がかかったときに、大きな爆発が起こりかねない。この点から考えれば二大政党制はすでに前世紀の遺物なのである。

2004年7月初稿11月追加

かつてイギリスは議会制民主主義発祥の地として、その形が各国でまねされたものだった。責任内閣制や、二院制、政党政治などは世界中に広がっている。だが、最後の政党政治に関しては、それぞれの国の事情があり、なかなか2大政党の対立という図式に持ってゆくことが難しかった。

ほとんどの国では、小党乱立であり、イタリアのように、「回転ドア内閣」とあだ名されるほど寿命が短い例もあった。だが、だからといってイタリアの政治が不安定なために経済その他が停滞したというわけではない。むしろ安定政権につきものの腐敗が最小限にとどめることができたというボーナスがついた。

日本では、戦後一貫して自民党のほとんど一党独裁政権が続いた。これはアメリカと密着しその恩恵を完全に独り占めしていたために、戦争での特需や輸出依存体質をつくって表向き経済を繁栄させたと思われていたからである。

実際にはイギリスにしても、アメリカ合衆国にしても、そしていよいよ日本にしても対立の図式は「保守 vs 保守」になってしまっている。これはそれぞれの国民の生活水準がある程度に達し、現状維持を求めるという雰囲気が高まってきたからに他ならない。このような状況では、二つの政党の相違点を見いだすのは難しい。かつてアメリカでの共和党の政策を、民主党のクリントン大統領がどんどん取り入れてしまい、互いがそれぞれどう違うのかわからなくなってしまった。

そして4年ごとに繰り返される大統領選挙だが、年を経るごとに両政党の主張は似通ってきて、しかもその選挙資金源が巨大企業であるから国民のためというよりはグローバル企業の擁護という方向に向かってしまっている。第3の立候補者はそれこそ「泡沫」扱いされ、メディアは目もくれない。だから自分たちの要求を吸い上げてくれる人を見つけられない一般国民、特に低所得者層は政治に幻滅を感じ、それが投票率の情けないほどの低下となって現れるのだ。

日本では戦後活躍したいわゆる「革新政党」が勢いをなくし、その真空地帯に新たな保守層が入り込む結果となった。この新・保守層は農民主体ではなく生活の安定した都市住民の中から生まれている。彼らは普段は無党派層の中核であり、浮動票ということで表に現れない。

彼らは現行制度の大きな変化を好まず、少々の不便は我慢してしまう傾向があるから、多くの場合保守的政党に取り込まれてしまうのだ。例えば、正社員の労働強化、派遣社員の悲惨、サービス残業の黙認など、彼らは問題が山積しているのに無気力なのか、少しも怒りの声を挙げない。

ところで現代社会の諸問題は多岐にわたる。かつて年末にはNHKの紅白歌合戦を国民そろってみていた時代が遠くかすんでしまったので分かるように、国民の意見の合意といったものはすでに存在しなくなってしまっている。あるのは環境、外交、経済などそれぞれの固定された争点に対する特定の態度だ。

2大政党がそのような多様な問題を画一的に吸い上げてまとめ上げることはとてもできない相談だ。例えばイラク戦争には反対だが、政府のすすめる税制改革には賛成というような場合、その議員は、結局の所、自分を殺してイエスマンになるしかないのだ。それに逆らうことは党内での相対的地位を失うどころか、執拗な党議拘束というものが待ち受けている。

この点、少数党の場合は、イエスマンというよりは、同じ志を持った「同志」という面が強いから、党員間にさほど大きな意見の食い違いは生まれないし、派閥も大政党の場合ほど深刻ではない。

このように考えてみると、現代社会における2大政党制はいたずらに政策の硬直化を招くだけで今後生じるさまざまな問題に柔軟な対応ができず、玉虫色の一般的政策しか打ち出せなくなってしまう。あとは将来の安定に頼り切った「先送り」の連発のみである。

しかもこの戦後60年の間に、選挙区は、どんどん小さくなる傾向にある。問題が多様化しているのに、選挙区で選出される人数は1名に限りなく近づいているのだ。中選挙区であれば、多様な人材や考え方を持った議員を議会に招き入れることができるのに、わずか一人では一体どれだけの代表が務まるというのだろうか。

なるほど地方自治体の選挙においては小選挙区のほうがお互いの顔がわかっていて都合がいいのかもしれない。しかし国政選挙では地元のしがらみやエゴとは無縁なもっと大きな展望にもとづく人々を必要としている。

日本はかつての中選挙区制に立ち戻り、都市や地方からさまざまな意見と要求を汲み上げなければならない。そのためにはどうしても小党が乱立する必要がある。経済面では安定しているのであるから、政治が多少とも不安定であってもかまわない。連立内閣によって、競合する考えをうまくまとめていくことによって始めて政治に成熟の道が開けるのである。

2005年8月追加2007年10月訂正

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