政治時評

杭州・西湖

世界経済は発展する、だが資源は・・・?

子孫たちには何も残らない

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ブラジル、インド、中国、ロシアを筆頭に、21世紀の経済は急速にこれらの地域における経済発展の速度を増してきた。これまでアメリカ合衆国と西ヨーロッパの一部、日本だけがその恩恵を受けていたわけだから、この時期にいたってほかの地域にいよいよ本格的に成長が波及する時代になったわけだ。

いわゆる「先進国」と呼ばれる国々では、乗用車の所有、家族がゆったりと過ごせる広さの住宅、最新の電化製品、といった物質的基準を満たすことがまず先決だとされる。この点、ついこの前まで大部分が貧困層にあった中国でも次々と都市生活者が「中流的」生活に変わってきている。

アメリカのもつ物質的豊かさの基準は、世界の先頭をゆくものだが、もしこの生活モデルが世界60億以上の人々の目指す目標だとすると、一体この地球はそのすべての欲望を満たすことは可能なのだろうか?

3億人弱の合衆国の一人あたりのエネルギー消費は、もちろん世界一である。フランスの2倍以上、メキシコの6倍近く、エチオピアの何と800倍である(1999年)。アメリカの独走を追って、他の国々もその水準に達しようというのだろうか?

たしかに中国、インドなどの富裕層はそう考えているし、実際にそのエネルギー消費の域に達した人々も少なくない。たとえば中国に群がる自動車会社は、一台でも多くの車が売れることを願って日々営業活動に励んでいるのだが販売額は日々拡大している。

しかし中国の13億人が、一人一台を目標にお金を貯めているとして、それは環境、資源の点から見て現実に可能なのだろうか?現在われわれは合衆国に行くと、至る所に高速道路が張り巡らされ、車以外では用事がつとまらないために、常に車で移動を強いられ、大都市では何車線の道路を造ってもすぐに飽和を超えてしまうのを目撃している。

中国でその状況が発生するためには今のアメリカの自動車の台数の少なくとも4倍は必要だということがわかる。これは途方もない話だ。今の乗用車は、小型車でも1トン弱の重さがあるから、そこに使われている、鋼材・プラスチック・鋳物などの必要量から割り出すと、どれだけの資源を必要とするか想像がつく。

まさかわれわれ日本人は先発だから車を持つ権利があるが、中国人は持ってはいけないという論理が通用するはずはない。アフリカ人も南アメリカ人も、中央アジアの人々もみんな平等に持つ権利はあるし、実際にほしがっている。

では地球にそれらを支えるだけの資源とエネルギーはあるのか?もちろんない。明瞭歴然たる事実なのだが、誰もそれを直視しようとしない。なぜなら誰でも心の底でいずれ技術の進展がそれらを可能にすると信じているからだ。素朴な技術信仰がこれほど広く蔓延している時代はない。

例えば燃料電池。石油は後40年もすれば枯渇するから、そのあとはこの魔法のような電池がクリーンなエネルギーをわれわれに供給してくれるという「迷信」が本気で信じられている。無理もない。燃料電池の技術は非常に高度で一般人にはとうてい理解できないし、わからないことに関しては人々は役所や企業の自分たちに都合のよい宣伝をうのみにする。

燃料電池の実態は、その革新が実にのろいこと。一つには電極の腐食性が非常に大きいために、頑丈な物質が必要だが、それを使うと極端にコストが高くついてしまう。これは試用車を乗り回している人々の公然の秘密である。これまでの工業製品の製造技術は大量生産が可能でこれによりコストが引き下げられて大衆の手にはいることができた。だが、白金(プラチナ)のような高価な材料を使っていく以上、コストの低減は不可能だ。

さらに燃料電池の「燃料」はどうなるのか?水素はどうやって入手するのか?貯蔵の問題だけでなく、これを作り出すためには膨大なエネルギーが必要だが、そのエネルギーはどうやって手に入れるのか?まさか天然ガスや石油を分解して得るわけにはいくまい。これらは近い将来枯渇しようとしているのだから。

結局のところ、われわれが新たなエネルギーを手に入れるとき、無から有は生じないから、どこからか持ってこなければいけない。ということは燃料電池は夢のエネルギー源でも何でもないわけだ。せいぜい携帯電話の電源のように小規模なものに限り便利なものであるといえるだけだ。

このように将来のエネルギー利用の見込みが暗いのに、浪費は続く。誰も気にしない。40年後に石油が枯渇すると言われているが、その後の人類はどうやってエネルギーを得るのか?なぜ相続財産をこの短い期間に使いきってしまって気にならないのか?

人々はちょっとお買い物といって、2トンもの重さがある SUV に乗って駐車場完備のモールへ出かけて行く。東京から大阪まで乗用車で行くと、実に50から60キロ以上の酸素を消費する。近くの産地がありながら、わざわざ九州のイチゴを関東にトラックで運んでくる。

だが、それをだれも不思議に思わないし、決定的破滅が目前に迫るまでは止めることはないだろう。誰もがこういう生活は最終的には60億人の人類全員が可能になると思っている。マスコミも政治家も誰もその事について危惧していることを口にする人はいない。口にすると変人扱いされるからだ。

経済学者たちは世界の経済成長率をいつも気にしている。景気の善し悪しや雇用の問題は常に議論の対象になっている。景気や雇用の増大のためには、「消費」しか手がないという。その消費を促すためには「自由貿易」によって、重たい物資を長距離を燃料費をかけて運ぶのが最良とされる。

貨幣的な面から安価であることが第1に優先されるので、その方向に乗った商取引がすべてである。経済効率のみが追求される。今の経済活動原理には、環境負荷と資源の問題はいっさい含まれていないのだ。というよりも意図的に排除されているといってよい。

2005年のアメリカ南部へのハリケーン襲来により、やっと石油の価格が上がった。だが、その大部分は投機的なものであり、本当の不足に基づくものではない。本当の意味での資源不足が訪れない限り、人々の欲望がさめて現在の浪費を止めることはできないのであろう。

ただ、資源不足が起こってしまった時点では手を打つには遅すぎ、これまでの生活スタイルを突然180度転換することが迫られる。だが、浪費を前提としたインフラを持続的インフラに変えることには大変な労力が必要だ。たとえば高速道路を廃止して、路面電車に切り替えるといったような。

ドイツなど、持続的インフラに変える努力をすでにはじめているところはあるが、その動きは世界経済の中での大発展をもくろむ国々の奔流の中には完全に埋もれてしまっている。われわれの40年後は戦争によらないがれきと廃墟の中に暮らすことになるのだろうか?

2006年1月初稿

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