政治時評

杭州・西湖

なぜ貯蓄から投資なのか

庶民から金を吸い上げる構造

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「大人なのにまだ証券口座がないの?」これはある証券会社の広告である。にこやかにほほえむ若い女の子の顔が移っている。投資熱はいよいよ若年層をもとらえはじめた。小中学生でも証券口座を持つ時代だ。ホリエモンを大量生産したいらしい。

お金に対する態度は、国民によって大きく違っている。これまでよく引き合いに出されるのが、「預金」か「借金」かの違いだった。ドイツ人や日本人は(かつては!)あるものを買う必要があるとき、まずせっせと貯金した。目標額に達すると「虎の子」を持っていそいそと買いに行ったものだ。だから彼らは質実剛健、倹約家などと呼ばれた。

これに対し、アメリカでは、「月賦」という名の借金が国民の間に浸透した。まず欲しいものがあると、すぐに手に入れる。同時に間に信販会社が入ってただちに月賦払いの契約を結ぶ。月賦の総額は、利子がたっぷりついているから大変損なのだが、欲しいモノが手に入ったという喜びのせいか、月々にすれば大した金額ではないと錯覚するためか、消費者は大喜びでこのシステムを利用した。

この二つの間には大きな違いがある。つまり欲望を実現するまでじっと我慢するか、ただちに物欲を満たして、その報いはあとでかぶるかである。今や世界の経済はアメリカに席巻されたおかげで、世界中どこに行っても気軽に借金をするのが当たり前になった。サラ金とか質屋に行くことは人目をはばかっても、月賦やローンという名前の借金であれば大丈夫だというように、長いことあった金を借りる事への心理的障壁が崩れたのだ。

いよいよこれで「投資」への道が開かれたことになる。「借金」をすると借り主になるが、「投資」をすると貸し主になる。利子を取られることの苦しみを利子(配当)をとることの心地よさに変えたいと思うのが人の常。つまりこの二つは同じことの両面なのだ。

日本ではかつて株といえば、自由になる小金をため込んだ人々のささやかな楽しみであった。が、彼らにはもともと安心して暮らしていけるだけの貯蓄が別にあるというのが前提である。この点では、競馬、競輪、競艇に入れ込む人々よりもリスクは少なかった。

一方、アメリカでは、稼いだ金を大事に郵便局へ持っていって少しずつ貯める、といったような習慣は昔からない。民間の保険会社が、さまざまなタイプの保険を売り出し、それを買うことによって貯蓄代わりにしたといってもいいだろう。つまりもともと開拓時代から彼らには安定したお金の保管場所に恵まれていなかったのだ。郵便貯金のような信頼できるシステムはないから、自分の収入は私企業のどれかにまかせておくしかなかったのである。

景気が上向きになると、企業は設備投資の拡大をしたいから資金がいる。だから、大口の投資家や機関投資家以外に、資金源を求めるようになった。そこで狙われたのが一般の小口投資家である。彼らとの取引は手間がかかるけれども、「ちりも積もれば山となる」し、そもそも彼らは市場に関する知識が乏しいので「騙しやすい」!!これは何を意味するかといえば、それまでは経済の実体に比較的忠実に反映していた株式市場を不安定な「心理ゲーム」に変える企てだったのだ。

その時期は1920年代。そして誰でもご存じの通り、その第1回目の大破局は1929年だ。これに懲りてもう株に熱中する人がいなくなったと思いきや、第2次世界大戦が終わり、世代が交代して破産の苦い味を知らない人々が復興ブームと共に新たに投資をはじめた。

その後60年余り、破局的大恐慌は起こらなかったし、会社が倒産して株券が紙屑になった例は無数にあったが、アメリカ国民の多くが株によって自分の財産を殖やしている(例もある)。

日本ではかつての質実剛健さや倹約精神は、バブルの時期に完全に崩壊した。アメリカとようやく同じ土俵に立ったのである。1990年代のバブル崩壊によって、投資ブームを作るチャンスを失ってしまったが、2005年あたりから見えてきた株式市場の緩やかな上昇によって、企業人と結託した政治家は、投資への雰囲気を作り出す時がようやく来たと踏んでいる。

小泉首相が誇らかに歌い上げる「改革」とは、経済の働きに網をかけていたさまざまな規制の網をはずしてしまうことである。表向きは「効率化」を目指すというものだが、実は悪事を働いてもそれまでは処罰されていたのに、これからはされなくても済む方向に法律を緩めることも「改革」と呼んでいる。

この中に、投資の自由化が含まれる、つまりこれまではプロがやっていたことをアマチュアにも参入を認めましょうという動きなのだ。これは一見大変自由な雰囲気になったと勘違いしている人が多い。実は競馬や競艇でのバクチが小学生にもできるようになった、というふうにとらえた方が正確なのである。

もちろん投資にあって貯蓄にない要素は、思いもかけぬ大量の配当である。がこれは一方に大量の損失という現実があるからこそ存在するということを素人たちは忘れている。プロは、バクチの名人が勝ちがこんできてもその直前で降りてしまうように、その多くの苦い経験から、対処する方法をかなり心得ている。

だが、素人は自分でものを考えることは少なく、心理ゲームのまっただ中、噂や風説、そして証券会社職員の巧妙な語り口で簡単に動く。これはすでに述べたように、「経済分野の政治家」という名前の「胴元」には実に都合のいいことである。

自分が年老いて弱ったときに使うはずの年金まで、投資の対象になってきた。たとえば自分の老後が30年後だとすると、投資した額の配当が予定通りたんまり転がり込んでくるはずだと信じ、まさかその時に経済の大崩壊が起こって自分がホームレスになるしかないなどとは考えないようだ。

歴史的に見てみると、貧困から裕福な時代へと変わるにつれて人々の心に起こっていることは、「必死に稼ぐ→落ち着いて稼ぐ」への変化ではなく、逆に「必死に稼ぐ→まだまだ足りないかのようにもっと欲しくなって稼ぐ」への変化である。これは実に興味深いことだ。

ことわざに「衣食足りて礼節を知る」とあるが、21世紀に入ってからこのことわざがまったく死語になり、アメリカ流ライフスタイルの流行により、「衣食足りて、亡者のごとくゼニを求める」というような新しいことわざが必要になってきたようだ。

2006年2月初稿

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2009年9月より始まった全世界的な金融危機は、われわれに多くのことを教えてくれた。まずなんといってもサッチャー、レーガンに始まる、「新自由主義」の流れがついに葬式のときを迎えたこと。今後金融情勢が回復しても少なくとも十数年間は、金融関係者の無茶苦茶な金儲けはなりをひそめるだろう。

そして一般市民の間にもてはやされた、「貯蓄から投資へ」のスローガンも反省が行われるはずだ。昔のように人々は、欲しいものがあったら”買う前に”せっせと貯め、今までのようにまず金を借りて物を手に入れ、後で借金を返すという方法から遠ざかることだろう。

投資というのはそれ本来は悪いものではないのに、新自由主義の連中とその尻馬に乗った人々がすっかりそれをゆがめてしまった。生産をするためには資本が射る。だが一部の大金持ちしかまとまったお金を持っていないから、みんなで出し合って会社や工場を設立するのが本来の投資のやり方だった。

それなのに企業が巨大化した今、人々は投資をしてもその会社の本当の姿が見えない、せいぜい業績発表の数値を見て判断するぐらいしかできない。しかも大株主の権力が絶大だから、自分は単に配当金を受けるだけの存在である。こうなれば金が入ってくることしか感心がないのは当然である。

投資信託にいたっては、投資先については証券会社などに完全に”お任せ”である。投資者がその判断をすっかり放棄して、金が入ってくることしか考えない。まったくの無責任体制である。だから、企業は隠れて児童を働かせたり、反社会的な行為を平気でやるようになる。そういうことを厳しく監視するのはごく一部の人々に過ぎない。

投資は自分の”育てたい”と思う企業に行うべきである。見返りは運よくその企業が成長すればのはなしと考え、むしろ社会への貢献度を見守るべきなのだ。たとえば日本では食糧自給率が低いが、農薬に頼らず国民の食糧確保に役立つような農業生産企業を応援することによって、未来の食糧問題の解決に役立つような。

この30数年間の投資は、あまりに近視眼的であり、ただちに投資した見返りを求めることしかしない。企業の経営者側もそれを十分に心得ていて、長期的な展望など何もない。彼らにとっては次の決算までに投資家の満足がいくような業績を上げることだ。その企業が及ぼす社会的なインパクトや、将来性のことなどなんら頭にないのだ。

2008年は、1929年から80年たつ。あのときの教訓が忘れられ始めたのは、1980年代ぐらいだ。今回の金融恐慌は、このような風潮にとって大きな教訓になるといいのだが。せめてあと50年くらいは。

2008年10月追加

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