政治時評

杭州・西湖

知的所有権について考える

この権利を持つ者たちに悪用されぬように

HOME >  Think for yourself > 政治時評 > 知的所有権について考える

新自由主義と囲い込み

あるところに羊飼いがいた。毎日羊を草原に放すとのんびり寝転がって暮らすのんきな少年だった。ところがある日、羊を連れて山に登ると柵がしてあって入れない。なんでも町からやって来た大金持ちが村の放牧地をみな買い占めてしまって、今日からは誰もその場所に立ち入ることができないというのだ。その日から少年は仕事を失い、町の工場に働きに行くことになった。

これは産業革命前後に起こったイギリスの「囲い込み」である。「所有」という概念に無知な村人たちは自分たちの知らぬ間に自分たちの共有地は買い上げられ、資本家の所有地となっていった。人々は為すすべもなく村を去り、人手を求めていた都市の工場に働きに出た。彼らは土地を持たぬ無産階級になり工場労働に従事することになった。

何でこのような話をするかといえば、現代社会が新しい囲い込みをはじめているからである。アメリカのレーガン元大統領、イギリスのサッチャー元首相らによって現実の政策となった「新自由主義」は、新たな金儲けの手段を著しく広げた。

かつての資本主義は、激しい労働組合運動と、それによって法制化されたさまざまな「規制」や「福祉」によって、その勢いを後退させられた。再起を狙う企業家たちは、「規制緩和」「福祉切り捨て」に、「グローバル化」の応援を得て再び攻勢に出るために、これらの政治家たちに望みを託したのだ。

その結果、21世紀初頭には、早くもその大きな矛盾が世界中に広がり、格差の拡大と巨大化した企業活動が従業員や地元の人間を支配する弊害が大きく取り上げられるようになった。最近ではWTO(世界貿易機関)の国際会議があると必ずその開催都市では激しい抗議デモが行われるようになっている。

中でも大きな問題になっているのは中国などによる、違法コピー商品の氾濫である。コンピューターソフト、CDレコード、オリジナルデザインなどが、この国ではすぐさままねられ、新製品が出てもほんの短期日でニセものが出回るようになった。これは知的所有権の侵害とされ、著作権や特許を持つ国々は相次いで中国に迅速な取り締まりを要求している。

そもそも著作権や特許権はいかなる状況で生まれたのか?社会全体が新しいアイディアや技術によって大きな利益を受ける機運にあるとき、すぐれた個人の発想が保護され健全な企業家が可能なように作られたのである。自分の発明が法的に守られているという安心感によって発明家たちは安心して研究に没頭し、そのアイディアに賛同する人たちの協力を得ることができたのだった。

知的所有権のおかげで近代社会において与えた利益は計り知れない。多くの才能ある人々が将来の大金持ちを夢見て有益な発明に精を出し、次々とすぐれた作品を作り出した。ルイ・ビトンのカバン一つをとっても、その材料の吟味、全体のデザイン、耐久性の向上、それを作る職人たちの高い技術、などあらゆる方面で製品向上への努力が払われており、現代におけるすぐれた「ブランド」のひとつを作り出すのに成功したのだった。

だが、第2次世界大戦後の社会では、新しい知識創造の形態が大変革を遂げるようになった。それまでは孤独な個人の手にゆだねられていることが多かったのが、次第に集団での共同作業に移行してきたのである。絵画や音楽でさえも、大勢の人々の分業になる部分が増えており、アニメーションや映画では、集団の協力なしには一歩も進まない。

同時に知的所有権も、個人から研究グループや企業に移ることになった。発光ダイオードの発明で、発明者自身にお金が払われることがニュースになったが、それほど1個人が報いられることは特にその企業に属している場合は少なくなっているのである。

知的所有権が企業に握られると、どういうことが起こるのだろうか?企業はその資金力、機動力を駆使して、知識の占有、いわゆる「囲い込み」をはじめたのである。彼らにとっては利潤を得ることが唯一の目的であるから、そのためには手段を選ばない。

業界の現状

われわれはコンピュータを買うときは90%以上の確率でマイクロソフトのOSの入ったものを買う、いや買わされる。この業界では、ほとんど独占状態にあるために、消費者の受ける損害は途方もない額にのぼる。マイクロソフト社のWORD, EXCELなどはビジネスに欠かすことができないものとなった。誰もが当然のように不当なほど高い代価を払わせられる。占有率が100%に近いために、ウィルスの被害は今後も続く。おかげでウィルス・ワクチンのための余計な出費も強いられる。

こんな状況の下では、海賊製品がはびこるのは当然のことだ。自動車業界のように互角の力を持った会社同士が競うとき、価格は下がる一方で性能が上がる。こんな「初歩的」市場機能が、コンピュータ業界には働かない。

他の業界では、マイクロソフトのやり方を非難するどころか、自分たちも同じ戦略を採ろうとする。いかなる手段を使っても競争者を排除し、独占的知的所有権を確立して、他の企業が参入できないようにするのである。

モンサントのような作物の遺伝子操作をおこなう企業では、遺伝子の内容にすら知的所有権を持ち込もうとしている。彼らにとっては農民が毎年播くための種を買ってもらいたい。今までの農民は「自家採取」をしていた。あるいはすぐれた種を近隣の農民と交換したりしていた。

ブドウの種やコーヒーの種を海外に持ち出され、強力な競争相手ができてしまった苦い経験から、種苗企業は、いったん生育しても子孫を残さない種類を作ればいいと思いついた。こうすれば種は厳重に管理され、農民は毎年種を買わないわけにはいかない。

だが、企業はそれだけでは満足しなかった。自然に生えている植物でも自分たちが採取し管理して、ちょっとだけ手を加えたという名目で、それらは自分たちに所有権があると主張しはじめたのである。議論に関しては誰にも負けない有能な弁護士を雇い、政治家を動かして法律をうまく変えてしまえば、彼らの目的は達成される。

農民は、世界中のすぐれた種はすべてお金を出して買わなければ自分の畑に播くことはできなくなる。その収入はすべてその企業の懐にはいることになる。この状況はマイクロソフトが作り出した状況と非常によく似ている。今後は自営農民はどんどん減り、企業化された農場が大勢をしめるようになるから、この傾向はますます加速するはずである。

リナックスは発明者がオープンソースという形式で発表したために、現代社会では珍しい、「どん欲」に汚染されることが少ないきわめて貴重なケースとなった。人々はこのOSを自由に使っていいし、自由にそれに改良を加えることができる。コンピューターの知識を豊富に持つ人々はここからさまざまなすぐれたソフトを作り出した。そしてそれは普通の人が無償で利用できる。

ところが嘆かわしいことに、そのソースの一部を自分たちが所有すると主張する企業が現れた。その部分を使わないと全体が機能しないらしい。その企業はその部分の使用料を払うことを全リナックス利用者に要求したのだ。この事件の顛末はともかく、一部の金に目がくらんだ連中が知的所有権を振り回すことによって、安定したオープンソース・コミュニティすら危機に瀕する場合があるのだ。

相変わらず日本のディズニーランドは盛況のようだが、ミッキーマウスやドナルドダックは厳重な意匠管理がおこなわれている。世界中に広がったこの有名なキャラクターから一銭たりとも失うことなく利益を上げるためには、偽物は一つでもその存在を許されることはない。子供たちは何も知らずに嬉々として、ディズニーストアから大きな紙袋を下げて出てくるが、代金を払うことによってのみ得られるという冷徹な資本原理は、およそたのしい夢を分かち合うという状況からはほど遠い。

このように、現代社会は最初に意図された著作権の思想からはるかに隔たってしまい、独占的な金儲け手段として勝手に一人歩きしてしまっている。これはまさに、はじめは乏しい資金を集めて会社を作り上げようとしてできた株式というシステムが、あがり下がりによる利益追求だけになった場合と同じで、新自由主義のもとではすべてが「強欲」の犠牲にされる。

今後どうすべきか

知的所有権に関する法律は、現代の経済体制のもとでは新たに作り替えられなければならない。独占的要素をできるだけ排除して、企業による権利の所有を制限する必要がある。著作権には、発表後、作者の死後・・・年というように有効期間があるが、これはできるだけ短くしてゆくべきだ。開発のサイクルは年々短くなる一方なのだから、新たな開発を促す上でも権利は早めに消失したほうがよい。全体として独占的権利を大幅に緩める方向に持ってゆくべきだ。

去年発表された流行歌はそれが廃れてだいぶ時間が経っても著作権が生きている。一方モーツァルトの曲に対する著作権はもちろん存在しない。このように著作権がない方が、多くの人々の利益にかなう場合が、いくらでもあるのだ。

現代の著作権の変質のもう一つの大きな要因は、ありとあらゆる分野に広がったコピー文化である。実はこの根底には、「本物志向」があきらめられ、コピーで満足という現代人の態度の変化があるのだ。

かつての音楽は、生演奏しかあり得なかった。人々には「本物」しか手に入れることができなかったのである。レコードはすべて「模倣品」であり、生演奏よりも一段劣るものとしてはじめは位置づけられていた。これが技術の発達と共に、レコードが唯一の本物となり、演奏者が引退したり死んだりした場合にはそれが決定的になったのである。

絵画の場合には少し事情が異なる。本物はそれぞれの美術館にあり、「複製画」はそれがどんなにすぐれたものでも本物よりも価値が落ちるのは明白である。しかもいくつかの例外をのぞいて、本物とコピーを見分けることは比較的容易だ。

「ブランド」製品もこのタイプに属する。これらは所有者が「本物」を持っているか「偽物」を持っているかによるプライドの問題が関わってくるから、ブランド「本家」は品質向上だけに専念すればよい。偽物は、消費者に本物と称して騙したなら明らかに犯罪だが、偽物とはっきり銘打ったものを買った場合には消費者自身の価値観の問題である。

一方、現代のコピー技術の進展は、もはや著作権侵害を防止することはほとんど不可能になっている。何億とあるホームページの一つ一つをチェックすることは金と時間の無駄であり、それによって得られる利益は労力と比較すればわずかなものに過ぎない。しかし、すべての著作権侵害が、創作者にとって有害だとは限らない。例えば画像を無断でコピーされてもその取り上げ方によってはかえってその販売を促進することだってある。

世の中には執拗に自社の著作権侵害を追求する企業もあるようだが、自己の利益を追求するだけの姿勢は実に見苦しく、せっかくできたその企業へのファンをも離れさせてしまう結果になりかねない。これは企業にとっても消費者にとっても不利益となる。

今後はマイクロソフト社のソフトの権利も認めず、すべてオープンソース方式にしてしまった方が、長い目であれば社会全体に利益がある。妬ましく自分の権利を守るより、自由に作品を流通させて、知名度を上げファンを増やし、制作の際の実費や手数料のみを取っても会社としてはうまくやっていけるはずなのである。現にリナックス関係の企業はみなそうしている。

麻薬は、厳しい規制のもとでは密売人が大儲けする。危険を冒しては込んだクスリが高値で売れるからだ。比較的効果が弱い麻薬が自由流通になると、末端価格が暴落して密売人たちはみな失業する。だがそれなりの価格で売れば利幅は少ないが安定した商売ができる。

同じことが知的所有権にも言える。これを厳格に適用すると、世の中の「密売人」たちが異常な利益を得て、格差が広がるばかりだ。知的所有権の権限を緩めると、「本物」の値段は下がるから、結局のところコピー製品はほとんど儲からなくなり最後にはほとんど目立たないほど姿を消す。

知的所有権の法律の改正を考えている人々はきっとこの点を考慮していると思うのだが・・・一部の特権を持つ人間たちに利益を「囲い込まれ」てはたまらない。

2006年4月初稿

HOME > Think for yourself > 政治時評 > 知的所有権について考える

© Champong

inserted by FC2 system