政治時評

杭州・西湖

談合は悪か?

素人から見た資本主義の暴走:その1

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法律によって談合は禁止されている。だが、実際には新聞やテレビで見るとおり、一向に談合は減らない。地方自治体が建築物を造るときに建設会社に依頼する価格は予定価格と呼ばれる。これらはクギ一本、ノコギリ一本に至るまで厳密に値段を調査してそれを合わせて作り出したものだといわれている。

談合がはっきりと取り締まりの対象になるにつれ、落札価格はこの予定価格を下回るようになった。だが、最近の価格低下は尋常ではない。建設業界の競争が苛烈を極めるにつれて予定価格の9割、8割から次第に下がりついには5割になるものまで現れた。

これを聞いて一部の納税者たちは喜んでいる。つまり予算を大いに節約できたのだと。だが手放しで喜んでいいものだろうか?特に1円で落札などという極端な話を聞くと、これは関連した仕事をついでにもらうつもりだという建築業界のもくろみが見え見えだ。

人々は、価格の低下だけが、つまり支出する金が最小限で済むことが経済的な勝利であるとかたく信じる風潮はいつから始まったのか?金儲け至上主義が人々の心をむしばみ始めたのはバブルの頃からだろうか?なるほどその観点から見ると談合の撲滅はその目的にぴったりかなっているように思われる。

だが、現場の人々はそうでないことをよく知っている。我々建築の素人には伺い知れない事態が実は確実に進行しているのだ。予定価格は現代社会の相場と常識に基づいて計算したものだから、実際に作るとすればほぼそれに沿った線でできあがるはずである。もしそれを下回るとすれば、少なくとも建築会社が儲けを出す、あるいは少なくとも存続するためには、何かの犠牲を払わなければならないことは明らかである。

それを我々は「コスト削減」と呼ぶ。これは現代社会のはやりのことばであり、何をするにしても大義名分となっているが、これが「質の低下」と固く結びついていることをはっきりと認識している人々は少ない。従業員の給料を減らし、人員を減らし、永年勤めた高給のベテランをやめさせることは、一気に人件費の削減となり、表向きは会社の収入の増加に大いに役立っている。

優秀な経営者とは、会社の支出を減らし、収入を減らしたもののことだ。その過程、手段は問わない。そのために大勢の従業員をクビにしたり、工場を閉鎖したりすることは、「見事な手腕」と見なされる。日産のゴーン社長はそのいい例である。彼らにとって必要不可欠な資質は「コスト削減に向けた冷酷さ」のみであり、長期的な展望は全く要求されない。

だが、それもそこまでだ。使った紙の裏側を使うケチケチ作戦には限界がある。モラル崩壊の時勢では、次にやってくるのは当然のことながら「不正」であり「法律違反」なのである。しかしコスト削減の怒濤の勢いは、ケチケチと不正との間の境界線をあいまいなものにしてしまった。

決められた柱の太さを少しばかり細くしてもいいじゃないか・・・もしもっと弱い釘なら、だいぶ安く済む・・・鉄筋は10本入れる必要があるというけれど、7本でもわかりやしない・・・コンクリートを流し込めば外からは誰もわからない・・・共謀した連中の中にはコンクリートの空洞に昼食に飲んだコーラの空瓶を投げ込むものもいた。

もちろん工事の現場には監督がいる。だが彼も彼らを四六時中監視しているわけにはいかない。多くの現場を掛け持ちしているのだ。それにいちいち目を光らせていたら、労働者たちはついに我慢ができなくなって反乱を起こしたり陰険な報復にでるかもしれない。

無理な低価格で押し通すとなるとこんな状況が生まれてしまう。モラル・ハザードと金儲け至上主義が日本列島津々浦々まで浸透し、「安く済んだ」と小躍りする連中がいる一方で、欠陥住宅や建築物が日々増えてゆく。

それらは大地震の日がこなければバレることはないだろうと確信している人々がいる。かくしてそれまで日本の誇りの一つであった、器用さ、物作りへの情熱や信頼性という貴重な財産が二度と生まれる機会を奪われて消えてゆくのである。

本来、談合禁止は規制緩和と自由競争をめざして設定されたものだった。この二つは資本主義の基本的ルールである。だがスポーツと違い、資本主義のルールを遵守することがまず何よりも大切だとはっきり認識している人々があまりに少ない。

規制緩和は「やり放題」と、自由競争は「共存ではなく相手が死ぬまで攻撃を続ける」という意味に解釈され、当然のことながらここから所得格差が広がってゆく。こうやってみると談合は入札者が事前に相互間で入札価格などを協定することで無用な競争、特に適正価格からのあまりにも不自然な乖離(かいり)を防止するうえで役立っているという見方も成り立つのである。

「競争入札によって、業者が価格を下げる工夫、効率性の上昇をはかるのだから談合はやめるべきだ」と主張する人もいよう。だが、現代社会において競争によってプラスの効果が期待できる分野は意外に少ない。たとえば自動車、電化製品、デザインなど、製品の出来不出来の透明性が非常に高いもの。

だが、建築業、土木業のように専門家以外にはわかりにくい場合、不正のはびこる余地ができてしまう。もっともだからといって談合を復活させることが事態の改善に役立つといっているわけではない。というのは品質の信頼性の点ではともかく、労働者の置かれている状況の改善には何一つ貢献していないからだ。

談合は大手の会社が仕切る。まず彼らは自分たちの利益を確保し、残りをその下に、さらに下請け、孫請けにと配分されるわけだが、下にゆくに従ってその待遇がどんどん劣悪になっていることは周知の通り。

そして絶大な権力を持つ大手の会社が自分たちの利益が生む方向に誘導してしまう。「乾いたぞうきんを絞る」の言葉通り、下層の業者は徹底的に搾取される。現場の労働者は「請負(うけおい)」の条件で働く場合が多い。だが「負」の漢字通り、常に敗者の立場にある。

19世紀の凄惨な労働現場は組合活動の血のにじむような努力によって20世紀中頃になりようやく改善の方向を見せた。だが、その後の豊かさが労働運動を弱体化させ、そこにつけ込んだ経営者側は逆襲に転じた。21世紀は再び経営者側が強力に労働者の持つ価値を吸い上げる時代となった。

規制緩和と自由競争のかけ声は実は、資本主義の本道にもどれというメッセージではなく、金儲けをより合法的に見せるためのカモフラージュにすぎないということを常に念頭に置かない限り、談合の問題もいつまでたっても解決しないことだろう。

2007年2月初稿

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