政治時評

杭州・西湖

構造改革(新自由主義)をぶっつぶせ

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21世紀がこんな世界になるとは誰が想像しただろうか?第2次世界大戦が終わったばかりの頃、人々は素朴にももし冷戦を切り抜けることができれば、21世紀は科学が大いに発達し人類は豊かな生活をするだろうと期待していた(はずだ)。

ところがどうだろう。年々格差は広まり、ごくひと握りの人々に自分たちにはとうてい使い切れない富が集中し、それとは反対に持たない人々はますますその貧困の度合いを高めている。また、環境汚染は人々の予想を上回る速度で悪化している。

そもそも政治家たちが異常な方向に舵をきらなかったらこんな悲劇は起こらなかった。その発端は20世紀末のイギリスのサッチャー政権とアメリカのレーガン政権だ。その前からフリードマンと名乗る経済学者が「選択の自由」などという本を出して経済活動の大幅な自由化を提唱していたのだが、これらの政治家たちはそれを本当に実行に移してしまった。

規制緩和とはそれまでの経済を縛っていたさまざまな規制を取り払うことである。たとえば日本ではかつて、酒屋同士はある一定の距離をおいてしか営業を認められなかった。バス停の位置を数メートル移動するのに多大なる事務の手間を伴う届け出が必要だった。

それが次つぎと取り払われ、人々は息詰まるような状況から解放されたと喜んだ。実際のところ規制緩和の直後には経済活動が急に盛んになった。それ見たことかと政治家たちはこれが失業の増大、不景気の停滞など自分たちのおかれている閉塞状況をうち破る絶好のチャンスとみた。

たちまち「構造改革」は世界中に広まりこれは一つの流行となったのである。政治家たちは自国の経済の活性化にはこれが最も効果が上がると思いこんだ。それは「民営化」の件数が激増したことでもわかる。民営は公営よりも効率が良く、経費のムダがないと思われたのである。

そして中には都市の水道事業でさえ民営化される事態となった。私企業が今までになく脚光を浴び、自由に活動できる舞台を与えられたと賞讃された。これは私企業の本来の目的である「利潤の追求」を全面に打ち出した。

もともと企業にはこのほかにその大きさから社会的責任をたくさん負っているのだが、構造改革の流れは、これをはるか彼方に追いやり、堂々と利益を得ることだけが最上の価値とみなされたのである。

これにいたり人間の欲望は新たに呼び覚まされ、利潤の追求こそ人生最大の目的と信じる人々が社会の中心をしめるようになったのである。そしてその手段はどんなものでも許されるということになった。

「手段の全能化」は嘘をついても、インチキをしても良いことを意味した。また利潤のためなら質の悪い食品とか病気のもとになるものを売ってもかまわないことを意味する。また広告は儲けが多くなるためならどんな内容でも形式でもかまわないことになった。

私企業は現代においてはその大部分が株式会社の形式をとっている。したがって投資をした株主の所有物であるわけだ。このため彼らは最大限の配当を要求する。それがたとえ会社の寿命を短くするものであれ、社会に害悪を及ぼすものであれ、「今期」の配当さえ十分にもらえれば何も文句のない株主が激増した。

かくして労働者がその会社を支えていることは忘れ去られ、会社の業績に直接結びつく従業員以外はすべて”奴隷”としての待遇でかまわないという考えが蔓延した。それでも会社の存続さえ確保できればそれで結構という株主が大多数をしめる。表向き社会的責任や企業イメージの大切さを主張する者たちの大部分も実は最終的にはそれが利潤と結びつくからそうしているのである。

こんなに急速に構造改革が地球上に広まったのは、その政策の実行が実に容易だからだ。なぜならば規制はすでに存在し、緩和とは単にそれを廃止するだけでよいからだ。何でも破壊するのは簡単である。しかしそれで効果が上がるのだとすればすでに存在していた規制は何のためだったのか?

規制はそれができあがるまでに多大なエネルギーを要した。たとえば水俣病のような惨事が起こり、大勢の人間が死んだり病気になって大変な悲劇をうんだ。それでやっとあの公害防止法ができたのである。交通事故の死者が大変な勢いで増えたので、道路交通法が改正されたのである。

このように規制のもとになっているのは、無数の人身御供(ひとみごくう)である。規制の解除を要求する者たちはそのような過去の現実には一切目を向けない。彼らにとって公害防止法は会社によけいなコストをかける恨みの的である。できることならこんな法律は葬り去ってしまいたいとしか考えない。さもなければ隠れて脱法行為を起こしてもかまわないと思っている。

大変な苦労と時間と金をかけてできた規制の中には、なるほど息の詰まるものもあろう。しかしそれが制定されるまでに多くの議論と試行錯誤が重ねられ、ある程度の妥協を経てできあがったものばかりだ。ところが規制緩和の場合にはそれに比べればほとんど議論はない。はずすかはずさないかのどちらかしかない。

政府が自ら率先して規制の解除を行ったものだから、政府そのものの持つ権限は自然に縮小した。しかし政府はそれを自ら望んでいるようにも思える。レーガンは「小さな政府」というスローガンを何度も繰り返している。彼は自ら政府の社会的責任を放棄することを高らかに宣言しているのだ。

こういう結果になったのには、それまでの政府がため込んだ累積赤字という問題もある。赤字を解消するにはさまざまな工夫や知恵を使って時間をかけてやるよりも金のかかる部分をさっさと切り離す、つまり民間に譲り渡してしまえばよいという流れが今日の事態を作り上げた。

消防、保育、教育、介護の分野に至るまで次々と民営化の流れにさらされている。しかも日本の場合、地方自治体は常に中央政府の顔色をうかがうのが性癖になっているから、次々とそのやり方をまねる。しかし、たとえば老人介護の仕事を利潤の追求のために利用するというのはどういうことだろうか?しかもそのような事例が増えるにつれて人々の感覚は麻痺し、いずれも民営化が最上のシステムだと信じるようになるのだ。

人間は生まれつき欲を限りなく増大させる性質を持っている以上、規制がなければ当然暴走する。その結果はすでに高らかに喧伝されているように「勝ち組」と「負け組」の生成である。共生しない社会は常に闘争を継続することによってしか存続できない。ということはこれからは富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなるという方向でなければこの競争社会は維持できないことになろう。

自由競争という美名のもとに起きてきたことは、そのもたらす利益を勝ち組だけがすべてさらってしまうことだ。カジノの原理が巷(ちまた)にあふれかえるようになったのだ。こんなことは歴史を振り返れば数え切れないほど繰り返されてきた。そしてそこから生まれた悲劇によって少しずつそれを制御する方法が模索されてきたのである。

構造改革はそのような積み重ねを一気に破壊してしまうのに等しい。これは文化遺産を何も考えずに空襲するのに似ている。いったん破壊されると、それを再び作り上げるためには過去にあったのと同じだけの悲劇が必要だし、それが必要であることを人々の意識の中に定着させるにはもっと長い時間がかかるのである。

構造改革は今すぐやめさせなければいけない。そしてこれまで生じた極端な貧富の差を是正するために社会的富の再配分を行い、これまでに高まった社会内の緊張をゆるめる必要がある。これを行わない限り人類は大多数の奴隷を抱えたまま未来へ突き進むことになる。さもなければ再び革命が必要である。

2007年後半、世界を見渡すと、新自由主義の流れはようやくピークを過ぎたようだ(楽観的すぎるだろうか?)。アメリカはその抱える巨大な諸問題のために、かつてのように経済的一国主義を振りかざすわけにはいかなくなっている。ドルよりも次第にユーロがその地位に取って代わりつつある。ヨーロッパ諸国ではイギリスのようにいったんは民営化されたものをもとに戻そうという動きが見られる。

フランスでは親米のサルコジ大統領が選ばれて当地ではこれから構造改革の流れが始まるかもしれないが、EU全体からすればその流れは次第に収まりつつある。一方注目されるのは南アメリカだ。これまではアメリカ合衆国によっていいように搾取されて、大地主と貧民でできたこれらの国々に、原住民を中心とした反米感情が高まり、自分たちに適した社会主義を作ろうと模索している。もしかしたらこの南アメリカの流れがいつかはアジアやアフリカに広がり、少しはましな人類の未来が開けるかもしれない。

2007年10月初稿

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