政治時評

杭州・西湖

自家用車時代の終焉

HOME >  Think for yourself > 政治時評 > 自家用車時代の終焉

2008年の後半から始まったかつてない大不況は、人々を混乱のさなかに陥れているが、特に打撃がひどいのは自動車産業であろう。アメリカのビッグ・スリーはいずれも倒産の瀬戸際にあるし、たとえ息を吹き返したとしても、かつてのような競争力や技術力を持つことはできないであろう。

そして自動車王国日本でも、自動車会社が次々と赤字を発表し始めた。ひとつには今の経営者たちは1950年前後に生まれたものが多く、これまで高度成長の中で育ち、大きな波乱を経験したことがないから、なおさら問題解決に困り果てているのであろう。あげくのはて、会社の社会的な責任などに目をくれる余裕もなく、どんどん工場を閉鎖して労働者をクビにすることしか考えることができない。

しかも株主が大きな権力を振りかざすようになってからは長期的目標よりも短期的目標を達成することのためだけにあくせくし、コスト削減がとにかく第一の目標となっている。このコスト削減というのが曲者で繁栄の只中で競争相手に勝つには有利な方策だが、いったん不況に陥ると、ゆとりがないためにたちまちのうちに行き詰ってしまう。「カンバン方式」などは在庫を減らすために考えられたが、不況下では突然の部品製造打ち切りなど、下請けの惨状など何も考えに入れない方策が次々と打ち出されている。

それでも経営者たちは、そしてもちろん政治家たちも”不況の克服”を旗印にして一生懸命日々活動しているようなのだが、いったい彼らはかつての繁栄の日々が再び戻ると本気で思っているのだろうか。この点では経済の専門家たちも先を見通す力をなくしているようだ。だれでもまた自動車がどんどん売れ、5年もたたないうちにモデル・チェンジをして買い替えを行わせ、高速道路を渋滞だらけになる時代が再び訪れると信じているのだろうか。

だが、もうそうなることはなさそうだ。これまでの自動車の販売が実は積極的な”あおり”を消費者たちにかけていたことを思い出してほしい。20世紀後半からの資本主義の本質は「いらないものを買わせる」なのである。それは無理やりのこともあれば、催眠術まがいの方法でうまく誘導する方法もあったが、消費者に”夢”ならぬ”幻想”を持たせることによって過剰な消費を掘り起こしていたのだ。

その詳細はベテランの自動車セールスマンに秘訣を聞いてみればいいのだ。人々は自分の給料の増加を目に見える形で実現することを望む。他人と同じ水準になることを望む。他人よりも目だって高い水準にあるように見せることを望む。欲望がどこまでも”モノ”と直結する世界がこれまで作り出されてきたのだった。人々のうち今回の不況で収入を減らされた人々は、このような世界がたちまちのうちに打ち砕かれていくのを見る。

自動車はおそらくあらゆる物質的豊かさのうちで家と並び、もっとも目立つ存在だった。ものや人を運ぶ、というような基本的な機能は忘れ去られ、シンボルとして祭り上げられてきたのだ。おかげでありとあらゆる無駄な車が生産された。およそ車を必要としない人までが車を買った。「一家に一台」「一人に一台」というとてつもない標語が当然のごとく語られた。しかも高速道路などというお膳立てまでして。

このために燃料効率の極端に悪く、資源を大食いする機械が大量生産されることになったのだ。車は便利だというが、一ヶ月に1000キロ走行に満たない場合を考えてみればよい。日本のほとんどのマイカー族の状況がこれだ。車輌代、燃料代、車検代、保険代、税金、と少し頭を冷やして計算すれば、毎日その距離をタクシーを利用したほうが安いことに気づくはずなのだが、人々は今まで”洗脳”されていた。誰もそれに対して異論を唱えようとしなかったのが不思議である。車反対派は実に少数である。

自動車の環境に対する悪影響はもうここではいうまい。あまりに自明のことだからだ。ただ、2008年夏の燃料高騰の折、多くの人々が二酸化炭素の発生や燃費に関心を寄せたが、現在の車の大部分が軽自動車を除いて1トン以上の重さがあること、そしてその重さにあたる資源が浪費されていることに注意を寄せる人は少ないようだ。ボンネットを開けると巨大な鉄やアルミのエンジンが鎮座しているが、車が動くときには特に冬季にはこの金属の塊をガソリンだけで何百度にも暖めなければならないことを考えたことがあるだろうか?

いまはやりのハイブリッドもおよそ手に負えない資源食いである。燃費をよくするために行われたさまざまな工夫は皮肉なことに巨大な資源浪費として実現している。たとえば、排気ガスをきれいにするためのレアメタルの多用、燃費コントロールのための複雑なコンピュータ装置など枚挙にいとまがない。

現在の世界の人口は70億人に迫っている。これまで自動車会社はそのすべての人々、すべての世帯に車を作って売ることを究極の目標としていたのであろうか?狂気の沙汰である。自動車会社は地球の最大の破壊者になろうとしているのか?中国の市場は広く、大変な潜在購買者がいるなどとうそぶいていたが、本当にあの人口に車を買わせるつもりだったのだろうか。

「環境にやさしい車」という名前にコロっとだまされる人々が多数派を占めることも問題だ。そんな車が今までの車に比べて環境へのインパクトが変わるはずがない。バイオ燃料は食料を奪い、森林を減少させる。そしてあの魔法の言葉、「燃料電池」「電気自動車」が環境問題を一気に救っていると信じ込んでいる”まじめな”人々が現在の世の中では主流なのだ。

燃料電池であっても、あらたな燃料がいるし、交通事故は起こるし、道路はあいも変わらず渋滞を続けるだけだ。唯一つだけいいことがあるとすれば直接的な騒音と排気ガスが姿を消すことだけ。結局のところ、これらの技術革新も19世紀のフォードによる大量生産の延長上にしかないことがわかる。

今自動車会社は盛んに燃費のいい車、環境にやさしい車の宣伝をしているが、一ヶ月の走行距離が1000キロに満たない人にとって、超低燃費だの、ハイブリッドなんかがいったいなんの役に立つのだろう。そのような技術が実際にいきてくるのは長距離トラックとかタクシーなのだ。

だからこそ、今回の大不況は自家用車を消滅させる好機なのである。追い詰められた銀行はもはや車のローンを組まなくなったから、なんとなく車を所有していた人々はそこまで無理をして車を買う必要がないことにようやく気づき始めた。車以外に消費の対象はいくらでもある。さいわい「若者の車離れ」は不況の始まる以前から少しずつ優勢になってきていた。これは高齢化とともに一気に加速していくであろう。

自動車産業はアメリカや日本の基幹産業だから、これを縮小してはならない、ましてやつぶしては絶対ならない、と主張する人々も多かろう。これが衰退すれば大勢の失業者が出るのも事実だ。だが、そのような転換期はこれまでの人類の歴史に何度もあった。産業革命で手織りが廃れ、機械によってできるようになり、馬車が自動車になり、石炭が使われなくなって石油に取って代わったときもそうだった。そのたびごとに大勢の失業者が出たがいずれも乗り越えるしかなかった。今回はグローバルになっているから影響が広範囲にわたるというだけだ。

自動車産業は決して消滅することはない。ただ、これまでのような個人所有による資源の浪費を進めるのでなく、バス・タクシー・トラック・トラクターのような公共面で使用される乗り物に限定されればよいのだ。ちょうど航空機製造や鉄道車両の製造がそうであるように。辺境地の交通でさえ、デマンド・バスなどの工夫によって住民の生活の快適さは損なわれることはない。

今オバマ大統領を初めとして経済を立て直す方策に必死だ。だがそれが今までの状態に逆戻りをすることを目指すのであれば、単に歴史の歯車に逆らうだけのことだ。今回の不況をてこに、車などの大量消費に依存しない、新たな社会構造を創造するような先見の明のある指導者はいないものか?

2009年2月初稿

HOME > Think for yourself > 政治時評 > 自家用車時代の終焉

© Champong

inserted by FC2 system