自給自足式生活の哲学

人類の新しい生き方を模索する

岩手県大船渡湾

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背景 土地  農耕  家畜  漁労  山林

必読書 ダッシュ村 野菜考 養殖考

ふるさと回帰と農業支援 食と農の博物館見学記

地産地消を楽しむ外部リンク ヨット自作

背景

現 在のアメリカ主導の「使い捨て」文明がもうじき行き詰まりに来ることはもう明白である。だが多くの人々はこの繁栄が永久に、少なくとも自分の生きている間 だけは続くと信じ、浪費に浪費を重ね、大地を汚し、子孫に残すべきこの大切な地球を荒れ果てた荒野にするために突進している。

まずこの事実を認識した上でなければ、新しい生き方を模索することはできない。単なるお遊びごとなならば、今までも数え切れないほどのモデルがあり、生まれ、そして消えていった。今必要なのは持続的な生活方法である。

草履ニュー ギニアの奥地に、10万年以来の生活を変えないまま、同じ生活を送っている部族が発見されたことがある。もし「文明人」によって発見されなければ、そして もし大きな天変地異さえ起きなければ、彼らはこれからさらに10万年確実に存続するだろう。何ら文明の利器を持たず、最低限の文化程度を維持しながら、である。進歩教の総本山、アメリカでは嘲笑の的になるであろう。

ではひるがえってアメリカ合衆国は10万年続くと思うか?誰も そんなことを信じている人はいない。将来の様子を知りたければ、映画「猿の惑星」の荒涼たる砂漠や砂に埋もれた自由の女神像を見ていただきたい。残念なが ら、私(や同じような考えを持つ人々)ははっきり言って、人類の将来は絶望的である。

地球の荒廃が来る前に、人類がそのやり 方を方向転換する見込みはほとんどまったくない。遅すぎるのである。と言うよりは、利益追求を至上とする資本主義と技術主義の組み合わせによる前進速度が速す ぎるのである。たとえばアマゾンが荒廃地になるのを止めるにはもう間に合わないということだ。ならば、天から降ってくる火と同じくただ傍観していても同じ ではないか、という考えもある。でも100万に一つの、いや1000万に一つの希望ぐらいはあるだろう。この地球上での「持続」システムの方法の一つを試 してみることによって。

持続のシステムを試みるためには、田舎に土地を求めなければならない。もちろん都会に本拠地を置い て、田舎にダッチャ(別荘)として設けてもいい。ただそういうときは電気も水道も何もかもとにかく文明世界的な依存要素はすべて排除しておくべきだ。そう でないと実験をする意味がなく単なるリゾートになってしまう。田舎の原始生活が苦しくなったらしばし都会の生活に逃げ帰ればいい。日本に住んでいるなら、 先人の発明した知恵を大いに活用しようと思う。「つぎはぎ」「かけはぎ」などは、貧しいながらも器用な日本人が、実に高度な技術だ。そして農業をやるから には忘れてはならないのは「人糞」肥料である。ここで顔をしかめる御人がおるなら、この先読むのをやめたまえ。

その実際 個人農業のやり方は、商業的生産と違い、同じ作物を雑草一本生えていないところに密植するようなやり方ではなく、何十種類もの植物を混在させる方法を採る。これによって一種類の植物を狙う虫の害を防ぐことができる。種は偶然にまかせて播き、自然な競合状態が生じるようにする。

自分の畑を52区画に分ける。これは1年が52週あるからだ。1区画には一週間分の作物を植える。たとえば8月の第1週用のところにはトマト、キュウリ、なすなど夏向きの野菜を、10月の第3週用のところにはブドウ、なし、柿、大根など、秋用の野菜がなるように。

それぞれの場所には種類に関係なく無造作に植え、野の生き物が食べる分もよけいに作っておく。これは商業用生産には絶対あり得ない発想だ。この地球の破壊は人間が自分たちの利益だけを独り占めすることから起こったことを肝に銘じておくべきだ。

土 地 上へ

宮城県秋保町現 代人はニューギニア人ではない。すでにあまりに多くの知識と生活の便利さになれている。そのまま太古の生活に戻るのは現実的でない。但し、都会人の多く は、たとえ地球を救うことになろうとも、今の都会生活以外の暮らし方には即座に拒否反応を示すだろう。だからこの議論は万人のためということになれば、止 めるしかない。また特定の宗教団体、たとえばインドのヨギたちやアメリカのアーミッシュはたちの生活は確かに持続性を持っているが、世俗からはあまりにか け離れている。

ここでは自分の経験に基づくアイディアを展開するしかない。はじめのうちはカントリー・ハウス方式を利用する。つまり、都会で生活しつつ、田舎に土地を購 入し、間を往復しながら、少しずつ住み方を実験して、最終的にそこに骨を埋める方式である。まず土地であるが、日本という高温多雨の恵まれた島ではどこで 営んでも緑豊かな恵みを満喫することができる。真夏の果実

だが、先史時代の人々がそうであったように、山奥よりは海岸地帯がよい。最大の理由は食糧の多様性にある。肉・野菜・魚・海草・山菜の五つをバランスよく摂 るためには、海と山に挟まれ、この二つをつないでくれる川が流れていればよい。山と海は食料の「採集」のためにある。そこでは人間の手の加わっていない、 野生の生き物を食料、または薬として利用することができる。山と海の間の平地は狭いほうがよい。そこを農耕地とする。川は、もちろん水田のためである。 従って、一定の流量があるほどの規模でなければならない。そのためには上流に鬱そうとした森が茂っていることが先決である。

縄文人は採集中心だったようだ。だが人口増加や気候の変化のため、それでは追いつかなくなった。弥生時代の水田はそれに対する食料補助手段である。人間が自然界に割ってはいる限り、自然の食料だけでは足りなくなる。そのためやむを得ず、自然を「借りて」人間専用の食糧を確保せざるを得ない。これをしないとほかの動物から餌を取り上げることになり、かれらは地球上から消滅しなければならない。人間が農業という「半自然」なしに生きていけないゆえんである。ただし、これは人間が農薬を撒き、化学肥料を使い、鳥や虫を駆逐して「沈黙の春」を演出することを正当化はしない。これは「反自然」である。

ふるさと回帰と農業支援
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もぐらい くら夢が広がっても実現しなければ意味がない。このようなことは個人ではなかなか行動に移すことができない。特に中高年の人々はどうせ都会にいてもまとも な雇用が得られない時代が来ている。しかし日本の田舎には、過疎が進んで消滅寸前の場所も少なくない。そこへ農漁業を営む新たな人々が入れば、活性化が期 待できるというものだ。

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これから農業を始めようという人のために、さまざまな情報を用意している。地方の市町村での農業支援といってもたいていはお役所仕事が多いから、まずこのサイトでいろいろ事情を勉強してからがいいだろう。

定年後の人にとって一番手軽なのは、農業放棄をした人の跡地を借りることだ。これなら面倒な農地法の問題に関わらずにすみ、たいていは安い値段で借りるこ とができる。できたら、その土地の属する村や町と直接契約を結ぶことができれば望ましい。契約期間は、自分が死ぬまで、または体が動かなくなって病院入り するまでとする。よけいな施設を作ったりせず、ひたすら農作業に精を出せば楽しく余生を送ることができる。

山間の川もし財政的に余裕があるとか、まだ2,30歳代の場合には買った方がよい。後継者や自分の子供など、長期的な見通しを立てることができる。土地を購入したら「ナショナル・トラスト」 化、つまり自分がこの世を去ったあとでも、開発業者による略奪をされないように確実な手を打っておく必要がある。そうでないと、わずか2,30年ぐらいの 短い試みだけでは、無意味なものになる。面積は広ければ広い程良い。農耕地は自分の体力に見合う程度でよいが、その「後背地」としての海や山は、手つかず の原生林や、無人の海岸も考えられる。しかし、実際には、共同体として生活したほうが、管理が行き届くし、里山の維持、海の資源の調整などに関しては、多 くの人々の協力が必要であろう。

トラスト化については、イギリスの聡明な人々が最初に思いついたものだが、日本ではまだ歴史が浅く、これから十分な研究をする必要がある。大きな私的な団 体を作って、そこにゆだねるか、政府が音頭をとって、半永久的にその土地の譲渡を事実上できないようにするのか、とにかくすべては「持続的」なものを目指 さなければならず、そのためにには確実な法的知識と、それに基づく法整備が行われなければならない。

土地は個人や法人が所有するべきものではない。公共のものだ。そして動物や植物が自由に行き来できるのが、地球のよいところなのだ。誰に線を引いて自分のものだと主張する権利があるのか?そんなものは”所有権”の概念を無理やり過度の拡大解釈をしたものに過ぎない。

たとえばアメリカ大陸で入植者たちが、自分たちの土地を手に入れるために、原住民たちをだまし、略奪し、虐殺した歴史を思い起こしてみよう。今はブラジルやインドネシアでまさに繰り返されていることだ。大化の改新の「班田収授の法」のように、人は土地が必要ならば、生きている間だけその地域の行政体から”借り”ればすむことだ。

2010年4月

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カボチャ;赤くなる品種で、「打木赤皮甘栗」という。加賀野菜の一種。
五郎島サツマイモ(金時);加賀野菜の一種。
落花生;実は次第に地面にたれ、土に接触すると潜り込み地中であのひょうたん型の実ができる。
金時草;加賀野菜の一種。おひたしやみそ汁の実などに。
真夏の果実;真夏のトマト、ハウスではないのだ!

農 耕

志津川湾すでに述べたように、真ん中に一本小川が流れている必要がある。全面が生み、後背地が低い「里山」であり、その中間の細長い地帯が、その川を中心とした農耕地であればよい。日本の食習慣と、気候は、必ず水田によるの栽培を必要としている。福岡正信氏の「わら一本の革命」によれば、これにの裏作を組み合わせて一年中このどちらかが収穫できるようにする。コメはすべての食生活の中心であり、エネルギー源であるから、このために最大の面積と労力が投入されなければならない。

次に野菜が 栽培される。これは畑地でよいから、川から少しぐらい離れていても、高台にあっても構わない。日本でも、春の遅い寒冷地では、早くから苗を手に入れること が必要不可欠である。そのためには、小規模な温室による苗の一括栽培も必要になる。江戸時代の飢饉もこの技術があればだいぶ緩和されたことだろう。肥料 は、科学的なものを使わないとすると、堆肥、まわりの山林から得た枯れ葉、家畜の糞が材料となる。

野生化したニンジンの花農薬を使わないようにするのに一番大切なことは、自分で見て回れるほど、自分で害虫を手でつぶすことができるほど、「小規模」 であることが最も大切なことである。そうすれば防虫、除草とも化学薬品を使わずに済み、手でむしるとか足で踏んづけるなど、「物理」的方法で駆除すること も可能になる。大規模農業の最大の誤謬は、力任せに大きくすれば、ありとあらゆる「外力」を必要とすることになったことにある。結局農作物は資本主義で流 通するところの「商品」となったら終わりなのだ。

また、同じ種類のものを植え付ければ、害虫の狙うところとなる。ところが、さまざまな種類が混在しておれば、一つの種類の作物が害虫やウイルスに集中的に 攻撃されて全滅する可能性は少なくなる。また暑い年もあれば、冷害に悩む年もある。耐寒性、耐熱性を備えた品種をそれぞれ用意しておく。また、一時期に収 穫が集中すると、食べきれず片っ端から保存しなければならない。なるべき「旬」を引き延ばすため、早生、普通種、晩生などをそれぞれ用意する。これは多様化した栽培によって可能なことである。地平線まで続くような単一栽培の愚を犯してはならない。

果樹に ついても同様である。果樹が実を生らせるには数年から数十年かかるから、場所の選定を慎重にし、これまた全滅被害を避けるために、同じ樹木でも、かなり環 境の違う場所に植えておくべきだ。枝の剪定はあまり人為的にするべきでない。樹木が幼いうちに大がかりな剪定を行うと、枝が勝手な方向に伸びて、毎年手入 れをしなければならないはめになる。自然に生育するような方法を考えるべきである。

もぐら結 局、耕耘機、化学肥料、農薬を使わなければならないのは規模を拡大したためである。これらを使うくらいだったら、思い切り、自分の体力に見合うぐらいまで 縮小してしまえばよい。使いたいのに我慢する、というは良くないし、それでは「持続的」なものにはならないのである。機械力や文明の利器に頼るなというの ではなく、それらが必要ないような中に暮らせといいたい。

その点、昔の日本人が使用していた人糞は 大いに参考になる。これは究極の循環農法だ。土地から一方的に収奪するのではなく、収穫してやる分そのままその土地に戻してやるという発想はすばらしい。 愚かな人々は不潔であるとか、臭いとか、表面的な問題だけを取り上げたがるが、現代の技術水準ではそのことに関しては何ら問題なく、寄生虫もおらず、無臭 で無菌の最高の肥料が得られる。化学肥料が良くないことは常識だが、その見方の一つとして、それまでその土地になかった肥料分を新たにそこに持ち込むとい うことが挙げられる。化学肥料は石油や鉱石から得られる。不足分を補うのではなくむしろ、植物を太らせるためだ。だからいつも消化不良ならぬ、吸収不良が 起こっている。

したがって、日本全国の農地にばらまかれるこのような養分は、植物が吸収できなかった分、雨によって洗い流さ れ川に注ぎ、海の栄養分を過多にしてバランスを崩す。インドの砂漠や、アフリカの不毛地帯など、本当に必要なところへは向かわず、この土壌豊かで雑草の絶 えることのないニッポンで使われていること自体、許されないことなのだ。したがって自分の農場を持つときは人糞一本にしよう。他から持ち込むことのない、 独立した循環系を作るために。化学肥料の味に飼い慣らされた状態から本来の味を取り戻すためにも。

イチゴ畑
大根
キュウリ

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家 畜

家 畜は農耕の補助として使われるべきだ。肉、卵のためにはウサギやアヒル、鶏、合鴨などの鳥類、ミルクについてはヤギ、毛を取るにはヤギか羊など、畑の作物 によって維持できる、比較的小型のものが適している。牛、馬は大型過ぎ、ある十分な広さ、つまり飼料を自給できるだけの広さの草原がある場合に限られる。 豚も、餌としての残飯が絶えず手に入る場合ならよい。

これらの動物について飼料を外部から買い求めることほどばかげたことはない。現在では何万キロも離れた、肥沃な草原から何千年もかけて生まれた黒土からな る、アメリカの大地における、単一栽培に依存しているわけだから、そんなことがいつまでも続けられるはずがない。自分の土地のなかで飼えるのでなければ、 動物を置いておくべきではないのである。それは土地の生産力を上回ってしまうし、逆に多量の糞がその土地を汚染することだってあるのだ。

漁 労

舞根湾農 耕が「栽培」だとすれば、海や川のものは基本的には「採集」「狩猟」であるべきだ。これが実現されるためには、海が汚染されておらず、山からの豊かな栄養 分が常に流入している条件が整わなければならない。「養殖」は需要が供給を大きく上回った場合に必要なわけだが、現代社会では単に求める人々が多いのみな らず、汚染や貧困な栄養になって、自然状態からとれる量が著しく減少した場合が圧倒的に多い。

従って畠山重篤氏の「森は海の 恋人」にあるように、川の上流にある樹木を増やし、それも豊かな栄養分を流し込むような植生を保つ努力をしなければならない。さらにこれからは、収穫量 と、自然の生産量とを厳密に計算して、決して前者が上回ることがないようにコントロールする必要がある。「栽培」をしているときは、かなりの正確さをもって、収穫量を予測できるものだが、自然に産するものに対しては、これまであまり考慮が為されていなかった。

艪(ろ)
艪のこぎ方;エンジン万能の時代であるが、エンジンの部品が壊れたり燃料がなくなればお手上げ。そのときは再び「手動」に戻る。オールでこぐ西洋式だけでなく、消費エネルギーの少ない艪式も知っておけば必ず役に立つ。

艪についての紹介ページ外部リンク 艪について外部リンク 艪のこぎ方外部リンク

ハマグリの網焼き魚の捕獲は網か釣り竿を用いて行われるが、岸辺か、小舟にてゆける範囲での沿岸漁業にとどめる。結局エンジンのような「外力」による外洋漁業に乗り出すことは、 過剰な捕獲の原因となる。沿岸のほうが種類もはるかに豊富なのだ。海藻やホヤ、なまこなどの採集についても同じことがいえる。素潜りで、息の続く範囲で 取っている限りは問題ないが、これをスキューバのようにいくらでも海底にいられる道具があれば、いくらでも根こそぎとれてしまうものである。

かならずしも、農業を営む土地だけが自然の中に溶け込んでいるというわけではない。海浜、海上の生活もまた、そこには限りない魅力が含まれている。農家の生活や牧場の暮らしも悪くはないが、水上生活者の暮らしはどうだろう?

波静かな湾の奥に、ハウスボート、またはボートハウス(縦の長さよりも横幅のほうが大きく感じられるような船が望ましい)を浮かべ、波間に漂うときのあのゆりかごのようなリズムの中で暮らし、潮の匂いで目がさめるというのもいい。ボートハウスは岸から少し離れていて、その行き来には、小型のボートが用意してあり、セール、櫂、艪、オールのいずれかで移動するのだ。

山 林

ふきのとう山林の存在しない農耕地なんて考えられない。高温多雨の日本では、豊潤な山林こそ国土のコントロールタワーである。多量に降る雨をいくらでも吸収し、日照り の時にはそれを少しずつ川に流し込み、落ち葉の分解をはじめとする栄養分を田畑、そして海にそそぎ込む。灼熱の夏の暑さを和らげ、雪の降る地方では、春先 のための貯水池になる。コンクリートの貯水ダムや砂防ダムを造った人間の愚かさがもっと早く気づかれておれば、これほどまでに国土も荒廃せずに済んだこと だろう。バブル崩壊は一種の朗報でもある。なぜなら借金漬けに陥った地方自治体がもうこれ以上このような無意味な工事に資金を出せなくなったからである。

山林もまた海と同じく、椎茸のような場合をのぞいて、「採集」「狩猟」の場であるべきだ。海の場合「沿岸」と「外洋」があるように、山の場合には「里山」 と「原始林」がある。里山は人間が絶えず入り、下草を苅って手入れをして、ある種の果実や山菜を常に生産できる状態にしておいたものをいう。だから里山は 田畑と同じく半自然な状態に置かれている。いったん管理の手をゆるめると荒廃してしまうか、さらに時間を経れば原始林に戻ってしまうだろう。

固形燃料
近頃の山林は無謀な焚き火によってしばしば山火事を起こしている。本来は枯れ木を集めてきて火をおこすべきなのだが、多くの人々がその根本的な技術を知らないし、後始末にいたってはあまりにもいい加減だ。わずかな期間だけ山に入るとか、裏庭で火をおこすだけならば、固形燃料が一番だ。これは料理屋での鍋料理を温めるのに愛用されている。作り方も簡単で、液体と違ってこぼれる心配がなく、特別設計のバーナーも不要。ふたのできる空き缶さえあればよい。固形燃料の作り方外部リンク

田畑も里山も、生態系のなかでの「遷移」を人為的に途中で止めてあるものだ。だから人間生活を営み続ける限り、人間が完全な原始人に戻らない限り、その状 態を維持して置くしかない。これに対し、原始林はその土地に最も適した植生が総合的に作り上げる、環境が今後変化しない限り、半永久的に安定した状態であ る。そんなところは日本中探してももうほとんどないが、それに近い部分は存在する。そしてそこにケモノたちが生息する。

理想的には、山林は田畑に近い部分が里山になり、それを大きく取り囲む形で原始林であるような多重構造に なるべきだろう。たとえば雨が多く、それほど高温にならない東北地方では、ブナの山林がいわゆる原始林に近い。これに対し、雑木林や杉の林が里山と言うこ とになる。山奥に降った雨は原始林によって貯水され、里山は、生活に役立つものを生産するのはもちろんのこと、原始林と田畑の間の緩衝地帯として役立つ。

戦 後、造林運動と称して、スギやヒノキをいっぱい植えたが、日本のように雨に恵まれた地域は、多様な生態が強みである。人工的に単一品種だけを生やすのは、 農業の場合と同じく必ず病虫害などの問題が起こる。できるだけさまざまな植物、そして動物が暮らせるように森林を作らなければならない。たとえば森林管理協議会( FSC )の認定林などを参考にして、地域で保水機能も持ち合わせて半永久的に使えるような森林づくりを目指すべきである。

必見サイト
ダッシュ村

DASH村開拓記NTV系のテレビで放送されている、ダッシュ・シリーズのうちの一つ、ダッシュ村は、どこにあるのかわからないが、登場する若者たちが、失われた日本の農山村の知恵を再びよみがえらせ、実際に一つの村として自給自足を目指してゆく。

そこで飼っている家畜たちもかわいいし、四季の変化のたびに移り変わる周囲の自然の美しさ、そして何よりも、苦労して耕した畑からの収穫など、お金を得るために都会で働かざるを得ない人々に、夢と希望を与えてくれるだろう。

野 菜 考

野菜を自分でこしらえてみてよくわかる。おいしい野菜を作るためには土をしっかり作らなければならない。肥料もたっぷり必要だ。ちょっとでも雑草を生やすとたちまち栄養分をたくましい彼らに取られてしまう。害虫や病気に常に気をつけておかないとたちまちにしてやられる。

八百屋さんやスーパーにあふれる豊富な野菜はこうして作られているのだ。つまり下界の敵から野菜を徹底的に守ってやらなければたちまちにして枯れてしまうか駆逐されてしまう、途方もない「過保護児」だということだ。

これは人間自身の「家畜化」に関してもいえることだし、牛やブタなどの家畜そのものも自分で出産できないとか、自然界に放しても野生化できるものはわずかでたいていは野垂れ死にすることからも「反自然」もこれだけ徹底しないと人類は今まで生き延びることができなかったことを示している。

人類はその大部分の歴史を、狩猟と採集に費やしてきた。これは他の動物でもやっていることである。しかし漁業を見てわかるとおり不漁・豊漁の波をかぶるリスクがあり、そもそも自然界にできる食物は固くて消化が悪い。今我々の中で山の中でたくみに山菜を見つけてそれを食べて元気に暮らしていける人は何人いることだろう?(→必読書参照)

おかげで人類の平均寿命は大幅に伸び、病気も減ったのだ。しかし何事にも極端な行きすぎはろくな結果を生まない。厳しい自然の中で栄養失調や歯無しのために野垂れ死にするのも嫌だが、現在売られている甘すぎるトマト、歯がいらないほど柔らかい霜降り肉が多くの人々によって歓迎され、生産者はますます大衆の「怠惰」に迎合する食物を作っていく傾向はまたもう一つの悲劇へと向かっているのではないか?

2007年8月初稿

林に囲まれたまさに「まほろば」の自給自足式農園のモデル(岩手県陸前高田市広田半島):全景図
上記の農園の手前のみの写真。ネットで囲いをして、横には焼却炉が置いてある。

養 殖 考

野菜を「栽培」することは、海産物を「養殖」することと同じ人工的操作である。野菜栽培については人々の間の評判はよく、「定年後は自然に帰る」などと賞讃されているが、養殖に関しては「何だ、養殖物か?」とけなされ自然のものが賞讃される。

確かにワカメなどを見た場合、自然のものはコリコリして歯ごたえはいいし、香りもあって食べがいがある。ところが養殖物ときたらまるで骨がないかのようにドロドロな感触ですこしもうまくない。もしかしたら栽培技術がまだ未熟だからかもしれないが、このことは牡蠣もブリにも当てはまることだ。

実は養殖が普及するまでは海産物はすべて「狩猟・採集」によるものだった。野菜や獣肉については文明が始まる前から”養殖”していたのに海産物はみな”野生”のものが普通だった。ついに食料はすべて人工化が可能になったのだ。

食料生産者は、「農民」「牧畜民」「養殖?民」のどれかになり、さらにその少なからぬ部分は工場で生産されることになる。最も本来的な生き方をするはずの「狩猟・採集民」は駆逐され、大金持ちの贅沢な遊びとしてしか許されなくなるのだろう。

もはや我々は山菜だけで暮らしたり、野生の動物を殺して得た肉だけで生活していくことはできない。そして今後は海産物も同じ道をたどることになる。すでにマグロや鯨は近いうちに地球上から姿を消すだろうから、タンパク質を得るためには海底牧場でも作るしかあるまい。

結局のところ人間の全食生活はこのように人工的環境で増殖されることになるのだろう。60億以上の人類を養うためには仕方がないにしてもここまでとことん自然から切り離さなければもはや生存を続けることはできないのである。ここに誕生して100万年ほどたったこの種族の黄昏を感じる。

2007年9月初稿

1999年9月初稿2007年9月追加

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© 西田茂博 NISHIDA shigehiro

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