必 読 書

岩手県大船渡湾

  1. サバイバル登山家
  2. 地球は売り物じゃない
  3. 自家採種ハンドブック

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サバイバル登山家 * 服部文祥 * みすず書房 * 2006/12/15

この出版社がみすず書房であることに注目していただきたい。「山と渓谷社」ではないのだ。これは単に技術論ではなく、何か文明論的なインパクトを秘めた本ではないかと思ってしまうではないか。実はこの出版社は多くの山岳関係の本を出しているのだ。それはひとつに登山は技術だけでなく、現代文明に対する一つの思想を含んでいるからだろう。

まだ年若い著者は、技術としての登山全般に飽きたらず、病める現代文明への一つの提案として自分の行動を表現として用いている。それは単なる消費者となり金と交換するだけになってしまった安楽な生き方に対して、自分を自然界に曝して生きる意味と生きる強さと経験を引き出す試みだ。

彼にとって大切なのはその行動が「フェアー」なのかどうかということだ。道具に頼る、その他人間の発明した便利なものに頼るということは、自然に対してフェアーに立ち向かっていることにはならないという。まさにこれに私は同感だ。強力なSUVに乗り、砂浜を走り回って鳥の卵を平気でつぶす連中の醜さがいい例だ。

500メートルはなれたコンビニに車で行く恥知らずは言うに及ばず、装備を競い、その性能を競う風潮は目にあまる。すべては自分の肉体が勝負だ。ヨットやウィンドサーフィンのワンデザイン・クラスは、このような発想から生まれたのである。登山界にもこのような考えをする人がいるのは実に喜ばしいことだ。

著者はアメリカがはじめたグローバリズムにも反感を持っているようだ。仲間が持ってきた行動食、スニッカーズ(肥満者の友!?)のことを「口の中にアングロサクソンの好みそうな恥知らずな甘味が広がっていった」などとおもしろく描写されている。

そのためには登山のあらゆる技術を試みたし、つり、山菜取り、狩猟と自然の中で生きるための方法について飽くなき探求を続ける。そして得た力を試すため、知床半島や、日高山塊に挑み、近代的な装備をできるだけ減らして何日間も山にこもって自らの力を試すのである。機械力や技術力に頼るのでなく、なるべく素っ裸な肉体で「フェア」に自然の中で振舞いたいというのだ。

彼の考えには大賛成だし、自分でものを考える人だということはよくわかる。ただしこの本を読んで日本中の若者がそのまねをしては困る。そんなことをしたら、奥山のヤマメや山菜はあっという間になくなってしまうだろうから。ただし、ガマカエルの内臓を取り出してその残りを食べてしまえる人はあまりいないだろうから、その心配は杞憂に終わるだろうが。

それに、このライフ・スタイルは決して新しいものではない。終戦直後の食糧難時代において山から本当の意味で生存を引き出した人は当時は大変な数に上っただろうし、その多くはどこで何を見つけたらいいかちゃんと知っていたのである。それ以前の人々では山に出入りする人は言うにおよばず、山村に暮らす人の常識であった。だがいつのまにか人々は快適生活に惹かれ、山や海を汚染し、かつてのたくましさや力強さを失い、何でもかんでも依存することを覚えて甘やかされてしまった。

この本を読んで物悲しく思うのは、いかに現代日本人のほとんどが「家畜化」されているかということだろう。その意味でこれが警告の書であるということはいくら強調してもし過ぎることはなかろう。真夏にエアコンをガンガンかけた部屋から一歩も出られず、100メートル離れたコンビニに自家用車を運転していく人が多数を占める世の中なのだから。

それにしても日高山脈や、黒部渓谷での冒険はほとんど死と隣り合わせだ。ふとダーク・ダックスの「山男の歌」を思い出してしまった。<娘さんよく聞けよ、山男にゃ惚れるなよ・・・若後家さんだよ・・・>の部分だ。さらにフォークの名曲、「小さな日記」も思い出してしまった。

地球は売り物じゃない Le mond n'est pas une marchandise ジャンクフードと闘う農民たち * ジョゼボヴェ&フランソワ・デュフール José Bové et François dufour 新谷淳一・訳 * 紀伊国屋書店 2005/03/17 

地球は売り物じゃないフランスでは、ロックフォール・チーズ(羊の乳から作る)の輸入を巡ってアメリカと対立し、対抗処置の制裁を受けようとしたとき、農業の危機を感じて立ち上がったのが農民同盟であった。ボヴェは抗議行動の一環としてマクドナルドの「解体」を行った。これが世界的に有名になり、本人は裁判で有罪判決を受けたけれども、グローバリズムに対する象徴的な挑戦としてマスコミに取り上げられたのである。

ボヴェとの「共犯者」、デュフールは共にインタビューに答え、これまでの活動の履歴と、世界的な市場中心主義、規制緩和、生産至上主義のもたらす弊害について、ていねいな語り口で読者に説明してくれ、農業に関心ある人人に非常に重要な示唆を与えてくれる。。

当時問題になっていたのはアメリカ産牛肉ホルモン剤投入である。生育を早め肉質を柔らかくするために、ホルモン剤を与えていた。自然な発育を待てず少しでも太らせようというこの技術はまさに文化と農業の商品化の典型だ。

それだけではない。地域ごとの育てかたや独特の味など、アイデンティティの喪失をもたらし、食べ物に対する心理的な問題を無視している。(GM大豆やホルモン入り牛肉ときいてそれがが美味しいか?床に落ちた食べ物でもそのことを知らなければそれでいいのか?

このようにアメリカでは農業を「工業化」する流れが全盛だが、アメリカにも大企業に対抗する、小規模な農民の集まりもある。マクドナルドに群がる人々がいる一方で世界を変えるには「連帯」しかない。ボヴェたちも大西洋を越えて同じ志を持つ人々との連携を考えた。闘争だけでは目的を遂げることができない。「社会的つながり」から経済的な発展と改良が生まれるかもしれない。

ひたすら単一品種を一カ所に密集して植え、農薬と化学肥料を大量に投入して機械化を行い(その結果借金漬けになって)続ける集約農業の弊害。もちろんこんな形式は持続的農業ではなく、技術に頼った一時的な収奪に過ぎない。技術の発展は出産、農業、食べ物いかなる面でもその意味を抜き取って単にテクニカルなものに変えて行く。穀物のモノカルチャーを行う農民は自給用の野菜を作ることすらしない(なんと八百屋に買いに行く)。

欧州連合は、戦後の荒廃から増産努力で自給が達成されたあとで、もうそれ以上生産をあげるべきではなかった。ところが集約農業によってひたすら生産を続けさせ過剰に陥ってしまったものだから、それらを輸出に向けるようになってしまった。ところがアメリカやその他の食料輸出国との競争に勝つために生産物の値下げをしなければならない。そのために補助金(納税者の金による)までつけている。

大きな農業組織は大規模経営をすすめる。だがそれは農民の数をますます減らし、少数の人間が、企業の売りつける機械、農薬、肥料に頼り、単一生産の道を邁進することを意味する。借金に一生追い回され、市場価格の変動にもきわめて脆弱である。ところが多くの人々が、工業と同じく大量生産が最も効率的だと勘違いしているのだ。

これらの安い農産物は開発途上国になだれ込み、それぞれの脆弱な農業を破壊してしまった。途上国の農民を救ったどころか逆に自給努力を奪ってしまったのだ!その土地でしかできないあるいは非常の付加価値の高い産物を除いて(コーヒーやワインなど)、輸出向けの農産物をやめ、自国内向けだけの生産に少しずつ切り替えてゆくべきだ。

かつての農民はみな小規模で栽培、飼育、大工仕事、販売、と何でもできた。ところが農業技術の専門家、細分化、巨大化が進む。鶏を飼うにしてもひよこだけ、卵だけ、ブロイラー用だけと分かれてゆき、それぞれの農業者は全体が見えていない。多国籍企業の種苗会社が、特許を取った種を販売し、農民たちの自家採取をできないようにして種の販売利益をわがものとする。バイオテクノロジーの研究者たちには自分の専門ばかりに目を向け、哲学的ビジョンなど持たず、功利的な動機にのみ基づいて仕事を進めているものがあまりに多い。

農産物の生産高を一気に引き上げようという試みはちょうど永久機関を動かそうという試みに似ている。遺伝子組み替えによる作物を売りつける企業はその表示に強硬に反対する。誰でもおかしな育て方をした食べ物は心理的に受け付けないものなのだ。つまり我々の知らないうちに胃袋に入れてしまおうというのが彼らの魂胆なのだ。我々には何を食べているかを正確に知る権利がある。

品種の多様性を保つことによってのみ味のさまざまな要求に応えることができ、干ばつや悪天候にも生き延びることのできる品種を手に入れることもできる。それなのに大企業の政策は広域における単純な種類に限定した栽培だ。平気でまわりの競争相手をつぶすが、自分たちは喜んで補助を受ける、というのが業者の正体だ。かくして地域に密着した多様な品種が姿を消してしまいスーパーで通用する画一的な品種だけが残されてしまった。

農業の持つ多面的機能を忘れてはいけない。環境保全、都会人のストレス解消、など有形無形の恵みが農業によってもたらされる。だがそれは地平線まで続く小麦「工場」では決して得られないものだ。小規模の農民が集まって住みやすいコミュニティーを作り、ニワトリやブタが勝手に庭を歩き回っているようなところでこそそのような機能が実現する。

自由貿易主義の傲慢なやり方がが人間の食生活を通じての健康より優先するなどということは許せない。「輸入制限」こそ、公正な貿易には不可欠な条件である。自由貿易は経済の自然な法則なんかではない。単に経済的に優勢な側が貧しい人々から奪い取るための手段に過ぎない。自然な法則ならどうして人々はシアトルの WHO の会議に向けて抗議行動を起こしたりしただろうか?これは経済的勢力の専制に対して政治を復活させようというあらわれである。市場より政治が優位に立つべきだ。企業の横暴を押さえよ。できる限り多くの人々が小規模な農民になるべきなのだ。

付記;農的農業の十原則(1)できるだけ多くの人が農業を営んでいけるように、生産量を分配する(2)欧州全体や世界中の農民と連帯する(3)自然を尊重する(4)豊富な資源を有効活用し、希少な資源を節約する(5)農産物の購入、生産、加工、販売において透明性を追求する(6)味覚と衛生面での食品の品質を確保する(7)農業経営において最大限の自立性を確保する(8)農民以外の農村住民とのパートナーシップを模索する(9)飼育する動物と栽培する作物の多様性を維持する(10)つねに長期的な視野を持ち、グローバルに考察する

20053月18日

自家採種ハンドブック * 自家採種ハンドブック出版委員会・訳 * 現代書館 * Michel and Jude Fanton; the Seed Savers' Handbook

自家採種ハンドブック商 業主義で、大規模生産が農業の世界でもどんどん進む中にあって、「種子」の問題は、遺伝子操作の蔓延によって、重大な局面にたたされている。かつては生産 者が各自の作った農作物から直接種子をとっていて、それが当たり前だった。あるいは近所の農家と交換もしたりしていた。

ところが、自分たちの目的にそって種を遺伝子工学によって作り替える、いわゆる「デザイナー種子」によって、生産者は「種子」を買うという事態にたたされ、世界中の耕作地は、種苗会社の支配なしには成り立たない状況に追い込まれてしまっている。

このため、古くから、その土地の風土にぴったり合って、日照りに強いとか、病害虫に強いとか、収量は少ないが天候が育つ種類といったさまざまな特質を備えた種子が絶滅の危機にさらされているのだ。

著者は、オーストラリア人でこの世界的状況に対処すべく、この問題に関心を持つ世界中の人々と、ネットを通じて大企業の利潤追求に支配されない種子づくりを提唱する。日本名を「たねとりくらぶ」と称する。

現 代農業の最大の欠点は、効率を追求するあまり、単一栽培にはしっていることだ。そのため天候の激変に弱く、病気になりやすいために大量の農薬をいれ、昆虫 にねらわれやすいために大量の殺虫剤をまかなければならない。収量が多いのは、灌漑設備を完備し、大量の化学肥料を入れているからにすぎない。

昔 からの農業の基本は、「多様性」の維持だ。効率は低くても、さまざまな形質を持った作物を畑に植えておけば、日照りの年には日照りに強い品種は生き残り、 病気の流行した年には、ある病気に強い品種が生き残り、台風の被害の大きかった年には、大風や大雨に強い品種が生き残り、「全滅」の憂き目にあわずにす む。

これは、バクチや投資における「ヘッジファンド」とまったく同じ考え方であり、天気に左右される農業の宿命をなるべく克服しようとした昔からの人々の知恵なのだ。自然界では、「多様性」が生き残りのための第1の戦略なのである。

本書は、第1,第2部では種を取るための基本的考えと基本的技術を述べ、第3部では実用面にしぼり、それぞれの種類に適した採種、保存、育成方法を解説している。

園芸や有機農業に携わる人々ができるだけ多くこの本を読んで、昔から途方もなく長い時間をかけて築き上げた種子という名のすばらしい遺伝子のプールを未来の地球のために残す努力をしてほしいものだ。たねとりくらぶも、新たな反グローバル主義の一環とみたい。

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© 西田茂博 NISHIDA shigehiro

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