トレーニング指南
ボクサーのように力強く、アユのようにしなやかに、シカのように優美に H O M E > 体験編 > 体験編案内 > トレーニング指南 そもそもトレーニングには、単に健康維持にとどまらず、文明化、家畜化、過保護に抗し、より原始的、野性的な生命力に満ちた状態へ引き戻すというきわめて重要な目的が込められている。どんなに物質文明が進歩しても動物的能力と生命力を失うな!!! |
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体を鍛える
生物の体は、絶えず刺激を与えて鍛えなければ、どんどん衰退する。特に中年以降の生活は、そのやり方によって、老化の度合いは個人差が10年以上にも及んでしまう。ましてや人間は太古の昔から自然の中を駆け回っていたのである。体を常に動かしているのが自然な状態だといえる。 007ジェームス・ボンドのシリーズでは、ショーン・コネりーがかなり長い期間、彼の役を担当した。ほぼ65歳になるまで、あの激烈なスパイの役を演じた。これも、コネりーの日頃の鍛錬のたまものである。 人間は、20歳代がその肉体的最盛期だといわれているけれども、鍛え方次第では、65歳ぐらいまで(ただし、男性の場合の話で、女性の場合は不明)はその体力を伸ばすことはできなくとも、なんとか維持することができるはずなのだ。 かつて、イランでのアメリカ大使館員らが3年もの間、人質に取られていた事件があった。やっと解放されたとき、多くは運動不足でふらふらしていたらしいが、しっかりとした足取りで出てきた人もいた。彼は毎日、腕立て伏せを欠かさずやっていたのだという。あちこち歩き回ったり物を持ち運んだりすることを禁止されている以上、極端な運動不足におちいると思われるが、そこを彼は自立的に運動スケジュールを立て、毎日実行したのである。 また、フランス人の青年医師、アラン・ボンバールは1950年代に一人でキャビンのない緊急用のゴムボートに乗り、大西洋を横断し、水分は海水を一部飲み、また釣った魚をしぼったジュースなどで補った。彼のおかげで、海上における人間の耐久度もかなりわかった。(「実験漂流記」現代の冒険3;世界の海洋に挑む;文芸春秋社) この他、山岳地帯や砂漠地帯での体験記を読むと、人間の肉体的な強さについての記述は枚挙にいとまがない。健康な肉体であれば、地球上の相当過酷な環境にも人体は耐えうることを示している。氷河期から始まった世界各地への移住によって、人体の適応力は実に柔軟に作られてきているのである。 ところが、便利な交通機関の発達のおかげで、現代人は歩かなくなったと言われている。あの坂本龍馬も江戸と上方の間を徒歩で何度往復したことか(海軍に関わってからは船ばかりになってしまったが)。昔はよぼよぼの老人でも箱根越えをしていた(せざるを得なかった)。それなのに便利さに甘えて、生物本来の怠惰が頭をもたげてしまった。最近の日本人は4キロ歩くといっただけで驚いて目を丸くする。 だが、それは個人の心がけが悪いのであって、駅の階段を2段跳びであがりおりをするとか、エスカレータを使わないなど、ちょっとした工夫でいくらでも体力維持を実現することができる。なお、2段跳びであがる人はよく見かけるが、2段跳びで降りる人は余りいないようだ。多少危険だということはあるが(これで骨折したら元も子もない!)、足のジャンプ力を維持し、バランス感覚やしっかりした足取りを養うには大変効果的である。老化は足から現れるという。腕は、日常生活に結構使うので、かなり後までその力は維持できる。 ところが自動車やら便利なものが普及するにつれ、人々は自分の足がどんなに衰弱しているかということさえ忘れかけている。ちょっと暑いからと言って、すぐに冷房装置のスイッチを入れる輩がいるがとても信じられない。とにかく体全体が衰弱していることは間違いない。これを防止するには、日常生活で失われた分だけトレーニングによって取り戻すしかない。たとえば自転車に乗るときでも、(安全な場所を選んで)手放しをするというもの、ほんの小さな事であるけれどもバランス感覚を維持するには大変効果的なのだ。 また人は年を経るにつれて、体力は次第に衰えてゆくものだから、時々その体力的限界をチェックする必要もある。これによって自分が予定以上に老化が進んでいるとか、同年齢よりはるかに若いというような客観的評価ができて、日頃のトレーニング計画の見直しをはかることができる。 それにしても高齢者の間での体力の個人差は驚くほどだ。70歳前に寝たきりになる人もいれば、100歳でバスの乗り降りをしたり、お風呂に入れる人もいる。特に男性として100歳を越えた人は、スーパーマンといってもよいほどで、ほとんど長生きすることが「生きがい」となっているのだろう。 トレーニングとは単に体を鍛えるということではない。もっと詳しく言えば、”日常生活で使わない部分を鍛える”というべきなのだ。普段よく歩く人は特別歩く筋肉を鍛えなくてもよい。ところが同じ足の運動といっても、「歩く」「走る」「ペダルを回す」を比較すると非常に異なる筋肉を使っているのだ。だからこのうちのひとつだけを一生懸命しても残り二つで使う筋肉の鍛錬がおろそかになる。よく、ひざを痛めたとか、アキレス腱が痛いとか言っているのは、これらのどれかだけに偏り、万遍ない運動がなされていないために、弱い部分に負担が来たということが多いのだ。 また、日常ではめったにしない、たとえば「殴る」「ぶら下がる」などは必ずやトレーニングメニューに加えておくべきものだ。「泳ぐ」というのも、近くに公営プールがあって頻繁に泳ぐ人は別にして、高校以来30年以上も泳いだことがない、などという人は多数派なのだから。 私が実行しているトレーニングは次の通りである。どれも基本的には週1回にしている。それ以上は負担になるし、またそれ以下では維持ができないからである。適当にやるのが大切なのだ。ただし、水泳は、市民プールの混雑の問題があるので、思うようにできない(2009年現在)。アメリカでは太っているのは意志の弱い証拠、自分の管理さえまともにできないフヌケだとして、会社での昇進にも影響する風潮があるがあるが、これは日本でも見習いたいものだ。 トレーニング実例
これらの数値を見て、かなり楽なスケジュールだなと思われるだろう。とにかく忙しい日常生活の中をぬってするのだから、決して無理をしないことが肝心なのである。自分の全力から見て70から80パーセントぐらいが適当である。さらにこれも年をとってゆけば緩やかに減らしてゆくのである。また決して突然やめるようなことがあってはいけない。これによって、長続きすることができる。
これとは別に、回数のことだが、たとえば腕立て伏せを30回と決めたとき、普段の体調がいいときはプラス3回、つまり33回にしておくといい。これはどういうことかといえば、この”一割増の余裕”を作っておき、体調不良のときに備えるためである。 睡眠不足や疲労が激しいときは毎日のノルマをこなすのには”意志力”がいる。だが、いつも33回しておけば、これを3回減らして30回にしてもノルマが崩れたことにならない。人間は習慣の動物だから、ノルマを崩すと突然やる気を失う場合も少なくないから、そのようなときのための精神的安定策として用意しておくのがいいのだ。 「トレーニングは苦痛なしで」という人もいる。運動をしていい気分、というところまでで十分なのだ。その時点では、筋肉はほどほどに使われ、それに指令を伝える神経系統も活性化し、その源の脳のどこかが同時に活性化している。そして「筋肉ー神経ー脳」の連なりのうち、もっとも大切なのが脳での刺激部分なのだ。その刺激が元になり、脳のその部分が整備され、将来の運動にもっと適するように作り変えられる。これがトレーニング効果だ。 極端なのはいけない。運動不足も、途方もないハードトレーニングもどちらも現代人の病である。オリンピック選手はその記録を上げるために、極限への挑戦をするので、年をとったときには、若いときの無謀な訓練のせいで体ががたがたになることが多い。競争が一層熾烈になり、商業化のせいで、スポンサーを喜ばせることも要求されている現代の若い選手たちは中年過ぎてからが怖い。 とても不思議に思うのは、よく精力的な実業家が、若い頃は野球とか剣道とか登山で鍛えたから、いまバリバリ働いているという自慢話を聞くときだ。確かに若い頃に体を鍛えたのは結構だが、その後社会に出て、飽食と運動不足の連続で生きてきたとすると、そんなタフさはまがい物に過ぎないとわかる。「鍛えた」という言葉に惑わされてはならない。過去形ではなく、「鍛えている」という現在進行形でなければ意味がないのである。 特に肥満体は要注意だ。太っていていいことは、「重石」になること以外、何一つない。すべて将来の命取りになるか、病気の原因になるだけだ。かつて、新聞のあるコラムで、どこかの評論家が、誰もが「やせる」ために必死になり、さまざまな体格という、「個性」が失われると嘆いていた。彼に言わせれば、アフリカに住む優美なシカたちの群も個性がないということになるらしい。ところでやせているのがいいのか、というとそうでもない。「肥満」「痩身」のいずれにも属していないのがいいのである。バランスと取ることの難しさである。 また、老齢になると、これまでのトレーニング・プログラムがだんだんできなくなってゆく。たとえば、今までできた腕立て伏せの30回ができなくなって、25回になってしまったらどうするか?こういうときは、とりあえず連続してできる25回までやり、そのあと一休みしてのこりの5回をするとよい。老化に抗することはできないが、気力だけは持ち続けたいものである。 初稿不明・2011年4月追加 頭を鍛えるそしてもっとも大切なことは、頭のトレーニングであろう。誰でも70歳前半ぐらいまではそれほど個人差がないが、そのあとは恐ろしいほど、老化の進む人と、95でも若々しい人がいる。これらの違いはくよくよしないとか、不安を持たないことや、食生活も大切なのだが、日々のトレーニングが一番大きい影響力を持つ。 仕事でばりばり働いてそのあと引退した人が一番老化がひどいようだ。社会的義務に縛られるとそのあとの落差が激しく、ろくなことがない。逆に一生遊び人的で、歌を歌ったり、絵を描いたり、作曲したり、マイペースで生きてきた人がもっとも若々しい。今までの女性が長生きだったのもそれに原因がある(だから逆に現代のバリバリ働くキャリアウーマンは今までの猛烈男性と同じ運命をたどることになる)。社会の慣習、規則、その他さまざまに個人をがんじがらめにするものになるべくふれないでいることが大切だろう。 頭のトレーニングにはだから、音楽(歌や楽器の演奏)と美術(絵や彫刻、陶芸)の2つを取り入れると良い。文章(小説、詩、ルポルタージュ、随筆)を書くのもおもしろい。それぞれの練習に、一日1時間づつさけば、常に頭が新鮮な状態に保たれるだろう。読書や音楽などの「鑑賞」もいいが、これらはあくまでも受け身的なものであり、主流を占めるべきではない。 女のほうが男より長生きなのはなぜか?女は自分の産む子供の分だけ余裕を持って作られているから、特に鍛錬をしたりしなくても、その余裕の体力、免疫力で5以上も長く生きるのである。それどころか、長寿国ではますますその差は開きつつある。男が長生きするには、女との根本的違いを認識しなければならない。 それは男の筋肉を見てわかるように、男は常に適切な「負荷」をかけ続けることによってその健全な状態をたもつことができるということなのだ。女の場合、じっと炉端で編みものしていても、特に深刻な運動不足になったという話を聞かない。ところが、男の場合は使わないと直ちにどの器官も内臓も筋肉も知力も衰退してしまうのだ。特に定年になって突然体を使わなくなると体はすっかりなまってしまい、そのままどんどん生命力が降下してゆく。 これを防ぐには、強くもなく弱くもない「負荷」をあらゆる面にわたってかけ続けるしかないのである。それによって自分の体力にプラスアルファをいつも加えて持っている状態となり、ちょっとやそっとの病気でもそれに対抗する余力が生まれるのである。 もちろん負荷をかけ続けるのも気力のなせるわざであり、それが無いというならばそれまでだが、若い頃に働きすぎて、特に自分に合わないのにやたら責任を負わされてしまったような場合、年を取って燃え尽きてしまったという人が少なくない(女には今までそういうことがなかったが、これからは増えてゆくだろう)。 責任ある地位というのは非常にストレスのかかる状態であり、特にそれに向いた人でない限り避けた方がいいのである。「管理職」のチンパンジーが胃潰瘍になったレイが報告されている。むしろフリーターやボランティアのような立場で働くのが最もよい。 現代社会は「忙しい」と同時に「金儲け」できるのが美徳だというように大多数の人々が洗脳されているから、このようなことを述べても実行できる人は少ないだろうが、早めに気づいた人は得だということだ。では日頃はどのようにすべきか。 昔のおばあちゃんは、暇さえあれば編み物をしていたことを思い出す。これは大脳生理学の観点からすると実に素晴らしいことをやっている。つまり手先をこまめに動かし全体のコントロールをすることによって脳を絶えず刺激しているのだ。 今の若い女の子で編み物ができる子なんて1万人に1人ぐらいだろう。料理もしないしできないし、得意なのは携帯電話のボタンを立て続けに押すことだけ。これではボケの道を一直線。女も男も編み物のような手先を動かす趣味を身につけよう。退職して、朝昼晩と奥さんに食事を作ってもらっている男は最低だ。どんどん脳味噌が萎縮していく。男が料理すべきかどうかの問題ではなく、絶えず生活の中で活発な反応を維持していかなければならない。 こうやってみると現代文明は便利さを第一目的においてきたから、人々は手間を惜しみ、自分で(会社から命令されるのでなく)積極的に自分で何かをすることがますます難しくなりつつある。至れり尽くせりの老人ホームに入ったあと、手を動かすこともなく、テレビや虚空をむなしく見つめるだけの存在にならないように若いうちから考えておくべきだ。初稿不明 2004年2月追加 運動療法の効果すっかり重症になってしまった人は別にして、一応健康を自認する人は、現代医学やその成果にできるだけ頼らない心構えでいるべきだ。どうも現代人はいざとなれば病院で何とかしてくれるという甘えがあるから、自分の生活の不摂生を見逃している。 だが、現代医学は、切ったりはったり、むりに押し込んだり、徹底的に反自然の方向へ進んでいるから、できるだけ関わりにならない方がいいのである。病気についてはすべて「自然治癒」が根本であるはずなのに、西洋から生まれた医学はそんなことにはお構いなく日々高度な技術の進歩にだけ没頭している。 例えば、高血圧の人間には、塩分は控えよと一方的に勧める。もちろん塩分濃度が高くなれば血圧が上がるが、単に食事においての食塩摂取量を減らせばいいのだろうか。 減らせといわれた人は、まるで味のないみそ汁や、味気ない料理に日々を過ごすことになる。美味しくない食事の連続なんて人生の墓場だ。だが、取り入れることを制限するだけでなく、どんどん体外に排出してもいいはずだ。 例えばサウナに入れば大量の汗が出るが、誰でも知っているとおり、汗や尿は塩っ辛い。体の塩分がどんどん減っている証拠だ。ということは普通に塩分を取っていれば、汗の出る運動や熱い風呂に入れば、かなり塩分を出すことができることになる。 高血圧の他に、糖尿病、肥満、外傷の回復期などは、運動によって体の中の血液やリンパ腺の循環をよくすることもあって大いに勧められるのだ。薬に頼らず、必ずしも安静にするだけでなく、大いに体を動かすことによって持病が好転する場合も多いことを忘れてはいけない。 現代文明によって失われた肉体能力便利さだけを愚直に追い続けてきた現代文明(西洋文明)だが、おかげさまで現代人の肉体能力は、哀れなほど衰えてしまった。 運動をしないで、ひたすら食べる・・・これがどういう結果になるかは頭でわかっていても、残念ながらこれをコントロールできる人間は少ない・・・もっともからだから脂肪を吸い上げたり、切り取ったりする技術ができているから、入院して手術を受ければ大したことないか?
1999年5月初稿・2009年3月追加 人間とほかの動物を比較するとき、とかく知的な面だけに目がいき、知能があるとか、創造力があるとか、道具を使う手先の器用さということに話題が集まりがちだ。 犬を飼っている人は知っていると思うが、ある日動物病院のホームページを見ると、犬にはタマネギをやらないでください、刺激性のあるわさび、芥子の類はだめ、などと食べさせていけない食物が述べられている。 猫も、その他の動物もそうだが、きわめて彼らは「偏食」なのだ。これに対して人間のイカモノ食いにはあきれさせられる。タマネギなどを犬に食べさせると腎臓に負担がかかり、血尿が出る場合もあるというし、無理に続ければ寿命にも影響する。 人間は、アフリカあたりを出発地点にして、長い流浪の末、世界中に広まってしまったが、それも何でも食べるせいだ。ここに人間の肉体のタフさがよく現れている。 かけっこをすれば犬にかなわないが、長距離を走るなら、明らかに犬に勝つ。それは犬には汗腺がないせいだ。体温が途方もなく上昇してしまう。もっとも彼らは我慢して走って熱中症になるような愚は犯さないが。 もちろん馬には距離、速度ともかなわないが、彼らは汗をかく分だけ寒さに弱い。岩山に登るのならカモシカにはかなわないが、それを専門にしない動物の間では、最も登坂能力があるともいえる。自転車に乗ること、スキー・スケートをすること、サーフィンをすることなどは、誰でも人間なら練習を積めばだいたいできるようになるが、二本足で立つようになっただけあって重心が高く、特にバランス感覚はほかの動物よりもすぐれているようだ。 ただし、人間の場合はまず「練習」、つまり「学習」が必要だから、どんな能力の基礎は備わっているにしても、何もしないでは何も身につかないし、絶えずその水準を維持する努力を積まないとたちまちその能力は衰えてしまう。 運動万能なのだが、練習量、そして精神状態に大きく左右されてしまうという欠点がある。本能的に緻密なプログラム化されている場合と違ってそこが弱みだ。 そして、犬の1年が人間の5年に当たると言われるほどの寿命の違い。何で人間はやたらに忙しく、ストレスに満ちて、あちこちネズミのようにめまぐるしく動き回っているのに寿命がこんなに長いのか? やはり何でも食べることができるような内臓の構造が大きく影響しているためだろう。タマネギもニンニクも胡椒も胃に入れてしまうということは、肝臓の解毒能力が並外れているからだ。アルコールやニコチンの絶え間ない摂取にも肝臓は黙々と耐えている。 暑さに対しては「汗腺」の発達、寒さに対しては、もちろん衣類の発明もあるが、アザラシやセイウチのように分厚い皮下脂肪を発達させることのできた、かつてのフェゴ島原住民のような適応も可能なのだ。 もっとも、今の子供は冷房装置の普及で、温度調節機能が損なわれ、汗のでない例が増えているという。もうこうなったら何のコメントもしようがないが。我々の祖先が営々として築いてきた身体という財産が現代文明によって無惨にも破壊されつつある。 睡眠時間の短さも特筆に値する。犬や猫の睡眠時間を見よ。人間の赤ん坊並だ。よく世間では8時間眠らなければならないなどと言っているが、まじめに実行している人は何人いるだろう。平均5時間ぐらいでも立派に健康を維持している人はいくらでもいる。しかも昼行性、夜行性、変貌自在である。動物の場合はどちらかに固定されていて、それを乱せばたちどころに健康のバランスが崩れる。 これは体内の恒常性を保つ調整機能が強力に働いていることを意味する。乗り物酔い、時差ボケ、急に気温が下がることによる風邪ひき(インフルエンザとは別)などは個人差があるにしても、適応するように訓練していけば、いずれも相当程度、克服することが可能である。 人体はこのように厳しい環境の変化に耐えるように作られてきているから、逆に安定した、満ち足りた環境では、かえってうまく機能しなくなる。常夏の島よりも四季の変化に富んだ環境のほうが、環境に順応するのに忙しいがかえって健康的なのはそのためだ。 だから、この人体の強さを維持するためには、広い意味でのトレーニングは絶対に必要なのである。ある期間絶食して「疑似飢餓」を体験するのもトレーニングの一つである。欠乏状態での膵臓の活躍の状況をたまにはチェックする必要がある。腹ぺこで倒れる寸前までサイクリングをしてみるのもよいだろう。それなのに現代人は飽食をだらだらと続けて、ついにはインシュリンが出なくなってしまうという愚かなことを繰り返している。 大勢の人々が集まったために気温が異常に上昇している場合でもないのに、自然風の代わりにエアコンに頼るのも自殺行為である。せっかくの体温調節能力を自ら「電気代」をかけて衰弱させている。 階段で楽に上れるほどの高さなのにエレベーターやエスカレータを利用するのも、筋力を弱め、結果的には骨も脆弱にしてしまう。立派な奥歯や犬歯がそろっているのに、ドロドロに近いハンバーガーのような柔らかいものばかりに頼ることによってアゴの筋肉全体を弱め、ひいては脳細胞の衰退にも拍車をかけている。 自分の体には第1級の殺菌、滅菌能力が備わっているのに必要以上に薬剤に頼り、免疫能力全体を衰えさせている。清潔は度を過ぎると、神経症の一種に過ぎなくなる。菌がうじゃうじゃいるのも、無菌状態も共に避けるべきなのだ。寄生虫さえ、回虫ぐらいなら数匹体内に飼った方がいいのではないだろうか。寄生虫を居候させることができるほどの「余裕」となるし、太りすぎが解消するかもしれない。 アムンゼンは小さい頃探検家を志した頃から、冬でも窓を開けて寝る訓練をした。いきなりやれば誰でもが風邪をひいてしまうものの、少しずつ鍛えていけば、人体は驚くほどの耐久性を示すことが冒険家や登山家が実証してくれた。 体力の弱い人間は淘汰され、今日に子孫を残すことは少なかった。我々は体力や体質の強かった人々の(またはまれに、単に運が良かった人々の)子孫である。せっかく自然が数百万年もかけて進化させてくれたこの驚くべき強靱さを、現代文明などというくだらないものによって永久に失ってしまうことがないように、トレーニングを今後とも続けていかなければならない。 2002年8月初稿2002年12月追加
「ハックは秋になっても村の誰よりも遅くまでハダシでいたし、春になっても誰よりも早くからハダシになっていた」 マーク・トェイン著<トム・ソーヤーの冒険>より 2003年2月より、6キロのジョギングの際に運動靴を履くのをやめて、はだしに切り替えた。現代文明の進む方向に反して、何でも原始的にすればいいのである、と長年思ってきた。足の裏側をさわってみると、傷はないにしても皮が弱いから相当摩耗している。両親指の後ろには血豆ができかかっている。今まで痛んだことのない筋肉が痛い。靴を履いたときとはかなり違う筋肉を使っていることがよくわかる。 幸い近くは海で、砂浜が広がっている。はだしで砂を踏みしめる感触は精気を与えてくれる。はだしではもちろんコンクリートやアスファルトの道を走るのはすぐには無理だ。その点砂は、特に波打ち際の場合、ゴミが少ないことと、適度なクッションがあり文明によって衰えた足を鍛え直すには最適だ。 今の子供は扁平足が多いというのもうなずける。室内ではスリッパ、外では足にぴったりフィットの靴では、まるでロボットだ。縄文人の足跡を調べると、足指が扇状に広がり(今の靴屋では、超幅広でないとおさまらない!)、踵と爪先がきれいなアーチを描いていたという。 シャーリー・マクレーンの著書、「アウト・オン・ア・リム Out on a Limb 」でも述べられているように、砂の上を走るのはかなりのエネルギーを必要とし、推進力が増大する。実際最初に試みた日は、足に筋肉痛が起こった。これは運動靴では使っていなかった筋肉部分を動員したためだと思われる。 もう一つ大事なことは、誰でも足にけがをしたくないからどうしても地面に注意が向くようになること。ともするとうつむき加減になるのは困るが、今までは地面のゴミ、鋭いものの存在に無頓着であったのがわかる。現代はガラス片や金属片がごろごろしているので、普通の道路はとてもはだしになる気にならないが、大昔だって、石や貝殻、骨の断片など、足を傷つけるものはいくらでもころがっていたのである。 地面に直接当たるということで、大地を直接感じ、地面の凸凹に敏感に反応して運動神経をとぎすまし、ぬるま湯文明によってふにゃふにゃになった精神に、自律神経に活を入れてくれる。地球を蹴り、その跳ね返りが神経を通してがーんと響くのだ。 現代では、大企業が消費者におもねるために、エア・クッションやらフィットする素材やら、過保護にしてあげるため懸命になっているが、ナイキだかアディダスだか知らないが、鍛錬のために運動する者はいい気にならないで、原始人のような本当の走りを取り戻すべきだ。 人間はこの百万年あまりの間に自分を「家畜化 domesticated 」し続けてきた。いい加減にここらでやめにしないと、「種」としての存続が危うくなる。鍛錬を目的とする以上は、不可能と分かっていても自然との直接対決を目指したい。 オリンピックの陸上競技では靴の使用を禁止すればよい。そうすればばかげた靴のための看板広告みたいな選手が姿を消し、記録は一時的に下がるにしても、靴の優劣によって勝敗が決まる不公平がなくなり、人間の肉体の本当の意味での能力を問うことができる。やはりはだしと言えば、東京オリンピックの時のマラソン優勝選手、エチオピアのアベベが思い浮かぶ。故国では軍人だったそうだが、生まれ落ちたときからずっとはだしで暮らしていたのだろう。文明国の選手を寄せ付けず、余裕たっぷりにヒタヒタと陸上競技場に入ってきたときのことが今でも印象に残っている。 すぐにはだしが無理なら、ワラジを履くという手がある。江戸時代にはあの簡単なワラ細工が人々の足を守っていた。また、すぐにはだしのジョギングを実行する人は、ベルトの長さのひもを用意し、これに2足の草履を通して腰にくくりつけて走る。誰でも途中で足を切ってしまい、びっこをひきひき帰ってくるのはいやだろうし、途中でばい菌が入って化膿したりすれば、もう一生はだしで走る気はなくなる。 映画、「裸足の伯爵夫人」にあるように、裸足は自由と自然的生活の象徴である。青ざめた都会人は特に、太陽のさんさんと照りつける浜辺でのジョギングにいそしみ、つかの間の自然児的感覚を取り戻すとよい。 その後3ヶ月経った。最初の頃の筋肉の痛みがすっかり姿を消し、駅の階段の上り下りにおける二段跳びが前に比べて遙かに軽く感じられる。足の裏がだいぶ厚くなってきたようなので、おそるおそるながら、コンクリートやアスファルト上でも可能か試している。つま先に強い筋肉をつけないと、地面の固さがもろに伝わってくるので、長距離はまだ無理だ。今のところ足のケガは皆無。その後さらに3ヶ月経った。6キロのジョギングコースのうち、半分はコンクリートでも平気だ。一度だけ小石が入り込んでちょっと足の裏に傷が付いた。ただし化膿するようなことはなかった。海岸沿いなので、走り終わるとすぐに傷口を海水につけて殺菌したのだ。この冬は結局全部ハダシで走り通した。寒さのために足裏の感覚がなくなることもあったが、もう春だから冷たいことはない。今や靴を履いては走れない。 2003年2月よりさらに1年5ヶ月が経った。今はハダシの走り方がすっかり身についている。かつてはおっかなびっくりだった接地についても積極的にべったり足を路面につけ、すばやく異物がないかを感じ取る走り方を会得した。かつてのように足を推進力としてだけ使うのではなく、まるで地雷の探知機のように神経を張りつめてリズミカルに走るやり方ができるようになったのだ。これなら昔の人も始終ハダシでいて怪我が少なかったわけだ。 なお、足裏はあれから特別厚くなってゴムゾーリのようになったわけではない。結構薄いのである。ただしかつてのようにぶよぶよしているのではなく、表面に張力が増した感じである。前には浮き出ていた静脈の血管が埋もれて見えなくなった。また靴を履いていた頃にしばしば体験したアキレス腱の痛みや筋肉痛はほとんどおこらなくなった。 ******** 人間の足は、靴を履くことを想定して生まれてきているのではない。雪や氷、溶岩の上を歩くのならまだしも、温帯の草原を移動するにははだしでも十分間に合うようにちゃんと作られている。 かつては、狩人たちが、獲物を長距離にわたって追いかけ、ついにはその動物を疲労困憊させて捕まえたというのだから、スピードは遅くても人間の長距離ランナーとしての能力はもともと非常に優秀だったのだといえる。だから、疲れないとか、クッションを入れるとか、足の形にフィットするとか、汗を吸収するとかという、靴屋の宣伝も、せっかく持ち合わせた人間の自然の能力をだめにしてしまうのではないだろうか。 BBC放送でもはだしで走ることの重要性が取り上げられている。2003年2月初稿2010年4月追加 スポーツ心久しぶりに高校時代の同級生の集まりに出た。それぞれみんな同じように齢を重ね、社会の中で必死で生きていた。かつてヨット部だった人たちのうわさも聞いたが、残念なことにもう海に関わりを持っている人は私以外にいない。あの風と波のドラマは青春だけのものだったのだろうか。 日曜日にサイクリングに行くことがある。そうすると、おそらく大学生であろう、10人ぐらいのグループで必死でこちらを追い越して行く。爆発的な若さに任せて、一気に頂上まで登りきるらしい。だが、ふと思う。今から30年後、彼らが五十数歳になったとき、いったいこの中の何人が自転車に乗っているだろうかと。 スポーツとは、いったい何なのだろうか。かつてバンクーバーのYMCAに宿泊したときに、もう若いとはいえない事務スタッフの人が就業時間を終えるやいなやサイクリングの服装に着替えて自転車で飛び出していった。自転車に乗ることが好きでたまらないのだ。 もし学生時代の運動が、単なる有り余るエネルギーのはけ口であるとすれば、あるいは「負けてくやしい」気持を収めるだけのものとすればあまりにも寂しいではないか。そういう目的で営まれるスポーツであれば、いったん体力や気力が衰え始めれば、もう続けることがないに決まっている。 ほんとに好きであれば、スポーツを続ける年齢何ぞはない。体力の衰えに比例してその激しさを減じていけばいいだけのこと。試合形式ならば、同じ年齢の人々と対戦をすればいいだけのことだ。サイクリングにしても90歳にでもなれば家の周り300メートルを走るだけでも大変な運動だろうがそれでもしつこく続けていきたいものだ。 トレーニングと”楽しみ”をうまく使い分けることも大切な知恵である。トレーニング一辺倒の人はとかくゆとりをなくし、生真面目にやる人が多い。そういう面も必要なのだが、それと同時に仲間を誘って、能力にこだわらず、体の動きと交友関係を楽しむというめんもほしい。サイクリングとかスキーというのはこの両方の面をうまく使い分けると、有用な効果が期待できる。 2004年6月初稿2009年3月追加 上へ現代人は常に不安を持っている。自分が健康ではないのではないか。ちょっと体調が悪いと「ガンではないか」「致命的な病気ではないか」と。今ほど自分の健康を心配する時代はないのではないか。しかも今ほど平均寿命の長い時代もないのであるが。 これはひとえに人々が欲を出して、人生50年などといわず、人生80年も90年も生きたいと言い出したからだ。何しろ金さえ出せば設備の行き届いた病院に入院できる。従って人々は頻繁に健康診断を受けることになる。「あなたの余命はあと半年です」と言われることを恐れながら。 それにしても血液検査、血圧測定、心電図と現代医学の粋を集めた近代的病院での検査は何か非人間的なものを感じる。これでいったん病気になれば、自分の体に、無数のビニールパイプやら電線が張り巡らされて、そのもつれに引っかかって死ぬのだろう。そんな予感がする。 そんなわけだし、病院は大嫌いだから、この10年以上の間健康診断を受けたことはない。歯医者での治療だけだ。それでも運良く病気になっていないので、倒れることもなくまだ生きているわけだが、もしいったん病気になったらおそらく手遅れになるだろうから、そのときはさっぱりとあきらめることだ。 人間にはできることと、できないことがある。後者には、自分の寿命の長さである。これはいかんともしがたい。21世紀の100年間を載せてあるカレンダーを持ってきたまえ。あなたの死ぬ日はきっと、いや絶対この中に入っている。命日は変えようがないのだ。 だとすれば、それほど健康状態にあがいてもどうしようもない。ましてや死因が事故であれば、健康とは関係ない。工事現場の下を歩いていて、真上から落ちてきたボルトに当たって死ぬこともあるのだから。 それでも心配ならば、自分で健康診断を実施すればよいのだ。毎日の体調の善し悪しはバイオリズムの影響もあって、短期的なところしかわからないが、長期的な健康を知りたければ、自分の限界に挑戦するに限る。 私の健康診断は、自宅から、50キロ離れた箱根峠の頂上に自転車で登ることである。規則は・・・ふもとの小田原は港町で海抜ゼロメートルである。ここから、どんなにスピードが遅くてもよいから絶対に自転車からおりないという条件付きで、ひたすら標高850メートルを目指すのだ。 これで無事上ることができれば自分の体調は少なくとも去年とは同じだということがわかる。もちろん年齢が進むにつれてこれもいつかは不可能になるだろうが、それは急にやってくるのではない。病気やなにか他の原因ならたちまち上れなくなるが(体力の限界ぎりぎりなので)そうでなければ安心して下山して再び愛車で自宅に戻るのである。 2004年7月初稿 上へスキーやスノーボードで転倒したときに、斜面をずるずると転がってしまう場合がある。このときに普段から転がったり、前転、後転をする習慣がついていないと、思わぬ筋肉(特に首周辺)を無理に延ばして痛めてしまうことがある。 日常生活において「体を転がす」という運動がいかに欠けているかを思い知らされる。学校時代の体育の時間には「マット運動」という項目があった。これが苦手でその時間が近づくと憂鬱だった人も少なくないはず。野球やテニスのような球技がいくら得意でも、必ずしもこの方面で得意だということはないのだ。 それにしても現代生活というのはいかに体の健全な維持を妨げるものであろうか。いったいベッドの上での寝返り以外に、どこで転がることができるというのだ?二足歩行ですら、車の発達によって著しく不足しているが、転がる運動など、サーカスにでも所属していないと無理だろう。 トレーニングジムでも、筋力の強化のために、ぶら下がったり、ものを持ち上げたり、手足を回したりはするが、逆立ちをはじめとする床運動について重視しているところはきわめて少ない。思いつくのは、柔道における「受け身」である。投げ飛ばされて床に倒れる際に怪我をしないためのテクニックであるが、このように格闘技における安全策以外に積極的に採用されている場合が少ない。 実際に転がってみよう。例えば公園のよく刈り込まれた芝生の上などに。そうすると気づくことはいかにわれわれの体が柔軟性を失っているかということだ。直立して生活していると、「曲げる」ということほとんどしないから、芝生の上でミミズのようにのたうち回ること自体ができないのだ。 前転や後転の場合、体を「丸める」事が必要である。だが、現代人の鉛筆のように硬直化した体では、「倒れる」事しかできないのである。これはまったく恐るべき事だ。二足歩行は、とにかく直立し続けることに神経を集中させてきた。スポーツでもダンスでもまず立っていることが前提である。そのために「寝技」のなんたるかをすっかり忘れてしまったのである。 私は、転がることの「原始性」を取り戻すべく、トレーニングの一環に、前転後転を加えることにした。これは潜水中の宙返りなどと同じで、平衡(垂直)感覚を取り戻すのに役立つ。また、逆立ち(無理なら額をつけた三点倒立・・・ヨガの行者のお気に入りポーズ)を励行し、体に、足から頭に血液が逆流することもあるのだと時々思い出させることにしている。トレーニングは日常生活で使わない部分の覚醒に特に重点を置くべきだ。 2005年5月27日初稿 年をとると、基礎代謝が低下して、それまでと同じ量を食べていると、どんどん太ってくる。つまり中年ぶとりだ。これは、エネルギー収入が支出を大きく上回るために起こるのだから、収入を減らすか、支出を増やすかすれば、バランスが取れて本来のからだを維持できるはずである。 ところがなかなかうまくいかないものだ。というのも従来と同じ運動量を加齢と共に確保することが難しくなっている。そのため、使う筋肉は比較的良好に保たれているものの、使わない筋肉はどんどん萎縮していくのである。有名なプロレスラーも、60を過ぎると明らかに肉が落ちてしまっているのがわかる。 中年ぶとりが進行中にこれが起きると、減った筋肉の分だけ、脂肪がこれに「置き換わる」!!だから見かけは昔と比べて体格が変わらないように見える。ところが脂肪の比率をはかってみると、これが激増しているのだ。その分だけ筋肉がわきへ押しやられている。脂肪にとって代わられた部分はブヨブヨするだけである。 この悲しむべき状態を防止するためには、どの筋肉も働かせて、常に脂肪の侵入を阻止することなのだ。だが、日常生活ではなかなかすべての筋肉をまんべんなく働かせることはむずかしい。例えばテニスが趣味だとすると、(右利きの場合)右手だけが頑丈に発達するが、左手はしなびたままである。 ここで思い出したのが、20代の時に愛用した懐かしの器具、「ブルワーカー」である。これはかつて<筋肉ムキムキ>などという派手なキャッチフレーズで宣伝されたものだが、ある時友人に貸したきり忘れられてしまっていた。 だが、この器具は決してインチキではなかった。それどころか、Steel Bow などという類似品まで出回っている。巷(ちまた)には数え切れないほどの「健康器具」があふれているが、筋肉が太くなったのは事実だ。ただしそれに比例して強くなったかと言えばそうではない。 この器具で提唱されているアイソメトリック・トレーニングというのは、全力の約80%を出して7秒以上筋肉を緊張させるものだが、毎日コンスタントな刺激は、筋肉をとても良い状態に保つらしい。しかも筋肉は弾力性があるから、きびきびした体をつくり、怪我もしにくい。 ただ、これで運動選手に近づくには、さらに心筋機能の発達も同時に行われなければならないのだ。その点に限界を感じて20代のブルワーカーは尻すぼみに終わったのだ。むしろジョギングや水泳のような激しい運動をする方に変わっていった。 だが、現在は筋肉の衰えを防止することからも、ブルワーカーを新たに活用しようと思っている。ただしジョギング、水泳、サイクリング、その他の体を動かすスポーツは続けた上で、それらでは十分に鍛えることのできない筋肉部分を、この器具で補おうという計画だ。 驚くべきことに、30年の歳月を経てもこの器具のデザインはほとんど変わっていなかった。しかも値段もほとんど同じである。ジムに行く人が激増し、健康ブームが先進国では話題となっているが、この手軽な器具がいまだに愛好者を持ち、廃れずに販売されていることに何よりも感心した。 さらに付属の取扱説明書に載っている運動の種類もまったくといっていいほど変わっていない。完成された機能だから、改良の余地がないのだろう。あと一つ必要なのは、使う本人が習慣的に運動を行うことができるかにかかっているのだ。 2006年4月29日初稿 現代人の生活はますます自然から遠ざかり、半自然の風潮の中に飲み込まれてしまっている。だからこそなおさら自然体への復帰を目指してトレーニングを欠かすことはできない。そしてそれを実行している人は一握りだ。だが一方では、娯楽としてのあるいは勝負事としてのスポーツは、ますます盛んになる一方だ。 体を鍛えることを主目的とするいわゆるトレーニングと、社会的なかかわりも含めての活動であるスポーツというのは別のものである。ジョギング、水泳は、多くの人の場合、基礎体力をつけるための手段である。特に走ったり泳いだりすることの好き人だけが、スポーツへの領域へと広げていく。 スキーや登山などは、スポーツとしてのイメージが強く、ヨットやウィンドサーフィンなどになるとほとんど娯楽、レジャーという見方が社会では一般的である。だが、これらについては、”アウトドアにおける人体の適応力を高める”というトレーニング目的はしっかりと存在するのだ。 さまざまなタイプの運動があるが、行う人は常にこの区別を念頭に置いて、自分が今どちらに傾いているのかをはっきりと認識する必要がある。もし”楽しむこと”しか活動の目的でない人ならば、つらく苦しい訓練は受け付けず、最終的にはその運動から離れていってしまうだろう。 だが、トレーニングの時期とスポーツとしての時期をはっきりわかってやるならば、体力向上も図ることができ、同時にスポーツの持つ醍醐味もそれを基礎にして展開することができるのだ。 2009年9月初稿 かつて樹上生活をしていたおかげで、人間はチンパンジーのように肩をグルグル回すことができる。犬に同じことをやってみるとよい。たちまち、「痛いよー」と泣き叫ぶ。犬には、歩く走るという機能以外に四肢の使い道がないから、そんな器用な動きができないのだ。 ところで、チンパンジーの歩き方のほうは、よろよろで、実に頼りない。彼らは100メートルフルスピードで走るようなことはできない。すっかり樹上生活に適応して、足の発達はおろそかになっているからだ。ところが人間のほうは、ほかの四足の動物と比べると、かなり落ちるけれども結構走れるし、持久走については、トップレベルだ。そして、どうやら過去に水泳をたくさんした生活のせいなのか、足のほうも腕と同じくグルグル回すことができる。これも愛犬にはとてもできない芸当だ。 おかげで、体操競技ではタコやイカのような軟体動物たちが青ざめるほどの、あっちへ曲げたりこっちへ曲げたりと、見事な演技を披露することができる。このように人体は、見事な柔軟性と万能性を身につけたために、飛んだりはねたり転がったり、そして器具を身につけて、きわめて多種類のスポーツを楽しむことができるのだ。 しかしそれにはひとつ落とし穴がある。最近の幼い子供の姿勢を見てわかるとおり、非常に体がねじれたりゆがんだりしている。これは犬猫にはありえない。すでに述べたように、骨格が一定の動きのために制限された構造になっているから、悪い姿勢になることができないのだ。ところが人体の場合には、可動範囲が著しく大きいために、脳によるコントロールを常にしていなければならない。 そもそも二本足であること自体、きわめて難しいバランスを四六時中とっていなければならない。だから小さい頃に姿勢のしつけを受けなかったり、精神的に弱い場合には、きちんとした姿勢に対する配慮がどうしても不足してしまう。これによって世間に、前かがみになったり、背骨のゆがんだりする子供が多くなってしまったのだ。万能の運動能力は、それを得た代償として、耐えざる神経と筋肉の緊張と訓練の連続を要求するのだ。 2011年5月初稿 上へ人間の体が、二本足で支えられており、ホウキから手を放せば倒れてしまうのを見てわかるとおり、倒れない状態を維持するというのは大変なことなのだ。そしてそのためには、無数の筋肉の協調した働きがなければならない。 だから、年寄りがふらふらと立っているのもつらい状態であっても、とにかく倒れないでいるのであるから、これは驚くべきことだ。四足の動物とはちがうのだ。バランス維持とは大変な神経系統の連携が必要なことがわかる。 だが、多くの人々は運動に関心がないだけでなく、自分の体をこのように支えてくれる筋肉を養生しようという意識が非常に希薄である。仮にその気持ちがあったとしても、体全体のうちから見れば、ほんの一部の筋肉しか鍛えていない。 テニス選手の腕を見れば利き腕は異常に太いが、もう一方は貧弱な腕である。(ただし一流選手の名誉のために言っておくと、やはり彼らはそのことはきちんとわかっていて、両腕の太さは同じである!!!) 一流でないマラソン選手は、足だけ鍛えて、上半身が弱い。だから相手との競り合いが厳しくなり、全エネルギーを使おうとした時も上半身に疲れが出て負けてしまうのである。水泳選手はその逆だ。 このように、どんなスポーツでも、特定の筋肉だけを鍛えるというのは間違っており、すべてをまんべんなく高めていかなければならないのだ。「走る」「歩く」「自転車をこぐ」の三つを挙げてみても、同じ下半身でありながら、違った部位の筋肉を使うことがよくわかる。だから、例えば自転車をやる人は、時々自転車を降りて、競歩で何十キロも歩いてみなければならない。 筋肉は年とともに衰えるというが、感覚などと比べるとさほどではない。60,70歳代になるまで鍛錬のやり方さえ適切であれば、かなりの水準を維持することが可能である。ただ忘れてはいけないのは、筋肉は、単なるタンパク質の繊維であって、これが太くなりさえすればいい、というような単純な考え方は捨てることだ。 というのも、筋肉繊維には無数の神経が連結しており、それをたどっていけば最後には脳につながっている。つまりすべてのコントロール・センターは脳、それも運動部位をつかさどる部分なのだ。 ということは、単純におもりを上げ下げしているだけでは、筋肉を鍛えることにはならないのだ。よく「テレビを見ながらでもできるトレーニング」などといううたい文句があるが、そんな散漫な状態では、効果を期待することはできない。 まず力を込めて筋肉を緊張させる。そうするとそれが脳からの命令によって動いていることがわかる。脳からの命令は、無意識的にもできるが、意識的に転換することも可能だ。自分の脳に、積極的にその筋肉に命令を送る続けるようにしないと、筋肉は怠け癖がついてしまう。 精神を集中させ、力を込める。しばらくすると疲れてきて力を込めるのが辛くなってくるが、そこのところを強く感じ取って、脳と筋肉との間のコミュニケーションをしっかりと維持することが必要なのだ。 これはギリギリと無理やり力を入れることを意味しているのではない。絶えず筋肉の状態を感じ取って”めざめて”いる状態にしておくことが大切なのだ。運動しながらテレビなど見るようなことしていると、あるいは惰性で動かしているだけだと、脳はコントロールを放棄し、放棄された方の筋肉は”適当に”動かしていればいいとなってしまう。 筋肉への集中の好例は、重量挙げであろう。持ち上げるとき選手は、その瞬間に全神経をその”重さ”に対抗することに集めている。あるいはレーシングカーのドライバーが1秒の何十分の一の間でも、決して路面への注意を怠らない場合もこれに似ている。 このように、脳と筋肉の意思疎通を常日頃から心がけていれば、筋肉は怠けることなく絶えず自らを最良の状態に置こうとするのである。 2015年1月初稿最近、多くの人々の話題になってきたのが、「24時間のうち、目覚めている間の座る生活が長いとガンのリスクが増大する」というものだ。しかしよく考えてみれば、研究者の学術発表を待つまでもなく、そんなことは予想できた。棒を立ててもすぐ倒れてしまうのに、人間は、たとえばデパートの売り子さんは、あんなに長い間立っているが、よく考えると驚異的なことだ。絶えずバランスを取り脳が大忙しで働いているのだ。 生物はその能力を使用することによって、その能力を維持するのだという。だから宇宙飛行士が無重力状態でふわふわした生活を送っていると体がおかしくなるのだという。同じことがこの”立つ生活”から”座る生活”への変化によって引き起こされているのだろう。これはトレーニング以前の問題であって普段の生活におけるちょっとした心がけによるものだろうが、現代人が、快適さ、安楽、便利、などを追求した結果がこんなことになるとはまさに文明開化の皮肉といえよう。 電車が駅についてドアが開くと客たちは座席に”突進”する。座るのが当然のことであり、生活のもっとも長い時間は座ることに費やされているのだ。かつては座るとは、立ったり歩いたり走ったりした後の”休憩”とみなされたわけだから、絶えず座っているということは朝から晩まで休憩していることであり、健康人が病院のベッドに縛り付けられているのと何ら変わりがないことがわかる。これでは体から活力が失われ、癌になるのも無理もない。現代文明の追及している安楽さのおかげで、反対にしっぺ返しを受けたということか。 こうやってみると「立ち食いソバ」とは、そば粉のもつ抗がん作用のみならず、この観点からも大変望ましいことになる。「立ち飲み居酒屋」は、何と言っても飲みすぎを防げる。なお、御茶ノ水駅近くには、「立ち食い寿司屋」があった。”サンマ寿司”がうまかった!!(まだ店があるかな・・・) 電車内で1時間ぐらい立っていることは、別にむずかしいことではない。しかも吊革を持たなければバランス感覚を鋭くするのにも役立つ。机にもう一段、棚を増設して、立ってパソコン画面を眺めたりすれば、頭の働きもよくなって一石二鳥だろう。もっとも、たった500メートル離れたコンビニに行くのでさえマイカーで行く癖のついた人には、到底無理だろうけれども… 2016年1月初稿 生物の体は、外部環境が変化しても、体温とか血圧とか、その他の体の状態を常に一定に保つ働きが備わっている。これをホメオスタシスという。これが崩れると生物は生きていけなくなる。外が熱くなると汗をかき、外が寒くなると震えがくる。これらはみんな自動装置であって、今のところどんなエアコンより優れている。 ただ、人間は自分を自然の外に置き、つまり自らを家畜化することにより、快適で安全な生活を実現した。このためホメオスタシスの出番が次第になくなってきている。無菌装置は外からやってくる有害な細菌などを入らないようにしてくれるので、免疫が少々弱くても病気にならずに済むようになった。 すでにその兆候は表れていて、ある種の大腸菌などは、今までは少しも悪さをしなかったのに、人間の免疫力が衰えて、特に高齢者はそんなものにすぐにやられるようになったし、もっと恐ろしいことには小学校低学年の子供でさえ簡単に感染するものが増えてきた。 そして、人々が頼りにしている薬であるが、これがあまりに優れた効力を示すので、体の自らを直そうという仕組みは、暇で暇でどんどん弱まってきてしまっている。本来、薬はホメオスタシスが有効でないほどに、状況が深刻になったときにのみ使うべきなのに、(一部の?大部分の?)医者たちが、早めに薬を投与するようになったものだから、ホメオスタシスはどんどんお役御免になってきている。 こんな医者たちの安易な態度が最も顕著に表れているのが、耐性菌の出現だ。耐性菌はこれまで効いてきた薬の裏をかく進化を遂げ、弱いホメオスタシスの持ち主を狙っている。餌食にされた被害者は有効な薬もないままにされる。 かくしてわれわれ”素人”は、薬を極力避けるという対抗策を取らざるを得ない。ホメオスタシスの維持が危なくなった時以外は薬を飲まないこと。食事や運動によって、普段から免疫力を強化すること。鼻かぜやちょっとした咳で市販薬を安易に飲むことを避けることなどである。わずかな暑さや、ほんの冷え込みでエアコンにしがみつくことも避けるべきだ。 たとえ現代社会の都市に住んでいても、アウトドアで生き抜けるような体力、気力を保ち続けることが大切なのだ。 2016年1月初稿 日本中どこへ行っても、便所は洋式と決まっている。特に高齢者社会になり、しゃがむ柔軟性を失った人々は、そもそも腰かけてでなければ、もはや用を足すことができないのだ。小中高学生ぐらいなると、そもそもしゃがむのは電車の中ぐらいで、ウンコをするときにこんな姿勢をとっても、周囲の目が気になるとか適応性がないので、まるで便が出ない。”精神的便秘”だと言える。 だが、最近の研究によると、洋式を使う人々より和式(あるいは中国式、インド式)を使う人々の大腸ガンにかかる率は少ないという論文が出た。もちろん、これは「タバコは肺がんになりやすい」という論文が出た時に、多くの人々の無視され、たばこ会社から有形無形の圧力を受けた経緯を思い出すと、今すぐこの論文が正しいと主張することはできないが、一考に値する。 それによると、日本人のように過去に菜食を多くしてきた民族は、どれも消化効率の関係で腸が長い。だから植物繊維の多い食物を食べている分にはいいが、肉食が増えてくると消化された後の残りかすが、より長い時間、腸の中に滞留することになる。肉類の残りかすは硫黄分を含み、これが腸壁を不断に刺激して、ガンの発生しやすい状態に置かれるというわけだ。便秘だとますます事態は深刻だ。 さらに、腸の長い人間が洋式便器に座ると、本来まっすぐであるべきはずの直腸が「ク」の字型に曲がってしまい、そこでの滞りも起こる。ウンコをしたときに一気に便が外に出ないで、曲がっている角(カド)で、しのこしが残る可能性があるのだ。ウンコはゆっくりゆっくり途切れ途切れに出すのでなく、1秒間で一気に外に出してしまうのが清潔で健康的なのである。 ほかにも洋式便所を誹謗中傷するポイントがある。それは誰が座ったかわからない便座に腰を掛けることである。前に座った人のマナーが悪くて、便座の上に下痢ウンコを垂らしたかもしれない。たとえそれがちゃんとふき取ってあっても、それは想像しただけで気持ちが悪いし、最近あるように消毒液を使ってふき取ったとしても、清潔好きで有名な日本人には似合わない。 九州を旅行した時、関東などと比べると、公衆便所に和式が多く使われているのに気づいた。また、中国やインドでもしゃがんでするのが基本である。オリンピックが近づいている。洋式になじんだ人々だけが日本に来るのではない。世界の人口から考えると、洋式と和式の比率は2対3ぐらいにしたほうがいいのではないか。 それでも多くの人々は、大便を自宅で行うようだ。自宅の便所を和式に改造するのはどうだろう。一人暮らしの人を除いて、おそらく家族の強固な反対にあうだろう。大金の必要な改造工事なんて、大富豪でない限り思いもよらない。洋式に慣れた人々はしゃがむ姿勢での大便を”退歩”と考えるのだ。 そこで、自作を考えた。ほかの家族の迷惑にならないように、いや気づかれることがないように、自分がするときだけ設置できるように考えた和式便所である。写真のように、よく百円均一の店で売っている2台のキャンプ用椅子を用意する。このタイプだと折りたたんで目立たないところにしまっておける。ただ布製なのでこの上に足を直接のせると、布が伸びてしまい具合が悪い。そこで長さが普通の靴の寸法より長い、縦が26センチ以上の丈夫な板を2枚用意してこの椅子の上に乗せる。固定しないほうが後で分解してしまっておける。 使い方は簡単で、この板の上に足を乗せればよい。ただし、しゃがんでも便座の上に尻を乗せないことだ。尻を浮かせて置かないと、十分にいきむ力が入らず、一気にウンコが出ない。しかしいったん出し終わったら、便座の上に尻を乗せる。体重を便座に乗せないと、肛門を水で洗うウォッシュレット方式では、安全装置が作動してポンプが水を噴射しないのである。また、下痢気味のときや軟便のときは使う必要がない。いきむことなく勝手に出ていくからである。しかもそういう時は急を要するから、のんびり椅子を組み立てて板を乗せる作業などしている余裕がないだろう… 2017年12月初稿 H O M E > 体験編 > 体験編案内 > トレーニング指南 © 西田茂博 NISHIDA shigehiro |