1958-1959年 |
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僕がアメリカへ渡ったのは小学校1年の時から2年生の夏休みまででした。父はニューヨークの研究所に招かれて僕が5才の時からすでに渡米していたのですが、滞在が長くなったので、僕たち母子をアメリカに呼ぶことに決めたのでした。 まるで箱庭のようでした。ところどころ雲の切れ目から緑色が、道路がちらりちらりと見えます。飛行機は旋回を始めました。翼が傾いているのがはっきりわかります。まるで墜落するのではないかと思われるほどでした。飛行場のことはよく覚えていません。飛行機はホノルルで1時間半あまり休むとのこと。 ところで僕たちは、そのアパートに入って行きました。何もかも珍しいことだらけでした。入り口までは5段程度の石段があって、その先はとても厚いドアになっていました。ニューヨークの冬は大陸性でとても寒いので、ドアがとても分厚いのです。先はロビー(応接間)でした。ああ、その緑色のリノリューム(土足用の絨毯)が目に鮮やかに映ったのは何ともいえないことでした。これまで見たこともないような建築様式。黄緑の壁、額縁の絵、彫刻、それは当時の日本では見られなかった驚くべきでき事でした。 滞米中の記録は「アメリカの生活」と題して別記にしました。いよいよ帰るところから始まります。父も滞在期限が切れたし、僕もホームシックを覚えた?そうなので、帰国することになりました。今になってみれば、たぶんパスポートの滞米許可期間が終わったのでしょう。 私たちは、バスを降りてそこらをぶらぶら歩き回り、再びバスに乗って帰途につきました。ゴミなんか一つも落ちていませんでした。舗装道路さえ見なければ、ほかは人跡未踏の地に見えるのです。観光ズレということばは全くここには当てはまりませんでした。もちろんここを訪れる観光客はきわめて多いのですが。日本の観光地もこのようであればというのは私一人の願いだけとは言えますまい。 いよいよ出航の日になりました。当時の僕としては帰りたくて帰りたくて仕方がありませんでした。太平洋横断は北回り航路で、アリューシャン列島付近を通るもので、航程は2週間ちょうどでした。いよいよ出航です。シアトル港というのはちょうど松島のように多島海の一番奥にあって、安全な広々とした太平洋に出るには、船は暗礁やら浅瀬やらで、神経を張りつめていなければなりません。従って2週間のうちで、3日ほど、この区間に費やされます。 船内には日本へ向かうイギリス人やらフランス人やらのたくさんの子供立ちも乗り組んでいました。そういう子供は誰でも英語を話さない国でも大体は英語を話せるもので、僕だってそのころは英語が相手に通じないわけではなかったから、すぐ同じ年齢の、7,8,9,10才ぐらいの子、10人ぐらいと仲良くなったものでした。甲板に出てそれぞれの国のことをおしゃべりしたり、London
Bridge is Falling Downの歌を歌ってどんどんめぐりをして、またMy Fair Lady!はとても楽しい遊戯でした。 アリューシャン列島に接近したときは海はかなり荒れて船も相当に揺れました。やはり北洋は厳しいところです。2週間を経てやっとなつかしの日本へ。横浜に着く前日デッキからはるか遠く陸地のようなものがかすかに認められました。海面は月の光が冴え渡ってどこまでもあい色が続いていました。船尾の方向からはなつかしいアメリカの生活がよみがえってきました。 作成時期不明( highteen のころ?) このあいだおかあさんが、にんぎょうをつくりました。ぼくのうちのべっとは、三つあります。ぼくのうちのへやは、六つあります。ぼくのうちに、てれびがあるのまんがをみました。ぼくのうちに、れこーどがありました。ぼくのともだちは、ジミーでした。ぼくのうちに、おもちゃがたくさんあります。ぼくは、どうぶつえんへゆきました。ぼくのうちは、きれいです。ぼくは、でんわをかいました。 日記帳「きのうのこと」 3月30日<イースターの日> きのうのあさ、十じはんごろからにゅうよーくの RCAびるのちかにいきました。きょうは、おまつりなのでひとが、たくさんいました。ぼくのおとうさんか、あまり、一人にさせてしゃしんをとりにいくので、ぼくが「ぷんぷん」におこってぼくが「ふがふが」といました。そしてぼくのおとうさんとおかあさんが、「かえろう」といいました。そしたらぼくも「かえろう」といいました。そのとはゆうきさんといきました。(おわり) 4月6日 きのうの11はんごろ、、セントラルパークに、いきました。12じなのでさんどいっちを、たべました。大きな山の下でたべました。たべてから、川のところに、いきました。ぼくが石に、のぼっていると、おとうさんがしゃしんをとって、くれました。そして、ぼくが、石のいちばん上にのぼりました。そして、そうがんきょうでみると、ボートに、のてる人がたくさんいました。そしたら、おかの上をみたら、さかなを、つっている人もいました。(つづく) それからたってから、しぜんかがくはくぶつかんに、いきました。ぼくがいちばんさいしょに、おさかなをみました。さめをみました。それはとてもおおきい ぼくの三ばいもありました。あと、さめのほねをみました。とても大きいです さかながくさらないように、わたがつめてありました。つぎは、2かい。がらすがあって、リスなのをころしてはりにさして、木をとってきて上からいとで、つるさがって、いました。リスが一ばんかわいそうでした。二かいと三のでてたもの、「くま」「ひょう」「へび」「こうもり」「さる」「山いぬ」「うさぎ」「かめ」そのほかいっぱいありました。(つづく) 三がいのちがうルームにいったら、とてもとても大きなむかしむかしにすんでた、きょうりゅうが、いました。(土の中からほったのです)いまにもとびかかろうのような、きょうりゅうでした。ぼくの二十五ばいもありました。そしてから、おなかがすいたのて下で、おかさんとぼくオレンヂヂュウスをのみました。おとうさんは、みるくをのみました。三人で、ケーキをたべました。それから、えすかれーたーにのって四かいにいきました。そしたらごりらが人げんのかおと、そっくりみえました。(おわり)4月6日 4月13日<モダンアート> きのうぼくと、三人で、てんらんかいをみにいきました。きれいなえが、かざってありました。はじめに、きれいな人がねているところでした。そして、らいおんがかみつくところでした。そのつぎに、くさがあって大きなたまごのようのが、一つおいて、ありました。いろが、「みどり」「あか」「くろ」となっていました。そしたら、またらいおんが人をかみついて、いました。そこにもう一人いました。そして、一人がかみついてるところを、たすけているところでした。そのほかいっぱいありました。はじめのきっぷは、おとな75¢子ども25¢でした。おかあさんと、おとうさんのぶんと、(つづく) ぼくぜんぶで、1$85¢でした。そして、下にいって、みたら、よその人をむかえに、いったひこうじょうのラガーデイヤのTWAのあたらしくでたモダンアートとゆうところがありました。それから、ぼくが「そとに、でたい」と、いいました。それは、にわです。でてみると、もう四月のきでしたから、とてもきれいでした ちゅりっぷの花がありました。それから、中へはいって、えはがきをかいました。ぜんぶで、十まいかいました。さいしょのいったことと、おなじです。かえるとき、エンパイヤのをきまた。けれどゆきと雨がふってきました。と中でちかてつがあったのでそれにのってかえりました。(おわり) 4月20日(月) きのう三人でタイムスケーヤに、いきました。そして、ものすごいないにかのジュースのびんが、右と左に、おいて、あって、大きいのでした。まん中に水がどうどうと、ながれて、いました。つぎは、アイロンがあって、そして、アイロンのまえに、まるいのがあって、でんきかぱーと、でていました。そしてアイロンの下にじょうきがでていました。つぎは、大きな人がかいてあって、たばこをもって、口に」あながあって口からけむりがでていました。あと、セントラパークに、いきました。その中に、ズーがありました ズーでアイスクリームをたべました。下をみたらローラースケートをやっていました。(おわり) 4月27日<三人のびょうき> 四月二十三日に、ぼくがびょうきになり、かぜになりました。すると、ぼくから、四月二十六日に、おかあさんにうつしました。そしてから、ぼくのおかあさんがおこって「かぜが、あってるとはこまる。」といいました。ぼくがうつした日。日よう日です。そしてから、ぼくはなおりました。そして、四月二十七日なりおかあさんが一じごろからねました。月よう日。ーーーぼくは、しゃかいの本をみて、きしゃをつくりました。あと、こくごの本をみて、どのくらいのびたかながいかみのしるしをつくりました。(おわり) 5月4日<こくれんビルのこと> きのうの、おひるすぎ一じごろから、こくれんビルに、いきました。そして、世界のえらい人のうちがありました。中に、はいると、とてもきれいでした。こくれんびるのちかくです。こくれんびるは、とおくからみると高く見えけど、前から見ると、ちっとも高くないように見えます。あと、えらい人のときは、はたをたてます。そして、はたのぼうがありました。そしてその、うちに、はいりました。すると、ぎん色の玉があって、空じょうにあながあていて、ひもで玉をつるしてありました。(つづく) それは、ふりこのようでした。そして世界じゅうでゆうめいでした。ニュウヨークのマンハッタンにあります。そしてから、えらい人のうちのにわにでました。きれいなさくらがさいていました。そしてから、ぼくが、「ワシントンブリッジをとってくれ。」と、ゆうとおとうさんがとってくれました。ぼくは、また「こくれんビルのよこと、下のきれいなうちをとってくれ。」といました。でもおとうさんが「れんこうとをもっている人のところにいきなさい。」といいました。あと「おかあさんのところにゆきなさい。」といいました。あと見るとっててくれました。(おわり) 5月11日<五月六日のこと> 五月六日のあさ、七じにおきました。八じ十ぷんすぎにでて、マンハッタンましでいきました。そしてちかてつから、おりて上に、あがるとバスのガソリンのにおいして、おかあさんと、おとうさんと、ぼくたちが「くさいくさい。」と、いいました。そのときは、プリンストンいくときでした。あと、バスがきてから、ハドソンリバーのトンネルをとうってから、ニュウジャージーにつきました。ニュウジャージーの中にプリンストがあります。あとバスにのってから、いろいろな、田んぼのようなのが、たくさんありました。そのバスは、おりたいところでおりられます。(つづく) あと、小さなニュウワークとゆうひこうじょうがありました。そのひこうじょうのひこうきは、にもつをはこぶひこうきでした。あとプリンストンにつきました。見ると、さいきさんとゆう人がいました。その人はじどう車をもっていました。そしたら、おとうさんの友だちでした。あとじどう車にのせてもらいました。あと中へはいると、とってもあつくなりました。なつのようにとてもあついのでした。そうしてまどをあけました。そして、いってみると、りっはなチャーチがありました。あととしょかんを見せてくれました。みんなおとなしくべんきょうしていました。あと、とういとこまでじどう車てゆきました。そうするともうすこしでフィヤデルヒヤにゆくとこでした。あと、おひるごはんをけしきのいところでたべました。(おわり) 5月12日<5月9日のマンハッタンめぐり> 五月九日ご前十一じに、マンハッタンめぐりにいきました。ぼくとおとうさんと、おかあさんと、ゆうきさんと、おぐちさんといきました。そして、ボートにのるのき、きっぷをもらう人も、いました。そしてふねの入口から、中へはいりました。中へはいって、一ばん高い二かいに、はいりました。まどか見ると、スタチュウオフリバーチーが見えました。ブリッジがたくさんみえました 「ぶるっくりんぶりっじ」「まんはったんぶりっじ」「わしんとんぶりっじ」そのほかいっぱいありました。ブロンクスの方を見ると、赤い火が見ました。それはかじでした しょうぼうていがたくさんいました。(おわり) 5月21日<ワシントンDCのこと> 五月二十一日六じにおきて、9じ10ぷんすぎに、ワシントンDCにいきました。三じかんはんのぐらいのきしゃに、のって、ゆきました。さいしょのところは、(は)たけのよなところでした。ゆくときのえきはペンスルベニアとゆうえきでした。はじめトンネルをとおってニュウジャアージーにでてきました。ぼくのきしゃはきゅうこうでした。小さいえきはとまらなくて、大きいえきだけ止まりました。そして、やっとワシントンDCにつきました。ワシントンDCのえきは、ユニオンステイションです。(つづく) (ホテルを)出てから、キャプタルとゆうぎじどうがありました。そして、ぎじどうの前に、しばふがりました。そのぎじどうはまん中がまるくなっていました。よこは右左がながしくなって、いました。そして少(し)あるいていっったら、はくぶつかんがありました。そとに、大きいロケットがありまひた。ぼくは、「はしらないか。」としんぱ(い)しました。そしてからワイトハウスにゆきました。「とう」にものぼりました。プールやワイトハウスが見えました。下に、おりてから、プールへゆきました。ワシントンDCは、二日いました。二日ホテルにとまりました。(おわり) 6月1日<エンパイヤステートのこと> 五月三十日十じ三十ぷんに、エンパイヤステイトビルにいきました。そのたてものはものすごく高いたてものでした。そのたてものは、102かいあります。エレベーターにのって八十五かいまで、ゆきました。外を見ると、くもがあって、とうくが見えなくて、前しか見ませんでした。おひるになったので、しょくどうで、おひるごはんをたべました。三人で、ハットドッグをたべました。オレンジジュウスものみました。たべてからまた外を見ると、少こしだけくもがなくなっていました。はじめのぼらないうちにおかあさんがふくを見て、なかなかいかないのて「早くいこくこう。」といいました。おとうさんが、おかさんとふくをとってからエンパイヤステイトビルにゆきました。そして少こしくもがなってから、中にはいるとねじとかねのぼうでできた、エンパイヤステイトかざってありました。かえりにエスカレーターが早いのでぼく下にきてから、耳がものすごくへんになりました。(おわり) 6月7日<プロッチックパークのこと> 六月七日十一じ三十分ごろ、プロッチックパークにいきました。いくときにちずをみたらプロッチックにいけがあるとかいてありました。いくとき高い高い山がありました。かいだんがなかったから、ぼくとおかあさんは、おっこちそうにのぼっていきました。上と下のあいだのところで、しゃしんをとってくれました。やっと山のてっぺんまでつきました。そこから、ずっとあるいていくと大きないけが、ありました。そここには、みんな、さかなをとったり、ボートにのっている人もいました。ボートにのっているひとはたくさんいました。いけにはしがかかっていました。はしの右がわでおひるごはんをたべました。たべているときぼくがおとうさんに「ボートにのらせるっていったからのせてね。」とぼくがゆうと、「だめナイヤガラホールにいくからおとうさんがこぐとつかれるからだめだよ。」といいました。ぼくはぷんぷんにおこっていました。あるいているうちに、おとうさんが「ふねのりはがあったらのせてあげるよ。」といいました。こんどはふ(ね)のり(ば)がわかったけれど、のれませんでした。(おわり) 6月16日<ナイヤガラフォール(き車の中で) 六月十六日、三人で、六じ三十分に、おきて大いそぎでごはんをたべました。ミルクを大きいこっぷにこぼれるほと入れてのませられたので、ふくをきて行こうとしたとき、ぼくは、はきました。き車に行きました。グランドセントラからのりました。き車のまどから見ると、草はらや、はやしが、ありました。いろいろのえきが、くるとまちになってきます。えきに、ちかづくと、せんろがたくさんありました。(ナイヤガラフォル)やっとナイヤガラフォールにつきました。フォールとゆうのは、たきです。いって、見たら、たきが、ごうごうとながれて、いました。そのまちは、北のまちです。だからホテルには、れいぼうは、なっかったのでした。二日いました。一日のよるにカナダがわから9じ15分すぎからやるとかいてあったのを見ました。はじめ、ただのでんきの色で、つぎの色は「みどり」「あお」「水色」「あか」「だいだい」「きいろ」と、たくさんありました。水けむりに光っていて、とてもきれいでした。(つづく) (つぎの日)つぎの日、あさ早く、おきて十じにホテルを出ました。ホテルの前でリムジンにのりました。色のくろいいんど人もドイツ人といっしょにのりました。はしをわたって、よその国のカナダとゆうところへくのでした。パスポートをうけてから、いかなきゃならないのでながくじかんがかかりました。はしをわたるときも10¢とられました。カナダについても、なにか、しました。そこからずーっといきました。そこのうちの中にはいりました。エレベーターにのって、ふかい下の方にゆきました。そこは、たにまでした。そこあとンネルをとうって、たにの下にでました。たにの下はふかい、ふかい水がながれていました。そこにっはしが二本かかっていました。アメリカとカナダの下です。そのよこに、はしがあってそこがずーと、みちになっておわりになるまでありました。(以下紛失) 1959年作成 |