40年前のニューヨーク

1958-1959年

週刊誌ニューヨーカーのポスター

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僕がアメリカへ渡ったのは小学校1年の時から2年生の夏休みまででした。父はニューヨークの研究所に招かれて僕が5才の時からすでに渡米していたのですが、滞在が長くなったので、僕たち母子をアメリカに呼ぶことに決めたのでした。

太平洋を横断するときは飛行機でした。日本航空のDC7C双発機です。今は国内航空に入っていますが、そのころは太平洋横断の花形機でした。僕が出発する前の感慨なんて何も沸いてきませんでした。まだ小さかったので。まず東京の親戚の家に泊まりました。予防接種なんかは覚えておりません。飛行機は夜の10時に出発しました。その時刻ははっきり覚えています。

いよいよ爆音が大きくなって僕たちはベルトを締めてくださいと言われました。やがて飛行機は走り出しました。やがて飛行機は大空に舞い上がりました。ベルトの役目は大してありませんでした。とても快適でした。全然ゆれが感じられないのです。そのうちにすやすやと眠ってしまいました。目が覚めるとあたりは真っ昼間でした。時差の違いなぞさっぱり分かりませんでした。ただ目が覚めたら昼だったのです。

飛行機と同じ高さのところにたくさん雲が浮かんでいました。雲は下界を全く見えなくして、雲の上にのったらその上を歩けるのじゃないかというような気持ちになってしまうのでした。その美しさは何とも言えません。空は暗い空色。しみ一つありませんでした。澄み切ったその色。こんな美しい色がまたとあるでしょうか。

エアポケットというものも経験しました。座っていい気持ちでいると、ふわっと体が落ち込んでしまうのでした。それはまるでエレベータで急降下するのとそっくりでした。やがてハワイに近づいてきました。日本は夜でしたので陸地は見えませんでしたが、今度は見えるのです。それもハワイが。

まるで箱庭のようでした。ところどころ雲の切れ目から緑色が、道路がちらりちらりと見えます。飛行機は旋回を始めました。翼が傾いているのがはっきりわかります。まるで墜落するのではないかと思われるほどでした。飛行場のことはよく覚えていません。飛行機はホノルルで1時間半あまり休むとのこと。

母と連れだって町中を回りました。とても暑いときでした。ヤシの木があちらこちらに立ち、町はとてもなごやかでした。路面電車があり、それに乗ったのはとても楽しいことでした。ワイキキの浜辺には行きませんでした。僕は母に、もっと見ようと言ったのですが、時間がとても短いので、そそくさと飛行機に乗りました。

エンジンが爆音を立てて回り始めるのはとても素敵でした。僕たちの座席は主翼のついている部分にあったので、エンジンがよく見えました。多少とも下界が見えないきらいがありましたが。ホノルルを飛び立ったのは昼ちょっと過ぎでしたが、サンフランシスコに着いたのはいつだか覚えていません。でもただ暗くなっていたのは、はっきり覚えています。

サンフランシスコには父の知り合いで迎えに来てくださったおじさんがいました。その人は現在プロテスタントの牧師なのですが、ターミナルのガラス戸を通るとき、僕にとても気を悪くさせるイヤミを言ったのです。そのとき以来、その人には何となくなじめません。何しろ初対面からなのですから。サンフランシスコ・ニューヨーク間はTWAという会社の飛行機でした。その飛行機はとっても変わったスタイルでした。というのは、水平尾翼の両端にまた、垂直尾翼がついているのです。ですから後ろから見るとちょうど「山」の形でした。

全くアメリカ大陸横断は瞬く間だったので、本当にカルフォルニア・コロラド、その他数多くの州を通ったのだろうかしらと、とても信じられませんでした。でもかすかにどこかの州の小麦畑が見えたことを覚えています。ついにニューヨーク空港に降り立ちました。当時としてはここは世界最大でした。滑走路と芝生が延々と目の届かぬところまで続いているのです。母と僕は早速、アパートに向かいました。迎えに来た父、さっきの嫌みなおじさん、母、そして僕の4人でした。

ブルックリン区からマンハッタン島を臨む父の住んでいるところは233 Brooklym New Yorkというところで、まあ下宿のようなところなのです。ここを経営しているのはジェームズ・ベンザといってまるでどこかの薬の名前のようなオランダ系アメリカ人でした。彼の曾祖父は19世紀はじめに生活苦から、オランダから移住してきたのでした。他にその奥さんと息子、ジミー・ベンザがいました。ジミーというのはジェームズの愛称で、結局父と息子の名前は同じなのです。下宿は4階建てのアパートでした。下宿人はみな日本人ばかりで、みな父と同じようなことで渡米してきた人々ばかりでした。

ところで僕たちは、そのアパートに入って行きました。何もかも珍しいことだらけでした。入り口までは5段程度の石段があって、その先はとても厚いドアになっていました。ニューヨークの冬は大陸性でとても寒いので、ドアがとても分厚いのです。先はロビー(応接間)でした。ああ、その緑色のリノリューム(土足用の絨毯)が目に鮮やかに映ったのは何ともいえないことでした。これまで見たこともないような建築様式。黄緑の壁、額縁の絵、彫刻、それは当時の日本では見られなかった驚くべきでき事でした。

やがてベンザ家の人々が出てきました。みな、笑顔で僕を迎えてくれたのですが、なんだか訳の分からぬ音を発するのです。僕は度肝を抜かれてしまいました。それは英語だったのですが、ただただ騒音としか受け取れませんでした。お化けのようにものすごく大きな男の子が、ジミーだったのですが、僕に手をさしのべました。その感激の瞬間は到底口で表せるものではありません。僕はおどおどしてしまいました。ああ、ついおとといまで日本の大気を吸っていたこの僕が!

滞米中の記録は「アメリカの生活」と題して別記にしました。いよいよ帰るところから始まります。父も滞在期限が切れたし、僕もホームシックを覚えた?そうなので、帰国することになりました。今になってみれば、たぶんパスポートの滞米許可期間が終わったのでしょう。

帰路は行きよりももっともっと楽しかったことは事実です。アメリカ横断にはやはり飛行機を使いました。ニューヨーク・シアトル間でした。それから太平洋横断は「氷川丸」という、-今は横浜で水上ホテルか何かになっていますが、当時は元気に働いていましたー日本郵船の客船に乗って行くことになりました。

ところが、出航までは割合に間があったので、シアトルから東へ50キロばかりの距離にあるタコマ国立公園へ行きました。ここにあるマウント・タコマは在米邦人にはタコマ富士と呼ばれている、非常に美しく、アルプスとはまた違った趣を呈しています。そこまではアメリカによく発達している長距離バスに乗っていきました。このバスは後部の窓がありませんのでバスが走り去っていく様を見ると、装甲車が行くような奇妙な感じを与えます。このバスは停留所がなく、車掌に前もって知らせておけば好きなところに降りられます。沿道で手をあげればすぐに止まってくれます。いわばコースの定まったタクシーというようなものです。

ところで、いよいよ国立公園内に入っていったのですが、その行程はどのようだったかは覚えておりません。ここに来たらその自然美に驚嘆するはずです。空は澄み切って青い色は溶け込むようでした。そして青と雲の白の対比が驚くほどあざやかなのです。今でもありありと目に浮かんできます。大気は高山で非常に冷たいことは言うまでもありませんが深呼吸は何千回もしたくなるようなよい空気でした。

バスは、高原、そしてタコマ富士のまわりを囲む山々をどんどんの上がっていきます。道路はもちろん、完全舗装。行き交う車もまばら、いやほとんどなく、日本でよく見られる汚らしい看板やレストハウスがなくて、自然とじかに膚に触れることができるのでした。ロッジハウスらしきものがありましたが、それは赤く塗られ、急傾斜の屋根を持つスイス風の家屋で、周囲の緑と驚くほどよく調和がとれているのでした。

バスはいよいよ上がっていきます。あっ、見えてきました。タコマ富士です。美しい山々のかなたにぽっかり姿を現しました。その丸い頂は、雲の丸帽子をかぶっていました。山全体、真っ白でその美しさは、アルプスの山に決してひけを取らないでしょう。そしてさらに素晴らしいことには、さらにバスが上がっていくと、山はそのふもとに大きな湖をかかえていることがわかるのです。明るい太陽の光は、山の斜面にことごとく反射し、そしてその像は湖の波一つない面にあたって私たちに入ってくるのです。湖のその反射光を見たとき、その像があまりに鮮明なので、もう一つ山があるのではないか、と疑いたくなるほどでした。雄大な山と美しい湖、冴え渡る空、彩りをそえる鮮緑の針葉樹林、その美しさはとても形容しがたいほどです。

私たちは、バスを降りてそこらをぶらぶら歩き回り、再びバスに乗って帰途につきました。ゴミなんか一つも落ちていませんでした。舗装道路さえ見なければ、ほかは人跡未踏の地に見えるのです。観光ズレということばは全くここには当てはまりませんでした。もちろんここを訪れる観光客はきわめて多いのですが。日本の観光地もこのようであればというのは私一人の願いだけとは言えますまい。

いよいよ出航の日になりました。当時の僕としては帰りたくて帰りたくて仕方がありませんでした。太平洋横断は北回り航路で、アリューシャン列島付近を通るもので、航程は2週間ちょうどでした。いよいよ出航です。シアトル港というのはちょうど松島のように多島海の一番奥にあって、安全な広々とした太平洋に出るには、船は暗礁やら浅瀬やらで、神経を張りつめていなければなりません。従って2週間のうちで、3日ほど、この区間に費やされます。

さて出航したものの、誰もアメリカ大陸を離れてゆくのを見送ってくれるものはいませんでした。ニューヨークでお別れをしてきたからです。それでも赤白黄色の紙テープを買って投げてみたりはしましたが。ボーイに案内されて船内に入っていきました。内部はクリーム色に塗ってあり、通常の廊下とはだいぶ、趣を異にしていました。ドアは角張っていないで卵形ですし、天井は管がいっぱい走っていました。

あてがわれた部屋は、三人用のなかなか居心地のよいものでした。やはりクリーム色に塗られていて、ドアを入るとすぐ右手に三段ベッドがあり、僕は一番上に寝させられました。落っこちはしないかと心配しましたが、寝てみるとマットが柔らかで埋もれてしまうようだし、船の揺れもほとんど感じなかったので、ひとまず転がり落ちてけがをする心配は消えました。また船酔いもしませんでした。入り口の向かい側は丸い船窓があってちょうつがいが付いていましたが、固定されていて開けられませんでした。この船室は船尾近くにあって甲板下なので、荒れるときは水が入るからです。

さて、太平洋に出ましたが、海はそのころの僕にとって大して興味のあるものではありませんでした。果てしなく続く海、また海、どこを見渡しても丸く水平線が囲んでいるばかり。船一つ見えません。僕は船内のほうがはるかに興味があるところでした。船の中央に売店がありました。休憩室もありました。卓球台もあります。子供の本を含めてライブラリーもあり、どこへ行っても退屈しませんでした。船内はとても広くて迷路のようになっていて、迷子になってボーイに連れ戻されたことが何度あったかしれませんでした。

最大の楽しみは食事と夕食後の余興でした。本当に船の旅は楽しいものです。至れるつくせりのサービスをしてくれます。飛行機なんかとは比べものになりません。食事は2回に分けられています。メニューを出して好きなものを注文します。デザートは大変美味でした。夕食後の余興にはいろいろありますが、小型映画、ビンゴ、ルーレットなどです。特にビンゴという遊びは健全で楽しいものでした。まあ、ある種のギャンブルの類で、うまく当たると「ビンゴ!」と叫んで賞品をもらうことができるのです。僕も運よく、あたって日本人形の模型をもらいました。今でもそれを思い出すととてもとてもあのときの光景が懐かしく思い出されます。白いの黒いの黄色いの、あらゆる人種が集まって、僕が「ビンゴ!」とただ一人叫んだとき、みんなが僕の方へいっせいに笑顔を向けてくれたこと・・・

船内には日本へ向かうイギリス人やらフランス人やらのたくさんの子供立ちも乗り組んでいました。そういう子供は誰でも英語を話さない国でも大体は英語を話せるもので、僕だってそのころは英語が相手に通じないわけではなかったから、すぐ同じ年齢の、7,8,9,10才ぐらいの子、10人ぐらいと仲良くなったものでした。甲板に出てそれぞれの国のことをおしゃべりしたり、London Bridge is Falling Downの歌を歌ってどんどんめぐりをして、またMy Fair Lady!はとても楽しい遊戯でした。

東洋人は僕一人でしたが、子供心に国境、人種差別があろうはずがなく、全く楽しい時を過ごしました。それにしても僕はそのころ臆病でこんな思い出があります。一人のイギリス人の女の子が風邪を引いたのですが、無理をして僕のところへ遊びに来たのです。かなりひどかったらしいので、僕はこれではうつるのではないかと大変心配して「タスケテ、タスケテ」とわめいたりしてしまったものです。大変可愛らしい女の子でした。あの子たちも僕も今はもうhighteenです。今頃一体どこに住んでいるのでしょうか。全く消息は分かりません。住所を聞いておきたかったと思っても今さらどうなるものでもないし。

アリューシャン列島に接近したときは海はかなり荒れて船も相当に揺れました。やはり北洋は厳しいところです。2週間を経てやっとなつかしの日本へ。横浜に着く前日デッキからはるか遠く陸地のようなものがかすかに認められました。海面は月の光が冴え渡ってどこまでもあい色が続いていました。船尾の方向からはなつかしいアメリカの生活がよみがえってきました。

前方から、さっと風が吹いてきます。ああ日本の風です。久しぶりに異国の土を踏んだ者でなければ、とてもこの感激は味わえないでしょう。月の光が一段と輝きをまします。明日になれば日本の土を踏むでしょう。暗い海はどこまでも、どこまでも広がっていました・・・(おわり)

作成時期不明( highteen のころ?)
1999年11月収録

アメリカの生活(原文のママ)

このあいだおかあさんが、にんぎょうをつくりました。ぼくのうちのべっとは、三つあります。ぼくのうちのへやは、六つあります。ぼくのうちに、てれびがあるのまんがをみました。ぼくのうちに、れこーどがありました。ぼくのともだちは、ジミーでした。ぼくのうちに、おもちゃがたくさんあります。ぼくは、どうぶつえんへゆきました。ぼくのうちは、きれいです。ぼくは、でんわをかいました。

日記帳「きのうのこと」

3月30日<イースターの日> きのうのあさ、十じはんごろからにゅうよーくの RCAびるのちかにいきました。きょうは、おまつりなのでひとが、たくさんいました。ぼくのおとうさんか、あまり、一人にさせてしゃしんをとりにいくので、ぼくが「ぷんぷん」におこってぼくが「ふがふが」といました。そしてぼくのおとうさんとおかあさんが、「かえろう」といいました。そしたらぼくも「かえろう」といいました。そのとはゆうきさんといきました。(おわり)

4月6日 きのうの11はんごろ、、セントラルパークに、いきました。12じなのでさんどいっちを、たべました。大きな山の下でたべました。たべてから、川のところに、いきました。ぼくが石に、のぼっていると、おとうさんがしゃしんをとって、くれました。そして、ぼくが、石のいちばん上にのぼりました。そして、そうがんきょうでみると、ボートに、のてる人がたくさんいました。そしたら、おかの上をみたら、さかなを、つっている人もいました。(つづく)

セントラルパークを見下ろすそれからたってから、しぜんかがくはくぶつかんに、いきました。ぼくがいちばんさいしょに、おさかなをみました。さめをみました。それはとてもおおきい ぼくの三ばいもありました。あと、さめのほねをみました。とても大きいです さかながくさらないように、わたがつめてありました。つぎは、2かい。がらすがあって、リスなのをころしてはりにさして、木をとってきて上からいとで、つるさがって、いました。リスが一ばんかわいそうでした。二かいと三のでてたもの、「くま」「ひょう」「へび」「こうもり」「さる」「山いぬ」「うさぎ」「かめ」そのほかいっぱいありました。(つづく)

三がいのちがうルームにいったら、とてもとても大きなむかしむかしにすんでた、きょうりゅうが、いました。(土の中からほったのです)いまにもとびかかろうのような、きょうりゅうでした。ぼくの二十五ばいもありました。そしてから、おなかがすいたのて下で、おかさんとぼくオレンヂヂュウスをのみました。おとうさんは、みるくをのみました。三人で、ケーキをたべました。それから、えすかれーたーにのって四かいにいきました。そしたらごりらが人げんのかおと、そっくりみえました。(おわり)4月6日

4月13日<モダンアート> きのうぼくと、三人で、てんらんかいをみにいきました。きれいなえが、かざってありました。はじめに、きれいな人がねているところでした。そして、らいおんがかみつくところでした。そのつぎに、くさがあって大きなたまごのようのが、一つおいて、ありました。いろが、「みどり」「あか」「くろ」となっていました。そしたら、またらいおんが人をかみついて、いました。そこにもう一人いました。そして、一人がかみついてるところを、たすけているところでした。そのほかいっぱいありました。はじめのきっぷは、おとな75¢子ども25¢でした。おかあさんと、おとうさんのぶんと、(つづく)

ぼくぜんぶで、1$85¢でした。そして、下にいって、みたら、よその人をむかえに、いったひこうじょうのラガーデイヤのTWAのあたらしくでたモダンアートとゆうところがありました。それから、ぼくが「そとに、でたい」と、いいました。それは、にわです。でてみると、もう四月のきでしたから、とてもきれいでした ちゅりっぷの花がありました。それから、中へはいって、えはがきをかいました。ぜんぶで、十まいかいました。さいしょのいったことと、おなじです。かえるとき、エンパイヤのをきまた。けれどゆきと雨がふってきました。と中でちかてつがあったのでそれにのってかえりました。(おわり)

タイムズスクエア4月20日(月) きのう三人でタイムスケーヤに、いきました。そして、ものすごいないにかのジュースのびんが、右と左に、おいて、あって、大きいのでした。まん中に水がどうどうと、ながれて、いました。つぎは、アイロンがあって、そして、アイロンのまえに、まるいのがあって、でんきかぱーと、でていました。そしてアイロンの下にじょうきがでていました。つぎは、大きな人がかいてあって、たばこをもって、口に」あながあって口からけむりがでていました。あと、セントラパークに、いきました。その中に、ズーがありました ズーでアイスクリームをたべました。下をみたらローラースケートをやっていました。(おわり)

4月27日<三人のびょうき> 四月二十三日に、ぼくがびょうきになり、かぜになりました。すると、ぼくから、四月二十六日に、おかあさんにうつしました。そしてから、ぼくのおかあさんがおこって「かぜが、あってるとはこまる。」といいました。ぼくがうつした日。日よう日です。そしてから、ぼくはなおりました。そして、四月二十七日なりおかあさんが一じごろからねました。月よう日。ーーーぼくは、しゃかいの本をみて、きしゃをつくりました。あと、こくごの本をみて、どのくらいのびたかながいかみのしるしをつくりました。(おわり)

国連ビル5月4日<こくれんビルのこと> きのうの、おひるすぎ一じごろから、こくれんビルに、いきました。そして、世界のえらい人のうちがありました。中に、はいると、とてもきれいでした。こくれんびるのちかくです。こくれんびるは、とおくからみると高く見えけど、前から見ると、ちっとも高くないように見えます。あと、えらい人のときは、はたをたてます。そして、はたのぼうがありました。そしてその、うちに、はいりました。すると、ぎん色の玉があって、空じょうにあながあていて、ひもで玉をつるしてありました。(つづく)

それは、ふりこのようでした。そして世界じゅうでゆうめいでした。ニュウヨークのマンハッタンにあります。そしてから、えらい人のうちのにわにでました。きれいなさくらがさいていました。そしてから、ぼくが、「ワシントンブリッジをとってくれ。」と、ゆうとおとうさんがとってくれました。ぼくは、また「こくれんビルのよこと、下のきれいなうちをとってくれ。」といました。でもおとうさんが「れんこうとをもっている人のところにいきなさい。」といいました。あと「おかあさんのところにゆきなさい。」といいました。あと見るとっててくれました。(おわり)

5月11日<五月六日のこと> 五月六日のあさ、七じにおきました。八じ十ぷんすぎにでて、マンハッタンましでいきました。そしてちかてつから、おりて上に、あがるとバスのガソリンのにおいして、おかあさんと、おとうさんと、ぼくたちが「くさいくさい。」と、いいました。そのときは、プリンストンいくときでした。あと、バスがきてから、ハドソンリバーのトンネルをとうってから、ニュウジャージーにつきました。ニュウジャージーの中にプリンストがあります。あとバスにのってから、いろいろな、田んぼのようなのが、たくさんありました。そのバスは、おりたいところでおりられます。(つづく)

あと、小さなニュウワークとゆうひこうじょうがありました。そのひこうじょうのひこうきは、にもつをはこぶひこうきでした。あとプリンストンにつきました。見ると、さいきさんとゆう人がいました。その人はじどう車をもっていました。そしたら、おとうさんの友だちでした。あとじどう車にのせてもらいました。あと中へはいると、とってもあつくなりました。なつのようにとてもあついのでした。そうしてまどをあけました。そして、いってみると、りっはなチャーチがありました。あととしょかんを見せてくれました。みんなおとなしくべんきょうしていました。あと、とういとこまでじどう車てゆきました。そうするともうすこしでフィヤデルヒヤにゆくとこでした。あと、おひるごはんをけしきのいところでたべました。(おわり)

クライスラービルを前に5月12日<5月9日のマンハッタンめぐり> 五月九日ご前十一じに、マンハッタンめぐりにいきました。ぼくとおとうさんと、おかあさんと、ゆうきさんと、おぐちさんといきました。そして、ボートにのるのき、きっぷをもらう人も、いました。そしてふねの入口から、中へはいりました。中へはいって、一ばん高い二かいに、はいりました。まどか見ると、スタチュウオフリバーチーが見えました。ブリッジがたくさんみえました 「ぶるっくりんぶりっじ」「まんはったんぶりっじ」「わしんとんぶりっじ」そのほかいっぱいありました。ブロンクスの方を見ると、赤い火が見ました。それはかじでした しょうぼうていがたくさんいました。(おわり)

5月21日<ワシントンDCのこと> 五月二十一日六じにおきて、9じ10ぷんすぎに、ワシントンDCにいきました。三じかんはんのぐらいのきしゃに、のって、ゆきました。さいしょのところは、(は)たけのよなところでした。ゆくときのえきはペンスルベニアとゆうえきでした。はじめトンネルをとおってニュウジャアージーにでてきました。ぼくのきしゃはきゅうこうでした。小さいえきはとまらなくて、大きいえきだけ止まりました。そして、やっとワシントンDCにつきました。ワシントンDCのえきは、ユニオンステイションです。(つづく)

(ホテルを)出てから、キャプタルとゆうぎじどうがありました。そして、ぎじどうの前に、しばふがりました。そのぎじどうはまん中がまるくなっていました。よこは右左がながしくなって、いました。そして少(し)あるいていっったら、はくぶつかんがありました。そとに、大きいロケットがありまひた。ぼくは、「はしらないか。」としんぱ(い)しました。そしてからワイトハウスにゆきました。「とう」にものぼりました。プールやワイトハウスが見えました。下に、おりてから、プールへゆきました。ワシントンDCは、二日いました。二日ホテルにとまりました。(おわり)

エンパイヤステートを臨む6月1日<エンパイヤステートのこと> 五月三十日十じ三十ぷんに、エンパイヤステイトビルにいきました。そのたてものはものすごく高いたてものでした。そのたてものは、102かいあります。エレベーターにのって八十五かいまで、ゆきました。外を見ると、くもがあって、とうくが見えなくて、前しか見ませんでした。おひるになったので、しょくどうで、おひるごはんをたべました。三人で、ハットドッグをたべました。オレンジジュウスものみました。たべてからまた外を見ると、少こしだけくもがなくなっていました。はじめのぼらないうちにおかあさんがふくを見て、なかなかいかないのて「早くいこくこう。」といいました。おとうさんが、おかさんとふくをとってからエンパイヤステイトビルにゆきました。そして少こしくもがなってから、中にはいるとねじとかねのぼうでできた、エンパイヤステイトかざってありました。かえりにエスカレーターが早いのでぼく下にきてから、耳がものすごくへんになりました。(おわり)

6月7日<プロッチックパークのこと> 六月七日十一じ三十分ごろ、プロッチックパークにいきました。いくときにちずをみたらプロッチックにいけがあるとかいてありました。いくとき高い高い山がありました。かいだんがなかったから、ぼくとおかあさんは、おっこちそうにのぼっていきました。上と下のあいだのところで、しゃしんをとってくれました。やっと山のてっぺんまでつきました。そこから、ずっとあるいていくと大きないけが、ありました。そここには、みんな、さかなをとったり、ボートにのっている人もいました。ボートにのっているひとはたくさんいました。いけにはしがかかっていました。はしの右がわでおひるごはんをたべました。たべているときぼくがおとうさんに「ボートにのらせるっていったからのせてね。」とぼくがゆうと、「だめナイヤガラホールにいくからおとうさんがこぐとつかれるからだめだよ。」といいました。ぼくはぷんぷんにおこっていました。あるいているうちに、おとうさんが「ふねのりはがあったらのせてあげるよ。」といいました。こんどはふ(ね)のり(ば)がわかったけれど、のれませんでした。(おわり)

6月16日<ナイヤガラフォール(き車の中で) 六月十六日、三人で、六じ三十分に、おきて大いそぎでごはんをたべました。ミルクを大きいこっぷにこぼれる自由の女神ほと入れてのませられたので、ふくをきて行こうとしたとき、ぼくは、はきました。き車に行きました。グランドセントラからのりました。き車のまどから見ると、草はらや、はやしが、ありました。いろいろのえきが、くるとまちになってきます。えきに、ちかづくと、せんろがたくさんありました。(ナイヤガラフォル)やっとナイヤガラフォールにつきました。フォールとゆうのは、たきです。いって、見たら、たきが、ごうごうとながれて、いました。そのまちは、北のまちです。だからホテルには、れいぼうは、なっかったのでした。二日いました。一日のよるにカナダがわから9じ15分すぎからやるとかいてあったのを見ました。はじめ、ただのでんきの色で、つぎの色は「みどり」「あお」「水色」「あか」「だいだい」「きいろ」と、たくさんありました。水けむりに光っていて、とてもきれいでした。(つづく)

つぎの日)つぎの日、あさ早く、おきて十じにホテルを出ました。ホテルの前でリムジンにのりました。色のくろいいんど人もドイツ人といっしょにのりました。はしをわたって、よその国のカナダとゆうところへくのでした。パスポートをうけてから、いかなきゃならないのでながくじかんがかかりました。はしをわたるときも10¢とられました。カナダについても、なにか、しました。そこからずーっといきました。そこのうちの中にはいりました。エレベーターにのって、ふかい下の方にゆきました。そこは、たにまでした。そこあとンネルをとうって、たにの下にでました。たにの下はふかい、ふかい水がながれていました。そこにっはしが二本かかっていました。アメリカとカナダの下です。そのよこに、はしがあってそこがずーと、みちになっておわりになるまでありました。(以下紛失)

1959年作成
1999年12月収録

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