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PAGE 1 空港→ノートルダム→ルーブル→コンコルド広場→シャンゼリゼ周辺→凱旋門→エッフェル塔周辺→宿泊 H O M E > 体験編 > 旅行記 > パリとエトルタ(1) ・・・外部リンク 出発 旅は、多様性と非日常性を求める。もし自分の住んでいるところと似たり寄ったりだったら、わざわざ時間と金をかけて遠くまで出かける価値がない。ところが、 現代世界は、日毎に画一性を増し、旅の楽しみが急速に失われている。特にアメリカ文明に汚染された地域は、目隠しをはずされてどこだか言い当てることが難 しいくらいお互いに似てきている。 フランス、特にパリの 町に焦点を当てたのは、ずっと昔にフランス語を学習したからだけではなく、ヨーロッパ文明の独自性を今でも保っていることを期待したからだ。もちろん市内 にはマクドナルドの支店はたくさんあるが、頑固にも12世紀やそれ以上前の時代からの建物を守ってきたこの町の魅力を味わってみたいと思ったのだ。 季節は冬の12月。観光客であふれる夏と違い、木々は木の葉を落としてまだ雪は降らないものの、素顔の町の姿をより鮮明に見せてくれるかもしれない。こう思いながら成田空港を旅立った。エールフランス航空の機内は、予想に反して座席の99%が埋まっていた。冬季は運賃の価格が下がり、ノエル(クリスマス)の準備にかかるパリの町を見たい人は多い。 エールフランスはいま1日に早朝便、昼便、夜便と三種類の出発時間を設定している。成田からパリへ向かう場合は冬季は偏西風に対する向かい風になるため、14時間かかる(逆向きの場合は12時間で済む)。夜行便に乗れば翌日の早朝4時半頃にド・ ゴール空港に着いてしまう。だがおかげでその日はまるまる有効に使えるのだ(機内でよく眠れた場合は)。 帰りも夜便にする。これはド・ゴール空港を夜の11時15分に出て、翌日の午後7時に成田に着く。この場合も昼間は目一杯遊んで、くたくたに疲れたところで夜の飛行機に乗るのだから、時間の無駄がない。 これに5日を加えて合計7日間、フランスに滞在することにした。これは平均的なツアーに比べるとかなり長い。よく見かける「パリ5日間」とはいうものの、本当に完全に一日を使えるのは実質2日ぐらいしかないのだから。着いた日と帰る日は、空港内をうろうろするタイムロスが実に多い。しかも一人旅とあれば、「一人部屋料金」たるものを徴収されるのだからたまったものではない。 かくして、往復切符だけは買い、ホテルは着いたその日に適当に見つけることにした。そのためには荷物は最小限、リュックサック一つにまとめる。トランクを持っていくと、到着した空港での受け取りのために、ベルトコンベヤーに運ばれてくるのを延々と待たされる。旅は身軽がいい。
到着 シャルル・ドゴール空港(CDG)はパリの北にある。南にあるオルリー空港より広く近代的に造られた。到着すると、滑走路は雨に濡れて光っていた。。入国手続きなんて何もない。日本人だということもあるのだろうが、係員はパスポートを見もしない。もちろんスタンプも押さない。パスポートには成田で押された出国のスタンプがあるきりで、どこに出かけたのかなにも記録が残っていないのだ。 早朝4時といえばまだ外は真っ暗で、到着ロビーでトランク を受け取るために待っている人々を後目に、まだ誰もいなくてがらんとした空港の建物内を中距離通勤線(RER)の駅へ向かう。到着したところからかなり距離があるため、ところどころに「動く歩道」がもうけられている。 ようやく駅の待合室について自動販売機で切符を買おうとした が、旅人が最初から小銭を持っているわけがない。お札を使うには有人窓口を探さなければならない。さんざん歩き回った末にようやく見つけ、7.75ユーロのパリ市内行きの切符を買う。ちょうど東京の山の手線内と同じように、市街地域のどこにでも下車できる切符だ。 ホームはさほど寒くなかったが(摂氏8度)、実に暗い。まだ5時台だから乗客の数は少ないものの、列車が入ってきた。ここを始発にしている電車だ。このRER線は決してぴかぴ かの最新車輌でもなく、スプレーされた落書きを消したあとが生々しいが、列車の本数も多いし、ほぼ40分で都心にはいる。市街地にはいると地下に潜る。 町歩きの出発点はノートルダム寺院と決めた。というのもこのRER-B線は空港から南に向かって延び、町中を通り抜けてちょうどパリを串刺しにするように走っているから、パリ発祥の地であるシテ島にあるこの有名なNotre Dame (我々の婦人=マリア様)寺院に降り立つのが最もふさわしいと思えたからだ。
ノートルダム サン・ミシェル・ノートルダム(St.Michel Notre Dame)駅から地上に出ると目の前にはには月光の中にあのノートルダム寺院の優美な建物が冬空の中に浮かび上がっていた。まだ早朝のこともあり、通る人もほとんどない。これがパリとの最初の出会いである。12世紀からのそのままの姿で立っていたのだ。 ここはセーヌ川の真ん中にある小さな島だ。何本もの橋でまわりの街区とつながっている。ここからまだ真っ暗で曇り空でもあるが、雨は降っていないので、市内を徒歩で歩き回ることにした。 シ テ島を一周する。まずはノートルダム寺院の敷地の周辺をぐるっと回ってみる。夜間はフェンスが閉じられており中に入れないので、セーヌ川の遊歩道に出て歩 く。すべての石が古く、すでに浸食が始まっているかのようだ。寺院の裏手に出ると、街灯の並ぶ狭い通りに出る。街灯は昔懐かしい白熱球である。車がやっと一 台通り抜けれられるぐらいだ。 ようやくジョギングの人にすれ違ったりするようになるが、相も変わらず空は真っ暗だ。島といっても長さわずか1キロあまり。幅はずっと狭い。30分もしないうちに島の先端(下流側)に出る。そこには遊覧船乗り場があった。ここから最も古いと言われるポン・ヌフ( Pont Neuf =新橋)を渡ってセーヌ川右岸に出る。あたりは暗くても街灯がついているからうまい具合にライトアップされて町並みがよくわかる。 ルーブル宮 渡った先はすぐ下流へ伸びている細長い建物が見えてくる。ルーブル宮だ。この美術館を納めている巨大な建物は長方形をしているために、セーヌの川岸沿いか、繁華街側かのどちらかを選ばないといけない。それほどの巨大な建築物であり、石造りであって様々な装飾が施されていることがいよいよもって見る人に圧倒感を与える。これは現代的な鋼鉄とガラスの建物にはないことだ。 繁華街に沿って歩くことにして、そろそろ朝7時もちかづき通りの交通量も増えてきた。だがまだ空は真っ暗で夜が明ける気配はまったくない。ルーブル宮全体の中間点あたりで、この「コ」の字型をした建物の中庭に入ることにする。するとあの有名なガラス張りのピラミッドが真ん中にそびえているのが見える。 このピラミッドについては、まわりの壮大な石造りの建物と調和するはずもないが、あえてそのようにしたのかもしれない。とにかくこれは巨大な美術館の入り口であり、地下通路を通ってそれぞれの部分に達するようになっている。 この広大な敷地は外部からの出入りは自由であり、中庭を大きな通りが突き抜けている。通行人が次第に増えてきたが、その中で北アフリカ系の女性が小さな子供を連れて近づいてきて、私に英語で道を尋ねた。 到着してからわずか3時間で人から道を聞かれるのはまさに新記録である。パリはどんな人種でも市民に見えてしまうほどの国際都市なのか。彼女は近くの繁華街にある旅行社の住所を聞いてきたのだが、幸い私の持っていた地図でだいたいの場所の見当がついたので、その方向を教えてあげた。もっとも心配でそのあとその場所まで行き一応正しい方向であったことを確かめたのだが。 セーヌ川と平行してさらに下流方向へ歩く。巨大なルーブル宮の建物が終わると、冬になってすっかり葉を落とした広大な公園、カルーゼル庭園が見えてきた。夏ならさぞ緑が生い茂ってきれいであろう。今は見通しが良く なってなおさら広大な敷地を遠くまで見下ろすことができる。前の日に雨が降ったらしく、ところどころに水たまりがあるが、幸い雨は今のところ降ってこない。
コンコルド広場 巨大な噴水のところでは修理作業が行われていた。冬は建造物や記念碑の修理・修復が一斉に行われる。おかげでせっかくの景観も足場などによって台無しになって しまう。噴水を最後に庭園がつきると、そこはコンコルド広場だった。ギロチン台が置かれ、フランス革命で流されたあまりに多くの血を吸ったこの広場は、 その後 concorde (調和)という名前を与えられた。 ギロチンの露と消えたロラン夫人の言葉、「自由の名においてなんと多くの罪が犯されることでしょう」を生んだ流血は今でも世界中ですこしも変わることなく起こり続けている。 真ん中に石の塔(オベリスク)が建っているが、近づいてみるとエジプトから運ばれてきただけあって、一面にエジプト特有の象形文字が彫られてある。 そ してここは巨大なロータリーになっていて、車の洪水である。広場の真ん中に建つと、車がいつまでもぐるぐる回っているように見える。ロータリーに入ってくる車、出ていく車、なかなか入ったり出ていくタイミングが見つからなくてぐるぐる回り続ける車と、普通の信号つきの交差点とはまるで違う光景だ。ここにギロチン台があって大勢の見物人がいたなどとはちょっと想像ができない。 ここでようやく夜が明けてきた。コンコルド広場の街灯の電気が一斉に消えて8時半過ぎ。曇っていることもあるが「明るくなった」という夜明けはこのくらい待たなければならないのだ。緯度が樺太と同じなのだから致し方ないが、これでさらに北のロンドンではもっと暗い冬の日が続くのだろう。人間の肌の色が白くなるわけだ。 ルーブル宮からセーヌ川に平行して歩いてきたが、ここでセーヌ川は左の方へそれていく。だが道はまだ直線のままだ。コンコルド広場から両脇を森に挟まれて大通りが広がり、どこまでも続いていく。その名前はシャンゼリゼ通りという。そしてはるか彼方にぼんやりと凱旋門が見えている。実に雄大な都市計画だ。曲がりくねって車の通行もままならない小路が錯綜する一方 で、2キロ以上先の巨大な建築物が一望できるドラマチックな設計は確かにこの町独特のものだ。
シャンゼリゼ周辺 シャンゼリゼ通りははじめの3分の1ぐらいは周りが樹木に囲まれた公園の中を通っているので、とてもあの華やかさは想像できない。従ってちょっとコンコルド広場から北へあがってレストラン「マキシム」や、有名ブランドが軒を並べる通りへ寄り道をすることにする。 よくもまあこれだけブランドの店が集まったと感心するほど次から次へとそれぞれのデザインを誇示するショーウィンドウが並ぶ中を通る。まだ早朝だからどこも開いていないが、展示物を眺めているだけでそれぞれのメーカーがどんな個性を目指しているかが一見してわかるようになっている。 そしてその通りのはずれに、大統領が仕事をするエリゼ宮がある。とは言っても普通のアパートをちょっと大きめにしたぐらいのもので、これが大統領のいるところ?と不思議に思うほど質素な建物である。ホワイトハウスのようなおこがましさはどこにもない。 エリゼ宮の手前には、近くにあるアメリカ大使館の分館みたいな建物があり、アメリカの旗が掲げてあったが、テロ攻撃を極度に警戒しているらしく、警備員は入り口前の歩道を通らせてくれない。わざわざもう一方の側の歩道まで回り道をさせられた。フランスにはイスラム教徒が大勢いるから、アメリカ大使館もいつ攻撃さ れるか心配でならないのだろう。だが今のところフランスでそのようなテロは起こっていない。 エリゼ宮のかどでそろそろシャンゼリゼ通りに復帰しようかと地図を広げていると、出てきました。赤ら顔でいかにもワインの好きそうなおじさんがやってきて、親切に教えてくれる。これがエリゼ宮だよ、これが・・・の教会だ。困っている人がいたらすぐに手を貸してくれる人情のある典型的なパリッ子だろうか。 機内で朝食が出たにもかかわらず、歩きすぎで空腹を覚え、目の前にサンドイッチ屋があったので、中で薫製鮭を挟んだものを注文する。これが実に美味で4.8ユーロ。確かにハムやチーズを挟んだものも旨いが、鮭の持つ脂っこさが実にパンによく合う。今まで知らなかった味だ。 コ ンコルド広場と凱旋門の間のうち、商店の並ぶ部分はロン・ポワンとよばれるロータリーから凱旋門よりの半分で、ここからゆっくりとした上り坂を歩いていく。 すでに周囲は明るくなり、大勢の勤め人が忙しそうに行き交うようになっている。もし普通の都市であればこのような繁華街は高層ビルが建ち並ぶところだが、 ここではすべて4,5階建ての建物にそろえられている。そびえ立つビルに慣れた目には、非常に目新しい光景だ。 このシャンゼ リゼは、表通りにはもちろん大きな店舗が並び、ありとあらゆる種類のものが売られているが、ところどころに「アーケード」のようなせまい入り口がある。これは裏通りとも違い、建物の中に造られた小路なのだ。まるで迷路のように奥へ伸びており、決してまっすぐではない。右に折れ左に折れ突然噴水のある中庭が 現れたりまるで別世界が出現する。このようなアーケードがたくさんもうけられており、表通りだけでなく、得体の知れないさまざまな小さな店を含んでいるのもシャンゼリゼの特徴なのだ。 車道も広いが、歩道は両側とも十分なスペースがとってあり、ところどころにベンチがあって休憩をしたり寄り道をしたくなるような作りになっている。まっすぐ歩かなくとも、道の真ん中でボォーッと立っていても十分に楽しめる。
凱旋門 そうこうしているうちにナポレオンが戦争からパリに帰るために造った凱旋門のあるロータリー、エトワール広場に到達した。ここはコンコルド広場をさらに上回る交通量で、広場のまわりを巨大な車の河が渦を巻いている。この広場からは12本もの道が出ているので、まるで étoile (エトワール=星)のようだというわけだ。そしてこの場所にありとあらゆる国籍の観光客がうろうろしているのだ。この9時台の時間でもすでにあたりから中国語やアフリカ語の会話が聞こえてくる。 凱旋門に行くには車の渦の中を横断するわけにはいかないから、地下道を通って行く。残念ながらここも修復工事中で、門の内部に入ることはできなかったが、ラテ ン語で彫られた文字や彫刻を存分に眺めることができた。今来た道を振り返ってみると、直線の下り坂のはるか向こうにコンコルド広場のオベリスクがかすんで見える。都市の壮大さを表す見事な演出だ。 この先、直線道路は続くが、ドゴール通りと名前を変えパリのマンハッタンとよばれるほどの高層ビルがそびえ立つデファンス地区へと続くが、そちらは観光地ではない。ここで左に折れて、いったん離れていったセーヌ川に方に向かうことにする。 この点この町は非常に地理がわかりやすい。いっぺんで全体の様子がつかめるような構造になっている。小路が至るところで入り乱れている反面、大通りはまっすぐで明確な都市構造を持っているという、矛盾する面を実にうまく統合している。
エッフェル塔周辺 エトワール広場から左に折れて、2キロほど直線のクレベール大通りを歩くと、シャイヨ宮に達する。それにしてもこの街にはこの「宮」が実に多い。すべてかつては王家の宮殿や役所があったところなのだが、それらがそのまま現代生活の中でそれぞれの機能を持って生きている。この街では「老朽化したから建て替える」ということがないのだ。シャイヨ宮には海洋博物館と人類博物館が入ってい る。 シャイヨ宮の前にはちょっとした広場があり、その前にやたらに古い石の壁がそびえていた。これはバッシー墓地といい、パ リでは相当古いらしい。門が開いていたので、西洋のお墓はどんなものかと入ってみた。さすがに古く、墓石の中にはすっかり苔むしているものもある。お墓のデザインが様々で狭いところに詰め込まれているのでやたらにごちゃごちゃしている感じがする。 沖縄でよく見られる家族を納 めた霊廟みたいなものもあれば、シンプルな石を載せただけのものもある。中には聖母マリアの巨大な彫刻を建てて、しかもそれを透明なプラスチックで覆った 「作品」まであった。墓のデザインは、日本と違って実に多様であるが、パリの町並みと違って全体の調和がまるでない。 このあと海洋博物館に入ってみた。フランス海軍とその前進の歴史を展示したものだが、古地図といい、これまでに造られた船舶の精密な模型のコレクションといい、 実にマニアックなていねいさで展示されてある。しかも展示作品が膨大な量である。今回は新しく建造されたクイーン・エリザベス二世号が詳細に紹介されてい た。入場料金は7ユーロ。どこでも博物館や美術館はこのぐらいの値段である。さらに高齢者や学生にはさまざまな割引がある。 海洋博物館の前は噴水の見事なトロカデロ庭園になっており、その下にセーヌ川が流れている。そしてその河の対岸にはエッフェル塔がそびえ立っているのだ。残念ながら曇り空のために上半分は雲に隠れてしまっているが、この塔が観光客に人気があるのはそこからのながめが最高によいことと、そのデザインの柔らかさにあろう。東京タワーが赤色なのに対し、こちらは茶色なのである。 宿探し 塔 に登ることはひとまずあきらめたが、結局別の場所から市内が眺められたので、結局最後まで登らずじまいだった。ノートルダムからエッフェル塔まで、徒歩で 約15キロ。午前6時頃から歩き始め、午後2時になっていた。これで市の中心部の概要はだいたい分かったわけだ。そろそろ宿探しをすることにする。 宿 は、見知らぬ街ではどこに見つけるのがよいか。パリでは国鉄の Gard du Nord (北駅)周辺が安いと聞いていたが、もっと安いところはどこかといえば、それは学生街だろう。学生は常に貧乏だ。住居に金をかけることは少ない(そうでな い学生もいることはいるが)。パリではなんと言ってもカルチェ・ラタン Cartier Latin (ラテン地区=かつて学問用語であるラテン語が話されていた地区)だろう。そう考えてその最寄り駅であるルクサンブール Luxembourg へと向かった。 RER-C線のエッフェル塔前( Tour Eiffel )から乗り再びノートルダムの駅まで行って今度は B線に乗り換えて一つ目だ。ルクサンブールといえば公園があり、「レミゼラブル」の中でジャン・バルジャンとコレットが出会った公園であると記憶している人も多いだろう。 運悪く駅で電車を待っている間に構内アナウンスがあり、ちょっとした事故で電車が遅れるという。やれやれ早速トラブルか。結局電車は20分以上も遅れてやってきて、その間に乗客はたまり、かなり混雑した状態で乗り込んだ。 興味深いのは、構内アナウンスは敏速に、繰り返し、正確に行われていたことだ。普段は行き先もなにも言わないのが西欧の公共交通機関だが、問題が生じるとすぐに伝えてくれる。遅れにいらいらしているのは観光客だけで、一般市民はあわてる様子はない。もしかしたら遅延慣れをしているのかも。
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