(2003年)

ノートル・ダム

拡大クリック

目次

PAGE 1

PAGE 2

PAGE 3

ノルマンディー地方ルーアンエトルタルパンの針岩ルアーブル / ピカソ美術館モンマルトル周辺サクレ・クール寺院ノートルダム内部 / ルーブル美術館帰国

H O M E > 体験編 > 旅行記 > パリとエトルタ(3)

・・・外部リンク


ノルマンディー地方鉄道地図
(拡大クリック)
ノルマンジー地方地図

ノルマンディー地方へ 少しパリ市内に慣れたところで、地方の様子を見てみようと思う。フランス南部は広いからまた次回に回すとして、北フランスとくにノルマンディー地方を選んだのは、小さい頃に読んだアルセーヌ・ルパンの物語による。

怪盗ルパンのシリーズに「奇巖城」がある。ルパンは、歴代フランス王が宝物の隠し場所にしていた、海中にそびえ立つ針のような形をした岩山( エイギュ・クルーズ= aiguille crueuse )を古文書の暗号を解読して、くりぬかれた岩の中に大変な財宝を発見するわけだが、実はそのモデルになった岩が実在するというのだ。

その場所とはセーヌ川河口の港町ルアーブル( Le Harvre )から東へ、つまりベルギー・オランダ方向へ海岸沿いにしばらく行ったところにある。たいていの地図には載っていない小さな町だ。パリからは直線距離で100キロあまりだが、その道順の詳細は、児童書の「奇巖城」のあとがきにあった訳者の訪問記にあった。これを見なかったらこの場所に到着できていたかどうかわからない。

サンラザール駅構内。映画「男と女」の最後のシーンとまったく同じ位置。
サンラザール駅構内

パリのいくつかの駅のうち、北方へ向かう列車が発着するサン・ラザール( Gare St.Lazare )駅から、まだ夜の明けやらぬころルーアン行きの特急に乗る。これは停車駅が一つもない。時刻表は前もって日本にいるときにインターネットからプリントア ウトしてある。列車はひたすらセーヌ川沿いをどんどん下流に向かって進む。

市街の建物はすぐに姿を消し、のんびりした牧草地 と森林の広がる地方そのものの中を走っていく。パリ市内では石で固められていた岸壁はもはやなく、土と草のむき出しのところを川は流れる。河の斜度は非常 に小さいから、本当に流れているのか疑わしいほど水が静かだ。まるで池のようである。

次第にのんびりと草をはむ羊や牛の群が 目立つようになる。小麦畑はあまりない。また日本のかつての農村のように、農家はそのまわりにに樹木を植えて、防風林を造っている。高い山や深い谷はまったくなく、大地がゆっくりとうねるように続く。また森林の切れたところからは所々地平線がのぞいている。

北に向かっているから気温は下がっていく。宿り木が木にびっしりついて遠目から見ると鳥の丸い巣のように見える風景が増えてきた。ルーアン行きの特急は1時間に一本ぐらい。乗客はまばらだ。このあたりはフランスの新幹線、TGV(テジェベ)が通っていない代わり、在来線の持てる目一杯のスピードで列車は突っ走る。

上へ

ルーアン 中世の町並みを持つルーアン( Rouen )はパリとイギリス海峡の中間ぐらいにあり、そこからさまざまな方面に列車が出ている一大分岐点でもある。路線が複雑なので間違いやすい。前の座席にいた女性は、この特急に間違って乗ってしまい、ルーアンまで連れていかれ、車掌と相談のうえタクシーに乗るかパリまでわざわざ戻るか思案に暮れていた。

ルーアンめぐり
メトロとよばれる路面電車
地下から姿を表した路面電車
ルーアンの中世風の町並み
いかにも中世が残る狭い町並み
仰ぎ見る
昔の人は仰ぎ見た
ルーアンのノートルダム
この街のノートルダム
ジャンヌダルク教会
あまりにもひょろ長いジャンヌ・ダルク教会

ルーアンにもメトロがある、といっても駅周辺だけ地下に潜っているモダンな路面電車であった。小さな町だからそれに飛び乗ればたいていの場所に行けてしまう。もっとも中世の建物が残っているいわゆる旧市街は駅のすぐ近くだから歩くだけでいいのだが。

郵便局で絵はがきを投函したあと、いったんセーヌ川の岸に出て(駅側は右岸に当たる)そこから中心部にむけて歩く。ノートルダム教会の高い尖塔をはじめとして、パリより一層中世の町並みを感じさせる一帯がある。道幅は「馬車」がやっと通り抜けられるくらい、しかも曲がりくねり建物の先が見通せない。教会はその建物の中に埋もれていて、広場といえるものが少ない。

小路は縦横にのたうち回り、下手すると迷ってしまう。古い石の建物の入り口をのぞくとその奧に庭園が見えたり、さらに細い道が曲がりくねって続いていたり、その道幅がついには30㎝ぐらいしかないところに続いていたり、迷路遊びのスリルが楽しめる。

案内板は完備していて(ただしフランス語のみ)、迷う心配はないし、自分がどこら辺にいるかもだいたいわかる。この街は百年戦争の際、ジャンヌダルクがイギリス軍に捕まって処刑されている。ヴィユ・マルシェ広場( Place du vieux-marche =古市場)がそれであり、彼女が火刑に処されたそうだが、彼女を記念した教会は最近造られたらしく、実に現代的なデザインで、まるで体育館か現代芸術のオブジェのようだ。

街そのものにはあまり元気がない。「テナント募集中( ルエ=Louer )」の張り紙をした建物が目立つ。夏の観光シーズンならともかく、冬には通る人も少なく、ヴィユ・マルシェ広場では時間を持て余した高校生たちがたくさんたむろしていた。

モダンなローカル列車
モダンなローカル線

上へ

エトルタへ ルーアンで3時間ほど見学したあとで、先の訳者のたどったコースを進むことにする。ルーアンから港町ルアーブルへ延びる線に乗り(各駅停車)、途中のブレオテ・ブーズビル( Bréauté-Beuzeville )という小さな牧草地の中にぽつんとある駅で降りる。なぜかというとここからイギリス海峡に面する港町フェカン( Fécamp )へ延びる盲腸線に乗り換える必要があるからだ。

ここからはいよいよ本物のローカル線だ。先の訳者の報告によれば廃車同然のポンコツ列車がホームに待っているはずだが、目の前にはまるでスペースシャトルを思わせるようなピカピカの優美な車輌が待っている。運転手は40歳代ぐらいのおばさんだ。

かつてはこんな古い車輌だった
旧車輌

最近新車両が導入されたらしく、他の乗客も目を丸くしてみており、車掌に盛んに尋ねている。一両編成だが、路面電車がスピードアップできるようになったと思えばよい。鉄道ファンなら涙を出して喜びそうな魅力的な車体である。

車輌は音もなく滑るように駅を出る。乗客は5人ぐらいだが、たいていは終着駅まで向かった。スピードは信じられないほど早い。運転台には140キロ以上出すなと書いてあるが、ジェットコースターのような乗り心地の良さであればそれだけ出したくなる。

列車はうねるような牧草地の中を駆け抜ける。さすがに単線だが、牧場の脇を通り抜け羊がこちらを見ているところをあっという間に通りすぎる。彼方には防風林に囲まれた農家が点在して実にのどかな風景だ。20分あまりで牧草地がなくなり、小山が見えてきたと思ったら、突然目の前に海が開けた。

イギリス海峡である。海風が真っ正面から吹き付けとても寒い。乗客がみんな去ってしまうと、駅は誰もいなくなる。フェカン( Fécamp )駅前にはマクドナルドがあるだけ。タクシー乗り場も、バス乗り場もない。日本の常識と違って駅前が街の中心ではないのだ。

牧草地と林が交互に過ぎ去る
牧草地帯を行く

ベンチに座っている老人に尋ねると、タクシー乗り場もバス乗り場も高いところに尖塔だけが見えている教会の方をさして「ウ」を盛んに連発する。彼のいう ou とは「どこ」ではなく「そこ」を表す方言か?

言われたとおり登ってみるとそこにはバス停とタクシー乗り場があった。駅から大して離れているわけではなかったが。ルアーブル行きのバスは行ったばかりだった。それで例の訳者がしたようにタクシーで行くことにする。

タ クシーの運転手にエトルタ( Etreta )に向かってくれるように頼む。ここから西へ10キロのところで25ユーロぐらいかかるとのこと。さらにインターネットであらかじめ目星をつけていたホテルの名前と住所を見せると、そのホテルは知らないが、住所でどこだかわかるという。

天井が屋根裏風の部屋
ホテルの部屋

フランスに来て初めて自動車に乗る。タクシーはいわゆる地方道を走る。都市部ではあれほど完備していた歩道が地方道にはほとんどない。しかも車がすれ違えるぐらいの幅しかない。ところどころにロータリーがあり、ここではそれまでいくら快走していても減速せざるを得ないのである。

運転手によれば、夏は海水浴客がパリからもまたイギリスからも大勢詰めかけるとのこと。冬は風が強く相当冷え込むそうだ。日本のことはまるで知らず、今は冬なのかと聞いてくる。さすがにこの地域にまであまり日本人はやってこないのだろう。

15分あまりでエトルタ( Etreta )についた。バス停があり、案内所がある。ここは夏のリゾートなのだ。そしてあの「奇巖城」では<エトルタの娘たち>というなぞめいた暗号に出てくる地名なのだ。ぞくぞくする。この小さな町全体が数多くのホテルやレストラン、民宿風の建物があって、タクシーの運転手はそのホテルの前でおろしてくれた。

グリム童話に出てくるようなデザイン
ホテル外観

予定していたホテルは Hotel La Residence という。その農家というか漁家というかを改造した独特の家の形をしている。真冬のことだし大丈夫だろうと予約もしていなかったが、42ユーロのしゃれたシ ングルルームに泊まれた。屋根が変な形をしているので、部屋も屋根の傾斜を受けて斜めになっている。まるで屋根裏部屋の雰囲気だ。

こ の部屋はテレビがつき電話も直通でシャワーもあるしトイレも専用だから、パリで泊まったホテルに比べると格段にリッチな感じだ。それにしても部屋代は安 い。レストランはホテルに付属している。レストラン内の巨大な暖炉には本物の薪がくべられ、赤々と燃えている。恋人同士には最適のホテルだろう。

夜のメニュー(3):エトルタのホテル付属のレストランで アントレ;魚のスープ、カニミソ味 主菜;白身魚のホワイトソースかけ、タマネギ、ポテト デセール;シュークリームの中身の表面焦がし、プラスコーヒー

上へ

針の岩  50メートルで海岸に出る。砂ではなく丸石だ。左を見ると、あの針の形をした岩が西日の傾いた空を背景にそびえ立っている。はるばるやってきたのだ。手前に穴があいてアーチになっている岩、そのうしろに針の岩が並び、両者のコンビネーションが絶妙である。真っ正面からはイギリス海峡の強い風が北西の方向から 吹き付けている。

エトルタの絶景
針の岩
海岸より西方(ルアーブル方面)に「針」が見える
拡大クリック
海岸東方
海岸より東方(ディエッペ方面)
海岸東方
針岩の前のがけから下の海岸を見下ろす
垂直の崖がそびえる向こう側はゴルフ場
針の岩を南方より眺める
針の岩を南方より眺める
グーグル航空写真
針の岩を西方より眺める
針の岩を西方より眺める。一番よい角度。
拡大クリック

東方を見ると、絶壁の上に教会が見える。エトルタは絶壁が途中で切れた海岸に面しているのだ。陸地は海まで来て突然に終わり、高さ30メートル以上の絶壁になっている。これは向こう側のイギリスの場合も同じで切り立つ白亜の絶壁になっている。

落石危険の看板 赤字で「自分の命は自分で守りましょう」とある。
自分の命を守ってください

怪盗紳士アルセーヌ・ルパンカモメが舞い、さまざまな花が春や夏には咲き乱れ、何よりも観光化された巨大な建物がない。見事なまでの保存状態である。針の岩に向かって遊歩道を歩く。絶壁なのに、手すりなどはほとんどない。自分の命は自分で守りましょうということだ。うねうねと続く道を登っていくと、針の岩を見下ろす地点に達する。

こここそ、「奇巌城」の副主人公ボートルレ少年が謎の暗号に含まれている数字や図形を手がかりに空洞への入り口を見つけた場所なのだ。ごていねいにも、小説にあった4角形のくりぬき窓まで実際にあるのには驚いた。

この地が世界中ののアルセーヌ・ルパン・ファンにとって巡礼の地になっていることは間違いない。壁を見渡すと、「奇巖城」に書かれてあった暗号とおぼしき落書きが、岩壁一面に残っている。また、バス停のそばには「ルパンの隠れ家( Le Clos A.Lupin )」という一種の記念館みたいなものもある。愛読した人にとっては、この一帯がたまらない魅力的な場所なのだ。

アルセーヌ・ルパンの隠れ家の看板
ルパンの隠れ家

岬と赤い門(浮田克躬)この高さから海を見下ろすと足がすくむ。しかも海風が強いので、しっかり立っていることもできない。陸側はゴルフ場になっている。雪が積もればまるでゲレンデに見えるようななだらかな傾斜を持ったゴルフ場だ。ここも同じく突然陸が海に落ち込んでいるのだ。海底はゴルフボールだらけかもしれない。

適当なところまで行って引き返す。この絶壁海岸は延々と続くのだ。はるか西方には灯台がかすかに見える。再びビーチに戻り、今度は右手、つまり東の方向にある遊歩道を通ってみる。こちら側には奇妙な形をした岩は少ないが、教会のところまで上りつめると海岸を遠くまで見渡すことができる。

針の岩を中心として、実に雄大な風景だ。三陸海岸はリアス式だが、こちらはいきなり落ち込む絶壁が続き、しかも白い色をしているので、全然印象が違う。またすぐ上の陸地は樹木はあまり生えておらず、ゴルフ場や牧草地向きの芝生が続いているのも特徴的だ。

なお、この一帯は、歴代の画家、特にモネも愛し、多くの絵(1)(2)(3)を残している。日本の画家でもこの風景に魅了された人が多数いる。右の絵は浮田克躬のもの。まさに”絵に描いたような風景”なのである。

上へ

観察日記(13)
オレンジ・トマト・ソーセージ
商店;あの有名な巨大スーパー、「カルフール」はどこにあるのだろう。アメリカ式の清潔で巨大なモールは退屈この上ない。そんなものは旅の対象ではない。少なくともパリ市内では見かけない。昔ながらのパパママ・ストアが多い。それがパリを歩く楽しさを倍増させている。

八百屋;根菜類とトマト・オレンジ、リンゴ、アボガドなどはあるが、青野菜がない。あってもせいぜいレタスかチシャぐらい。ピーマンは巨大。オレンジの一部はスペインから来ていた。

肉屋;冷蔵庫に入っていないで直接店頭に並べてある。たいていは大きな塊でスライスしていない。ソーセージは、白い脂肪のつぶつぶの入ったものが美味。ゆでて食べる。

薬屋:処方箋を扱っているようだ。その他爪切りなどの衛生用品一般。

サンドイッチ屋;各種パンの他、多様なお菓子、お総菜風のものもある。正統フランス風、イタリア系、イスラム系、それぞれ素材も味もまったく違う。伝統的フランスパンでは「PAUL」というチェーン店がパリ中に目立つ。日本にも進出を始めている。

食料品店;小さい間口で一人で営業している場合が多い。生鮮品以外なら何でも手にはいる。水代わりのワインなら多数そろえている。営業時間が長いのでコンビニがなくても平気。

上へ

ルアーブル  翌朝、海からの風はやみ、その代わり著しく冷え込んだらしい。午前10時前で氷点下3.5度を指している。バス停で待っていると、9時19分発のルアーブル行きが時間通り現れた。これは鉄道のない海岸地帯を通る、フェカンとルアーブルを結ぶバスだ。1日に10往復ぐらいしている。エトルタから乗車するとルアーブルまで6.30ユーロ。乗ったときに払う。前日に観光案内所で料金を聞いておき、ぴったりした金額を用意した。

乗客の大部分は運転手の地元の知り合いで、停留所に止まるたびに顔見知りが乗り込んできて運転手と世間話をしてまた別のところで降りていく。典型的な「田舎のバス」だ。 昨日のタクシーとは比較にならないほどむちゃくちゃとばす。バスの大きな車体が傾ぐほど急カーブでもスピードを落とさない。

自転車に乗ったサイクリストの一団に出会う。この地方道は歩道もなくぎりぎりの狭さだから自転車はさぞ危険だろう。バスは海岸と平行して森と牧場の点在する地域を走り抜ける。ルアーブルに近づくにつれて次第に一戸建ての家が沿道に増え始めた。途中ルアーブル空港にも立ち寄る。

港から見たルアーブル市街。真ん中にランドマークである教会の塔が見える
ルアーブル港から

ルアーブルは港町。特に観光名所といったものはないが、明治40年7月末、4年間のアメリカ滞在のあと、永井荷風は大西洋を横断して、この港に到着した。このあと鉄道でパリに向かう。「ふらんす物語」はその時の紀行だ。その中では冠詞なしで「アーブル」といっている。

大通りに沿って歩くと海岸に出る。途中歩道橋の下に寝るホームレス、ストライキをしてピケを張る一団に、警察がバリケードを築いて交通が遮断された光景を見る。労働争議は依然として多いのだろうか。

ストライキでは、まわりに、車がじゅずつなぎになっている。あとで知ったことだが、フランスではストライキが頻繁に起こるのだ。先に紹介した放送局の RFI も2004年の2月に決行している。これを前世紀の遺物と見るか?私はそうは思わない。むしろ「御用組合」がはびこり、歯車となり果てた日本やアメリカの労働者よりも、フランス人の方が「連帯」や「気力」を多く持っていると思うのだが。

さらに大通りを歩く。街の中心は駅よりもむしろ Hotel de Ville (オテル・ド・ビル=街のホテル・・・「市役所」の意味の場合もある)という大きなホテルとそのまわりの公園や商店街だ。なお、Hotel de Ville という名前は国中至る所にある。覚えやすい名前ではあるが、当たり前の名前でもある。

海岸は右手はエトルタ方面につながる砂浜。どこまでも海岸づたいに行けばベルギー、そしてオランダへとつながるのだ。左手は堤防とセーヌ河口へと続 く。ヨットハーバーがあり、貨物船が行き来している。街の中央には教会の建物だけが一つ突き出ておりこれが街全体のランドマークになっている。

ここからパリに帰るのに、1時間に一本でている特急を利用することもできるが、できたら高速バスがあればと案内所に聞いてみる。だが、パリ直通のバスはない とのこと。鉄道の方が早いし、確実だということだ。日本、韓国、アメリカ、カナダでは高速バス網も発達しているのだが、残念。一方ローカル・バスはあちこち に延びている。

パリ行きの特急に乗ればルーアンを経て2時間弱でパリのサン・ラザール駅にもどることができる。運賃25.20ユーロ。このあと前にいたホテルにさらに2泊申し込む。今度は部屋が代わった。ドアの鍵は前の鍵が壊れて大穴があいたところに別の鍵を取り付けてある代物で、防犯とは名前ばかり。

夜のメニュー(4):イタリアンレストランで アントレ;野菜サラダ 主菜;日替わりピザ、生ハム載せ デセール;なし ビール

上へ

ピカソ美術館 翌日午前中にピカソ美術館に向かう。ピカソの遺族によって寄贈された作品が中心で、「ゲルニカ」のような大作はないが、若い頃の作品やポスター類、手紙などが展示されている。ここも実に展示品が多い。入場料6.70ユーロ。

平和の鳩のポスター
平和の鳩のポスター

ロダン美術館のように、街の中のわかりにくいところにあり、しかも敷地が狭い。それでも日本人観光客がたくさん集まっていたし、中高生の団体見学でかなり混雑している。この美術館は他では必ずあるはずのおみやげ屋がない。

ピカソの作品は、世間で有名なもの以外に、便せんやクリスマスカードの隅に書いたちょっとした絵の中に才能のひらめきを感じさせる。シンプルでそれでいてズバリ特徴を示したマンガとも違うデザインなのだ。そのおもしろさはポスターにもよく現れている。彫刻にも手を出している。

もともと大変器用な人であり、抽象画でなく普通の具象画を描かせても、大変な描写力を持っていることがわかる。その下地の上に独自の抽象世界を作り上げたのだ。たとえば「ギター」という作品がどのように変遷していくかが興味深く展示されていた。画用紙を張り付けただけのもの、木のきれっぱしや糸をつけたも の、古い金物の廃物利用などで、この楽器をいかに表すか、さまざまな試みをしてきたことがわかる。

ピカソの美術館は、このパリの他に、スペインのバルセロナにもあり、そして2004年1月には同じくスペインの南にあるマラガにもできたそうだから、この3つをめぐるだけでもピカソファンにとってはもちろんのこと、ちょっとしたヨーロッパ周遊旅行が楽しめるというものだ。

上へ

モンマルトル オペラ座の隣にあるラファイエット百貨店の屋上から見た景色のうち、北方のモンマルトルにある丸屋根の寺院は非常に印象に残った。ピカソ美術館を出ると、早速メトロで北に向かい、アンベール駅( Anvers )に下車する。地上に出ると今までと雰囲気が違う。アラブ系の人々が多く、商店も中近東の衣類や布を売っている。

ちょうど昼時だったので、サンドイッチを買おうとしたが、いつも買っていたイタリア風のサンドイッチ以外に、羊の肉を焼いたケバブのサンドイッチがある。早速注文すると、トルコ系の顔をしたおやじさんの機嫌が急によくなった。4ユーロでその巨大なこと。ポテトフライまでおまけにつけてくれた。肉塊から巧みにそぎ落とした肉がたくさん入り、チリソースをつけたものだ が、これですっかり満腹する。

ムーラン・ルージュは、古い建物の間に突然あらわれる
ムーラン・ルージュ

これまでパリ市内で押し売りやしつこい客の呼び込みを受けたことはまったくなかったが、この地域は他と違うようだ。寺院の入り口にアル公園に足を踏み入れると、真っ黒な肌をしたザンビア人のグループが近づいてきて上手な英語で話しかける。

白と水色の糸を巧みに指にかけて「あやとり」のようにし、これはお守りだという。願い事を唱えてこの糸を手首に巻き付けて寺院に入ると願い事がかなうそうだ。そこまではよかったが、 次に出てきたのは寄付をしろという。小銭ではダメで、日本人やアメリカ人はお札、それも20ユーロぐらいが必要だという。

寄付の強要だ。日本人はいいカモにされているのだろうか。スキを見て抜け出し二度と彼らに出くわさないように別の道から寺院に入るコースを考える。メトロの通っている大通りをさらに西に進むと、まわりにポルノ・ショップや覗きビデオの店が増え始めた。客引きが近づいてきて、フランス語、英語、はては日本語で、寄って行けとしつこい。中には肩に手をかけて引っ張る者すらいる。

ほどなくキャバレーの元祖、ムーラン・ルージュ( Moulin rouge =赤い風車)が目にはいる。ここを中心にして歓楽街が広がり、昼間でも何か怪しい雰囲気だ。モンマルトルは南のモンパルナスと同じく、「マルトル山」というわけでセーヌ川の北側に向けてせり上がっている。

シャンソン歌手、コラボケール Cora Vaucaire の歌に「モンマルトルの丘 Complainte de la butte 」というのがあるが、なるほど、詩情にあふれた街並みが続き、かの詩人が名も知れぬ女と過ごした時を彷彿とさせる雰囲気である。

狭い路地をどんどん登っていく。他の観光客も同じ方向に向かっている。寺院の裏手に出る道だ。そしてその近くにはモンマルトル博物館がある。博物館といって も小さなアパルトマンぐらいしかない。中年のおじさんが一人で切符売りとおみやげ屋をやっている。入場料4.50ユーロ。

かつてモンマルトルはパリの裏手にある山だったが、そこに家が建ち始め、繁華街が発達しついには浅草のような娯楽の殿堂になった。今はその面影はあまりなく なったが、かつては華やかな演劇や歌謡のショーで人々がごった返していたのだ。また作家や画家も多くがこの地を気に入って暮らしていた。

この博物館は、さまざまな絵やポスターで当時の様子を紹介している。あのロートレックの「踊り子」や「黒猫」は世界的に有名になった。パリではこんな小さな博物館に散歩がてらふらりと入ることができるのがいい。

サクレ・クール寺院はまるでインドのタージ・マハールのようだ
サクレ・クール寺院

上へ

サクレ・クール寺院 この寺院は、それまでのキリスト教の教会と違って建築様式が非常にアラブ的である。まるでイスラム教のモスクのようでもある。だからこれがモンマルトルの丘の上に建っていると市内でも非常に目立つ。サクレ・クール( Sacré-Coeur =聖心)はバシリカ( Basilique )なので、宗教的特権を持ったカトリックの聖堂である。中には自由に入れるが、沈黙と信者を尊重して音をできるだけたてないのがマナーである。

ここからの市内のながめは抜群だ。ノートルダムも、パンテオンも、エッフェル塔も晴れた空のもと、実にくっきりと見える。おかげでエッフェル塔に登る気が失せた。右手にはちょっとしたケーブルカーがある。それほどの急坂なのだ。

下を見ると、ビレット公園とよばれる庭園が見える。その一角にさっきのザンビア人のグループがたむろしているのもみえる。次々と来る観光客のうちカモになりそうなものを見つけてはしつこく話しかけている。

彼らに出会わないように、庭園を大きく東側に回り込んで下に降りる。まわりの商店はアフガニスタンやイラク、イラン風の商品を売っているところが多い。歓楽街とアラブ的雰囲気が周辺を支配している。

上へ

ノートルダム内部  前を何度も通りながら今まで中に入るチャンスがなかった。日曜は大変な列だったし、夕刻や早朝では扉が開いていない。せっかくの静けさは絶え間なく続く観 光客のたてる音で破られてはいるが、ステンドグラスの光は薄暗い内部に神秘的な雰囲気を与えている。外壁に劣らず内部にも徹底した装飾と細部に渡る手を抜 かない細工が施されている。

イエス誕生
イエス誕生の人形展示
ステンドグラス
ステンドグラス

折からノエル( Noël = クリスマス)のシーズンで、特別にイエス誕生のシーンが人形を並べて飾られてあるコーナーがあった。それにしても祭壇に向かって次々とフラッシュをたく観光客の無神経さはどうだろう。この聖堂の信者たちはもう慣れっこになっているのだろうか。

たくさんのロウソクが置かれ、いくらかの寄付をして火をともす信者たちがいた。12月はオルガンの演奏会なども開かれる。また内部にはいるのは無料だが、別に建物の上にあがることもできて、この場合は有料だ。

夜のメニュー(5);カフェで アントレ;アボガドの甘味ドレッシングかけ 主菜;固い牛肉のタマネギのせ、プラス天ぷら味のフライドポテト デセール;イチゴとスグリ味のシャーベット、プラスコーヒー

上へ

ルーブル美術館 いよいよ最後の日が来てしまった。見ようと思ってまだ見ていないものが多数残っているのだが、それは次回に回すとして、やはりルーブルの一部でも見ておきたい。ピラミッド型の入り口で、7.50ユーロの入場料を払う。この膨大な展示品に対してこの安さ!

ルーブルを見て回るにはまず足が丈夫であること。すべて見るとすれば何キロ歩くことになるのだろう。大きく3つの部分に分かれているが、お互いに連絡し合っている。すべての展示品が見えるわけでない。日を限って一部の部門は閉鎖されたりもする。

入り口でもらえる全体地図は必需品である。これがないと同じところをぐるぐる回ったり、どうしても希望の展示を見ることができない羽目になる。日本語版は完備しているから心配ない。イヤホンで聴くガイドもあるし、重要部分には各国語で印刷した案内板が置いてある。

それにしても展示品が多すぎ、今後も増え続ければ、置く場所がなくなるのではないか。特にメソポタミア、エジプト、ギリシャなどの展示品は植民地時代に持ってきたものだ。持ってきたとは、「強奪した」「もらった」「拾った」などいろいろないきさつがある。

それぞれの品物が出土した国々はそれぞれの力で管理できるようになっているのだから、そろそろそれぞれの国に返還してもいい頃だ。それぞれの貴重な文化財は、そこに住む国民の大切なアイデンティティの源になるのだから。フランスは近隣諸国の分を含めて、自国だけで十分すぎる展示品を持っているのだから。

ここの最も有名な展示品といえばやはり、ダ・ビンチの「モナリザ」とギリシャ彫刻の「ミロのビーナス」ということになろうが、もちろん両作品の前はいつだって黒山の人だかり。その中で目立つのが模写人だ。美術館の許可を受けてそれぞれの絵の前に立ち、精密に模写していく。技術を磨くためだろうが、中には鑑定家が困り果てるほど似ているのもあれば、こちらから手を加えてやりたくなるほど下手なのもいる。

小中高生が多数、団体で見学にきている。彼らは先生やガイドの説明を受け、メモを取り、いくつかを模写というよりはスケッチをしている。このスケッチは大変重要だ。ただぽかんと眺めるだけでなく、実際にそれを描いてみることによってその作品の偉大さが身をもってわかる。それにしても子供たちの多いこと!!美術館見学は重要なカリキュラムの一部なのだ。どこかの国のように計算さえ得意であればいいのとは違うようだ。

アフリカ芸術の部門もある。彼らの作り出すものは、ジャズの場合を考えてもわかるようにシンプルながら何か根源的なものを含んでいる。その彫刻にも抽象的な がら、強烈に訴えかけてくるものがいくつかあった。特に「女の像」などは女の体として必要なものをすべて備えていながらそれ以外のものを大胆に切り捨てた歯切れの良さが素晴らしい(写真に撮ればよかった・・・後悔)。

ローマ時代につくられたパープル・カラーの大理石の製品はエジプトの石切場で生産され、はるばる船で運ばれてきてそれぞれの形に加工された。昔からヨーロッパとエジプトとは深いつながりがあったのだ。

中世以降のヨーロッパ絵画が延々と続く。みな同じ様式であり、様式はアイデンティティの証ではあるのだが、みな見て歩くといささか食傷気味になる。特に北ヨーロッパ系の絵画はみんなお互いに似ている。

ナポレオン3世の居室の展示は一見の価値がある。ナポレオン1世の甥であった3世は、戦争は得意ではなかったが、パリの街を改造したり博覧会を開いたりし て、文化的発展に貢献した。そのセンスが彼の部屋に現れている。そのインテリアは単に豪華であるだけでなく、華麗そのものである。

夜のメニュー(6);再びイタリアンレストランで アントレ;不明 主菜;お祝いピザ、エビのせ デセール;なし ビール

上へ

旅の終わり ルーブルを出ると、再びモンパルナスに、ラファイエットに、リュクサンブールに、買い物に出かけた。6泊7日はパリを相当見ることができるが十分ではない。ましてや周辺の田舎に足を延ばしたので、見切れないものが多数残った。これはまた次回に回すことにしよう。

いや、今回の旅で、みたいものがかえって増えてしまった。これも見ればよかった、あれも見ればよかったと、帰国してから次々と思い出されるから困ったものだ。たとえば「地下下水道」、たとえば「ポスター博物館」、たとえば「市の博物館」、たとえば「アラブ研究所」等々・・・パリの魅力は、この街をますます詳しく知りたくなるような力を持っている。

モネ:針の岩今回はデジカメのおかげでずいぶん写真を撮った。だが振り返ってみると、写真を撮ることに集中すれば、実物を見ることがおろそかになり、逆に実物を見ることに集中すると、写真を撮ることがおろそかになるのである。また旅行記を書こうという気持があると、「取材旅行」のようになってしまうことも否めない。

さて、最後の夕食を済ませると、空港に向かった。午後11時15分の便なので、午後9時頃に到着した。成田行きは、冬季であっても日本人観光客でほぼ満席である。 パリは思った通り魅力的な街だ。街の雰囲気といい、建築物といい、人々の暮らしといい、もちろん日本とも、またアメリカ文明ともまるで違っている。世界が次第に画一化する中、旅はこんな個性と多様性を教えてくれる場所を求めていくのだ。

今やアメリカ文明は終わった。アメリカに行ってもニューヨーク、ニューオリンズ、サンフランシスコ以外の街はみんな「モール」だ。アメリカの画一的な金儲け文明は文化 の不毛をもたらす。どこに行っても同じドラッグストア、コンビニ、スーパー、チェーン店の繰り返し。

世界の文明は多元的、多様化の中から求められなければならない。日本もせっかく世界にもまれな固有の文化を育ててきたのに、戦後はすっ かり軍事的にも政治的にはもちろんのこと、生活スタイルまですっかり対米追随になっている。

これからの旅はこのパリのように頑固さと古さ、新しさ、そして個性を持った国々を訪れなければなるまい。アメリカのような画一化を目指す大規模消費文明の及んだところでは旅をする価値がない。急げ!世界がみんな画一化しないうちに!

記 録 期間; 2003年12月11日~18日 第1日目 空港→ノートルダム→ルーブル→コンコルド広場→エリゼ宮周辺→シャンゼリゼ→凱旋門→海洋博物館→エッフェ ル塔→リュクサンブール 第2日目 アンバリッド→ロダン美術館→オペラ座→オペラ座周辺→ノートルダム 第3日目 ベルサイユ宮殿→ランブイエ城→モン パルナス周辺 第4日目 ルーアン→フェカン→エトルタ 第5日目 エトルタ→ルアーブル 第6日目 ピカソ美術館→モンマルトル周辺→モンマルトル博物 館→サクレ・クール寺院→ノートルダム 第7日目 ルーブル美術館→買い物→空港 航空機;エールフランス277便(行き)278便(帰り)総費用:20万円以下 為替レート:1ユーロ=132円(2003年12月10日交換)

参考サイト モンパリ フランス政府観光局

上へ

H O M E > 体験編 > 旅行記 > パリとエトルタ(3)

© 西田茂博 NISHIDA shigehiro

inserted by FC2 system