ずっと長崎・ちょっと広島

(2005年7月)

龍馬のぶーつ

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~長崎市内(1)~グラバー園~大浦天主堂~

グラバー園
グラバー園入り口の「参道」。左右におみやげ屋が立ち並ぶ
グラバー園
グラバー園入り口。濃い緑に囲まれている
グラバー園
エスカレーター乗り場。この炎天下では誰も歩かない
グラバー園
旧オルト住宅。4つある邸宅のうちの一つ。開放的な南国風。
グラバー園
同じくオルト住宅の庭園。針金製のラクダは植物をからみつかせるため。
グラバー園
マントルピースや暖炉が備えられている。デザインは簡素。
グラバー園
オペラ歌手、喜波貞子の生涯を紹介する特別展のポスター
グラバー園
旧リンガー住宅、グラバーと同じく長崎で活躍した商人。
グラバー園
邸内にはかつての住人のお気に入りの絵や標語も残されている
グラバー園
最大の邸宅グラバー邸。緑の中に埋もれて全体が撮影できない。
大浦天主堂
グラバー園のすぐとなりに大浦天主堂がある。
大浦天主堂
大浦天主堂における「信徒発見」のレリーフ

まずはグラバー園外部リンクに向かう。駅前の観光案内所でもらった地図によれば、平和公園のある北部(浦上地区)、中華街や歓楽街のある中部、そしてグラバー邸を中心とする南部(大浦地区)の3つに分かれる。

次々と大急ぎで各地を巡り歩く観光客なら観光バスで足早にこれらを渡り歩かなければならないが、今回は市内だけをじっくり見ることにしたので、時間のことは気にせず、町並みをゆっくり眺めながらグラバー邸方面に向かう市電で終点(石橋)まで向かう。ここは海側は観光波止場で、巨大な客船が停泊している。陸側は急にせり上がり丘になっている。

かつて長崎の街で活躍したヨーロッパからの商人たちが丘の上に建てた西洋風建築だが、グラバー、リンガー、ウォーカー、オルトと4人がそれぞれ建てたシンプルな邸宅が有名であるが、むしろそれらを取り囲む緑豊かなイギリス風庭園が見どころである。

そして何といってもプッチーニの「蝶々夫人」の舞台である。園内にはプッチーニの肖像もある。また、日本ではあまり知られていないが、喜波貞子(きわていこ)というヨーロッパ人の血が混じったオペラ歌手が活躍したことがたまたま紹介されていた。

そしてここもほかの地域と同じく急な坂が各所にあるものだから、入り口から最高地点まで何と「屋外エスカレーター」ができている。無料だが、これは入場料に入っているのであろう。これがないと高齢者はもちろん、当日のように炎天下では誰でもアゴが出てしまいそうな高いところにある。

園内から下ってきたとき、入り口の所にいかにも夏バテしたような犬を連れたおじさんがいて、庭園の頂上には日陰があるだろうかと聞いてくるものだから、その犬のためにもぜひ今回はやめた方がいいとすすめておいた。

だが高いところにあるだけあって、港の眺めは非常によい。深く奥まで切れ込んだ水深のある湾を持った長崎港だが、グラバー邸のある丘から見ると、太い河のように見える。残念ながら高温のせいか山一面に靄(もや)がかかっていて遠くまで見渡すことができなかったが。

市電の降り場からグラバー邸の入り口まではちょうど参道のようになっていて両側にはおみやげ屋が並んでいる。いちばんよく売れているのはやはりカステラのようだ。ただあまりに価格が安いものもあり、内容的には不安である。あとはガラス細工と、中国料理の影響を受けた角煮と、角煮まんじゅうがよく売れている。

参道の途中には大浦天主堂がある。これは北部の浦上天主堂と混同しやすい。こちらのほうは原爆の被害を受けることはなく、明治維新直前にフランスの神父たちによって完成した。このうえなくシンプルなデザインだが、パリのノートルダムと同じくゴシック様式なのだ。天井は一点に集まり、ステンドガラスが周囲を取り巻いている。

この日本最古の天主堂における最大の事件は「信徒発見」であろう。開国によって天主堂の建設が完成したとき、これまで厳しい切支丹弾圧のもとにあった農民たちが実は何世代もの自分たちの信仰を家族で村単位で生かし続け、神父の前に自分たちが信者であると白日の下に名乗り出たのだ。

秀吉以来、遠藤周作の小説「沈黙」にあるような非情な弾圧のあとで、ようやく信教の自由のもとに彼らは晴れてキリスト教信者として暮らせるようになった。(もっともそこのところがまだ理解できていなかった維新直後の明治政府によってしばらく悲惨な弾圧があったのだが)

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