ずっと長崎・ちょっと広島

(2005年7月)

龍馬のぶーつ

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~長崎市内(3)~浦上天主堂~平和公園~

26聖人
長崎駅のすぐそばにある、26聖人殉教の碑。まわりは猛烈なセミの合唱speaker
浦上天主堂
浦上天主堂。今日は日曜日なのでちょうど礼拝者が帰るところだった
浦上天主堂
浦上天主堂の前庭にある(おそらく江戸時代からの)古い聖像。
平和祈念像
非常にインパクトのある平和祈念像。平和公園内。
長崎爆心地
この上空で原爆が炸裂した。右にいるのはスペイン語を話す団体。
浦上天主堂残骸
旧浦上天主堂の原爆で破壊された建物の一部

翌朝、日曜日、駅前で朝食を取った跡、北行き=赤迫(あかさこ)行きの市電に乗り込み、松山町で下車。まずは電車の路面から見て、山側にどんどん登って行く。これは各施設を見る場合に、先に最高地点に達しておけば、あとはすべて下り坂でゆっくり見物できるからだ。しかも途中にはきっと小さな食料スーパーなどがあるから、そこで飲料水と、ミニトマトを調達できる。

実際、真夏の観光地巡りは飲料水の携帯が欠かせない。熱中症にならないためには絶えず水分を補給しておく必要がある。ペットボトルではすぐに暖まってしまうから、持参した魔法瓶に直ちに移しておく。こういうとき量り売りであれば、ボトルのゴミも生じないのだが。

また、汗によって失われる塩分を補給するため、食事の時はソースやしょうゆなどを多めにかけてナトリュームを取り込んでおく。また、その他のミネラルビタミンの補給には、今盛りのトマトがいちばんだ。サプリメントやジュースと違ってとにかく安くしかも栄養分がまんべんなく含まれ、加工や精製によって成分が破壊されていない。公園のベンチでトマトにかぶりつくと元気百倍だ。

さて、最高地点とは、浦上の天主堂である。ここは原爆の時になぎ倒されその残骸も丘の斜面に保存されている。当時は信徒たちがレンガを一個ずつ持ち寄ってようやく新しく建て直したそうだが、今では自家用車に乗った信者たちが日曜日の礼拝を終えたらしく、一斉に帰ろうとしているので、長い車の列ができている。自家用車での礼拝も結構だが、先人達の苦労を忘れないでほしいものだ。

天主堂から下ると市電の通る道にかけて原爆の被害を保存する施設になっている。原爆投下地点を中心に、全体が公園となっており、爆心地のモニュメント、各国から寄贈された彫刻類、資料館、追悼の施設からなっている。

日本人だけでなく外国人観光客も多い。スペイン語を話す若い女だけの集団が爆心モニュメントの前でギターを伴奏に賛美歌を歌っていた。おそらくカトリック系の人々だと思われる。夏休みだから、子供連れも多い。ここは普通の楽しむための観光地とは違うが、訪れる人々の数はこの猛暑にもかかわらず多い。

しかし何といっても長崎原爆資料館外部リンクに入ってみなければ、原爆被害の詳細はわからない。ここでは投下される前の長崎の町の様子、その当日の惨状、救護体制、放射線障害によってそのの地に起こった多くの病気や死者、その後の各国による核実験とていねいに展示がされている。

黒こげの死体、当時の人々が着ていた服、ねじ曲げられた鉄塔や影だけが黒く残った壁など、その被害の悲惨さは普通の爆弾の直撃を半径2キロ以上にわたって及んだということを示している。しかもその跡に出てきた放射線によるさまざまな病気と、原爆の被害は終わることがない。

河口にあり平坦な広島と違い、長崎はまわりを山に囲まれているから、原爆の爆風や熱戦による被害はかなり地域的に限定されていたと思われる。山や丘が衝立(ついたて)の役割を果たしていたのである。投下の当日本来の目標であった今の北九州市にあった小倉では視界不良で、急遽長崎に変更になったという。

投下した爆弾の模型によると非常に丸みを帯びており、ファットマン( fat man )と呼ばれていたそうだが、これは広島の場合と違いプルトニゥムが入っていた。広島と長崎で被害の比較実験を行ったのであろう。そもそもこのふたつの原爆投下は将来の核戦争に向けての人体実験だったのである。

この後に続く追悼のための施設(国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館外部リンク)はシンプルな黒い石を基調として、水が流れる沈黙の空間である。水が至る所に流れているのは、多くの被爆者が「水をくれ・・・」といいながら死んでいったからである。そこは宗教色をなくして、どんな宗教、思想信条の人でもこの悲劇について、またそれによって亡くなった人のことを静かに考えることができるように作られている。静かに立っていると水の流れる音だけが聞こえてくるのだ。

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