ずっと長崎・ちょっと広島

(2005年7月)

龍馬のぶーつ

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~長崎市内(4)~シーボルト記念館~諏訪神社~

シーボルト記念館
シーボルト記念館。「書斎跡」とはかつての鳴滝塾。
シーボルト胸像
シーボルト胸像。まわりにはアジサイが植えられている。
諏訪神社
長崎で最大の諏訪神社。市街地の真ん中にある。
諏訪神社鳥居
諏訪神社の裏側にある小さなお宮への参道。
諏訪神社
お宮の前にいる2匹のキツネのうちの左側。

昼に再びチャンポン(今回は失敗。麺は良かったが豚骨スープは落第)。市電の路線で北東に向かう線があり、これにのって終点で降りる(螢茶屋)。シーボルト記念館をめざす。降りて交番で聞いてみると、行きすぎてしまったらしい。ちゃんと「シーボルト通り」があってあがってゆくにつれてどんどん狭くなり、これまた住宅地の中を縫うように入ってゆき、幅は軽自動車がやっと通れるほどの道なのだ。

かつてまわりは一面の田んぼか畑であったであろう所にかつてシーボルトの開いていた「鳴滝塾」の跡がある。鳴滝町と呼ばれるこの近辺ではおちおち学習塾も開けまい。名前負けしてしまう。雑草が生い茂り、更地が公園になっているだけだがそのとなりに記念館があり、シーボルトの足跡が詳細に説明されている。アジサイがところどころに植えてあるが、シーボルトはこの日本特産の花が好きだったのだという。

彼が江戸時代に日本医学の基礎を作ったのだが、オランダに帰国の際に暴風で船が長崎に戻ってきてしまい、その時の積み荷検査で持ち出し禁止となっていた日本地図が入っているのが知れてスパイと思われ日本追放となってしまった(シーボルト事件)。このため妻と娘とも生き別れになった。

だが30年後日本が開国してシーボルトは妻子と再会できることになった。もっとも二人とも再婚しており、シーボルトも自分の息子を連れてやって来たのだが。また日本人との妻の間に生まれた娘は日本最初の女医となった。

再び市電の通る道に出て中心部へ向かうと、長崎でいちばん有名で十月には「長崎くんち」の行われる諏訪神社へ向かう。鳥居の入り口に立つとはるかかなたまで石段が続く。腹ごしらえをして登ってみたが、山にかかっていた雲がどんどん上空を覆い、突然大粒の雨が降り出した。スコールのような激しさで山門に避難したが、降り出しも早いが降りやみも早い。

この神社には明治時代の長崎県警察の知恵のたまもの、「迷い子知らせ石」がある。参詣の雑踏ではぐれた子供や、探し回る親はこの石の前に立って待っていればよい。風雨にさらされて半分文字の部分が欠けているが、これで数知れぬ親子の対面があったそうだ。

雨があがった頃、女子高校生らしき女の子がまわりをきょろきょろしながら大急ぎで石段を登って行く。何をするのかと思ったら、境内のあるところを大急ぎで駆け抜けてきている。そのあと満足したように石段を下りていった。一体何のことだろうといぶかりながら境内に入ってみると、そこは恋人のための「願かけ」の場所だった。定まったコースを歩ければ、恋が成就するとか書いてある。

さらに奥の方には鳥居が何十本も重ねてある小さなお宮があり、これは詣ると賢くなると言う。両脇には見事なキツネの像が二匹待ちかまえていて、一方のキツネの前足は大勢の人々がこすったらしくテラテラに光っている。にわか雨のあとで周りには人もおらず、深閑とした森林に囲まれた秘密の場所にふさわしい。壮大な諏訪神社よりこちらのほうが親しみがもてる。

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