広島・愛媛・大分

(2006年4月)

広島・愛媛・大分

宮島&フェリー松山四万十川フェリー&別府杵築&柳ヶ浦

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今回は2005年の香川、高知、徳島に引き続き、四国の西半分を回ることにした。そこにたどり着くには今までのように「青春18きっぷ外部リンク」を使用したが、これに加えて、フェリー、高速バス、レンタカーもそれぞれのルートに応じて使い分けた。

4 月は春休みの時期で、うかうかしていると、関東出発の交通機関はすぐ予約がいっぱいになる。西日本に向かうには、夜行快速、「ムーンライトながら」が最適 なのだが、すでに満席になってしまっていた。それで、新宿発神戸三宮着の深夜高速バスを使うことにしたのだ。これは片道4000円と安いが、「ながら」の 指定券510円との差は大きい。

神戸三宮に午前7時に到着。これから先、高松を経由して、松山に向かうか、それとも広島まで行ってみるかどちらを選ぼうか?神戸から乗った「新快速」が姫路に到着すると、ちょうど広島県の三原(みはら)行きが出発するところだった。これならスムーズに広島に行けそうだ。

昔、アウトドア雑誌「ビーパル」に「行きあたりばっ旅」という連載物があり、いつも楽しんで読んでいたが、自分もまさにこんな旅だ。国内旅行の時は事前の計画をことさら立てないで運の巡り合わせに任せるとしよう。

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宮島~瀬戸内海フェリー 1日目、姫路から乗った普通列車は、相生から岡山にかけて人々を新幹線に乗せるためか、意図的に在来線の本数を減らしているため、非常に混みあう。腹立たしいことこの上ない。春休みのために旅行する学生の数も増えて、ずっと立ち通しだった。

広島に向かったのは、実は去年(2005年)の夏に、平和公園を見学したときに時間がなくて近くの宮島を訪れることができなかったことにある。それで、広島駅に到着しても下車せず、そのまま2駅ほど先まで乗って、「宮島口」で降りた。

広 島駅から宮島口までは、路面電車も平行して走っている。JR の駅でいえば4駅に相当するかなり長い区間だが、沿線は住宅が建ち並び短い区間に停留所が設置されている。瀬戸内海の風景が開け、あちこちに大小の島が見 えてくる。このあたりは安芸灘と呼ばれ、島の数もたくさんある海域だ。

前を行く親子連れが駆け出す。たぶんフェリーの時間が迫っているのだろう。一緒に走るが、駅を出て交差点では地下道をもぐらされ、けっこう港は駅から離れている。500メートルぐらいか。間一髪でフェリーに間に合う。私が最後の乗客だった。このフェリーはJR が運営しているので、「18きっぷ」で乗ることができる。

宮島外部リンクは、松島、天橋立と並んで「日本三景」の一つ。本州からわずか2キロほどのところに原生林におおわれた島があり、そこに神社が設けられている。フェリーから見ると何といっても海上に突っ立った真っ赤な鳥居が印象的だ。

わずか10分ほどで島に到着する。桟橋から、右方向に進むと神社があるという。桟橋前の広場には、鹿がうようよしている。観光客にすっかり慣れていて、エサも十分もらっているせいか、毛並みもよい。

有 名な神社やお寺ではどこでもそうだが、参道沿いは、食べ物屋やおみやげ屋でいっぱい。まんじゅうといえば日本中どこでも同じと思いがちだが、どっこいここ の「もみじまんじゅう」はくせがなくなかなかいける。中に何も入っていないものと、レーズン入りを食べてみたが飽きのこない味だ。それぞれの店では1個や 2個でも気軽に売ってくれるので、口にほおばりながら、歩くエネルギー供給のためのおやつという、お菓子の本来の楽しみ方をすることができる。

参 道を抜けると、境内に入る。普通の神社と違い、左は山、右は瀬戸内海の青い海だ。多数の鹿が人間の間を歩き回っている。海上で見た鳥居は、真っ赤に塗ら れ、この神社の象徴である。この日は月曜日だったが、団体客も含めて非常に人出が多い。どこかの観光ガイドの近くについてゆき、この神社が平氏とのつなが りが深かったことを知る。

浅い水の上に柱を立ててその上に回廊を巡らせた造りである。入り口から一方通行で前に進む。水害で 大きな被害を受けていたのもだいたい回復したらしく、朱色で統一された建物を回ってゆく。もちろん現在の建物は、海の上であるから常に修理と補強を重ねて きているのであろうが、屋根の上を見ると、杉の皮らしきものが分厚く重ねられて、ちょうど昔の農家の茅(かや)ぶき屋根のような構造になっている。

回 廊の下をのぞくと、ごく浅いところを海水が寄せては引いており、その間には海苔が漂い、小魚が泳ぐ。出口に達すると、そこからは山回りにもとの桟橋に戻る か、もっと先まで行って原生林の中に立ち入ることもできるし、中央にそびえるちょっとした山に登山をすることもできる。

だが、ここにあまり長い間滞在もできないので、途中のお寺や五重塔、そして満開の桜を眺めながら戻ることにした。実は桟橋ではレンタサイクルがあったのだ。その気になればそれで島を一周してみることも可能だし、瀬戸内のさわやかな風を胸いっぱいに吸うこともできる。

フェリーから見た宮島口
JR の宮島航路に使われているフェリー
宮島を臨む
神社入り口の鳥居
海中にそびえ立つ真っ赤な鳥居
神社回廊の入り口
杉の皮をはさんだ屋根部分
対岸の本州を背景にして
宮島ー広島港間の高速艇
広島ー松山間の水中翼船

さて、帰りは先の宮島電鉄を使って路面電車で帰るつもりでいたが、ふと見ると、広島港行きの高速艇が出ているとある。しかも広島に着くとすぐに松山行きの船と連絡しているというのだ。

こ れだともう陸路に頼らず松山にゆける。ただ船というものは、2種類のパターンがある。一つは従来の「ポンポン船」であり、料金は燃料を食わないだけあって 実に安い。ところがもう一つは「高速艇」。これは水中翼船やホーバークラフトも含んでいるが、これがスピードは速い代わりに、料金は目の玉の飛び出るほど 高い。

松山まで7000円近くを払うはめになってしまった。だが、海の上の旅は快適である。しかも瀬戸内海は波やうねりが少ないから乗ったとたんに眠くなる。宮島から広島市の北の端にある港についた後、すぐに巨大な水中翼船であるスーパージェット(瀬戸内海汽船外部リンク)に乗りかえた。これは列車でいえばグリーン車みたいなもので、巨大な船の割に乗客は少ないが、船内はかなり豪華に作ってある。スピードがあるために甲板に出ることはできない。

約 1時間余りで松山観光港に到着したが、途中常に猛スピードで突進していたわけではない。というのは、広島港を出てまもなく呉(くれ)港のあたりに「音戸ノ 瀬戸」という非常に狭い海峡があり、前をゆく貨物船がゆっくりなので追突しないためにかなりの長い時間徐行を余儀なくされたのだ。このあたりは島が非常に 多く入り組んでおり、わざわざ直角に曲がらなければならない箇所もあるのだ。

この日は快晴というわけではなく、霞がかかるよ うな日和だったので、遠くに見える島は霞んで見える。波のほとんどない水面を、相当の音をあげながら高速船は直進するのだ。島々の中には「耕して天に至 る」と言われるとおりに段々畑が見事にできあがった島もあるし、原生林しかないような島もある。温暖で急激な冷え込みのない気候は、作物の栽培には大変適 しているようだ。北国の人間からすると実にうらやましい。

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松山~道後温泉 夕方近く、高速船は松山観光港に到着した。この港は意外に市街地から離れており、リムジンバスに乗るか、近くの伊予電鉄の駅までバスに乗ってそれから電車で中心部に向かうかしなければならない。

リ ムジンバスに乗ることにした。この名前はまるで空港から都心に向かうような雰囲気を持っている。市街地にはいるとやはり、「漱石」「坊ちゃん」そして「マ ドンナ」の名前がそこかしこに見える。高知はどこへ行っても「龍馬」だったのに似ている。しかも今年は坊ちゃんが書かれてから100周年だそうだ。坊ちゃ んは松山にとって名誉市民であり、稼ぎ頭なのだ。

松山外部リンクは 日露戦争後、ロシア兵の捕虜がしばらく滞在した町でもあったそうだ。彼らは解放されるまでの間、松山市民と交流し、道後温泉に入り、日本の生活を当時の西 洋人としては珍しく多くの人数で体験することができた。こんな意外な事実が後の両国の関係や、文化に何らかの影響を及ぼすこともあるかもしれないーーーふ と見たパンフレットから

町中の看板には「・・・タルト」が目に付く。タルトといえば、甘いお菓子であるが、普通の日本人の生活では、ショートケーキとかマドレーヌといった類ほどにはあまりなじみがないが、この町ではこの名前が至る所に出ているのである。

やがて市電の路線が見えてきた。高知や長崎、広島と同様、市電は町をなごやかにし、車によって殺伐とした風景を和らげてくれる。そして何よりも人々と商店街を近づけてくれるのだ。さて、ここが中心だろうと思って、JR 松山駅に降りた。だが何となく様子がおかしい。この人口の町にしては駅舎が貧弱だし、名店街や大きなデパートがない。

あとでわかったことなのだが、実はこの町の中心はJR 松山駅ではなく、伊予電鉄外部リンクの松山市駅なのだ。関東の場合にも私鉄の駅の前が繁栄していることが少なくないが、地方都市では珍しい。伊予電鉄の方がはるかに地元に密着しているということか。こちらの駅前には巨大な高島屋デパートがある。

道後温泉にあるはずの宿を探しに行くついでに、まずは徒歩で松山城跡のある公園に向かう。お堀には白鳥やカモの類だけでなく、亀のすみかもあって、多くの亀たちが板の上で日向ぼっこをしている。ここは市街地の中心部で、まわりに官庁が並んでいる。

歩 き疲れたところで道後温泉行きの路面電車に乗る。全路線一律150円(2006年4月現在)。決して高くはないが、さらにICい~カードというシステムが ある。このカードを一枚300円で買うと、その日は路面電車に乗り放題なのだ。残念ながらこれに気付いたのはその日も終わりに近かったが・・・どの都市で も路面電車に乗ってもらおうといろいろ工夫をしているようだ。なお、ここでは市営ではなく、私鉄の伊予電鉄が経営している。

夕 方の電車はかなり込む。だが、次々と電車がやってくるので、バスのように待たされるときの焦燥感がない。停留所には、さまざまな人が気軽に集まってくる。 たまたま横にいたおばあさんが滑って転び、後頭部をしたたかぶつけるという事故があった。助け起こして電車に乗せてあげたが、これも市民生活の一幕であ る。

終点手前の「道後温泉公園」では、丘の上に満開の桜の下で大勢の人々がこれから夜桜を楽しむのだろう、酔った声が聞こえてくる。終点が「道後温泉外部リンク」だ。電車の駅前には、「坊ちゃん列車」という蒸気機関車の格好をした車輌が鎮座しているが、実はこれは飾りものではなかった。路面電車の線路上を観光客向けに定期運転しているのである。

こ こは実は谷間のようだ。丘の方へ向かう石段の向こうには「湯神社」があり、色とりどりのスナックなどの看板が並び、その他温泉場にはつきもののさまざまな 娯楽施設が並んでいる。アーケードになっている土産物街はなかなかの規模だ。普通、温泉といえば、海沿いのリゾートや山奥にあるものだが、ここはまさに 「都市型温泉」なのだ。

ここでも「坊ちゃん饅頭」の類はいうに及ばず、何と「漱石コーヒー」たるものが売っている。一体どん な味がするものやら。そしてアーケード街の奥には、愛媛県のどんな観光ガイドにも載っている、あのクラシックな木造の温泉場が建っている。日本風建築のよ さをいかし、古びれば古びるほど味の出てくる様式だ。数多くの出窓からは浴客の顔がたくさんのぞいている。その中には外国人の顔も決して少なくない。

ここが本館で、西側に少し離れたところに椿湯という主に地元の人々が入る浴場があるが、ともに入浴料金は、格安で300か400円ぐらいである。ただおもしろいのは本館では、これに上乗せしてお菓子やお茶付きとか、皇族専用(見学だけ)というタイプもあるのだ。

最 近はやりの健康ランドを期待してはいけない。別にジャグジーやサウナ、マッサージ装置があるわけではない。そんなのなら近所ので十分だ。ここは天井が高 く、古く苔むしたタイル張りの壁に囲まれた、何百年だか知らないが、無数の人々が入ったはずの、かなりぬるめの大きな浴槽一つだけなのだ。それでもここの お湯は体がよく温まる。

それから忘れてはならないことは、万葉女流詩人、額田女王(ぬかたのおおきみ)のあのあまりに有名な作品、「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今はこぎ出でな」にでてくる熟田津(にきたづ)とは、この道後温泉の近く(またはど真ん中)だという説があるのだ。

当時は海がこの道後温泉の谷間にまで入り込み、船着き場があったのかもしれない。額田女王は未来の天智天皇である、中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)の朝鮮遠征に向けて励ます気持ちで作ったのだという。

た しかに温泉場の横町として、「にきたづの道」はあった。だが、看板だけで何の説明もなく、坊ちゃんやマドンナが氾濫する中、顧みる人もいない。今の若者が 万葉集を知っているはずはない(受験の知識をのぞいて)。その歌碑は、少し山を上がっていった護国神社というところにあるそうだが、確かめる機会はなかっ た。

残念ながら電話帳で調べていた宿はつぶれたのか営業しておらず、やむなく松山市駅前に戻った。駅前に大きなカプセルホテルがあり、格安だが風呂は共同シャワーしかない。お風呂に入りたければ道後へどうぞというわけか。

松山市内の路面電車・JR 松山駅前
新型タイプも走っている
城山公園のお堀に住む亀たち
道後温泉駅前の”坊ちゃん号”
道後温泉駅前から”湯神社”を臨む
道後温泉本館・全体
道後温泉本館・正面入り口から

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宇和島~四万十川  2日目、松山での一泊後、翌朝宇和島を目指す。宇和島は愛媛県の西、九州に面する港町だ。フェリーはもっと北にある八幡浜から出航するようになってからは 交通の要所としての重要性は薄れたが、漁業基地として「じゃこ天」「かまぼこ」は、そばなどに入っていたし、酒のつまみとしても実に美味しい。闘牛も有名 で、駅前に牛の銅像がある。

人によって好みは違うだろうが、ここで作られる魚の加工品は、生臭いとは言わないまでも素材の味をいかしており、都会人のために作られた癖のない、だが今ひとつ野性味のない味に物足りない人には、なかなかの魅力だ。

距離が短いため、松山・宇和島間は「青春18きっぷ」を使っては損である(つまり2300円以下で行けてしまう)。それで宇和島自動車の都市間バスを利用 することにした。特急と急行があり、前者は大部分高速道路を使用するが、後者は一般道を行くので、多くの停留所で客を拾う。

途中は起伏に富んだ丘。山間部には、農家が寄り集まっているが、その大部分は今や新建材が一般的になった本州のチャチなデザインではなく、美しい黒い瓦がきちんと並べられた屋根を持つ。そしてミカンのあざやかな色がバスの走行と共に見え隠れする。

現 代の一戸建てのデザインは新建材のためにシックハウス症候群は言わずもがな、醜悪な外観ばかりで、文化的に残すような価値のある家は皆無だ。これに対し、 昨日見た道後温泉の本館のように、日本人の工夫した瓦、板葺きを中心にした様式は、それがたくさん集まっていると、西洋のゴシックやバロック様式に劣らず 美しく見る人の心を和ませる。

ちょっと寝坊をしたために、急行バスに乗ることになり、到着は正午ちょっと手前となってしまった。つまり3時間弱かかったのである。ここからの観光は、鉄道はもちろんのこと、バスの路線もあまり集中していないので、移動に非常に時間がかかる。

そ こで思いついたのが、レンタカーの使用である。初の試みとして南下し、足摺(あしずり)岬や四万十(しまんと)川を見るつもりであった。駅のレンタカーの 店に行って聞くと、いちばん小さい車で6時間借りると、すべて込みで6300円だという。これに走っただけのガソリン代が加わる。時間的にはもちろん、値 段の上でもバスより有利だ。

しかし11時半では、6時間で、足摺と四万十川の両方を回るのは無理だろうとのこと。しかも夕方には雨が降り出すという予報もある。それでとにかく、この二つの分岐点である中村(高知県四万十市外部リンク中村)に、この地方の最も主要な道路である国道56号線を使って南下することにした。右手には国立公園の宇和海が見える。この近辺は半島と湾が実に複雑に入り組んでいる。

かなり交通量は多かったが、2時頃中村に到着した。目の前に大きな橋が見えてくる。そしてその下を流れる河があの四万十川なのだ。悠々たる流れ、コンクリートに堤防がなく、そのかわり広々と広がる河原。昔日本の川はすべてこのようだったのだが・・・

四万十川川縁の生き物たちの声speaker

四万十市中村の川原より上流を臨む
沈下橋の一つ、高瀬橋
コンクリート護岸ではない自然のままの川岸
霧に霞む四万十川
内側の川原は広々としている
川は好き勝手に蛇行を繰り返す
さくらと四万十川はよく合う
若葉と四万十川
江川崎付近より上流を臨む
原生林が川面に迫る

中 村直前からぽつりぽつりと雨が降り出した。これでは足摺はあきらめよう。また来る機会はあるだろう。今はむしろ四万十川の自然な姿を眺めたい。ということ で途中2台の車がすれ違うことができない道が何キロも続くということを知りながら、国道441号線に入った。この国道は四万十川とほぼ並行して走ってい る。

レンタカーにはカーナビがついているおかげで、営業所に戻る道筋は問題ない。はじめのうちは広々としていた道だったが、次第に狭まり、曲がりくねってきた。意外に交通量が多く、山奥で土木工事をしているのか、大型ダンプが土砂を満載してはしってゆく。

河川工事によって川の通る道をねじ曲げられないだけあって、川は自由に蛇行する。それが雨にけぶる山間部の風景の中に溶け込んで実に美しい。ところどころに橋があるが、これは沈下橋と呼ばれ欄干がない。洪水の時には文字通り水中に没するのである。

車を止め、傘をさして河原に出ると、実にさまざまな生き物たちの立てる音や鳥の声がする。これこそ日本が高度成長に突入する前にあった「自然」だ。雨のぱらつく中に、静寂さではなく実に饒舌な早春のざわめきが伝わってくる。

ところどころに見晴らしのよい「休憩所」が設けられており、桜が咲き誇り、枝が青い芽を吹き出しているのが背景となる川の流れに浮かび上がる。今日は雨でかえってよかった。山が雨によって上半分が隠され、川もが実に神秘的な雰囲気を醸し出していたからだ。

宇 和島からあと40キロぐらいのところで川と別れる。このあと四万十川はさらに北上し、伊予の山中に消えてゆく。なお、四万十川には自然が残っているといっ ても、ダムがないわけではないのだ。さらに上流には*ダムや*ダムがちゃんとあり、その放流についての警告看板が立っている。

四万十川沿いでは、途中5キロ走っては車を止め、写真を写したり見学したりしたので平均速度は時速20キロぐらいかもしれないが、無事時間通り営業所に到着した。全走行距離約150キロ。

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フェリー~別府 3日目、天候が今ひとつすぐれないこともあって、宇和島周辺の海の見物はあきらめ、愛媛県から対岸の大分県に渡ることを思いついた。広島から松山に海を渡ったのだから、この際もう一回海を渡ってみると、瀬戸内海、特に「伊予灘」を一周したことになる。

高 速道路が開通したのに伴い、松山から八幡浜を経て大分県に渡る車が増えた。このため、八幡浜からは、佐多岬半島としばらく平行して走ったあと、別府と臼杵 (うすき)へ向かうフェリーが就航している。残念ながら宇和島からはそのような便がなく(離島航路のみ)、いったんJR予讃線で八幡浜まで戻らなければな らなかった。

1時間余りで大した距離ではないが、普通列車で行くと間に合わないので、初めて四国の中で特急に乗ってみる。実 に早い。電化はされておらず単線なのだが、山間部の急カーブを縫うようにして猛スピードで進んでゆく。JR四国は、お客さんには普通列車より特急をより多 く利用してもらいたいようだ。そのくせ停車駅はかなり多い。これはJR九州でも事情は同じ。

八幡浜に着くと、運河沿いに徒歩 15分の距離である。何かもの悲しい町の雰囲気。雲が低くたれ込めていたせいもあるが、町は古い建物が多く、暗い感じがするのだ。森進一の「港町ブルース」に、この街の名前が出てくるのも、作詞者が何かこの街に感じるところがあったのかもしれない。

切符を買うと乗船客名簿 に記入をさせられる。瀬戸内海航路ではやらなかったことだ。八幡浜と別府の間は一日12往復だから乗り遅れると2時間の損失だ。特急に乗ってよかった。

出航すると、航程の半分近くは、佐田岬半島と平行して走る。半島の付け根には伊方原発があるはずだが、こちら側からは(または霧のせいで)見えない。出航し てまもなく猛烈な向かい風になった。甲板に出ているのは元気な小学生たちと、私だけだ。佐田岬半島は海まで山が迫り急に落ち込んでいる。しかも雨が降りそ うなので、山が黒々と見える。

岬を過ぎると急に船の揺れが激しくなった。豊予海峡(速吸瀬戸)だ。これは瀬戸内の海ではない。日向灘そして豊後水道から来る太平洋の荒波だ。立っていることが困難なほどである。乗客のほとんどが寝てしまっている。起きていたら船酔いになるだろう。

だ が、別府湾に入ったとたんに再び海は静かになる。このように海の状況の急変が、天候だけでなく地形にもより、船が位置を変えてゆくのに伴って変化していく のは興味深い。やがて別府の市街が見えてきた。左手にはニホンザルで有名な高崎山が突き出ている。ここは神戸からのフェリー「サンフラワー号」の終点でもあ る。

JR別府駅の東4キロほどのところにある別府観光港に到着。所要時間は2時間余り。これから海沿いの国道10号線に沿って西へ駅まで歩くつもりだ。ものすごい交通量。別府外部リンクはすぐに山になっており、傾斜地にはまっすぐな道路が少ないところから、東西の交通はみなこの10号線に集中するらしい。

い つもはソバなのに、西日本へやって来ると、うどんを食べることにしてくる。名古屋のきしめん、香川の讃岐うどんなど、関東では普通味わえない薄口の汁を味 わいたいからだ。折しも10号線沿いに、「鳴門うどん」なる看板がある。駐車場がいっぱいならば味の心配はない。入って驚いたことに、うどんの玉1個でも 2個でも3個でも値段が同じなのである。つい食べ過ぎてしまった。

駅に近づくにつれホテルや旅館の数が増えてくるが、建物は 古くこの地域全体がさびれている。いつからだろうか。東の熱海と同じく別府の斜陽が取りざたされるようになったのは。一方では近くの湯布院に人気が集まっ ているという。湯布院に行く人が増えれば別府に行く人は減るのだ。あちこち「テナント募集」の張り紙が目に付く。訪れた町の勢いは、この張り紙の数でわか る。フランスのルーアンの町でも多かった・・・東京や名古屋ではきわめて少ない。すぐテナントが埋まってしまう。

国道をはず れてきたに上がると、非常にコチャコチャした町並みが現れた。歓楽街や飲食店街だ。こちらは朝鮮系の料理屋が多く混じる、小規模店舗の寄せ集めであるが、 あんまり元気な雰囲気ではない。各公民館は、一階がその地域の温泉となっている。入場料が100円ぐらいだから自宅に風呂を持つよりも、毎日温泉に通った 方がはるかに便利だろう。

朝鮮系で思い出したが、西日本を南下すると、朝鮮語と中国語の車内アナウンスと、交通機関の表示が増える。東京でも大きな駅の場合や、小田急などの私鉄では、標識に多く中国漢字とハングルが目立つが、九州では、それは当たり前のことだ。それだけ海の向こう訪問者が多いのだろう。

駅前に近づくが、できたばかりのホテルはそれなりに客を集めているが、かつては人気があったが古く なったために客足の落ちたホテルの運命は過酷だ。値段を下げればランクはさらに下がる。だからといって取り壊して新築したいが、業績が低迷しているので金 を借りることもできない。

そんなホテルが駅周辺に林立し、私もそのうちの一つを3900円で泊まった。かつてはいいホテル だったのだから中は古びているだけだ。設備に問題はない。最盛期には大勢の団体客が来て大いに儲けたのだろう。もうたっぷり稼がせてもらったのだからこれ から廃業までできるだけ安くしておいてもらいたいものだ。

町全体の雰囲気は、昭和50年から60年のあたりで進歩が止まって いる。その後の時代の変化に合わせなかったものだから、昔ながらの温泉客以外のお客さんが近づかなくなってしまったというのが実際のところだろう。古いホ テルを取り壊し、昔からの飲食店街を生まれ変わらせるには非常に腕の立つ指導者が必要だろう。しかも山の上には老人ホームが次々と建ち、老齢化が猛烈な速 度で進んでいる。古びた「別府タワー」がすべてを象徴している。

ところで、ホテルにチェックインした直後、散歩がてら通りが かった近くの「駅前高等温泉」を見たとたん、後悔の念にとらわれてしまった。大正13年に作られたモダンな西洋風、いわゆるハーフチェンバー方式と呼ばれ る素敵な建物で、一階は公衆浴場で、2階は何とシングルルームになっているのだ。しかも一泊2500円!駅前自治会町営である。

フェリーの巨大な煙突
八幡浜ー別府を結ぶフェリー
強風の中、佐田岬を臨む
フェリーから臨む別府市街
「血の池」地獄
血の池地獄にあった高浜虚子の句碑。<自ら早紅葉したる池畔かな>
4月の南国に咲き乱れる花々
この地域はどこでもミカンが鈴なり
市街地の真ん中にある竹瓦温泉
素敵な西洋館、駅前高等温泉 tel 21-0541

30 年以上も前に別府に来たことはあるが、「地獄めぐり」の記憶があったので、駅からバスに乗っていって見ることにした。地獄めぐりは、温泉のお湯が吹き出て いる池や穴がまるで地獄のようだということで付けられた名前である。7カ所ほどあるがお互いに少しずつ離れているので、自家用車や観光バスなら問題ないが 個人旅行者にとっては全部を見るのは大変面倒だ。

それでも市営バスに乗り、老人ホームが林立する山道をどんどん登っていく と、市街地の全景が見下ろせるところまでやって来た。そこからしばらく歩いて、「血の池地獄」に達した。これが曲者で、たしかに熱湯がわき出る50メート ルプールほどの面積の池の底は、酸化鉄のせいか、赤く見える。一目見れば十分だ。所要時間1分。あとのスペースはくだらないおみやげの展示である。そして 入場料は何と400円。観光ツアーなら、これらはみな込みになっているから誰も気にしないのであろうが、実際に払ってみて腹が立った。

こ れらは大昔からお湯が吹き出ていたわけで、誰か悪賢い奴が、この土地を買い取り、囲い込んで、入場料を取ることにしたわけである。各地獄は組合を作ってい て、2000円払えば共通入場券が手にはいるが、博物館や遊園地のように莫大な維持費がかかるわけでもない観光資源を独り占めして金を取るというのは許せ ない。別府市はすぐさまこれらの土地を買収して無料開放すべきだ。そして駐車場やおみやげ屋は民間に任せた方が、より多くの人々が潤うではないか。こんな 悪徳商法を放置するような行政だから、今の斜陽を招いたのではないか。

一方で別府市にはやたら外国人(といっても西洋系)が 多い。何でも国際都市として売り込もうということらしい。バスに乗っても街を歩いても必ず彼らの姿が目に付く。しかし昔からの温泉場ということで栄えてき た町が今さら学術とか国際という言葉を持ち出しても何かちぐはぐな気がする。ちなみにJR別府駅の東隣の駅は「別府大学」という。

地 獄巡りは「血の池」だけですぐさまやめにして、バスで観光港の方面に下る。途中の本屋でおもしろい本を見つけた。国内旅行ではその土地の方言に関する本を 探すことにしているのだが、今回買った「OBSラジオ・夕方なしかの本②」は、大分放送に届いた、読者とDJのおもしろいやりとりをまとめたもので、始め から終わりまで「大分弁」だらけである。よそ者は、「読解」に大いに苦労する!

<なしか>というのは「何故?」という理由を 聞く言葉で、そのあとの冗談が実におもしろい。第1巻を買いたかったが、売り切れで、仕方なく第2巻を買った。方言は標準語で全国放送をするNHKのせい で衰退していると言われるが、民放(特にラジオ)に一つがんばってもらって若い世代に根付かせてもらいたい。青森県津軽の放送局も、ずっと津軽弁を流して いたのを思い出す。

さて、松山と同じく、別府にも古くからの温泉場の建物が残っており、その最も代表的なのは、「竹瓦温泉」 であろう。幸い宿泊したホテルから近くにあったため、荷物をおいて出かけてみた。ただし途中には風俗店のしつこい客引きが出没する一角があるから、そこを 通らず大きく回り道をした方が賢明である。

なるほど道後温泉に劣らず素敵な木造建築だ。内装もおもしろい。天井は高く、明治の頃の大きな柱時計が真ん中の太い柱にかかっている。近代的な改造を加えない古式豊かな?(男女共同)休憩室だ。

し かも普通の入浴のほか、砂湯というのがあり、砂の上に寝そべるとシャベルで全身に砂をかけられ、じわっと暖まる。そのあとで普通のお湯に入ると効果抜群だ というわけだ。道後温泉と違ってアルカリ性が強いようだ。身体がすべすべするのだ。とにかく旅の一日の終わりには、しっかりとお湯で暖まるのが最高だ。

高崎山~竹の博物館 4日目、別府に来たからには、ニホンザルたちを見なければなるまい(実は大分市にある)。別府から国道10号線を宮崎方向に南下してしばらくゆくと、ご飯茶碗を伏せたような山が見える。これが高崎山外部リンク。かつての別府市長がここに住んでいたサルたちに餌付けをすることを思い立ち、これに京大霊長類研究所の研究者たちの活躍が加わって全国的に有名になった。

日 本中のサルの群のうち、最も規模が大きいと言われているが、あの大して広くもない山の中に実はABCの3つの群が存在するのである。4月6日の掲示板によ れば、A群は分裂して頭数不明、B群は484頭、C群は778頭とそれぞれの頭数とボス、準ボスの名前が書かれており、ここの飼育者たちは、サルたちの顔 をまるで人間の顔と同じようにちゃんと記憶しているのである。

8時30分の開園に間に合うようにホテルを出て、JR別府駅か ら次の駅である東別府まで普通列車に乗る。通勤時間帯なのでかなりの混雑だ。交通整理のおじいさんに聞くと、この先10号線をさらに南に歩けばよいが、右 にある山側の歩道が途中で途切れるから、信号のところで横断して左の海側に移るようにとのことだった。ひどい話だ。車の通る道は片道2車線なのに、歩道が 片側にしかなく、それも途中で途切れるとは!これは自治体が悪いのか?それとも国土交通省のせいなのか?バスで行けばよかったと後悔したがあとのまつり。

正 面にサル館と水族館が見えてきた。左側の歩道から再び大きな歩道橋を渡って山側に移る。山の中から「オーイ」とも「ホーイ」ともつかぬ叫び声が聞こえてく る。飼育者が、拡声器を通してサルたちを呼んでいるのだろうか?その通りだった。入場券を買うと、今日は朝早く現れるB群が寝坊をしたようでまだ姿を現さ ない、だからもしサルの姿が見えなかったら料金を返すとのことだった。

なかなか良心的なところだ。幸い昔のお寺の跡を登って 行くとあちらこちらにサルたちの姿が目につく。そしてエサ場に到着すると、飼育者の話が始まっていた。朝早く現れるB群が出遅れたために、強大なC群が現 れてきて、彼らが餌を食べ終わるまでは遅刻者たちはエサ場に近づくことができないとのことだ。

時間的ななわばりが厳格に守ら れており、同じサルといえども、それぞれの群の条件に従うしかないのだ。その強大な群のサルたちが山から下りてきた。上の崖にちらりほらりと姿を現したと 思ったら、あっという間に数が増えた。その間、飼育者はわれわれ入場者に懇切丁寧にサルたちの生態を説明してくれる。親子関係、オスメス関係、顔つきの違 い、ボスの話など、大変興味深い。

いよいよエサをバケツから播くときがやってきた。毎度のことだろうが、それまでちらりほら りとしかいなかったサルたちがどこからともなくあっという間に姿を現して、小さな公園ぐらいの広さしかないエサ場は、サルサルサル・・・で埋め尽くされ た。播いたのは小麦の粒で、これを一つ一つ拾って、頬にある袋にため込んでいる。そして当然のことだが・・・喧嘩が起こる。すさまじい鳴き声と相手を追い かける猛烈なダッシュが続くが、すぐ収まる。

エサの取り合い、順位の遵守、子育て、ボスのリーダーシップ、いずれをとっても 人間社会の縮図である。最後にこの群のボス「ゾロ」が姿を現した。遅刻したのは体調がすぐれないためらしい。それでも威厳があり、いかにも怖そうな顔つき をしている。ここで忘れてならないことがある。それは餌付けをしているものの、実は彼らはみな「野生」だということだ。

食糧 の多くは高崎山の山中で手に入るわけだから、エサ場にはある程度彼らの「自由意思」できているのである。人間になれているとはいえ、彼らは根本的に自然児 であり、自分たちの行動を束縛する動物園の「檻」はどこにも存在しない。そこに彼らの目が輝き何とも言えない魅力があるのはそのせいだろう。

すっかりサルたちに見とれてしまっていて長居をしてしまった。バス停に行くと、ちょうど定刻より大幅に遅れていたバスが到着したところだった。大慌てで飛び乗ると、幸い「竹の博物館外部リンク」の近くの停留所にとまることがわかった。

大 分県が竹の産地であると共に、日本中の竹工芸の保存と紹介を目的として設立されたこの博物館は、ガイドブックにもごく小さくしか取り上げられていない。だ が、竹細工のあの流麗なデザイン、丈夫さ、組立方の巧みさは親しんでおくべき素材である。プラスチックによって粗大ゴミ化した日常製品は、最終的には、木 や竹によって置き換えられるべき存在だと思う。

展示室には、漁具、農具、料理道具として用いられた作品がたくさんならべられ ている。何しろ建物自体が小ぶりなのですぐ見終わってしまったのだが、おみやげ品コーナーにはありとあらゆる種類の竹製品が並べられてあり、今度来るとき は財布に中身をいっぱい詰めてこようと思う。またここでは実演も、入館者の制作も可能(要予約)なのだ。

残念ながら、場所が悪い。鉄道の駅と駅の間にあり、バス停からも遠い。車を利用できる人だけがやってこられる場所にある。これで駅ビルの一角にでも引っ越せば、この種の工芸品のファンは日本全国にいっぱいいるのだから、もっと多くの人々に利用してもらえるのにと思う。

初代ボス「ジュピター」の銅像
ブランコに寄りかかる
三匹そろっての毛づくろい
現ボス「ゾロ」
飼育者がエサをまいたとたん集まるサルたち
魚を入れるための竹製の生け簀で直径は2メートル近い
竹製の器
竹でできたさまざまな民具

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杵築の城下町~東光寺の五百羅漢~帰途 九州に住んでいないひとで、キツキとウスキの町がそれぞれどこにあるか言えるだろうか?杵築とは、別府の北、国東半島の付け根にある町である。これに対し、臼杵とは別府より南に下ったところにあり、磨崖仏で知られている。

竹の博物館から「別府大学」まで歩いた。このあと小倉へ向かう日豊本線の普通列車に何本か乗り、2本目の終点が杵築外部リンクであった。駅前には何もないが、城とその城下町が有名であると聞いて、途中下車することにしたのだ。まさにこれも行きあたりばったり。

駅 前には何もない。ここは市街地ではないのだ。まずバスに乗って町の中心部にあるターミナルまで行かなければならない。ここまで所要約30分。小さな町だ が、ターミナルから2キロほど南の方向に杵築城があるという。さっそく散策開始。城(昭和45年再建)は八坂川の横にある小高い丘の上に建つ。この川は、 国東半島の付け根に河口があり、別府湾に注いでいる。

折から桜の満開の季節だから、城のたもとにある城山公園は花見客でいっ ぱい。ここで変わった光景に出くわした。はじめ墓場かと思ったが、よく見るとそれは墓石ではなく古くからの「塔」なのだ。昔の人々が道しるべに使った庚申 塔などが、所狭しと並べられ、立て札が立っている。ここは大分県の各地から集めた塔のコレクションなのだ。それぞれの立て札には寄贈者やもとあったところ の地名が書き入れられている。

城を下って西の方向に向かうと、まさにここが城下町であった雰囲気でいっぱいだ。見事な坂道は 今にも武士がぬっと姿を現しそうだ。神社の石段のようにではなく、もっと浅い段がつけられている歩きやすい坂道だ。両側は、武家屋敷跡が並び、中には立派 に保存されているところもある。また、土塀は、崩れているところもあるものの、昔ながらの造りがよく残っている。ここを歩いてたとえば、秋田県の角館(か くのだて)の武家屋敷や、青森県の弘前(ひろさき)の武家屋敷を思い出した。これらよりずっと観光ずれしておらず、地味である。

坂道が多く、上り下りして空腹を感じ、またターミナルに戻ってきた。大分県の郷土料理といえば、鶏カラがある(らしい)。つまりニワトリの唐揚げだ。すでに通過したJR の駅にもあったけれど、駅前に唐揚げ専門の店があるのだ。これは関東ではお目にかからない珍しいタイプの店だ。持ち帰り専門で客の頼んだもの、たとえば「骨付き」「骨なし」「ポテト」など、揚げ物を10分も待てば作ってくれる。

揚 げる油が新鮮で、さらに驚いたことに、最近のスーパーでちょっとでも安物の鶏肉を買うと必ず悩まされるあの臭さがない。実にいい肉を使っている。どこかの 有名なファストフードのチキンとはくらべものにならない。おかみさんは私が関東から来たと聞くと目を丸くして驚く。九州では、長崎に行ったときも、関東か らと聞くと「よくまああんな遠くから・・・」と感心されたものだ。日本列島は縦に行くと実に距離が長いのだ。

腹ごなしにバス の時間まで、再び坂道をぶらぶらすると、農家のおばさんが一輪車にミカン類を乗せて通りかかる観光客に声をかけている。おばさんの身なりがすごく粗末なの と、ミカンがしわだらけでしなびているように見えるせいか、誰も買っていかない。でも私は知っていた・・・ミカンをくれというと200円だという。小さな ミカンは伊予柑(いよかん)だった。おまけに大きいのを2個付けてくれた。表面にはまるでメロンのように網がかかっている。

予 想通りだった。汁が濃厚で甘いのだが、こくがある。長い間枝についていて、果汁が濃縮されているのだ。しかもたっぷりと鶏肉を食べたあとだから、蜜柑の味 は非常によく合う。スーパーで並んでいるような磨き上げた形もきれいにそろって美しいミカンとは見かけの上では勝負にならないが、味のほうは数倍上だっ た。私が最後の客だったらしく、おばさんは公衆電話をかけると、空の一輪車を引いて姿を消した。

杵築城山公園に並ぶさまざまな「塔」
杵築城
杵築市内の坂道
杵築市内の武家屋敷
杵築市内はこのように起伏に富んでいる
JR日豊本線、柳ヶ浦ちかくの東光寺
居並ぶ五百羅漢像
満足げな・・・
平安を得たような・・・
心が澄み渡ったような・・・
五百羅漢の入り口にある「陽の石」
「陰の石」、仏教と民間信仰との不思議な取り合わせ

バスターミナルから再びJR杵築駅に戻る。時刻表からすると、ここからさらに6つ目の駅が終点の普通列車があり、その柳ヶ浦という駅の近くに何かあるらしい。それは東光寺というお寺の五百羅漢である。

駅を降りるとまわりは田んぼだった。二毛作のせいか、すでに稲は30センチ近くまで育っている中を2キロほど歩く。標識が親切に設置されているので迷う心配はないが、この2,3日歩きづめなのでそろそろ足が痛くなってきた。

田 んぼの真ん中に学校や公民館が点在する中、東光寺も田んぼの中にぽつんとあった。五百羅漢とは仏陀が亡くなってから、会議のために集まった(結集ーけつ じゅうーした)五百人の最高位の坊さんたちをさすわけだが、日本では、彼らが仏の護衛のような形で信仰されたらしい。寺の者の姿はなく、拝観料は各自賽銭 箱に入れて下さいと書いてある。記帳のためのノートも置いてある。

奥にある仏像の前に其の五百人がずらっと並んでいる様は壮 観だ。笑っている顔、泣いている顔、怒っている顔など様々だが、いずれは誰もが仏の力で心の平安を得て柔和な顔に変わっていくのだと、音声による説明機が 語っていた。もう午後5時も過ぎ、他には学生らしき若者が3人ほど訪れただけだったが、今回の旅行を締めくくるには最高の場所であった。

旅は終わった。あとは日豊本線を再び普通列車に乗って北九州の小倉駅に向かう。ここから午後22時15分発の新大阪行き「ムーンライト九州」に乗れば、明朝6時半頃には新大阪に着き、あとは東海道をのんびり普通列車で関東に戻るだけだ。

2006年4月初稿

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