旅行記;エジプト
(2007年1~2月)

目次

PAGE 1

エジプトへカイロ市内へ考古学博物館イスラム地区

初めての夕食ギザのピラミッドオールド・カイロ

PAGE 2

PAGE 3

H O M E > 体験編 > 旅行記 > エジプト(1)

外部リンク・・・外部リンク


エジプトへ 

エジプトは台形に近い形をしている。東側に逆三角形のシナイ半島が着いている。ナイル川の流域以外はほとんど砂漠地帯。今回のコースは、縮尺で見てわかるように、かなりの距離である。

「私はアフリカに行ってきました」というとき普通ケニアとかナイジェリアなどの国を思い浮かべるだろう。アフリカ大陸には53もの国があるのだから一概にはいえないが、エジプトを思い出す人はいないだろう。なぜならエジプトは確かに地理的にはアフリカ大陸にありながら、その中身は明らかに地中海文明と中東文明に影響されているからである。人種的にもいわゆる黒色人種ではない。

ある人はカイロを中東のニューヨークとかパリだと言う。紀元前から文明の交差点に位置していたからだ。この地では古代王国の言語はすっかり忘れ去られ、正式なアラビア語のほかに、それが口語化したエジプト・アラビア語が一般人の話し言葉になっている。今やそれはラジオやテレビの電波にのって北アフリカやアラビア半島以東へと広がっている。多くの人々はエジプトといえばピラミッドに代表されるような古代文明を思い浮かべるが、現代エジプトはなんといってもイスラム圏である。さらにコプト教徒や西部砂漠に住む少数民族もいる、じつに多様な国である。こうして現代エジプトの素顔をのぞいてみたくなったのだ。

今度利用した航空会社はアエロフロート、つまり旧ソ連時代からのロシアの航空会社である。食事は他の航空会社と差はなかったが、搭乗、出発いずれの段階でも遅れが目立つ。また機内の設備が老朽化していて、ビデオがうまく映らなかったり、イヤホンの片側から音が出てこなかったりした。

またロシア国内法のさだめにより、アルコール類は無料ではないのだ。エジプト国内もイスラム教の影響により、酒類の販売が制限されているため、のんべいにとっては出発から帰国までつらい毎日になりそうだ。

機内には日本とロシアを往復するロシア人が多く乗っている。もともとせまい座席なので、太めの彼らにはますます苦痛だ。となりに座ったおじさんは(3つ続きの座席で、真ん中があいていたにもかかわらず)窮屈そうだったが、しばらくして姿を消した。なんと通路の柱の陰の床の上で寝ていたのである。

モスクワで乗り換えとなる。アエロフロートはモスクワをハブとしてヨーロッパ各地の他、旧ソ連邦諸国や中近東に路線を出している。今回出発が遅れたこともあって、乗り換えに必要な3時間がかなり短縮され、すぐにカイロ行きに乗ることができた。座席は満席で飛行機も中型機を用いており、ロシアとエジプトとの交流はかなり頻繁らしい。

到着するとすぐにビザを買う。別に日本でとる必要はなく、15ドル(または15ユーロ)を払って証紙をもらいそれをパスポートに貼りつけるだけだ。単なる入国税に過ぎない。両替はしないで、空港内にあるATMでクレジットカードを使って2,3日分の現地通貨を引き出した。1LE (ギニーまたはポンドともいう)=約20円であった。

それにしてもカイロ空港到着が午前0時45分とあっては、市内への交通もタクシー以外にないし、改めて宿をとるのもばからしい。朝まで出発(到着ではなく)カウンターに移動して、ベンチにごろ寝することにした。さいわいほかにも朝待ちの人々がいて、警備員も誰もとがめはしない。

午前6時になってようやく起きだし、空港内のカフェで朝食をとる。注文に初めてのアラビア語を使う。食後、市内中心部(タフリール広場)行きのバスをさがす。バスターミナルからは356番バスが出ているという。それが見つからない。アラビア語で356(タラータ・ハムサ・スィッタ)を連呼して、近くの人が方角を示してくれたので、ようやくバスを見つけて乗り込んだ。

エジプトでの数字は独特の文字を使う。これは日本の漢数字以上に生活に密着しており、価格、時計の文字盤、そしてバスの番号もすべてこの形だ。だからまずその特殊な文字10個を覚えなければならない。われわれは普段アラビア数字と言っているのに、アラビア語圏ではまた別の文字体系を使っているとは・・・。

バス代は2LE 。25キロほど離れた都心にゆくのに40円だ。このように交通費に関しては国内いずれの交通機関も安かった。東京・大阪間にあたる500キロでも、800円ぐらいだったし、市電では10円均一である。

トゥトアンクアムン(ツタンカーメン)の絵

上へ

観察日記(1)
少子化の心配なし ひと家族あたりの子供の数は3人から6人。独身男性の数は多いものの、いったん結婚すると子沢山になるようだ。子供は元気ではつらつとしている。妹や弟の世話をよくみている。好奇心にあふれている(時に過ぎることがあるが)「疲れた」とか「何でおれを産んだんだ?」とか「家の外に出たくない」などという子供はまずいないだろう。

カイロ市内へ 

バスターミナルの裏、庶民の家はたいていボロボロ

中心部の建物は古くても割合きれいに維持されている

どこの国でも空港から都心ぐらいなら高速道路ができている。早朝の車の少ない通りをバスは快適にとばす。カイロでは高速とはいわないまでも高架道路がかなり発達しており、市内の多くの場所で立体交差ができていた。

ところが早朝には気付かなかったが、それでもこの町の車の洪水にはまったく追いついていないのである。タフリール広場に到着するころになってラッシュアワーが始まっていた。カルカッタと同じく、運転手はやたら警笛を鳴らす。前の車が少しでもスピードを落とすとだ。彼らの車はほとんどが中古車にもならないほどの古びた車だからバッテリーは当然弱っている。警笛は電気を食うから、バッテリーの寿命はまたたくまに終わることだろう。

それにしても町は汚い。まず石造りの建物が多いが、壊れたりひび割れしても金がないせいか放置しておくから、いずれも化け物屋敷並のひどさ。人々は辺り構わずゴミを投げ散らかすから道路はそれらを踏んづけないように気をつけなければならない。

かつてカルカッタに行ったときはまだプラスチック製品が出回っていなかったころなので、さほど気にならなかったが、今回はペットボトル、ビニール袋が腐らないためにいつまでも散乱し、それがますます町の姿を醜くしている。汚水のたまった水たまりがあちこちにあり、それを飛び越えるのにもちょっとしたテクニックがいる。

バスはタフリール広場東に到着。ここはまさに町の中心部で、北を見れば巨大ホテルが建ち、南側には高架道路とその向こうには考古学博物館がある。高架道路の下には地下道があり、それを通って難なく博物館に行けると思った。ところがその先カイロ市内どこでもそうだが、「交通信号」というものが存在しない。たまにあることがあっても警官が監視していない限り誰も守りはしない。

ではどうやって人々は道路を渡るか?のろのろ常に渋滞している車の間を縫って渡るのである。これはカルカッタ以上だ。外国人は地元の人が横断するのを待って、その人を「盾(たて)」にして歩くのがいちばん安全。彼らは生まれたときからそうやって歩いているから車をさけるタイミングが絶妙である。

赤信号でも車は左折可能。二重、三重駐車は普通に行われ、カバーをかけて完全に車庫代わりにしている車も多い。入り口の前にも堂々と駐車しているし歩行者は完全に車優先の街を歩くことになる。車線はあったはずだが、砂漠から吹き付ける砂のせいかほとんど見えないほどに消えてしまい、2台走るところを3台が並行して走っている。

中古車以下のボロボロが多いから、排気ガス規制など行われているわけがない。市内の空気は最悪である。車がエンコして道路脇まで車を手で押している「懐かしい」光景を何度も見た。このようにカイロはインフラが整備されないうちに車がまったく手のつけられないほどに激増してしまったという、世界の開発途上国特有の交通マヒ状態に陥っていた。

上へ

観察日記(2)
歩きタバコに御用心 バスの車内にはちゃんと「禁煙」とかいてるが、田舎では誰も守らない。カイロの中心街では片手に火のついたタバコを持って雑踏の間をすり抜ける人も多い。

考古学博物館 

ナイル川東岸からカイロ・タワーのある中州を臨む
エジプト考古学博物館正面
考古学博物館の庭に並ぶ石像

上へ

午前9時の開館まで少し時間があったので、徒歩ですぐ西側を流れているナイル川に出てみた。水は黒っぽいがそれほど汚れているわけではない。あとで目撃するのだが、長さ40センチぐらいの川魚をちょうど釣り上げているから、生物はかなり豊かなようだ。中洲もあって、そこはヨーロッパ系の大使館や領事館が数多くあるので、そこだけはカイロの不潔さや喧噪からはなれた別天地だ。ところどころに川船が係留されていて、レストランになっている。

博物館のまわりには兵士がいっぱいいる。「観光警察」とでも言うべき人々で、町のあちらこちらにおり、銃を持って監視している。そういうと何か物々しくエジプトが警察国家であるかのように聞こえるが、さほどではない。兵士たちはみんな一般の人々と違って無口であるが親切だし、居丈高なところはまったくなくて裏方に徹しているのだ。おかげで観光客は安心して町の最も暗くて怖そうな部分にも入っていける。

開館が迫り観光客が増えてきた。予想通り日本人が多い。だが、距離的に近いヨーロッパ系の観光客が最も多い。日本人は他のアジア系と同じく珍しい存在なのだ。館内は市内とは違って清潔な空間で、観光客たちはお互いに写真のとりっこをしている。

入場料はこの国の物価と比較すると少しも安くない。あとで気づいたが、遺跡や美術、博物館の入場料だけは「国際水準」なのである。エジプトは観光立国としての収入を大いに期待しているようだ。

博物館は2階建てで、さほどおおきくないと思ったが、入ってみるとその構造の巨大さに驚かされる。全体が回廊式になっており、それぞれに小部屋が連なるが、小部屋の数は1階、2階合わせて100もある。その中に雑然と並べられた展示品。つまりポイントがない。

古い大学の研究室にあるような木枠でガラスの入った鍵つき棚の中に入るだけ品物が押し込められているという具合で、それぞれの分野の研究者なら別にかまわないだろうが、観光客にしてみればあまりに数が多くて全部を見ることはとても出来はしない。

展示品の数が多すぎて職員の保管業務も追いつかないらしく多くがほこりをかぶっている。整理や展示の取捨選択はまだこれからなのだ。ただ政府の予算は十分とはいえないようだ。この博物館を楽しむには、あらかじめテーマを絞り見るものを決めておくに限る。

上へ

イスラム地区
オペラ広場とアル・パシャの像
イスラム地区のズウェーラ門
ズウェーラ門のそばで露天を営む人々
ムハンマド・アリ通りよりムハンマド・アリ・モスクを臨む
歩道の上に置かれた水がめ;水がにじみ出て気化熱を奪う
銃を持ち、見事なかぶとをかぶった消防隊員;アタバ広場近くで

上へ

博物館は古代王朝時代の品物を集めている。だが、現代エジプトはかつての王国の文化も言葉も遠い過去に置き去って、イスラム国家となった。人々はエジプトといえばすぐにピラミッドやスフィンクス、ミイラを連想するが、この国を動き回るにつれて多様な面を見ることになる。

博物館を出ると、同じく町の中心であるターラト・ハルブ通りへ向かう。ここら辺は航空会社が多く、ビジネス街といえる。まだついたばかりで辺りをきょろきょろ見回しているものだから、さっそく(悪徳?)観光業者が勧誘にやってきた。彼らはかなり高い料金で、観光客をツアーに参加させたりホテルを斡旋したりする。

片言の日本語で安心させ、詳しくは英語で話を進めてなんとか自分のペースに持ってこようとする。わずか2キロの間に3人もの勧誘にあった。旅行会社の主催するツアーに参加する人々は守られているが、単独旅行者は帰国するまでこのような客引きに耐えねばならない。

最初に狙っていたホテルは満杯だったが、2軒めで部屋が見つかり重い荷物を置いてさっそくさっそく町へ出る。さて、目指すはイスラム地区だ。エジプトの古代王朝が衰退し、外部からイスラム教の勢力が入ってきたときにすでにあった都市部に新たに付け加わった部分だ。かつては町の中心としてにぎわった部分の一つズウェーラ門をめざす。カイロの町は大通りはまっすぐだが、その間にはさまる小径は全くの迷路で、その中に入ってゆくには覚悟が必要だ。さいわい都心部といってもせいぜい5キロ四方に収まるので、徒歩で十分にカバーできる。,問題は広場だ。ヨーロッパと同じく広場があちこちにあるが多くはロータリー方式で道路がヒトデのようにあちこちに延びている。だからどれがどの道に属するのか判断するのがひと苦労だ。

ズウェーラ門から南に伸びる細い道を辿ることにする。かつてはこの門から南はカイロの町の城壁の外側だったのだが、今ではごみごみした町の真ん中である。ズウェーラ門をはじめとして、あたりは古いモスクや城壁が残っているが、世界遺産に登録されていながら、保存状態が良くない。というよりはまったく朽ちるままにまかされているといってよい。きちんとした案内表示もなければ、入場料を取って中を見せるというわけでもない。その理由の一つにはこの地域はあまりに貧しく人々の生活を維持するだけでやっとだからだ。道路の真ん中には汚水が散らばり、車一台やっと通れる道幅の中をトラックが通り、荷車を曳いた馬車やロバが通る。

ここは人々の生活の中心であり、所々にある市場にはありとあらゆる品物が山積みされている。「トタン板加工」などという日本ではとっくの昔に姿を消した店がかたまっていたり、動物の死体を表にぶら下げた肉屋が続く。ここで生絞りジュースを飲んだ。オレンジを4個も次々と一瞬のうちに圧搾してジュースを作ってゆく。実にさわやかな味。次第にこの周辺の物価もわかってきた。というよりは、地域によって同じものが非常に値段が違うので何か買い物したら、必ず「ビカーム?(おいくら)」と尋ねなければならないのだ。第一値札なんて果物の山以外にはついていない。

この地域に入ってはじめて気付いたのはビジネス地域と違い、住民がみんな私に向かって「ハロー」とか「ウェルカム」と英語で挨拶をしてくるのだ。そのくせそれ以外の英語はしゃべれないが。これには驚いた。ただしヨーロッパ系の人間には声をかけない。無視している。かつて植民地にされたということでなにか恨みが残っているのかもしれない。ところが東洋系はよっぽど珍しいのか、特に子供たちの中にはつきまとうものや握手を求めてくるものもいる。エジプトを訪れる日本人の数は決して少なくないが、田舎やこんな地元住民たちの住んでいるところではきわめて珍現象なのだろうか?もしかしたら学校で珍しい外国人を見たら挨拶しなさいと教わっているのかもしれない。というのはあとでシナイ半島やアレキサンドリアに行ってもまったく同じだったからだ。

道はどんどん狭くなり、どうやら迷ってしまったようだ。持っている地図の道路名と、実際の道路名がいつの間にか違っているのだ。それでもゆっくりと上り坂になっているので、「ムハンマド・アリ・モスク」のある丘の方に向かっているようだ。車椅子に乗った幼児を押しているおばあさんとすれ違う。おばあさんはべたべたぬれた手で私の肩を突き、何ごとかをつぶやいた。あとでわかったが、「バクシーをくれ」と言ったのだ。バクシーは施しでもないし、チップでもない。イスラム社会では相互扶助をかねて自然に相手に渡すべき金のこと。

ようやく広い通りに出た。観光警察に聞いて、ムハンマド・アリ・モスクのそばだとわかる。だがもう夕方で閉館時間が迫っており、やむなく広い道を通ってホテルに帰ることにした。さて、遅くなってしまったが、初めての昼食はコシャリだ。わずか2LE でどんぶりに豆、スパゲティ、マカロニ、米のまざったものに調味料とケチャップをかけたもの。地中海を隔てたイタリアの料理、スパゲッティナポリタンにヒントを得て作ったものであろうが、この値段で実にうまいものだ。人々も多くが昼食代わりに利用している、エジプト版のかけそばといえよう。

上へ

観察日記(3)
北アフリカへの道: アラビア語圏は、北アフリカにも、アラビア半島のほうにも広がっている。カイロで宗教やアラビア文字に慣れ、エジプト・アラビア語による会話ができるようになれば、かなり安心してこれらの地域を回ることができそうだ。

初めての夕食 

ホテルに帰り着くともう7時。飲食店が多数集まるアルフィ通りまで徒歩で出かける。こんな場合、ホテルは都心がいちばんよい。少々汚くてもオンボロでも交通や食事に便利なのが安宿の何よりの利点だ。カイロには4泊の予定なので、4軒の店を巡ることにして、通りの角の最初の店に入った。ふつうのレストランだが、何でも食べることのできる人は、こうすればよい。「あの人が食べているのと同じのをくれ」という現地語を覚えておく。客が食べているうちで、いちばんうまそうなのを(それは一種の賭けであるが)指さして店の人に言えばそれで終わり。あとは「この店のいちばんのものは何?」というのも、値段を恐れなければ実に楽しみだ。

今回はローストチキン、マカロニ、サラダ、アエーシの4品(一種の定食セット)だ。サラダはエジプト中どこへ行ってもトマトとキュウリと少々のその他の野菜にドレッシングをかけたもの。まったくかわり映えしない。アエーシは具のないお好み焼きと思えばいい。バン代わりだ。これも全国共通。これで7.5LE (約160円)だが、すべてこんなに安いわけではない。だが、コシャリと定食だけであれば、食費は驚くほどかからない。

のちに、あちこちでご飯を葡萄の葉で巻いたマフシやモロヘイヤのスープ、あぶった肉であるカバーブ、羊肉の肉団子コフタ、ギリシャ風の肉パイなどを食べたが、もちろんこれらは20,30LE を上回る。今回の旅ではいろいろなところで食べたが、高級料理店が必ずしもうまいというわけではなかった。むしろ小さなコシャリ屋や、焼肉店の味で庶民的ながら印象に残る料理があった。

なお、イスラム教の国であるエジプトでは少なくともイスラム教徒である限り、酒は飲んではいけないことになっている。イスラム教徒以外でもどうもおおっぴらに飲めるような雰囲気ではない。でもやはりどこにも飲んべいはいるわけで、カイロ中心部にも3軒ほど酒屋があった。小さな店だし、客も何となくみな目立たないようにしてコソコソやって来る。みんな大きなカバンや袋を抱えている。入れ物を持っていないときは店員が黒いビニール袋に入れてくれる。

実はビールとワインは立派な国産があるのだ。ビールは味が合格だし、薄いのも濃いのも揃っている。ただし当然のことだが、値段はふつうの食品と比べるべくもなく高い。500cc入りの缶ビールは5LE (約100円)なのでこの国のふつうの収入の人にとってはがぶ飲みするわけにはいかないだろう。ワインを買ってみたが、コルクの栓になっている。台所用品の店に行ってみたが他は何でも揃っているのに、やはり予想通りコルク抜きがなかった。

人々は酒を飲まないかわりに、甘いもので憂さ晴らしをするようだ。お菓子屋さんはいつも大入り満員。男も女も何かとにかく甘ったるいものを買い求める。アイスクリームの中にはトルコ風のものがあり、これは口当たりがまるで餅を食べているようにネトネトするが、大人気だ。酒を飲まないことの利点がもう一つある。それは交通事故の原因としての飲酒運転が皆無だということ。中東諸国での交通事故はみなシラフで起こしているのである。なお、イスラムの教えのせいで、豚肉はどこにも売っていない。

ギザのピラミッド
最大と言われるクフ王のピラミッド
ラクダひきたち
墳墓のうちのひとつ;あまり保存状態はよくない

スフィンクスは左下に見える人影と比較するとやはり巨大である

スフィンクスとピラミッドを背景にした著者;遠近感がなく合成写真みたいだ

上へ

観察日記(4)
ノラネコ: たいていの大衆レストランでは外にいすとテーブルを出しているが、必ずと言っていいほど、腹をすかした猫の訪問を受ける。足元に擦り寄ってきて残り物をもらうまで上を見上げながらにゃーにゃー鳴き止もうとしない。客は彼らに食糧を供給するのが義務になっているようだ。

誰でもエジプトにある数多くのピラミッドのうち、最大のものがあるギザに行くだろう。カイロにある2本の地下鉄路線のうち、一本はナイル川の下を通って西岸に出る。都心から20分も行かないのに、そこからははるかリビアに拡がる西部砂漠(ガルビーヤ)の始まりである。

地下鉄ギザ駅を降りると、交差する大通りがピラミッドへつながる。ここからは、通りを次々と行き交うミニバスに乗るのだ。ミニバスはワゴン車を使い、運賃はわずか1LEかその半分の50ピアストルという安さ。ところが次々と来るどの車がピラミッドに行くのかわからない。横にいたおじいさんに「ハラム」というのだと教わり、その人にミニバスに声をかけてもらってやっと目指す車に乗り込んだ。行き先の表示もないから、客も運転手もお互いに行き先を怒鳴り合わないと乗れないのだ。すべて無言で済む日本とは大違い。

ミニバスの運転手は運転もするし、金を受け取ってお釣りも出すし、路上の客を拾うために常に歩道を見張り、ほかの車に割り込まれないように巧みにすり抜けもするし、仲間の運転手と並行して走りながらお互いにお札の受け渡しをするところまで見た。なお運賃はいちばんうしろの座席の人が前の人に手渡しでわたしてゆき、お釣りの必要な者も、途中の客がうまく計算して渡すなど、客同士の息のあった雰囲気が面白い。お釣りや運賃をごまかす人などどこにもいないようだ。

ギザはしつこい商人やラクダ引きで世界的に有名。客引きの猛烈さでどの観光地もかなわないだろう。となりに座っていた一見華厳そうなおじいさんが英語で話しかけてきて、ここで降りるんだよと教える。おかしいな、地図によればまっすぐ行くはずなんだがと思いつつ、今来た道と直角に交差する道路のミニバスを拾うと、ピラミッドの入り口まで連れていってやるという。いよいよあやしい。ミニバスを降りると、爺さんはずんずん歩いていく。「心配するな、すぐこの先だ」といいながら、入り口まで案内してくれた。

あとでわかったことだが、わざわざミニバスを乗り換えてまで連れていってくれたのはスフィンクス側の入り口だった。メインの入り口は最初のミニバス一本で着いてしまう。なぜこのじいさんはわざわざこんな遠回りをしたのか?あとで考えてみると、スフィンクス側の入口には自分と提携しているラクダ引きかなんかがいて、紹介リベートを貰おうとしたらしい。だが、私の顔には不信の色がありありと出ていたので、こりゃ無理だと思って入り口の手前で解放したのだろう。事実、入り口には爺さんの知り合いと思える若い男が立っていた。第1関門突破!

だが苦難は続く。3つ並ぶうちの最大の、クフ王のピラミッドに向かう。まだ朝早くて、ツアー客のバスもあまり来ていなかったせいもあり、おもちゃを買え、らくだに乗れ、馬に乗れ、絵はがきを買ってくれ、とピラミッドを見るよりも彼らとの応対の方が忙しい。まず日本人だと知ると、「いい国だね、アリガトウ!トウキョウ、ヤマモトヤマ!」と決まったセリフをしゃべる。なぜフジヤマではなくおしなべてヤマモトヤマというのかわからない。

まったくこちらに金を出す気がないとさっと行ってしまうが、少しでも興味のありそうな顔をすると実にしつこい。また、ピラミッドのまわりには小さなお墓、墳墓が点在している。そのうちの一つに入り出てくると、管理人づらした男がやってきてバクシーをくれという。彼らは団体に対しては決して請求しないが、たまたま周りに人がいなくて単独でいる旅行者を狙っている。

ピラミッドはなるほど巨大だが、表面の劣化が著しい。いちばん上の層ははげ落ち、中の石がむき出しになっているために階段状に見える。その石も砂嵐によるヤスリ効果により、すっかり摩滅している。よくこれだけきちんと並べたと感心するが、大阪城の石垣を見たものにとっては、規模の違いに過ぎないと言えないこともない。

実際の現代エジプトでは、仕事の「雑さ」だけが目立つ。かつての大文明はこんな建造物を造るまでのレベルに到達したのだが、現代では仕事は「適当に」「のろのろ」とやるのが主流のようだ。別に日本人のように猛烈に働くのがいいと言っているわけではないが、少なくとも今の彼らにとって「手先の器用さ」というのは無縁のようである。

人種的には同じままだと思うのだが、なぜ彼らは祖先たちのもっていた組織力とか実現力がこうも違うのだろうか?これには、イギリス・フランスのエジプトに対する19世紀から20世紀にかけての植民地的支配が大きな影響を及ぼしていると思うのだが。

クフ王のあと、カフラー王、そしてメンカウラー王の順に回る。段々小さくなるが、最後は観光客はほとんどいない。ツアー客が大部分なため、集合時間がきまっており、遠くまでやってこれないのだ。こちらは何時に帰っても自由。ただしいっそう数多くの商人たちに出会うことになる。出口にたどり着くまで砂漠の中を上がったり下がったりするあいだ、小学校3年ぐらいの幼い少年を含めて20人以上に声をかけられた。

巨大な遺跡だから、最後のスフィンクスにたどり着くまでに半日かかってしまった。スフィンクスは砂に埋まっているものを掘り出したものだから、砂漠の縁から基底面までは大きく落ち込んだ崖になっている。スフィンクスの鼻も、砂の嵐によってすりへってしまった。大勢の観光客の中にたくさんの日本語が聞こえてくる。その中の一人の若者がやってきてシャッターボタンを押してくれという。ちょうどいいところ、代わりにこちらのカメラのボタンも押してもらった。

すぐ先方にギザの緑が見える。ギザはナイル川のおかげで植物が豊かに茂っているが、ピラミッドのあたりから急に砂漠になるのだ。もしナイル川がなかったら、当然カイロもエジプト文明もなかった。ただの荒れ地だったろう。大部分の北アフリカがそうであるように。

もう充分ミニバスには乗ったので、帰りはタクシーに乗ることにする。観光タクシーだから多少ボラれると覚悟していたが、余り欲の強くなさそうな顔をしている運転手をつかまえて値段交渉をして、12LEで地下鉄の駅まで帰った。これは相場からすればかなり安い価格だと思う。しかも行きとは違う高速道路みたいな所を通ったのであっという間に着いた。

ギザのとなり駅であるカイロ大学駅に降り、キャンパスを見学。ただし中に入る前にパスポートを提示させられ用件もくわしく尋ねられる。ここには外国書籍を売る本屋がなかったので、後日カイロアメリカン大学に行ってみることにする。

上へ

オールド・カイロ

オールド・カイロにある聖ジョージ修道院(ギリシャ正教会)
聖ジョージ修道院の創立者の像のある正面
聖ジョージ教会へつながる迷路のような小道
イエスをつれたヨゼフとマリア
オールドカイロにあるモスク(モデル・モスク?)

上へ

観察日記(5)
気温:カイロの冬は早朝と日暮れをのぞいて特別寒くはない。昼間に日が照ると、相当暑くなるので、飲料水を持参したほうがよい。ただしナイル川を吹く風は体感温度がかなり低くなるので要注意。雨はめったに降らないしたとえ降ってもすぐやんでしまう。市民は傘を買わなくてもやっていけそうだ。

暗くなる前にやや時間があったので、地下鉄を利用してこの町の発祥の地である、市南部のオールド・カイロに向かうことにした。順番からすれば、これはイスラム地区より古いのである。なにしろキリストが出現してまもなくできたからだ。そしてヨーロッパへ伝わったキリスト教徒は教義の点でたもとを分かったコプト教徒が住み着いた地でもある。初めて地下鉄に乗った。全線1LE 均一でぴかぴかとは言えないまでも、何もかもがオンボロなカイロの町では唯一、近代的な乗り物である。

自動販売機はまだない。なぜかというとエジプトの通貨にはコインがまだほとんど普及していないことと、お札はみんな破れる寸前のボロボロばかりでとうてい自動販売機が受け付けることのできる代物ではないからだ。だからすべて窓口でいちいち人手を使って売っている。お釣りがないときは断られたり(しょっちゅうだ)、別の窓口にまわされたりする。

ただし改札は自動で、これはパリのものとまるで同じ。電車の乗り降りはかなりテクニックを必要とした。というのは「降りる人優先」などという原則はまるでないからだ。乗るのと降りるのとは「同時」に行われる。これがカイロ流である。いや上海でもそうだったが。都心の地下鉄乗り換え駅は北から順に、ムバラク、ナセル、サダトと、歴代の大統領名が名前になっている。これからの大統領も新たに加えるのだろうか?それにしても交通マヒに悩むカイロでは地下鉄はこの上なく快適だ。

たちまちオールドカイロのある駅に到着。しかも駅のすぐ前が(宗派はコプト教、ギリシャ正教といろいろだが)キリスト教の教会や修道院が固まっている。礼拝堂あり、イコン(画像)あり、墓場あり、博物館あり、狭い幅2メートルもない路地で迷路のようにつながっている。拝観料は取らない。寄付歓迎らしい。ここもエジプトなのだ。ピラミッドも、イスラム寺院も、そしてキリスト教会もみんなエジプトなのだ。

コプト教徒は国内に今までもかなりおり、イスラム教徒とは仲が良くないという。イスラム教徒は女性の場合はスカーフがほとんどで、もっと保守的な場合には全身黒づくめで目だけ開けた服装の人も少なくないし、男性は髭を生やしている。これに対してコプト教徒はずっとヨーロッパ的だ。元々エジプト人というのはアフリカ大陸の大部分を占める黒色人種と違い、イタリアやギリシャなどの地中海人種の血が多く流れているので、彼らはいっそうヨーロッパ人的に見える。

教会のすぐ横には小さいながらもモスクがあり、中をのぞき込んでいたら、若い男の信者が中に入ろうとする折りに私に向かって「ここはモデル・モスクなんだよ」と言ったのは、周りがキリスト教関係ばかりなのでそれに対する対抗意識があったせいか。

歩き疲れて初めてここでシャイ(紅茶)・ビナアナア(ミントの葉入り)を飲む。エジプトは紅茶の葉を生産できず、主にインドから輸入しているのに、国民はお茶が大好きなのだ。その輸入販売はリプトンが一手におさえているようだ。大部分はティーバッグをカップに放り込んだだけ。ここではちゃんとした葉がコップの下に溜まっていた(葉は沈んでそのまま残すタイプ)。

アラビア語で「砂糖抜きでね」と注文すると店のおじいちゃんがびっくりして私の座っているテーブルにやってきた。アラビア語ですらすらしゃべることができると思ったらしい。どこから来たか、どこへ行くのかしきりに訪ねる。このタイプの喫茶店は男ばかりで、女はいない。みんな何をすることもなくおしゃべりをしているかひたすら水煙草をすっている。これはエジプトどこに行っても同じ光景で、彼らには仕事があるのか、暇なのか?

上へ

観察日記(6)
領収書に気をつけろ:悪徳ホテルでは、2泊以上の予約をして金を払っても、領収書に手を加えて、新たに請求する場合がある。領収書は必ずチェックして手元におくこと。また、鉄道やバス会社以外の交通機関でいったん切符を買ってしまったら、払い戻しはまず絶対無理だと知っておいたほうがいいだろう。一般に小規模業者の間では資本主義の基本的ルールはしょっちゅう破られているから要注意。

上へ

次ページへ

H O M E > 体験編 > 旅行記 > エジプト(1)

inserted by FC2 system