旅行記;エジプト
(2007年1~2月)

クフ王のピラミッド

目次

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聖カトリーナスエズナイル・デルタ地帯を行くアレキサンドリア市内

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聖カトリーナ 

聖カトリーナにむかうEast Delta Travel バス;ドライブインで
いよいよ砂漠地帯に入ってゆく
聖カトリーナの登山口;「保護区です。登山道より外れないでください」とある
シナイ山の山頂に集まって日の出を待つ登山者たち
いよいよ御来光!午前6時30分
シナイ半島の最高峰、向かいのカトリーナ山も朝日を浴びる
下山ルートに作られた「門」
下山ルートから見下ろした聖カトリーナ修道院
この通り、ベンチやバス停も近辺の石を材料にして造る
足の弱い登山者を乗せおわって、一休み

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海外旅行の時は最初の2泊ぐらいは中心都市を見物し、滞在期間の真ん中は地方にちょっと出て数泊し、再び大都市に戻ってきて2泊するのがよい。間に挟むのは、万一何か事故があって帰りが遅れることがないようにするためだ。

今回もギザに行った翌日、北エジプト方面に向かうバスのターミナルに出かけた。南のルクソールやアスワンはやめにした。距離的には500キロから700キロも離れているし、古代王の遺跡より、現代エジプトの方が興味がある。バスターミナルはまだできかけで正面は立派になっているが、後ろはコンクリートがむきだしでまだまだ完成には数年かかりそうだ。

旧約聖書によれば、ヘブライ人の指導者の一人、モーゼはシナイ山(ガバル・ムーサ)に登り、そこで神から十戒という最低限守らなければならない掟を受け取った。紀元前14世紀ごろのことである。その山に登ってみたい。聖カトリーナの町行きのバスは一日一本、10時半にこのターミナルから出る。

しかし到着まで最低7時間半(約300キロ)はかかるのだ。しかし車窓の変化が面白い。カイロの郊外を出るとすぐに砂漠(シャルキーヤ:東部砂漠)になるのだ。といっても鳥取の砂丘のようではなく、岩がごろごろしている感じだ。草はスギナをもっと青黒くしたような汚い植物が所々生えているだけ。こんな所に紀元前から人々が暮らしていたとは。

現代文明の醜さはここにも現れている。それはビニールだ。砂漠の強い風に吹かれてどこからともなくビニール袋がころがりながら集まってくる。それは自動車道路の縁にぶつかって止まる。やがて砂がビニールを押さえ込んで動かなくする。何百キロも続くさばくの道沿いに、ひらひらと風に揺れる無数のビニール袋は砂漠の光景をいっそうもの悲しくさせるのだ。

バスはまずシナイ半島の付け根、スエズを通り、こんどはスエズ湾を南下する。地理で習ったシナイ半島は、アフリカとアラビア半島の間に挟まった、逆算角形の小さな土地と思っていたが、何と、一辺200キロもの行程が待ち受けていた。しばらく海沿いに進む。スエズ湾は紅海の一部だ。名前とは違い真っ青な海。ところどころにリゾート村が点在する以外は、ただ砂、岩、だけの平地だ。

ここら辺は中東和平条約が結ばれるまではイスラエル領だったところだ。だから今でもとなりの国が近いという緊張感があり、途中3回もバスは止められて兵士が検問に来た。突然バスは内陸に方向を変える。海が見えなくなったとたん、こんどはどこまでも続く岩山だ。こんな風景は日本のどこにもない。強いて言えば、どこかのリアス式海岸の奇岩に似ているだろうが、とにかく空と岩山しか存在しない。その間を曲がりくねった道路はどんどん上へ上がってゆく。

乗っているバスは定期バスだから、当然住民が一人、二人と降りてゆく。彼らの「自宅」はその岩山の間にある。ちゃんと野菜を栽培し、子供を学校に行かせ、普通に暮らしている。だが、生まれて死ぬまでまわりの風景は空と岩山だけである。もし火星への移住民募集をしたとしたら、きっと彼らが最も適していると思う。たしかにこの光景は最近探査衛星が撮影してきた火星の風景とよく似ている。赤みを帯びた色も。緑したたる日本では想像もつかない世界であるが、「住めば都」なのであろう。

運転手は通行量が少ないことをいいことに猛烈にとばす。カーブでは何回横転するかと思ったことか。こんなところで交通事故に巻き込まれては泣くに泣けない。ようやく聖カトリーヌの町に入ってきた。もう6時過ぎで真っ暗だ。途中のバス停では政府の職員が乗り込んできて、3米ドルを払えと言う。ここから先は自然保護区だから、外国人は協力金を払わなければならないそうだ。ドルは持ってないというと、珍しいという顔をされ、17LEを出せと言う。1ドル=118円、で換算すると3倍で354円、17LEでは340円となり、やや得をした計算になる。

なお、ユーラシア大陸の西半分ではドルよりもユーロの方が主流になろうとしているようだ。モスクワ空港の免税店ではすべてユーロ表示である。あまり経済はさえないが、借金がなく安定しているユーロ諸国に比べ、次々と戦費をつぎこみ、国内では浪費を重ねているアメリカの通貨は、相対的にその地位が低下している。

真っ暗な中、聖カトリーヌの停留所に到着。果たして宿は取れるだろうか?地図に従ってバンガローのようなホテルにたどり着く。ホテル代はわずか25LE だが、午前2時半には起床して、登山をすることにしている。ホテルの管理人に近くのレストランに連れていってもらい、定食(前述のチキンのやつ)を食べたあと、さっさと寝た。登る予定の山は標高2285メートルもある。

定刻に起床。こんな真っ暗な中、街灯もないところで登れるかと不安だったが、修道院横の登山口に行くと、それは何百人という登山者(多くは巡礼者)がもう詰めかけているのだった。月が明るく、星はまるで降ってくるように輝いている。登りは「ラクダ道」といって比較的平坦な登山道である。足の弱い人はラクダの背に乗って上ってゆく。

歩いて気がついたが、懐中電灯など不要なのだった。目はすぐに暗闇に慣れ、月の光だけで十分に歩ける。文明の利器などというが、人間の能力を衰退させるものが少なくないことがよくわかる。むしろ途中の売店の明かりがまぶしくて邪魔になる。

自宅のマンションの階段を8階まで足で上ることにしている私は、次々と登山客を追い越し、さらにその前を歩いている背の高い人の後にひたすらついていった。明るいところで聞いてみると、彼はドイツの青年だった。彼らは普段から徒歩旅行などをしているからだろうか、歩くことに少しも苦痛を覚えない。しかもドイツでは距離的に近いこともあって、エジプトは格安なのだそうだ。私が15時間以上もかけて飛行機に乗ってやって来たことを聞き、驚き入っていた。

頂上近くは大石ばかりでここはラクダに乗った人も降りて歩かなければならない。しかも非常にきつい。頂上に近づくにつれて風が冷たく強風になってきた。温度は6度ぐらいだろうが、風のせいで体感温度はもっと低いのだ。頂上手前の山小屋で飲んだお茶の美味しかったこと!ここでは毛布も貸してくれる。

午前2時40分頃から歩き始めて5時半に到着した。3時間の登りである。日の出は6時15分以降になる。寒さで歯をがちがち言わせながら日の出を待った。下からは次々と人が登ってくる。山頂が人でいっぱいになった。ドイツ人、ロシア人、フランス人、韓国人がそれぞれの言葉でしゃべっているのが聞こえる。多様な国籍だ。不思議とアメリカ人がいない。

ようやく太陽がシナイ半島の東、アカバ湾の方角から昇る。人々の歓声が上がる。まだ富士山にさえ登ったことがないのに、はるばるシナイ山の御来光を拝んでしまった。帰りは石段の急な道を降りる。追い越しがてら、ロシア人の青年がキャンディをくれる。登りより降りる方が足の負担は大きいという。足ががくがくになりながら、それでも8時過ぎにはホテルに帰り着いた。シャワーを浴びて2時間ほど仮眠をとった。

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観察日記(7)
騒音大好き?エジプトのどの町に行っても、車のクラクションのすさまじさには閉口する。船では、まるでディスコであるように大音響で音楽を鳴らす。バスでは運転手の好みの歌を乗客は目的地に着くまで聞かされる。ホテルの部屋では、真夜中まで男同士の大声での怒鳴りあいが少しも珍しくない。

***

観察日記(8)
おつりがない!! エジプトの店では開店前に銀行から小銭を用意するということをしないのだろうか?地下鉄の切符売り場でも、博物館の切符売り場でも、朝一番に出かけたら必ずお釣りはないといわれる。小銭はお客さんが大勢来て自然にたまるものなのか?だから100LEのような高額紙幣を持っていたら、庶民の町では暮らせない。

スエズ 

スエズ市内のシーフード専門の露店
スエズ運河を西岸から(本当は撮影禁止!)

運河北方から曳き船がやってくる。

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聖カトリーナのバス停からは、午前6時発のカイロ行き、午後1時発のスエズ行きの二本しかない。時間的に都合のいいスエズ行きに乗ることにした。ミニバスもあるのだが、値段がはるかに高いし、時間もかかりそうなので定期バスにした。昨夜と同じ田舎食堂にはいり朝食を食べる。すでに顔見知りになったウェイターの少年は、午後のスエズ行きに乗ると知ると、直立の姿勢でぜひまたこの町を訪れてくれという。

なんと礼儀正しい少年であろう。ぼろぼろのみすぼらしい食堂ではあるが、接客態度は1流レストラン並みである。たしかにこの田舎町はカイロなどとくらべのんびりしているし、なんといっても車がほとんど通らない。そして山に囲まれ静寂そのものである。自分の息が聞こえる位なのだ。ここを何千年も前に故郷に選んだ彼らの祖先たちはその点が気に入ったのだろうか。

食堂に姿を現した可愛い5歳ぐらいの女の子にカメラを向けると、「バクシーを払うなら写してもいいわよ」とのたもうた。完全に観光地ズレしている。可愛いから、多くの外人観光客の被写体になったに違いない。腹が立ったから撮るのをやめた。のちにふつうの子供はもっと純真で、写してもらうのが大好きだということを知る。

バスは昨日来た道を戻りスエズに向かう。ところが何と、訳の分からない事態が発生した。出発後50分ほどして、まっすぐな道を走っている間突然バスは止まりUターンをして今来た道を戻ったのだ。運転手は道を間違ったのか?まさか!何と聖カトリーヌのバス停に戻ったのである。車掌が事務所に忘れ物をしたらしい。たぶん売上金であろう。

車掌が戻ると再びバスは出発した。乗客は別に気にするわけでもない。しかも途中で、停留所もないところで野菜の束を抱えた男女を乗せた。彼らはどうしてバスがこんなに遅れてやって来ることを知ったのか?4,5キロ走ると彼らは降りていった。すべてが謎である。

この事態により予定より1時間40分遅れることになった。日本ではとても考えられないことだ。あとは順調に進んだが、終着点はスエズ市ではなく隣町のバスターミナルなのである。このことはあらかじめわかっていたが、問題はそこからスエズ市へ向かうミニバス乗り場がどこかだ。あたりは住宅団地ばかりで、西も東もわからない。

終点でバスの運転手と車掌にアラビア語で「アルバイーン(スエズ市の中心)」行きはどこだ」と訪ねると、「ミニバスで行きたいのか、それともタクシーか」と聞くから、「ミニバスに乗りたい」と答えると、「そりゃ遠いぜ」と何とかぶつぶつ言いながら、終点を過ぎて「回送」になったバスにそのまま乗せてくれ、ミニバス乗り場の前でおろしてくれた。終点からこの乗り場まで相当離れており、わざわざ連れていってくれた二人の親切には涙が出る。

そこからミニバスで20分ほどでスエズの中心に入った。ところがホテルのある大通りはわかったが、肝心のホテルはいくらさがしても見つからない。途方に暮れていると、向こうから二人の青年がやってきて、「ハロー」と挨拶した。この二人なら教えてくれるかもしれない。それにこのころになると、単なる商売人と親切な人が表情や動作で違いがわかるようになっていた。しかも一方は英語を流暢にしゃべることができ(システムエンジニアだった)、私のさがしているホテルは改装のため一時閉鎖になっているという。

どうしようかと思いあぐねていると、同じレベルのホテルを案内しようという。携帯電話を持っていたもう一方の青年が友だちに聞き回り、あちこち歩いてホテルに案内してくれた。ふたつのうち一方は満室だったが、もう一方は毛布の中に南京虫がいたけれどもとにかく彼らのおかげで宿を確保できた。バスの乗員といい、青年たちといい、彼らいなかったら、どうなっていたことだろう。

すっかり安心したので、夕食を食べに大通りに繰り出した。さっきまでまったく見知らぬ町だったところも宿が決まれば急に気楽な町に早変わり。港町で有名だから、シーフードを食べることにしてあちこちさがしたが、有名店はみな客がいない。

ふと見ると1番目立つ場所の歩道上に屋台を開いている連中がいる。近寄って眺めているとなにが欲しいかと尋ねるから、「イカ、イカが食べたい」というと、有名なカラマリ(イカのフライ)の他に「アサリの酒蒸し」(ただし酒は入っていない)みたいなのを出してくれた。

水タンクを備えた調理台ではコックが巧みに料理を手際よく作ってゆく。椅子は歩道の上に並べてあり、通行人が客の横を通ってゆく。こういうところに出している露店は安いし材料は新鮮なはずなのだ。なぜなら既存店と対抗するためには市民の支持を得なければならず、そのことからすれば必ず美味しいはずだ。予想は当たった。しっかり食べて、さらにお茶を頼み(これは別の店から取り寄せる)満腹してホテルに戻った。

翌朝早起きしてスエズ運河を見学する。行きは徒歩で向かった。何のことはない、砂を固めた土手の間にある水路に過ぎないのであるが、学校で習ったあの運河が目の前にある。ここ運河の紅海に面している南の端がスエズ市であり、北の端の地中海に面しているのがポートサイドである。途中の湖をつないでいるものの、全長は100キロもあるから驚きだ。帰りはタクシーでバスターミナルに向かう。

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ナイル・デルタ地帯を行く 

スエズから1時間半あまり東へ走ると砂漠は終わりこのように田園地帯に入る

バスターミナルでは切符を買っただけでなく、車中でのサンドイッチを作ってもらいバスに乗り込んだ。サンドイッチといってもパンに挟んだのではなく、アエーシの中に挟んで(いやくるんで)作ったものだ。中に入れたソーセージはなにが材料かわからないがきわめて美味。運良く9時発に乗れたので、午後3時頃には着きそうだ。

出発して1時間半ほどすると、これまでの岩山砂漠に、椰子の木やその他の植物が目につくようになった。つまりナイルのデルタ地帯に入ったのだ。緑の鮮やかさがまぶしく感じる。シナイ半島の岩山と比べて、こちらは何とみずみずしいことか。次第に車窓には畑が増え始め、ナイル川の支流からひいている水路が目に入り始める。

やがて家畜の姿も目に入り始めた。エジプトでは農業機械はほとんど目にしない。みな人力か動物が活躍している。特に馬とロバが主役だ。これを遅れていると言ってはいけない。農民は機械を買ってそのローンを払い続けるだけの財力はないし、今後ひんぱんに起こるであろう原油の価格上昇にも無縁でいられる。動物には川沿いに生えている青草を与えておくだけでよい。農業はそもそも無料でおこなうべきなものなのだ。資本をかけるとそれを取り戻すために大変な苦労をすることになる。日本の専業農家のように。

ロバが荷車を引いてゆっくり歩いている様子は実にのどかなものだ。人々も馬に乗ったりして移動の手段に利用している。今は1月だけれども、地中海性気候と、ナイル川の水のおかげで畑は青々とした野菜が栽培されている。同時に種まきもおこなっているのが見える。この豊かな農業と家畜の組み合わせがあってはじめてあのピラミッドや大神殿の建設を可能にしたのだ。

このあたりはナイル川がいくつもの支流に分れているから、道路に架かる橋も非常に多い。カイロを頂点にした逆算角形が地中海まで続いている。そしてこれから行こうとしているアレキサンドリアはその海岸の西の端にある。道路沿いの人口も非常に多い。畑と住宅地が交互に続く。

午後3時に予定どおりバスターミナルに到着。予想していたのとは違うターミナルに着いてしまい、ちょっとあわてるが、売店の青年に聞いて、町の中心であるマスル駅に向かうミニバスに無事乗車。アレキサンダー大王が開いたというこの町は、カイロと違ってあまりごみごみしていない。むしろヨーロッパ的だ。海岸は大きくカーブしていて、バルセロナを思い出させた。地中海を四角形と考えると、バルセロナとアレキサンドリアは対角線で結んだ左上と右下の点に相当するのだ。

またまた地元の人に駅前広場から伸びるナビー・ダニエル通りを教えてもらう。通りの始まりには翼を広げた天使の像があり、これがダニエル天使らしい。あとで博物館で知ったところによると、この道は紀元前4世紀にアレキサンダー大王が町を作ったときの中心通りだったと信じられている。

目指すホテルはたやすく見つかった。こんどは部屋にシャワーもトイレもついている。しかもランドリーも頼んだ(できあがりは遅れたが・・・)。カイロに比べると何事ものんびりしていて、清潔な感じだ。朝食にもおまけにフール(煮豆)をつけてくれたりする。

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アレキサンドリア市内

アレクサンドリア市の海岸通り;緩やかにカーブしている
ローマ円形劇場の遺跡;わりと小型である
ポンペイの柱;これがかつて400本以上も立っていて図書館の屋根を支えていたという
ポンペイの柱のすぐそばの地下貯水室のあと
地下貯水室からくみ出し口を見上げる
地上から見たくみ出し口

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市内に到着した日は、市電に乗って終点まで行ってみた。長崎でも鹿児島でも高知でもルーアンでも香港でも、市電に乗るのがいちばんの楽しみである。それはゆっくり進むので町が十分に観察できることと、料金が思いっきり安いこと(ここでは25ピアストル、つまり5円)、限られた線路なので、どこまで行っても迷う心配がない。そして市電のある町は中心街の商店に活気がある。人々は市電に乗ってあちこちから集まって買い物をしに来るからだ。

特にこの町の市電沿線は実に見事。まるでショーウインドーの間を走っているみたいである。商店の看板や店の中は市電からすぐわかるように作られており、魅力的な店内が見えると、誰でも下車してその店に行ってみたくなってしまう。線路と店の間には両側に道路はあるが、狭いのであまり車が入ってこない。

一般にエジプトの店は同じタイプが一カ所にかたまっていることが多く、電車の窓から容易に自分の買いたいものがある場所をさがすことができる。だから市電の駅も自然と大きくなり、食べ物屋やカフェなどもそろえたいわゆる巨大な「エキナカ商店街」を形成しているところさえある。

電車に乗ると、きっぷ売りがやってくる。その気になれば無賃乗車もできる、のどかなシステムだ。2両または3両編成で、1両目が女性専用車のこともあった(間違って乗りかけて、恥をかいた)。2階建て車輌もあるのだ。商店街は市電の路線に従って形成されている。神戸のようにこの町も海岸に沿って細長くできているから、それに並行して市電の路線が造られた。

最初の日は東半分のちょっと高級な地域を、翌日は西半分の庶民的な地域を市電でゆく。最初に「アレキサンドリア国立博物館」を訪れ、この町の由来や歴史を知った。地理的な位置としては港としての利点は今も昔も変わらない。そしてギリシャ時代からローマ帝国、ビザンチン、オスマン、フランスをはじめとするヨーロッパ列強と、次々と変わってゆく地中海の歴史のど真ん中にいたのだ。

ギリシャ、ローマ時代に残されたものを集めた「グレコ・ローマン博物館」を楽しみにしていたのであるが、残念ながら一時休館中だった。そのまま徒歩でローマ円形劇場にゆく。ローマ帝国がここを根拠地にしていた頃の劇場だ。大した大きさではないが、付属の浴場施設や住宅がまわりを取り囲んでいる。ただしまだ発掘の最中で今後もっと大きく広げられるだろう。

ここは市街地の真ん中にあり、発掘したところは大きな柵で取り囲んである。ある所まで行くと警備員が近づいてきて、この先は別の入場券がいるから行ってはいけないという。これは新種の商売である。そこは別に進入禁止の札があるわけでなし、券の発売所でもそんな入場券は売っていない。言葉がわからない外国人にたくみに言い聞かせて「私設」入場料を取ろうという魂胆なのだ。

遠くから見守っていると、ヨーロッパ系の夫婦にも同じことを言っているようだ。もっとアラビア語が得意なら、こいつの正体をばらしてやれるのになあ!上海でも、ある塔に登ったらこの先は別料金だといわれた。どこでも欲深いやつの考えることは同じだ。

この先は遠いのでいったんマスル駅に戻り、市電を利用することにする。電車待ちの人に「ポンペイの柱」の方向を尋ねると、向かいのプラットホームにいる人を指差した。市電の停留所前には日本人がいた。仕事でアレキサンドリアに駐在しているのだ。日本からやってきた二人の若者を連れてこれから「ポンペイの柱」へ向かうところだという。

一緒に同行させていただくことにした。でも電車に乗ったとたん、窓際に座っていた指のないお爺さんが、私に向かって、「ポンペイの柱に向かうんだろう?」と聞いてきたから、もう心配はない。停留所に着いたら教えてくれるはずだ。ほんとにみんな親切。

町の西半分を走る市電は昨日の青色とは違い、車体が黄色である。沿線の店舗はいっそう市電に近づいていて、市電はそれこそを軒をかすりそうにして進むから、そのスピードはほとんど徒歩と同じ。それどころかずうずうしい連中は線路の上に陳列台を置いて商売している。電車が近づくと慌てて線路から取り除き、電車が過ぎ去ると再びもとに戻すというあきれたやりかただ。

こちらの路線は明らかに庶民的で、電車の窓から生活の息吹が聞こえてくるようだ。のろのろ進む電車はやっと目的の停留所についた。日本人たちと別れ、かつては400本以上あったが、今では柱がたった1本しか残っていない、大図書館の跡を歩く。ここも遺跡の発掘作業の途中であるが、なんと地下貯水タンクまで備えているのだ。そしてところどころ汲み上げ口があり、それを下から見上げることができる。その他礼拝所など、今後の発掘が楽しみなところだ。

今度は取って返して港の岬の先端にある14世紀に作られ、ナポレオンもその重要性を認めていた「カーイトゥベイの要塞」に向かう。市電を利用してたどり着こうとしたのだが、下車駅を通り過ぎてしまい、あちこちさまよった挙句、要塞に到着したのは午後4時30分の閉館の間際だった。

もっともその間に、じつにうまいコシャリを発見したり、魚市場の前を通り過ぎて、蝦蛄(シャコ)やらいろんな魚を見学したから満足だ。魚屋はみな魚を地べたに置く。冷蔵庫なんかないから、夏の間はどうするのだろう?興味深そうに眺めていると、「オイ買えよ」とすぐ声がかかるのがエジプトらしい。

要塞の前はちょっとした広場になっていて、庶民のピクニックの場所らしい。サッカーをやったり、家族同士で歩いたり、露天で売っているお土産を手にとったりしている。ところでエジプトでは家族そろっての外出が一般化しているようだ。子供の数が多いから、みんなで歩くと壮観である。日本では両親がそろって出歩くというのはあまりないのでは?

最後に再び中心部に戻り、アレキサンドリア図書館に入ってみた。これはかつての大図書館の思想を引き継いで作った建造物で、そのデザインが非常に斬新である。ただし中身はそれほどでもなく、各国の寄付によって得た書籍以外はまだあまり蔵書もなく、書棚の隙間が大きい。それにインターネットによる人類のための図書館が完成すれば、もう紙の本による図書館は小規模なものでも十分にやっていけるのでは?

2泊目の翌日、午前中は海岸を散歩する。恋人たちがいっぱいいる。ふと見ると漁師たちが定置網を引き上げようとしているところだった。これは興味深いと近づいて見物する。結構寒いのに、二人の男が裸になって海に入り、みんなで引き上げて狭まった網の中を棒で激しくたたいて魚を追い込んでいる。

ようやく網が陸上に全部引き上げられた。獲物はほとんどがコアジぐらいの小さな魚だったが、用意してきた大きなたらい二つ分ぐらいしか漁獲がなかった。やはり世界中どこでも、特に沿岸部での漁獲高が激減している。ボートをこぎ、海に飛び込みみんなで力をあわせて引き上げてもたったこれっぽちではあんまりだ。漁師たちは力なく引き上げてゆく。

昼頃マスル駅に向かう。散々バスに乗ったから、最後は列車にしようというわけだ。幸い1時間後に出るカイロ行き直通列車に空きがあったので、乗り込んだ。列車は、これまでの乱暴運転や渋滞に悩まされたバスに比べると天国だ。単に乗り心地がいいだけでなく騒音も少ない。しかもデルタ地帯の農村がいっそうはっきり見渡せる。2時間半ほどでカイロのラムセス駅に滑り込んだ。

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地中海に面しているカーイトゥベーイの要塞

綿菓子やさんはここでも大人気

魚市場前で
アレキサンドリア市の西半分を走る黄色い市電
アレキサンドリア市の東半分を走る青い市電
図書館の近くで見かけた焼きいもやさん
アレキサンドリア図書館;壁面にいろいろな文字が彫られている
イスラム教のテレビ説教師;休むことなくしゃべり続ける
ナビー・ダニエル通りのマスコット天使
みんなで定置網を引き上げる;沖の二人は2月なのに裸だ
不漁!;小魚が少し取れただけ
ナビー・ダニエル通り近くで出会った少年たち

街頭録音speaker

この日は金曜日で、ラウドスピーカーからイスラムの教えが流され建物の間にこだましている。そうしているうちにやってきた子供たちの一団が私が持っているMP3録音機を発見。騒ぎ出す。カメラで撮ってやると退散した。

観察日記(9)
アレキサンドリアの対岸:アレキサンドリアからまっすぐ北へ船で進むとギリシャあたりに到着する。だからこの町には南欧の影響がとても強いようだ。ずばり「タベルナ(ギリシャ語の食堂にあたる)」という店もあり、そこの肉パイはパイ皮をのばす職人の腕にも驚嘆させられたが、非常においしかった。

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