旅行記;エジプト
(2007年1~2月)

クフ王のピラミッド

目次

PAGE 1

PAGE 2

PAGE 3

シタデルハーン・ハリーリ市場→中州ナイル・ダムとカイロ・タワー帰国記録

H O M E > 体験編 > 旅行記 > エジプト(3)

外部リンク・・・外部リンク


シタデル 

観察日記(10)
エジプトの犬たち ヨーロッパに比べると、綱をつけた飼い犬は少ない。たいていが野犬のような暮らしをしている。やせ細り、そのくせ筋肉だけが浮き出ている。そして非常に臆病だ。口笛を吹いてもすぐに逃げてゆく。これはいつも人間たちからひどい目にあっているためではないか。一方、軍隊や警備で活躍する犬も多い。地下鉄サダト駅では、朝から晩までシェパードを連れた男が構内の切符売り場の柱の前にいる。もちろん悪人監視のため。

シタデルの中心、ムハンマド・アリ・モスク
軍事博物館の庭に並べられた戦闘機や大砲

イブラヒム・パシャ(1789-1848)の銅像

みやげ物で有名なハーン・ハリーリ市場のメインストリート

街頭録音speaker

ものすごい雑踏。寅さんのように口上を大声で述べる人の間を人々がすり抜けてゆく

上へ

アレキサンドリアから戻ると、カイロの以前と泊まったのと同じホテルに一泊した後、シタデルに向かう。シタデルは以前行ったイスラム地区の南の端にあり、有名なムハンマド・アリ・モスクとその複合施設が入っている。丘の上に建っているので、全市が見渡せる。少し曇っていたけれども、ギザのピラミッドさえも見えた。いずれはイスタンブールに行って、このムハンマドアリのモデルとなったモスクを見てみたいものだ。

エジプト中、いたるところにモスク(ガーマ)があった。こうやって見ると明らかにこの国はイスラム教一色であるように見える。だが、コプト教徒もいるし、現代生活にすっかり適応してほとんど無神論者になっているものも少なくないだろう。でも国の根幹は宗教にあるようだ。テレビをつけると3チャンネルしかなかったが、そのうちのひとつは朝から晩までえらい説教師が、教えを唱えている。

ただしこれをどれだけ多く見ているかは定かではない。ホテルの屋根からながめると、ほとんどの建物の屋上は衛星テレビのパラボラアンテナが設置されている。これは宗教の教えに退屈して、もっと面白い海外からの放送を見たいという気持ちの現われではないか?ついでに一般のテレビではサッカーの試合をこれまた朝から晩までやっていた。喫茶店ではこれを人々は夢中になってみている。

町にでると、ティッシュを前において座り込んでいる人が結構目につく。その中には少女でさえ混じっている。れっきとした乞食はあってはならないとされているから、ティッシュを商品として扱い、それによって施しではなく販売という形をとっているのかもしれない。この国の貧富の格差はインドほどではないにしてもひどいに違いない。イスラム教はこれに対してどれだけの解決策を用意しているのだろう?

お祈りの時間になると、町の真ん中の商店のまん前でもゴザをしいてひざまづき祈りをささげている。今の生活は苦しいからすべての望みは来世に託すというわけだろうか?中東諸国では原理主義的なイスラム教がどの国でも勢力を伸ばしている。ということは現在の体制や状態から抜け出ることに絶望してしまったからなのか?

西欧ではキリスト教の衰退がとまらない。それは現在のある程度保障された豊かな生活が、宗教を必要としなくなったからだ。ところが中東での宗教の台頭はそれとはまったく逆の意味で人々を救うためなのだろうか?なるほど、禁酒や仲間意識や連帯感の強化にイスラム教は大いに役立っていることだろう。個人がばらばらになり、孤独感や孤立感に悩む先進国人よりも幸せかもしれない。生活水準の向上とイスラム教の信仰とが両立するのか大いに興味深い問題である。

モスクを出ると、軍事博物館がある。日本で軍事博物館が堂々と開館することはありえないだろうが、エジプトは普通の国だから、自分たちの軍隊を持ち、今までの成果を人々の前に発表するのは当然だといえる。特にナセル大統領が現れてエジプトに始めて明確な国民意識が生まれてからは、フランスなどに習って、きちんと自分たちの歴史を保存するようになったのだ。その点、ここの展示は英文の解説も含めて非常によくできている。中東戦争から現代にかけての軍の役割が、わかりやすく述べられ兵器の展示も幅広い。

上へ

観察日記(11)
便所前でのバクシー バクシー(喜捨?)を露骨に要求されることはなかったが、数箇所の便所にはお爺さんががんばっていて、バクシーを取り立てている。彼らによって便所の中が清潔に保たれていれば、バクシーを払うことに少しも抵抗はないのだが、問題は汚れ放題のくせにカネをとろうという連中もいることだ。それを考えると、エレベーターの開け閉めやボタン押しなどバクシーなんかやる必要はない。

ハーン・ハリーリ市場→中州 

右側はナイル川東岸、東側は中州

中州は高層ビルが建ち、緑も多い。

シタデルを出ると、広い道路があり左手に全市が見渡せるアズハル公園、右手にはかつての墓場で今では住宅地の建設が著しいムカッタムの丘を見ながら歩道を行くと土産物屋で有名なハーン・ハリーリ市場に出た。

ちょうど観光バスから降り立ったヨーロッパ系のツアーグループがいたので、その後を行きながら彼らが何を買うか見ていた。ところが彼らは何も買わない。掛け声にも反応しない。この市場は高いから手を出すなと旅行社から言われているのかもしれない。しきりにカメラで撮影したり、眺めてはいるが、少しも商品に興味を持とうとしないのだ。これを見て私も何か買う気を無くしてしまった。というよりもまたもや値段の交渉をするのが面倒くさくなってしまったのだ。

ともするうちに市場のメインの通りを通過し、庶民のための市場に出た。雑踏の中を通り抜け、そのままホテルに戻った。午後からはナイル川の中州に行ってみる。途中にあるカイロ・アメリカン大学は、英語の書籍を置く書店が入っている。大学の構内に入ろうとすると目的を尋ねられ、パスポートを預けなければならない。英語+アラビア語辞典を探していたのだが、適当なポケットサイズが見つかった。

中州に向かったのはヨーロッパの大使館や領事館がたくさんあるために違った雰囲気があると思ったからだ。なるほど橋を渡ると急にごみが少なくなり、車も大通りをのぞいてはわずかしか走っていない、別天地であった。

今でも残念に思うのは、道を間違え「イスラム陶器博物館」に入れなかったことだ。なんとその開館時間は午前10時半から午後1時半、そして間が途切れて午後5時から午後9時までというものなのだ。近くにある「現代美術館」も似たような時間体制だった。ここでは学生らしい少女たちが門前で辛抱強く待っていたが。

それでも川岸沿いの散歩は楽しい。しばらく歩くとパピルス博物館の前に出た。この名前は日本人向けであって、じつは「ラガブ博士の博物館」というように、私的な施設なのだ。だから中に入るとパピルスの作品がずらっと並んでいるが、みんな値段表つきだ。それでもなかなかいい絵も含まれている。

町のお土産屋で売っているものはへたくそな絵も多いし、そもそもパピルスの茎ではなく薄く削った木によるニセモノが多いと聞いているから少々高いが、ここで買うことにした。紙が折れ曲がらないように台紙もつけてくれるし、これが本物ですという保証書もついている。

上へ

観察日記(12)
食堂での支払方法 一般にまず注文をしてそれを食べてから最後に支払いをするが、かなり目についたのが、先に会計のところに行って望むものを支払い、レシートをもらってそれを料理人やウェイターに手渡すという形式である。そういう場合は定価がどこかにはっきり書いてある場合が多い。

ナイルダムとカイロ・タワー 

ナイルダム行きの水上バスのキャビンで;5人兄弟と粋なアンちゃん
写真をとってくれと、われもわれもと駆けつける
2時間かけてようやく見えてきたナイルダム

上へ

観察日記(13)
道路のコブ エジプトの住宅地内の道路を暴走する車はいない。それはなぜか?団地の入り口などには必ず道路にコブが作られているからだ。バスもタクシーも自家用車もみんなコブのまでに来るとスピードをゼロ近くに落とす。ここを普通のスピードで駆け抜けたら乗っている人は天井に頭を打ちつけてしまうだろう。日本でもこれはきっと効果的だ。一時停止のところにこのコブを設けておけば出会い頭の衝突事故は激減することだろう。

いよいよエジプト滞在最後の日がやってきた。今日は観光地めぐりをやめ、庶民のピクニックの場所で、ナイル川下流にあるダムへいってみることにした。前日に調べておいた通り、タフリール広場の裏にある川岸が水上バスの乗り場であり、往復でわずか10LE という値段である。

切符を買う際、いくらナイルダムといっても相手に通じないことがわかった。これは欧米人の使う地名で、地元の人はアラビア語で「イル・アナーテル・イル・ヘーリーヤ」と言わなければならない。「アナーティル」だけでもよい。名前だけでも庶民性が強いことがわかる。

実際、乗客60名ほどの中で私が唯一の外国人だった。船着場につくと、3人の妙齢の女性を連れた父親が、自分たちと同じ船で行かないかと誘う。「ワフダック?(ひとりなの)」と聞くから、この通りひとり旅じゃないかと思っていると、それは「独身なの?」という意味であった。まさかこの父親は娘をひとりでも片付けたかったのではあるまいな?

いいよと承諾するとさっそく切符を買ったのだが、その切符は彼らと乗る予定の船とは別会社だったのだ。まったくややこしい話で、切符売りは払い戻しを拒否し、私は別の船にのることになった。

出航は10時ということになっているが、一向に出ない。これは10時以前に出ることはないが、実際に岸を離れるのはある程度乗客が集まってからだという事が後になってわかった。つまり運輸局みたいなところで営業を規制しているわけでないから、儲けの出る人数で運行するというシステムなのだ。これはミニバスでも同じことがいえる。もちろん大企業であれば、乗客がひとりかふたりでも運行するだろうが、このような小さな会社では小回りがきくのだ。

11時になってようやく出航。片道2時間であるが、のんびりと川辺を眺めながらこのたびの疲れを癒せるかなと期待していた。ところが、船に見慣れぬ東洋人を見つけた子供たちがわんさと押し寄せてきて、大変な騒ぎになった。親たちが止めようとしても聞かない。次から次へと子供たちがやってきて、握手攻め、質問攻めにする。挙句の果て写真をとってくれと言い出し、何度も何度も撮影する羽目になった。

そのうちヒマを持て余した子供たちが腕相撲をしよう、歌を歌ってくれと言い出し大変な騒ぎになってしまった。特に5人兄弟姉妹、もう一組の姉妹弟と仲がよくなり、後者は帰りの船でも付きまとい、どっかに消えてはまた戻ってくるのだった。

それにしても日曜にピクニックに家族で出かけるのだからエジプトでは中産階級に属するのだろう。子供たちの元気のよさと、きらきら輝く目に40年以上前の日本の子供たちを思い出した。塾通いやおけいこのストレスもなく思いっきり明るい子供たち。こうやって見ると、日本の現在の小学生はどう見ても半病人に見える。

特に、5人兄弟の10歳ぐらいの長女は頭がよくて、私がアラビア語をまともに話せないとわかると、一生懸命ゼスチャーを工夫して伝えようとする。コミュニケーション能力がじつに豊かだ。

また、姉・妹・弟の三人ともカイロに着くまで付き合った。姉は10歳、妹は9歳、弟は5歳。長女は「私の名前はなんていうの?いってみて!」と何度も聞く。どうしても自分の名前を覚えてほしいらしい。

こういう子供たちばかりなら親業も楽しいし、もっと産んでもいいと思うだろう。これもエジプトの出生率が高い理由のひとつだろう。

「ガンニー(歌え)」とせかすから、こっちも日本の歌を歌ってやった。はじめて聞く歌に、子供たちは不思議そうな顔をする。それでもじゃあ君たちも歌ってと言うと、一生懸命学校で習ったらしい歌を披露するのだった。おかげで行き返りの4時間の大部分は子供たちと付き合うことになった。

デッキの上は子供たちが右往左往し、かなり冷たい川風が吹いていた。デッキの下の船室ではスピーカを最大にしてエジプト風のロックががなりたてており、それに合わせて若者たちが踊っている。ちょっとしたディスコだが、年配の人たちもその音を気にする風もない。今まで気づいたことだが、エジプト人というのは騒音が大好き、騒ぎ立てるのが大好きなようだ。それもかなり度を越している。あまりやかましいのでまたデッキに出たくなる。

その合間に、英語の話せる60歳の男性とも知り合いになった。警備会社に勤め、今年の7月で定年を迎える。ずっと独身できたイスラム教徒だ。なぜ独身なのかは聞きださなかったが、実際エジプトでは独身男性が多いと言う。その理由はインドと同じで、花嫁の親に払う持参金が高すぎるから。収入の少ない男性は一生結婚をあきらめることになる。

12時過ぎナイルダムに到着。あれほどやかましかった子供たちは親たちと一緒にどこかに姿を消してしまった。上陸してみると、周りに実に遊園地あり、レンタサイクル、レンタバイクあり、観光馬車あり、ピクニックのためなら何でもそろっている。(バイクは小学生でも乗っていいのだ!)

ダムはナイル川の一部をせき止めることができるようになっている。おそらく灌漑目的であろう。船着場から左に折れてダムの端まで歩いてみた。途中兵士に出会い、ここは撮影禁止だと告げられる。

戻ってみるとまだ出航に時間があったので、今度は右に折れて田舎道を行く。そこは典型的なデルタ地域の農園であった。さまざまな品種の野菜や果物、園芸作物が、多種類それも立体的に植え込まれている。単一作物を栽培するのではなく、多様性で豊かさを保つ手法だ。ロバが無心に草を食み、じつに気分のいい地域だった。

帰りの出航は2時半だと言うが、実際に出たの3時半過ぎ。カイロに到着したときにはもう真っ暗で、カイロタワーをはじめとしていろいろな建物や船がすでにライトアップされていた。カイロタワーは、入場料も高いが、ディナーつきの切符というのがある。これをエジプト最後の食事にすることにした。タワーのてっぺんは、よくあるように回転式のレストランになっており、川魚のフライとトマトのクリームスープはなかなかおいしかった。とくにタヒーナと呼ばれるタレは本物の胡麻のにおいがぷんぷんしてじつに美味だった。

上へ

観察日記(14)
孤独のない世界 エジプト人は話し好きで世話好き。珍しい外国人と見ればすぐに話し掛けてきたり挨拶をするし、仲間同士でいつまでも喫茶店でしゃべっている。友達に路上や車内で会えば、男同士でも抱き合ったり両頬にキスをして再会を喜び合う。個人主義の発達した先進工業国ではこうはいかないだろう。日本では配偶者を失った男性がコンビニでの弁当の注文で発した言葉がその日の唯一の会話だったなどという話を聞いたが、さっさと日本を捨ててアラビア語を覚え、エジプトに移住したほうがいい。
ナイルダムの船着場につながれた水上バス
ロバが無心に草を食べるのんびりとした田舎
帰りの船で付きまとって離れない、姉・妹・弟
夕闇迫るカイロ・タワーと明かりをともした観光船
カイロ・タワー(187メートル);ハスをかたどっている

上へ

観察日記(15)
コーラのがぶ飲み 多くの若者たちが一般的な食事をコーラをがぶ飲みしながら食べる。コカコーラ、ペプシ、ネッスル、リプトン、ケンタッキー、これらの外国資本は、エジプトの若い層の食生活に深く入り込んでいる。甘い飲料、脂肪だらけの食品に慣らされた彼らは将来的には食事内容の画一化、肥満、生活習慣病の道を先進国同様にたどるのだろうか?

帰国 

海外旅行は遺跡を見たり名所を訪れたりするだけではない。それらをダシにして人々を見ることである。インドもエジプトもそれには格好の場所だった。人間というのはいかに違っているか、そしてまた同時にいかに似ていることか!

多くのエジプト人は東洋人を見るとすぐに声をかけてくる。商売人でないとき、それは本当の親愛の情だといえる。 エジプトの路上で彼らと出会うとき、私は日本の親善大使なのだ。もし私の応対が彼らに悪い印象を与えるとすれば、即それは日本に対する悪印象に変わってしまうのだ。果たして彼らに好印象を残すことができたかどうかはなはだ心もとないが、今後も数多くの日本人がこの地を訪れてこのせっかくの好感情を損なわないよう努力してもらいたいものだ。

年々エジプトを訪れる日本人の数は増えているが、そのほとんどがツアー客だ。彼らはホテルと観光バスの内部に閉じこもっていることが多いから、残念ながら生身のエジプトにであうチャンスが少ない。

やはり単独あるいは少人数グループとして旅行すべきだし、すっかり物質的な豊かさに慣れきった日本人が、貧困の現実を知る機会でもある。9日ぶりに日本に帰ってみると、その清潔さと整然としている生活に新たな驚きを覚える。自分は別世界にいっていたのだとそして、この別世界は同じ地球の表面上にあるのだ。

体験できなくて心残りのもの;コクテール(果物とヨーグルトの豪華なカクテル)の試食、ナイトクラブでのベリーダンス鑑賞

観察日記16)
英語が通じる エジプトに旅行すると、英語が通じることで大変便利だと感じる。しかしインド同様、そのわけはかつてイギリスの植民地圧政下にあったことを忘れてはいけない。イギリスは、スエズ動乱前後にしてすさまじい虐殺と搾取を行ったのであり、パレスチナ問題のもとを作ったのも二重舌を使い分ける彼らである。このためエジプトは自立への道を大きく阻まれた。

記録 2007年1月27日~2月6日

(時間表示は現地時間による;冬季の日本とエジプトとの時差は7時間)

26日 午前11時成田発(実際は1時間以上遅れ)・モスクワ乗り換え(約10時間) ;機中泊

27日 午前0時45分カイロ着(約4時間) 考古学博物館・イスラム地区散策 ;カイロ泊

28日 ギザのピラミッド・カイロ大学・オールドカイロ ;カイロ泊

29日 聖カトリーナへ(バス乗車約8時間)夕方到着 ;聖カトリーナ泊

30日 午前6時すぎシナイ山ご来光・スエズへ(バス乗車約4時間) ;スエズ泊

1日 スエズ運河・アレキサンドリアへ(バス乗車約5時間) 市内 downtown 市電にて往復 ;アレキサンドリア泊

2日 国立博物館・ローマ円形劇場・ポンペイの柱・カーイトゥベーイの要塞・図書館 ;アレキサンドリア箔

3日 アレキサンドリアの海岸散策 カイロへ(列車で約2時間半) 午後3時到着 ;カイロ泊

4日 シタデル・ハーンハリーリ(市場)・カイロアメリカン大学・パピルス博物館 ;カイロ泊

5日 ナイルダム・カイロタワー 夜、空港へ ;機中泊

6日 午前1時45分カイロ発・モスクワ乗り換え(除雪のため2時間遅れ)午後12時40分成田着 ;機中泊

航空券とおみやげをのぞいた現地通貨1590 LE (約31800円 1LE =20円換算)

参考 エジプト旅行ガイド外部リンク

上へ

H O M E > 体験編 > 旅行記 > エジプト(3)

inserted by FC2 system