(1987年)

ショーボートの催し

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目次

第1章 アメリカ風生活様式の画一性

第2章 カナダ放送局事情

第3章 英語圏内の自由な移動

第4章 カナダにおける国語教育

第5章 記録


第1章  アメリカ風生活様式の画一性 

清潔な町 日本にいると、村や町の地蔵様、お宮、神社の多様性に気づくことは少ないが、建国して百年や二百年程度の国の生み出すものが、いかに似通っているかには愕然とさせられる。マクドナルドのハンバーガーチェーン、セーフウエイのスーパーマーケット、ロンドンドラッグの水色の看板といったものは、バンクーバー近辺どこへ行っても、いやメキシコ以南を除く北アメリカのどこでも、同じような町並みの中に存在し、もし住所を示す番号が表示されてなかったら、たちまちのうちに迷ってしまいそうなほどの画一性である。このことの第一の原因は、商業資本がチェーン店政策を徹底的に推し進めていることにあるといえようが、同時にそのような環境を抵抗なく受け入れてしまう、いわゆるカナダ人の郊外族の性格も大いに関係がある。彼らは清潔さ、秩序、安定を好み、それらは常識的立場に立てば、確かに「徳」といえるであろうが、破壊と混沌から生まれ出るエネルギーはない。

シアトルの豚の銅像アメリカの影 カナダの国民性はイギリス的風土の良さを残しつつも、そこから脱皮し、新しい文化を作り出すまでに至っていない。インディアン文化を取り入れているものの、それを消化しきっている芸術家はわずかしかいない。むしろ今ではアメリカ合衆国の生活様式に激しく浸食されている。ブリティッシュコロンビア州の州都、ビクトリアにある、有名なエンプレスホテル(Empress)の裏側にある工事現場の塀には、PROUD AMERICANADIANP「誇り高き、アメリカ化されたカナダ人」の落書きがあったが、この皮肉たっぷりのセリフが、現代カナダ人の置かれた状況をよく表している。

街角で ある店に入ると、100キロを超えそうな娘が、テーブルに置かれた2個の巨大なショートケーキをほおばっていた。ショートといっても、生半可な大きさではない。ちょっと日本のクリスマスケーキの小型ぐらいのものだ。私がもっともショックを受けたのは、彼女がそれほどまでに肥満しているのに、それでも食べ続けることをやめられない、つまり自己のコントロールがまるでできていないということだ。これ以上食べたら、ダメになるということも分かりそうなものだが、まるで無知なのだろうか?

そしてさらにショックなことは、それを止める人がまわりに、例えば家族や恋人や夫がいないということだ。これがカナダやアメリカでは普通のことなのであろう。つまり人間関係が希薄になってしまっていて、といっても制止してくれる宗教があるわけでもなく、ただ放っておかれているのだということだ。日本は文化的歴史的背景が、これらの国々とは異なるので、いずれは同じようになるとは断言できないが、現代社会の病根は根深い。

ダウンタウンの魅力 カナダは今や、アメリカ以上に移民を受け入れており、その人達がもたらす、新しい異国の文化は将来、新生文化を作り出すもとになるかもしれないが、白人優位の合衆国的スタイルが愛好されている限り、画一化から逃れることはむずかしいだろう。従って新しいカナダを作る起爆剤となりうるのは、バンクーバー、モントリオールといった大都市でなければならない。それも郊外地域ではなく、現在急速に再開発が行われている、ダウンタウンであるはずだ。バンクーバーでも、270km南にある、アメリカ領のシアトルでも、「ダウンタウンはおもしろい」という声を聞いた。それはダウンタウンが人間生活の凝縮そのものであり、すでに述べた画一化を跳ね返す力を持っているからだろう。

かつて60年代から70年代にかけて、アメリカの大都市は暴動が続発し、白人達は郊外に逃げ、ダウンタウンはスラム化した。それが今、新しい形を伴ってよみがえりつつある。それらはマンハッタン化とか、ジェントリフィケーションとか呼ばれるものだ。もちろん、シアトルのダウンタウンは建築のさなかであり、暗い横町は小便臭く、浮浪者、いわゆるホームレスの人 々に何度も小銭をねだられたが。その点で、アメリカはカナダと比較にならないくらい、深刻な問題を抱えている。しかし両国とも、はっきりと時代の波は押し寄せているようだ。

第2章  カナダ放送局事情 

多様な構成 バンクーバーにはテレビ局が7つ以上、シアトルからの放送も加えると、すべてのチャンネルが番組で埋まってしまう。ラジオ局もAM,FMともラジオの目盛りの端から端まで鈴なりの盛況である。アメリカ合衆国、カナダの他の都市と同じく、放送局は住民の好みの多様性に応じて、豊富な番組を用意している。ある公園では、クラシック専門の放送局が、室内楽の演奏者を野外ステージの上で演奏させていた。聴衆は普段からクラシック音楽の愛好者ばかりで、その放送局のファンがほとんどである。放送局、特にラジオ局は数が多く、過当競争気味なせいもあって、聴取者の獲得に懸命である。当然地元との密接なコミュニケーションが要求されることになる。今述べたような実演をはじめとして、特定の音楽、宗教、文化共同体にしぼった、きめ細かなサービスをしようと努力している。インディアン文化保存村

ミニ放送局 私はバンクーバー滞在中、CHQM(103.5Mz)のFM局の番組編成が気に入って、暇さえあれば聴いていたが、さてその放送局はどこにあるのだろうかと興味を持ち、調べたところ、なんと宿泊していたYMCAホテルから200mと離れていないところの、小さな平屋建ての建物が放送局であることがわかったのだ。しかもアンテナは、隣のモーテルの屋根を借りて立てていた。小さなこじんまりした局であったが、日本のFENと同じく、24時間放送だし、AM局やケーブルテレビをも運営している。電話帳を繰ると、このような放送局がダウンタウン地域を中心に非常にたくさん存在することが分かった。小回りの利く、ゲリラ的活動が特徴である。このような局は大学の構内にすらあるのだ。一度見学にいった、サイモン・フレーザー大学の広大な建物の一角にも、立派な設備を持った局を発見した。

将来性 日本ももっと放送の自由化が進んで、好みに応じた放送局がたくさんできると楽しいだろう。一日中ジャズだけとか、演歌だけを流す局があってもいいのではないか。確かに湘南や、青山には、ミニFM局が出現しているが、まだ一過性のものにすぎない。新聞や雑誌と違って次元でのミニメディアであるラジオやテレビ局が、カナダと同じくらいに日本でも成長することはコミュニティー形成にとっては大変望ましいことだ。つまり多様性がもっと求められている。放送局とは直接関係ないが、シアトルでの文化センターの一角に、カラオケで歌わせる(もちろんポップスかオペラ)コーナーがあったが、そこでは同時にカセットテープに録音して、お土産にしてくれるのである。こういったちょっとした工夫が、将来のメディアをたのしくしてくれるに違いない。

第3章  英語圏内の自由な移動 

共通文化圏 バンクーバーでのホームステイのお世話になった家族の人から聞いたところによると、アメリカ合衆国、イギリス連邦を中心とした英語圏は、単に英語という共通語を有するということのみならず、似たような文化圏であることも重なって、互いの行き来が大変盛んである。たとえば、カナダで結婚して、子供をもうけたが、長女はオーストラリアに仕事をしに行ったとか、おばさんはスコットランドに住んでいるといった、長い距離を気にしない、生活地域の世界的規模での分散が、非常に抵抗なく受け入れられている。このようなことは、はるか遠くイギリス植民地時代にさかのぼる、海洋王国時代の伝統から来ているのであろうが、生活様式が共通であることが、人々に外国へ来ているという違和感を和らげ、加速度的にその土地に同化することを容易にしていることは否定できない。日本国内で、地方から大都会に出てくるのと同じ程度の心構えで移り住むことができるのは、うらやましい限りである。

カナダの地平線女性の進出 我々の宿泊した YMCA は幹部がほとんど女性である。これはメキシコを除く北アメリカ全般の傾向であるが、彼女らはディレクターとして頑張っている。むしろこのように細かい点に注意しなければならない職種の場合、女性のほうが向いているかもしれない。みんなてきぱきと仕事をこなし、自分の仕事に誇りを持って、部下にどんどん指示を与える。男女が対等だというのは口先だけでなく、自分の意識そのものも張りつめていなければならないのだ。ある人からこんな話を聞いた。日本人の若い女の子がたくさん集まって写っている写真を見ながら、他の国の女の子とポーズのどこが違うと聞くので探してみたが分からない。答えは「みんな首を傾げている」というのだ。なるほど、確かにみんな、垂直ではなく、20度ぐらい左右に傾いている。その人曰く、「日本女性は男に媚びているんだよ、それがそのようなポーズに現れるんだ。他の国の女性はこのようにはしない。」そうなのだろうか。気になるコメントだ。これからももっと写真を観察してみよう。

書物の流通 国際週刊誌ニューズウイークはアトランティック版として、大西洋を取り巻く諸国で共通の記事内容で広く読まれ、同じ事件、同じ問題に関心が注がれており、日本や韓国で読まれているアジア版とは大きく視点が違っている。かの有名なペンギンブックは、裏を見ると、イギリス、オーストラリア、カナダ、合衆国、ニュージーランド各国における定価がまとめて印刷されている。この事実は単なる配布、輸送の利便を図るということだけでなく、共通の文化圏内で抵抗なくそれぞれの書物が受け入れられていることを示す。

国際化の方向 日本のように固有な文化の上に成り立ち、同時代の文化の流入も難しいような歴史的背景にあるような国では、このような状態は大量の移民が流入、または国外への流出するような事態の起こらない限り、実現することはない。固有の文化を守り続けることがよいのか、英語圏のように、互いに共通性を中心に一つにまとまってゆくのがよいのかは、ともかくとして、いわゆる「国際化」の波はこれらの国々では非常に強く押し寄せて、日常化している。我々のいたバンクーバーは、去年の万国博覧会開催地ということもあって、この国際化の傾向がきわめて強く、空港の旅客達も「観光客」だけでなく、「里帰り客」や「つてを求めてわたってきた人々」で満ちあふれているのであった。

第4章  カナダにおける国語教育

教科書 我々日本人の英語の勉強は、彼らの国語の勉強にあたる。もちろん、この2つの間の相違点を挙げることは簡単であろうが、むしろここでは共通点、、特に言語習得にとって有益なことはないか、探してみたい。彼らの国語は当然、小学校から始まる。検定制度がないということは、驚くほど多くの種類の教科書、副読本を生み出している。ブリティッシュコロンビア大学(UBC)の教育学部の教科書コーナーは、ただそれだけで立派な図書館であった。

カナダ吊り橋実用性の重視 彼らの言語教育はどんな題材を使って行われているのか?文学作品の鑑賞は日本と違って、ごくわずかな部分しか占めていない。特に重点が置かれているのは、速読法、速解法、文章の組立テクニックといった、驚くほど実用的な部分である。日本ではさしあたり新聞で宣伝しているような、「文章がうまくなるための通信講座」で取り上げていそうな内容である。「どうやったら早く読めるようになると思いますか?登場人物をはっきりとチェックするのです。登場人物の特徴と思えることは、しっかりと記憶しておきましょう、等々」と実に具体的なのである。

ドラマと詩の応用 この考え方の延長としてドラマの指導がある。別にクリスマスの発表会のためにやるのではない。年間を通じて子供たちにあらゆる役割を体験させ、社会の他の人間がどう振るまい、どうしゃべるのかを演じることによって、社会関係を学んでゆくのである。肉屋のおじさんの役を演じて、子供は肉屋がどういうことをしゃべり、どういう人間とつきあうのかといったことを漠然とでも会得する。もう一つの特徴として詩がある。英詩は長い伝統と、楽しいリズムを持つ。鑑賞としてだけでなく、言語のリズムを身につけるためのものとして、詩の授業は活用されている。

文法への取り組み 文法はどうか。実は日本の英文法と内容、用語は大差ない。しかしその後の運用練習の量の多さは驚くべきものだ。単なる語形変化といったものだけでなく、文と文の統合、既習の文法事項を応用しての単文づくりを何度も何度もやらせる。つまり文法は自分で正しい文が作れるようにする訓練の完全な下地としての役割を果たしているのだ。文法が一人歩きして、実際の運用と遊離しないよう、気配りがなされている。

総じて国語教育はカナダやアメリカでは文学部でやるような鑑賞は解釈だけではなく、純粋な対人コミュニケーションの道具と割り切っていると思われる。

第5章  記録 

1987年7月19日より8月19日まで、カナダ、ブリティッシュコロンビア州、バンクーバー市に滞在。
YMCA専門学校の生徒の夏期短期留学の引率としてバンクーバーYMCAホテルに宿泊

7月19日(日)成田空港出発、サンフランシスコ着、乗り換えてバンクーバー着
7月31日(金)より8月2日(日)まで市内でホームステイ
8月6日(日)より8月7日(金)までフェリーにてビクトリア(バンクーバー島の首都)一泊旅行
8月9日(日)長距離バスを使い、シアトルまで日帰り旅行
8月18日(火)バンクーバー出発
8月19日(水)成田空港着

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