(2014年9月)

血の上の救世主教会

目次

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モスクワへ→モスクワ市内→博物館など→

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→サンクトペテルブルグ市内→博物館など→帰国・・・記録

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モスクワ・サンクトペテルブルグの旅

赤と黄色の線は、モスクワ市内の今回移動した軌跡(GPS記録による)。蛇のようにうねっているのはモスクワ川。

ロシア連邦(17.075㎢、143264人、2005年)は世界で最も国土面積が大きく、特に東西の幅が広いので、東京からモスクワまでの約10時間の飛行時間のうち、9時間近くは、ロシア領内を飛んでいることになる。

しかし、東のシベリア地区は、人口密度が極端に希薄で、その生産、人口、文化のいずれの面でもアジアとヨーロッパの境であるウラル山脈の西の部分に集中している。現在のウクライナの首都キエフから、フィンランドの国境すぐそばにあるサンクトペテルブルグと”遷都”したこの国の首都は最終的にモスクワ外部リンク(1150万人)に定まった。

言うまでもなく、この国の特異性は、ロシアの国が1917年にいったん途切れ、ソビエト連邦の中心であったが、1991年に再び元の国に戻ったということだ。激動の歴史を通り抜けてきた国民と、彼らの作り上げた都市や文化はいかなる姿をしているだろうか。 西欧により密接にかかわりあうことになり、ロシア人の市民意識は変化しただろうか。

通貨はルーブル。1ルーブルは3.6円ぐらいだが、様々な状況を考えると4円と割り切ったほうがよいし、そのほうが即座に計算できる。物価は安くない。労働者の賃金もたっぷりもらえているような状況ではなさそうだ。だが、確実に経済状況は好転しているようだ。一方、強権的好戦的という声のきかれるプーチン政権のもとで、この国はどのように変化していくのだろうか。

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観察日記(1)
都市風景 モスクワに着くと、1950年代に戻ったような錯覚にとらわれる。というのも 建物はみな古く、その中にはスターリンが好んでいたデザインの、まるで鉛筆立てのようなビルが所々にあるからだ。1950年代からあるらしいマンションは、バルコニーが壁の奥に引っ込んでいて、ガラス板でおおわれているので、全体としては凹凸のない構造になっている。そのデザインがますます古さを感じさせるようだ。もちろんそれは冬の寒さに対処したものであるからなのだが。

一方、地下鉄の駅には絵画や彫刻が飾ってあり、まるで地下美術館に紛れ込んでしまったようだ。おそらくソ連の冷戦時代に、核攻撃から守るために作った防空壕兼用なのであろう、どの地下鉄の駅も非常に深部に作られている。もちろんそれが役に立つことになってもらいたくないが・・・

この長い長いエスカレーターで歩きたくない人は、右側に立ち休息を取り、急ぐ人や若いつもりの人は左側を駆け抜けてゆく。その流れはよく守られており、国民として整然とした性格を持っているように思われる。右の写真はタッチ式の11回分回数券。全路線均一料金。

車の洪水であることは、世界のいずこの都市とも同じ。同じ日に車同士の接触事故を2回も見てしまったが、これはモスクワのドライバーが不注意なのか、乱暴なのか?ただ、国土の広さに比例してか、市内でも三車線、四車線のゆとりある道路づくりがされている。

しかし駐車は野放しで、かつてのパリなどのように街路に数珠つなぎで、極めて前後を詰めて駐車してある風景は駐車規制や、都市への車の流入を制限する交通政策がまだ十分に始まっていないことを示している。市内での歩行者用の信号はみな、「秒表示」つきである。「10,9,8,7,6・・・」と数字が減っていくのは、なんとなくせかされる感じだ。3,4車線もあるような広い道路では、横断歩道に信号機が1台ではなく3,4台も車線ごとに設置されており、それらが次々に連携して最終的に向こう側にたどり着けるようになっている。

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モスクワ市内(1) 

空港から市内ホテルへ:予想していたことだが、モスクワの玄関口、シェレメチェヴォ空港でのパスポート・コントロールに並んで、旅券とビザの確認を済ませてもらうために、今までのどの空港よりも時間がかかったことを特記しておこう。旧ソ連の風習がいまだに続き、手続きは”厳重に”というのがモットーなのだろう。ようやく列から解放されて外に出ると、まずはエアロ・エクスプレスという特急列車に乗ることになる。空港内はロシアのキリル文字と、英語のアルファベット表記が併記されているので、安心だ。わずか30分余りで市内のターミナル地下鉄駅の一つ、ベラルースカヤに到着。列車の内部はきれいだし、大部分は外国人旅行客だ。

ロシアでの宿泊は、前もってホテルを予約し、その宿泊代も払っておいて、その支払い証明であるバウチャーを持参するシステムだ。だから今までのようにフラッと気に入ったホテルに転がり込む、といった気ままな風任せの旅はできない。ましてやホテルとケンカして飛び出してほかのホテルに移ることなど考えられない。でも一方では、決まった宿泊所があるという安心感はあるわけで、とにかくたどりつければいい。

今回のホテルはモスクワ北部に向かう、地下鉄9号線の郊外にある駅にある。先のベラルースカヤ駅から地下鉄に乗って、乗り換え一回で所要30分はかからない。駅に着くと、念のため駅員に聞く。この国では管理的な仕事(美術館の監視員、地下駅のエスカレーターの監視員、店番など)には、ほとんどが中年以上の女性が担当している。一見無愛想なのもいるが、この駅の職員は私がホテル名を告げると、わざわざ自分の持ち場を出て、細い歩行者専用の通り道へ案内してくれた。団地のアパートらしき建物が何棟か建っている林の中を抜けると、広い道路を横断して、軽井沢の別荘地のような快適な林間を抜けるとホテルが見つかった。そのすぐ手前にコンビニがあり、便利な立地だ。

泊まったホテルは「MAXIMA ZARYA」といい、浴槽はなくシャワーだけのレベルだが、シングルの部屋にしては広く、壁が厚くて静けさの点では申し分ない。朝食つきで、ロシアの各地から、そしてヨーロッパの国々からの客が集まっていた。この周辺は林の中に、かなり大きなホテルがあちこちに点在していた。なかなか競争も激しいのでサービスも悪くない。また、交通の利便性を考えて都心の狭くて古いホテルを選ぶより、今回のように郊外の立地に余裕のあるほうが快適だ。地下鉄の駅から徒歩圏内であればいいのだ。ただ、昼間歩き疲れてちょっと休憩あるいはトイレ、というわけにはいかないのが欠点だ。

クレムリン:この名前を聞けば、誰でもソ連やロシアの最高権力者の住むところと思う。もちろんそれは正しいが、本来これは「城壁」のことであって、平原の多いロシアではどの都市も「クレムリン」を持っていて権力機構を守っていたのだ。権力機構には政治家のみならず、宗教関係者も含まれる。 もちろんモスクワのクレムリンが最も有名であり、比較的狭い敷地の中に政治機関と教会が多数ひしめいている。

朝一番にホテルを出て、さっそくおのぼりさんとなる。地下鉄の駅はいいのだが、出口で迷って、かなり遠回りしてしまった。城壁に門があって、そこが切符売り場。中は広々としている。観光客はそのすべてに立ち入ることができるわけではなく、ガイドからはぐれてちょっとでも立ち入り禁止地帯にさまよい出れば、警備員が「ピッピー」と鋭く笛を鳴らす。こんなのも旧ソ連の雰囲気。

先のバウチャーなど個人旅行がしにくい状況にあって、団体の観光客が非常に多い。彼らは長い列を作っているから、間違ってその列に並んだりすれば大変な時間待たされる。一方、個人旅行客はさっさと人々の間をくぐり抜けて出札係のところに直行すればいいのだ。

ここの目玉は”武器庫”だが、これだけ別料金で高いので、敷地内の見学だけの入場券を買おうとしたところ、おつりがないと”いじわる”された。さてどうしたものと考えあぐねていると、どこかの観光客が、「クレジットカードで買えばいいよ」と教えてくれた。

さまざまな言語で声を張り上げるガイドたちを眺めるの楽しい。このクレムリン内部で初めてロシア正教会独特の、タマネギ型の尖塔を目にする。これこそ風景をロシア的にする最たるものなのである。西欧の風景と一線を画するのが、教会建築なのだ。

アホートヌイ・リヤート:クレムリンがモスクワの本当の意味での都心だから、そこから円周状に外側に広がっていくのを追って見学すればいい。見どころはみな徒歩圏内だ。すぐに目についたのが、モール街「アホートヌイ・リヤート」。そのわけはロシア語の教科書に、そこをたずねていく場面があったからだ。半地下式の3階構成になっており、世界中どこにでもあるような平凡なショッピング街だけれども、(本当にモールというのは画一化を促進する!!)周りの開発のおかげで斜陽になっていることが一目でわかる。

ここで初めてトイレを利用するが、ユーラシア大陸はどこへいっても「トイレは立派な収入源」という考えが本当に定着しているようだ。20ルーブルは80円弱だが、大多数の現地の人々にしてみれば決して気楽に出せる金額ではないようだ。それに実にトイレの数が少ない。水分を控え、膀胱を長時間ため込むことができるように訓練しておいた方がよい。

赤の広場:アホートヌイ・リヤートから南東に向かえば赤の広場に出るわけだが、これほど今までのイメージと違っていたものはない。(当然のことながら)赤くもないし、ここで共産革命の激動があったといわれてもピンと来ない。ちょうど工事中で広場には、いたるところに足場が組まれていたせいかもしれない。ただ、東西南北歴史的な建物に囲まれている。

ポクロフスキー聖堂(ワシリー寺院):それよりむしろ、赤の広場の奥にある通称ワシリー寺院のほうに魅かれる。一見すると、ディズニーランドに置いた方がいいような気もするが、近づいてみると、本格的に構成された複雑な建物であることに気付く。しかも一周すると、方角ごとにその姿を大きく変える。ここまできて、ロシアには建築的にユニークなものが多いことがだんだんわかってきた。特に西ヨーロッパの寺院を見慣れた目にはそう思える。

グム百貨店:赤の広場の北東側にはグム百貨店があるが、専門店の集合体で、実は巨大なモールと変わらない。ただ三列、三層の複雑な構造で、バルコニーを歩くような気分であり、列から列へはユニークな彫刻の施された小さな橋が架かっており、ちょっとした迷路探検の気分が味わえる。ここで昼食をとったが、サラリーマンが立ち寄るような店で、店員のお姉さんの応対には無愛想さはまったくなく、わかりやすく説明して勧めてくれたのは、具のたっぷり入ったスープとナンのようなものとの組み合わせだった。

革命広場(マルクス像):赤の広場がアホートヌイ・リヤートから南東方向だったが、北東に向かえば革命広場に出る。ここでは観光客の数は急に減って、巨大なマルクス像を愛でているのはハトばかりだった。ここに、ソ連は遠い過去のものになったのか、という気分になる。時代は変わったのだ。

劇場広場(3劇場):革命広場の北にあるのが、劇場広場だ。その名がついたのは3つの有名な劇場が広場を囲んでいるからだ。ぜひロシアの演劇を見たい。だが言葉が障害になっている。その中のボリショイ劇場には、巨大な円柱が林立している。テレビが普及すると、映画や演劇は衰退するというのが定番だが、この国ではそうではないようだ。あとでわかったが、これらを支えている層が厚い。中でも有名なのがボリショイ劇場だろう。ボリショイとは「大きい」という意味で、この言葉はロシア人は大好きだ。”ボリショイ・サーカス”というのもある。あとで”ボリショイ・ザールもでてくる。

カメルゲルスキー横町:劇場街を南西に突っ切るのがカメルゲルスキー横町。日本のガイドブックに”横町”などとあるのは奇妙な感じがする。誰が翻訳したのだろうか。ここはレストラン街でもあり、露店が列をなしてもいるところだ。だが日本の横町ほど狭くない。あとでレストランの一つに入ったが、場末ではないので、値段は結構高い。9月はまだ夏の余韻が残っていて、テラスで食事をするのに適している。昼時だったこともあり、ほとんどが満員だった。

ドーム・クニーギ:カメルゲルスキー横町から、地図で確認しながら南西方向に結構長距離を歩く。これは直訳すれば、ずばり「本の家」。これまたロシア語の教科書に出てきた。大通りに面した低い建物だが、それこそ何でもそろっているようだ。ロシア語が分からずとも、読書に興味のある人には一見の価値あり。背表紙を眺めるのもいいが、むしろそれを生真面目そうに本棚の間を行きかう読書子の表情が面白い。

アルバート通り:ここはクレムリンから西に向かい1キロほど離れるが、にぎやかなショッピング街。日本だったら上野の山にいるような、似顔絵を描く大道画家がたくさんいる。そしてB級の絵画(絵ハガキ的な?)を立てかけている露店が延々と続く。スケッチをしているアマチュアも多い。テキヤ風の店も多い。モスクワ市民には絵の好きな人が多いのか?日中は暑く、アイスクリームを食べたくなるが、フローズン・ヨーグルトの店は大勢の客が集まっていた。

雀(スズメ)が丘:アルバート通りのはずれまで来ると、地下鉄の駅があり、高いところに行って市全体を見渡すために、「雀が丘」への最寄り駅までメトロに乗る。そもそも平原の国であるロシアには高い山がなかなかない。ナポレオンも登ってみたという、この奇妙な名前の丘にしても、モスクワ川が急カーブになっているためにできたちょっとした高みに過ぎない。メトロの駅は地下から外に出て、めずらしい橋上駅になっており、ホームから川の流れが見渡せる。

元気な子供たちについて急な崖を這い上がると広大な公園に出た。展望台のあるここはデート・スポットらしく、一人歩きはあまり快適ではないが、再び林の中を急な道を下ってモスクワ川の岸に出る。岸辺沿いの道を見て驚いた。自転車とローラースケートの洪水である。うかうかしているそれらにはねられそうだ。

モスクワ川クルーズ:上海、ヴェネチア、イスタンブール、カイロ、ソウル、これらのいずれの都市でもクルーズを体験した。船の旅は歩き疲れた足を休めてくれる。今回も乗ってみた。展望台の真下のところに船着き場があり、驚くほど多種類の遊覧船が行きかっている。川岸の切符売り場に行ってみると、30分ぐらいでやってくるという。所要約1時間40分ぐらいで、一定地点まで下り、そしてまた戻ってくる。船内には厨房の設備があり、客席はそのままレストランのテーブルになるというわけだ。

夕方近かったので、それまでの温かさはどこへやら、急激に冷えてきた。大陸性の昼と夜の気温差が大きいことが原因だ。ただし緯度が高いので、この時期は少なくとも午後八時までは明るい。すでに訪れたクレムリンもこのモスクワ川沿いにそびえているし、その他の重要な観光名所も大部分が川から見渡せるので、観光地の予習復習に最適。上と下の写真は、その切符。

眺めが最も圧巻なのは、モスクワ川とヴァダアトヴォードヌィ運河との分岐点の先端で、トレチャコフ美術館新館の公園から近くにそびえたつ「ピョートル大帝記念碑」だろう。高さは50メートルを超える真っ黒な銅像なのだが、大帝が船の上に乗って剣を振りかざしている構図である。ところが大帝と船との大きさのバランスがおかしい。大帝は非常に巨大であるのに、船のほうは長さが大帝の背の高さぐらいしかなく、恰好だけは軍艦らしいのに、手漕ぎボートにも及ばぬ、まるでおもちゃの船なのである。それでもこの崩れたバランスが魅力なのか、船の客は一斉にカメラを向ける。

カメラを向けた客の中に、まるで青春ドラマに出ているような、陽気な若者3人組がいた。頼まれて彼らの写真を撮ると、仲良くなったが、わたしを中央アジアにある共和国、タジキスタンのイスラム教徒と思っていたのにはたまげた。この国はソ連解体の時、独立して、独立共同体(CIS)の一員だが、彼らにしてみれば、東洋っぽい、はるかな未知の国に過ぎないであろう。こちらはあちこちカメラを向けて写真を撮っていたが、地元の恋人同士や夫婦同士での乗船が多く、あちこちで ツーショットの撮影を頼まれる。

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観察日記(2)

街を歩く人々 ロシアといえども、一般市民の勤労がなければ成り立たない。朝のラッシュはどこの都市とも同じだし、特に女性の進出はソ連時代から進んでいたから、職業婦人がとんでもない早足で行きすぎる風景は、パリ以上である。

この国も高齢化に悩んでおり、老人の数が多いはずだが、大都市ではあまり見かけない。老人ホームが完備しているのかそれとも地方に取り残されているのか?平均寿命の短いせいか?地下鉄の中ではパリと同じく、両足のない人や目の見えない人などが、金を恵んでもらうために通路を通っている。

同じく地下鉄の車内では、宗教関係のパンフレットらしいものを配ったり売り歩いている者がいる。乗客の前で列車の騒音に負けない大声で、まるで演説をしているようだ。まるで迷惑そうな顔をしている人もいる一方で、熱心に聞いて最後には質問したりして、そのパンフレットをもらったり、買ったりするおばあさんがいる。

街角では日本と同じくチラシ配布が多い。これはパリにはなかった風景だ。大部分がハンバーガーショップなどの外食関係だが、配っても受け取ってくれる人があまりいないのは日本の場合と同じ。大道芸人は、他の欧米都市と同じく盛んだ。地下鉄にポータブル式のスピーカーを持ち込んでギター演奏を披露する人も、若者や老人とさまざまだ。

港町であるサンクトペテルブルグでは黒人もちらりほらりいて、仕事をしていたが、モスクワでは、白人がほとんどだ。中央アジアの東洋系がいると思っていたが、実にそれもまれだった。パリのように人種の博覧会のような都市と違い、モスクワはスラブ系の人種が中心の、かなりローカル色の強いところだといえる。

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モスクワ市内(2)

トルストイの家博物館:ソ連が解体して、ロシアが自由主義経済を目指すようになった今、この文学者の存在はロシア人たちにとってどう映っているのだろうか。だが、ここを訪れる文学愛好者たちは、ロシア人か他国から来た者に関係なく、熱心に見て回っている。説明文も、英語の解説が加えられており、ほかの中小の博物館や美術館のように、ロシア語一点張りでないのは助かるが、これだけ国際的に知名度の高い作家なれば、あと3,4カ国語加えてもよさそうなものだ。

トルストイの農場のあったヤースナヤ・ポリャーナは、交通の便がきわめて悪かったので行くのはあきらめ、主に冬季に家族で過ごしたといわれるこの家を訪れた。開場朝一番に行ったのに、切符売り場に人がいない。すでに二人の老婦人の先客もいたが、ベンチに腰かけておしゃべりをしながら窓口が開くのを待っている。おやおや、今日は切符売り場の係は欠勤かな、と思い始めたころ、別の人がやってきて館内に入れてくれた。

入り口でスリッパをはくのだが、脱がずにそのまま靴を入れてしまうという、超大型のものである。中は手紙や文書などのほか、召使いや家族とともに暮らした家具調度や道具類が展示されている。開館の時間を過ぎても入れないわけがわかった。ドキュメンタリー映画制作のための撮影班が入っていたのである。順路をたどって二階に行くと、再び足止めを食った。そこではトルストイ研究の専門家が、アナウンサーの質問に対し、トルストイやその家族たちの暮らしぶりについて滔々と答えており、それをカメラマンが撮影していたのだ。

トルストイが執筆に使った大きな机があった。こっそり撮影に成功したのだが、カメラを後で紛失することになる…。建物は茶色の簡素な木造で、外に出ると広大な庭が広がる。二千坪はあろうか。縦横に散歩道が作られており、中でもユニークなのが、高さが3メートルぐらいの小山である。てっぺんにベンチが作られており、下の芝生からはらせん状の道がつけられている。林に囲まれた、この小山の上のベンチでいちに注十思索ができたら素晴らしいだろう。敷地は周りを塀で囲んでおり、周りの住宅やアパートと隔てられているが、かつては閑静な場所だったようだ。帰るころには訪問客が次第に増えてきていた。

トルストイ博物館:このトルストイの家博物館を出て北西に進むと、トルストイの像があり、さらに北東に大通りに沿って進むと、トルストイ博物館があった。この通りはほかにもなかなか見ごたえのある立派な建物が多いので、うっかりすると入口を見過ごしてしまいそうだ。

こちらは研究者向きで、大部分が文献や手紙、研究書、交友関係についての記述などで、英語の解説もそれぞれの部屋の入り口にある概要を示した立札に書かれているだけだ。しかも多くの部屋に怖い顔をした、かなり高齢の女性が座ってこっちを”監視”しているので、落ち着かない。

トレチャコフ美術館旧館周辺:トルストイ博物館の前のプレチースチェンカ通りをまっすぐ行くと、右手に救世主キリスト聖堂が見えてきた。西欧ではキリスト教の影響力はどんどん衰退しているというのに、こちらはまだ再建されて14年しかたっていないのだが、長年ソ連の政府に圧迫されていた反動もあって、ロシア国内におけるギリシャ正教徒の力は根強く、このような壮大な建物を作り出すエネルギーを持っているのだ。これは合衆国の南部のプロテスタントたちや中東のイスラム教徒の場合も同様で、現代社会でも宗教が力強く生き続けている地域があることを忘れてはなるまい。

この聖堂から南東に延びる道はモスクワ川とヴァダアトヴォードヌィ運河にまたがる橋になって続く。ここは河船から見ても、橋上から見ても素晴らしい眺めで、しかも歩行者天国なので、結婚式を挙げたばかりのウェディングドレス姿があちこち目につく。そして運河からちょっと南に向かうしゃれた通りを進むと、トレチャコフ美術館・旧館を右に見ることになるのだ。美術館の建物そのものが魅力的であるだけでなく、その周りにあるカフェやブティックなどがそれまでのモスクワ市内見物になかった垢抜けた雰囲気を醸し出している。美術館に入らずともこの周辺の散策でだけでも十分に満喫することができる。ただ、観光客それも若い学生たちの姿が大変多い。

宇宙飛行士記念博物館:旧ソ連に栄光と悲惨があったとすると、宇宙探検はもちろん栄光の部類に属するだろう。ロシア人の中には現在の経済自由主義の競争の中で疲れ果て、ソ連時代に強い郷愁を持っている人も少なからずいるようだ。そもそもプーチン大統領が(政策への是非はあっても)”強力な”政治力を持っていることで、国民の中に高い支持を維持しているのだ。居酒屋とかバーの看板には、「USSR つまり CCCR」の文字を伴ったものが多い。これも日頃の憂さを晴らすため、ウォッカに酔った市民が、かつてを懐かしく思うあらわれではないだろうか。

そんなわけでちょっと市北部の郊外にある、この博物館に出向いてみた。地下鉄の駅を降りると、目の前に巨大な記念塔がそびえたつ。ロケットが上昇している構図であり、その噴煙にあたる三角形の金属板が、ロケットの支えになっている。さて、博物館はどこか?見当たらない。この巨大な記念塔をぐるっと一周して、初めて入口を見つけた。つまり記念塔の基部にあたるところが、半地下式の建物だったのだ。

内部は子供連れでいっぱいだが、恋人や夫婦同士も多い。展示は、初めての宇宙飛行士のガガーリンから始まって、現在の宇宙船へ資材や人員を運ぶソユーズ号にいたるまで、ぎっしりとそしてほとんどが模型ではなく、本物の船体を天井から吊り下げている。アメリカ合衆国のスペースシャトルが引退した今、ロシアのソユーズが宇宙ステーションの維持を担っているのだと、さまざまな機器が誇らしげに展示されている。

ソ連からロシアが受け継いだものに、核兵器などの軍事技術もあるが、それらと異なり宇宙の平和利用は、堂々と世界に貢献している姿勢を示すことができるので、国家としても過去に劣らず力を入れているように思えた。左上の写真はその切符。

トレチャコフ美術館新館周辺:再び都心に戻り、トレチャコフ美術館旧館より南に位置する新館に行ってみる。ここは多くの人々が憩いの場所として集まってくる公園もあるのだが、ちょっと最寄りの地下鉄の駅から遠い。GPS探知機を頼りに細い工事を抜けたり、大通りの下の地下道をくぐったりしてようやく川岸にたどり着く。ここはクルーズの時に見えた「ピョートル大帝記念碑」がすぐ間近にそびえているところなのだ。

この日は土曜日なので、家族連れなどで公園はいっぱい。どこかのロックグループが仮設舞台で演奏していたり、ローラースケートや自転車を乗り回している人々が大勢いる。欧米のどこの町でも見かける情景である。

美術館は午後4時を回っていたために、残念ながら閉館しようとしていたところだった。名前は新館といっているが、実は旧館よりも薄汚れて古そうな建物だ。現代美術を収集してあるそうだが、本当に新しいのができるまでの倉庫代わりだとしか思えない。

それでもユニークな彫刻公園が森の中にあり、多数の作品が地面に据え付けられていて、誰でも散歩しながら眺めることができる。ここでも公衆便所は不足し、男も女も長い列を作って順番が来るのを待っている。

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