(2014年9月)

血の上の救世主教会

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→サンクトペテルブルグ市内→博物館など・・・記録

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サンクトペテルブルグ市内(1)

モスクワから移動:二日間のモスクワ滞在を終え、次はロシア第2の都市、サンクトペテルブルグに向かう。この街の名前を直訳すれば、「聖ペトロの町」であり、イエスの弟子のひとりである。ソ連時代は「レニングラード」で政治家レーニンにちなんでいるから、人名に縁の深い町だ。モスクワより600キロ近く北にあるので、もうほとんどスカンジナビア半島に近い。樺太などよりはるかに緯度が高いのだ(北緯60°)。フィンランド湾の一番奥にあり、フィンランドの首都ヘルシンキとは、フェリーで行けば目と鼻の先であることを初めて知った(約200キロ)。バルト海(Baltic Sea)の向こう側のスウェーデンの首都ストックホルムも大して遠くない。したがってここは北欧の香りがするのだ。日露戦争の時の「バルチック艦隊」は、本当は「バルト艦隊」とするのが正しいかも。この艦隊の本拠地はここ、サンクトペテルブルグだったのだ。

高速鉄道で行く手もあるが、航空券をつないで使った方が安上がりなので、アエロフロートの国内便に乗る。再びシェレメチェヴォ空港に空港特急で向かい、搭乗するが、わずか1時間の距離だ。機体は小ぶりだが満員。サンクトペテルブルグのプールコヴォ空港に着くと、すぐに乗り合いバスかマルシルートカ(乗合ワゴン)を探さなければならない。というのも、空港からの直通の列車がないからだ。このバスは最寄りの地下鉄の駅と空港とを結ぶ。幸いバスにすぐ乗れて、終点の地下鉄の駅モスコフスカヤは目の前に大きなマクドナルドがあるのでわかりやすい。大きな団地の真ん中である。

地下鉄の駅に入って驚いた。地下深くまでエスカレーターで降りなければならないのはモスクワと同じだが、このモスコフスカヤ駅は他の駅より一足早く「可動式ホーム柵」を設置している。ところがホーム柵以外の部分は、上から下までコンクリート壁で塗り固めてしまっていて、乗客は線路に落ちるどころか、線路や列車を眺めることすらできない。「ゴーッ」という音とともに車両が到着したのがわかるが、柵と列車のドアが同時に開くと、そのまま車内に入ることになる。これなら線路上への転落事故は絶対に起こらない。ただし、この”ホーム”の眺めは異様で、火葬場でのお棺の投入口を見ているようで、ぎょっとした。この形式はサンクトペテルブルグのすべての駅で用いられているわけではない。

センナヤ・プローシャチ駅周辺:この街はフィンランド湾に面した港町で、センナヤ広場は中心部にある。3つの地下鉄路線が交差している乗換駅なので、人の移動も非常に多い。空港からだと先のモスコフスカヤ駅から2号線で乗り換えなしで到達する。

ホテルは駅前から徒歩5分だし、途中に簡易店舗に入った食べ物屋が軒を並べている。シャシリーク(羊の串焼き)屋もあれば、ピロシキを売る店もある。ちょっと一杯ビールを飲む店もあり、いずれも気軽に立ち寄れる。もちろん、カフェや正式のレストランも周囲のビルの中にたくさんある。

日曜の夜など、広場に若者が集まり、エレキ・ギターの演奏をやっていたり、”ぶら下がり健康機”を持ち込んで、通行人にどれだけの時間ぶら下がっていられるかを試させていたりする。ヨーロッパの他の都市と同様、広場は単なる行きすぎる場所ではなく、立ち止まって見物したり参加したりする場所なのだ。日本では立ち止まろうものなら、たちまち警官がやってきて、その場を立ち去るように促される。まるで反政府的活動を警戒しているかのようだ。

ホテルは、ボロボロのビルの、ボロボロの扉を入ったところにあった。3階がフロントだが、階段が取り巻く形でえらく旧式なエレベーターが据え付けられているが、ちゃんと動く。建物内に自転車を持ち込む人にとっては欠かせない。ホテル内部は、そのボロボロの入れ物とは裏腹に、狭いながらもなかなかきれいなリフォームを施してある。ただし上水道、下水道設備が後で付け加えられたらしく、ほかの部屋で便所の水を流したり、シャワーを浴びたりする音がまる聞こえなのである。

アレクサンドロフスキー庭園:サンクトペテルブルグを訪れた観光客が最初に足を向けるところといえば、エルミタージュ美術館に代表されるポリシャヤ・ネヴァ川沿いであろう。センナヤ広場から1.5キロほど北上するのだ。夕方だったが、町の雰囲気をつかもうと外に出て、途中に2本の運河や小さな川を横切る。さすが北のベネチアである。そして真正面に見えてくるのがアレクサンドロフスキー庭園。

デカブリスト広場・イサク聖堂・青銅騎士の像:庭園を左に折れて直進すると広場が見えて、海側に騎士の像がそびえている。ここは「デカブリストの乱」の始まった場所なのだ。ひっきりなしに観光客が像をカメラに収めている。像を後ろにして陸側を見ると、丸屋根の巨大な寺院、イサク聖堂が見える。

宮殿広場・アレクサンドルの円柱:海側には旧海軍省の建物が細長くのびているのだが、そこは観光客は入れないので、海沿いの道路に沿って北東に進む。横には川めぐりの遊覧船乗り場が見える。旧海軍省の建物が尽きたころに、新たな、そして緑色の巨大な建物が見えてきた。これぞこの街最大の観光名所、エルミタージュ美術館である。夕方なので、この日は館内に入らず、その前の巨大な広場、つまり宮殿広場を横断しようとした。そこへ黒人青年がやってきて、「ニイ・ハオ!」と声をかけてきた。「ヤ・イポーニッツ(僕は日本人だ)」と返事をすると、ロシア語をしゃべるなんて珍しいといって、英語に切り替えて話しかけてきた。この街で、いやロシアでは黒人を見かけることは非常にまれだが、彼は遊覧船勧誘のアルバイトをしているらしい。

真ん中にある太い柱が「アレクサンドルの円柱」であり、パリのコンコルド広場の円柱を思い起こさせる。この日は広場を突っ切っていくことができなかった。というのも、広場の奥の囲いの中に舞台がしつらえられて、そこでコサックのダンスが踊られており、大勢の若い観客が詰めかけていたからだ。聞いたことのあるロシア民謡だ。しかもある区切りになると、警官隊が出てきて一列になり、中にいる観客を外に押し出した。囲いの外には新たな観客が待ち受けており、つまりこれは「入れ替え」だったのだ。一列になった警官が群衆をコントロールするところは壮観だった。おそらくデモを鎮圧するのに慣れているだろうから。この催しは何かの青年団の主催によるものらしく、部外者は入れそうもなかったので、あきらめて広場を出ることにした。

ネフスキー大通り:広場を南に出ると、この町一番の繁華街、ネフスキー大通りに出た。この通りは延々と2キロ以上続く。両側は官庁、事務所、百貨店、寺院、ブティック、レストラン、カフェ、となんでもあるが、6車線もの広さがあり、歩道の人間より中央の車の方が優先されている感じで、反対側に移る気にならない。先の宮殿広場での催しに参加しようとする若者が次々とこっちへ向かってきて、大変歩きにくい。よっぽど大規模なお祭りなのか。

カザン聖堂:地下鉄の駅に近づくと、川を一つ越え、右側に巨大な寺院が見えてきた。丸屋根の聖堂だが、横が非常に広がっていて、全体としては巨大な半月上になっている。よくみると壁石が非常にいたんでいて、くすんで見えるのだが、これがカザン聖堂といって、ソ連崩壊後のギリシャ正教が息を吹き返したことを示す、最も有名な例であろう。聖堂の内部には一般人でも入れるのだが、敬虔な信者が入る前に十字を切っているのを見えると、ちょっと遠慮したくなってしまう。

血の上の救世主教会:カザン聖堂のすぐ東側は運河になっているが、そこに架かる橋に立つと北の方角に、実に美しい教会が見えている。これがこのページのてっぺんに写真が載っている「血の上の救世主教会」である。”血”が取りざたされるのはアレクサンドル二世が暗殺されたところであるからだが、おそらくこの街で最も魅力的な姿をしているといっていいだろう。ネフスキー大通りを越えて運河沿いに北に進む。観光客があふれ、大道音楽家が、あちこちで演奏をしている。

せっかくのロマンチックな運河なのだが、西側の道は不法?駐車の車が隙もなくつながっている。それでもカメラのシャッターを切りたくなるような場面が多数現われる。ひとわたり撮影を終わって駐車の車のひしめく西側の道を進んでいた時、気が緩んでいたのかもしれない。そこでいつの間にかカメラがなくなっていた。走ったりしたものだから落ちたのか、それとも紐を垂らしていたので掏られた、というより釣り上げられたのか?いずれにせよ、今回の旅の写真はすべてパーになってしまった。

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観察日記(3)
たべもの: レストランに入れば伝統的なロシア料理が楽しめるが、忙しい一般のサラリーマンは何を食べているかといえば、 中東のナンに似たパン、そしてピロシキである。ピロシキはユーラシア大陸全体に広まっている”ギョウザ”の流れを汲んでいると言えよう。川で中身を包むというの天才的な発想は中国から出たらしいが、ロシアではその中に入れる具をぐっと食べやすくにおいの少ないものにしている。キャベツ入りを食べたが、強い香辛料は使わず、単にキャベツをすりつぶしてドロドロにしたようなものが入っている。 もちろんハンバーガーはあるが、値段が高めである。

ロシアから南に下ればイランなどの中東諸国があるが、そこでの食生活の影響を強く受けているようだ。特に目立つのは「シャシリーク」、つまり羊の串焼きである。たれにケチャップをかけたりするところはヨーロッパらしいが、それ以外の付け合せも含めると、砂漠やラクダの雰囲気がする。特に夜の居酒屋でのおつまみに好評だ。サンクトペテルブルグのセンナヤ広場では、このシャシリークをつまみにビールを飲みながらライブ演奏を楽しませてくれる店が2軒並んでいたのでさっそく入ってみた。ウォッカをがぶ飲みしている人なんて見かけない。飲むとすれば、それは冬だろうし、たいていは個人宅の室内なのだろう。

食料品店に入ってみると、チーズなどの乳製品、ハムソーセージなどは豊富。夏が終わったばかりのこともあって、でかいスイカがごろごろしている。ロシアの大地は根菜類を多く生み出している。でも青菜類は見かけない。ウクライナ情勢の緊迫化により、EU諸国による経済制裁の影響で、南欧からの果物野菜の量が減っているから、これから冬季にかけての不足が懸念される。

サンクトペテルブルグ市内(2)

水中翼船:エルミタージュ美術館の海側の岸にペテルゴーフ行きの水中翼船の発着場がある。今回、街中の川や運河を巡るのはやめにして、その代わり、これでフィンランド湾を西へ40キロほどの海の旅をすることにした。

ヨーロッパからの観光客を満載して出航した。海が穏やかなこともあるが、水中翼に乗って走り出すとほとんど揺れを感じない。要塞があってサンクトペテルブルグ発祥の地である、ペトログラードとを結ぶトロイツキー橋をくぐりぬけると、北に折れてどんどんフィンランド湾に入ってゆく。GPSによれば、時速60キロをコンスタントに出しており、途中から西に向かい、ほぼ完全な直線コースとなった。空は晴れているが、海は鉛色で、秋がどんどん進んでいることがわかる。船の進行方向約200キロ先にはフィンランドの首都、ヘルシンキがあるのだ。

ペテルゴーフ:約30分余りで30キロ離れたペテルゴーフの船着き場に到着。ここはエカテリーナ二世の時代になってようやく完成した離宮の宮殿と大庭園である。宮殿より下、つまり海側の庭園は入場料がかかる。宮殿の上の公園は無料である。宮殿も中に入るには別途、入場料がかかる。観光客の中でも、質実剛健な人々は、私も含めて下の庭園だけを見学する。それでもその見事さは少しも落ちることはない。下の庭園の最大の呼び物はその数多くの噴水であり、それがポンプではなく、山の上から引いた自然の流水を利用していることにある。宮殿も外から見ただけで、その金箔の輝きで豪華さがよくわかる。右の写真は庭園の入場券。

前を行く団体さんが、たまたまフランス人グループだったこともあって、ここを見ているとベルサイユ宮殿とフランス革命との関係を思い出させられた。あれだけ豪華な宮殿は、人々に究極の格差を見せつけたことになり、革命がおこるのも無理もないのだ。同様に、このロシアのロマノフ朝の作り出した豪華な離宮は最終的にはロシア革命に至ったわけだ。今ではどちらの宮殿も公共のものとなったが、いずれも歴史の必然といえようか。

バスに乗って:水中翼船の乗船料が高かったし、同じルートを通るのも賢明ではないと思ったので、帰りは陸路でバスに乗ることにした。守衛さんに聞くと、バス停は出口からまっすぐ歩いてすぐとのこと。バスは10分ぐらいするとすぐ来た。番号さえ知っていれば、迷うことはない。バスの車内で庶民の姿を垣間見る。次々と車掌に(ワンマンではないのだ!)バスカードを差し出す女子中学生たち。

結構混んでいて最後まで座ることができなかっただけでなく、地下鉄の駅に近づくとますます混んできた。体の不自由そうな老人が乗ってくると、すぐに若い娘が立ち上がって席を譲った。ごく自然に・・・。ドイツなどと同様、ロシアの中年過ぎのご婦人もみな、体重過剰なので、立っているのが辛そうだ。都心に近づくと、路面電車が平行して走っている。2両編成なのだが、驚くほど密にダイヤが編成されている。一台過ぎると、次から次へとやってくるのだ。バスの終点は地下鉄の駅。

夏の庭園・マルスの原・プーシキン像:ペテルゴーフから戻ると、ふたたび中心部の散策に出る。エルミタージュ美術館の東側は、広々とした庭園が広がっている。もう一度、カメラのことが気になって、「血の上の救世主教会」にゆき、観光案内所に寄り(そこで遺失物はこの街で戻ってくるチャンスはほとんどないと教えられ…)、そこからピョートル大帝が作らせた「夏の庭園」に向かう。これもペテルゴーフの宮殿と同じく王族のものだったものが、今では市民の憩いの場になっている。

夏の庭園を北に上ると、川岸に出るので南に折れると、となりの「マルスの原」に入る。ここはきれいな庭園ではないが、真ん中あたりに革命や内戦で命を落とした人々のための”永遠の火”が燃えていた。この原を南下すると先の血の上の救世主教会に出るのだが、さらに南下するとロシア美術館と民族博物館が並んでいる。その南側は、プーシキンの像があり、観光客が写真を撮っている。ここはたくさんベンチがあり、ひと休みだ。

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サンクトペテルブルグ市内(3)

ロシア民族学博物館:翌日、前日に場所を確認しておいた民族博物館に入る。ここに行きたかった理由は以前、北海道に行ったとき、函館で北方民族、そしてそれに連なるシベリアの民族について見聞きしていたからだ。ロシアは広大なために、そこに住む民族やその言語のこともある程度知っておかないと、の考えからだ。切符売り場では、「エスノ(民族学)だよね…」と念を押された。となりのロシア美術館と勘違いしてやってくる観光客が多いのだろう。

朝一番に出かけると、小中学生の一団がすでに来ている。やはりここは学校教育の中の一環なのだ。正面に広大なホールがあり、左右に分かれてシベリア、コーカサス、スカンジナビアなどの方面に分けて解説がある。ここもタイトル以外は英語の解説はほとんどないけれども、収集した物品の多さ、整理の良さにより、大いに見ごたえがある。原住民が室内で過ごしている様子など、なかなかリアルである。左の写真は管内を説明するパンフレット。右上は切符。

こうやってみると、ロシアの中に住む民族はあまりに多すぎて、文化も非常に多様であり、これを一つの国の中でまとめようとするのに無理がある。今のところはモスクワを中心に住むスラブ系が人口の大多数を占めているけれども、少数民族も自分たちの世界を作りたいのだから、いずれは本格的な独立を認めるべきなのだ。それを認めないのは、資源の獲得と軍事基地の存在があるからだろう。

エルミタージュ美術館:さて、いよいよ明日が帰国の日なので、エルミタージュ美術館に行かなければならない。午前中に民族博物館に行った後、歩きすぎて痛む足を引きずりながら宮殿広場に向かう。館内はあまりにも広く、ルーブルの場合と同じように重点的に見るところを決めていくしかない。

フランス、スペイン、イタリアなどの作品がこれだけこの美術館に集まったのは驚きだ。入口を抜けると広大な中庭があり、右手にカフェがあったので、アイスクリームで腹ごしらえ。切符は自動販売機でまたたく間に買えたのだが、館内への入り口に長い列を作っている。やれやれ、入るのにまた待たされるのかと思いながら列に並ぶと、老婦人が私の持っている切符を見て、すぐ入っていいんだよ、という。何のことはない、自動販売機で買った切符を見せるとすぐ入っていけた。ということはあそこに並んでいた人々は、ガイド付きの団体客でないとすると、わざわざ時間をかけて窓口で切符を買おうとする人々なのか?よくわからない。自動販売機は数台あり、それらはがらすきだった…右はその切符。

絵も素晴らしいが、建物も素晴らしい。円形の天井の続く廊下やベルサイユ宮殿のような装飾の部屋もあった。ただ、地図を見ても迷路みたいで、今一つスムーズに移動できず、階段が少なくて、1回、2回、3階の間を自由に移ることができない。だから客はどうしても一か所に団子になってしまう。すごい混雑だ。一方でシベリア美術は大回りをして行き着き、そこは出入り口に近いのに、ほんとに客がいなかった。シベリア美術といっても、先の民族博物館の展示とそっくり。つまり、美術と生活道具は彼らの生活の中では一致しているということか。

 
 日本語のフロアガイドが用意されていた。
 
 これが全体概略図。
 一階の地図
 
 二階の地図
 三階の地図

バリショイ・ザールでのコンサート:さて、ロシア最後の夜は、朝から民族博物館、エルミタージュ美術館、とめぐったのでおしまいは音楽で締めくくることにした。前日切符売り場でバリショイ・ザール(大ホール)で行われる演奏会を調べ、切符を買っておいた。

大物の演奏会は、前日ではとても座席が手に入らないが、この日は来露したベトナム交響楽団の演奏会で、ベトナム人のピアニストである Nguyen Viet Trung が出演。Nguyen によるベートーベンのピアノ・コンチェルト第3番、そのあとのアンコール曲がピアノによるラ・カンパネラ(この演奏は、人間業とは思えないほどのすさまじい技巧で、指の動きがブレて見えるほどだった)そのあと交響楽団によるショスタコービッチの交響曲12番「1917年」(ロシア革命の年)であった。

この大ホールは上に見事なシャンデリアが下がり、ステージにはパイプオルガンが据えられている。音響はすこぶる良いそうだ。今日は満員とはいかないが、8割は埋まっている。観客を見渡すと、ごく普通の服装をした庶民といった感じだ。私の前に座っているのは、若い兵士たちだ。きっと軍隊主催の「文化プログラム」とやらで、無理やり来させられたのだろう。というのも大部分は演奏が始まると居眠りを始めたからだ。さらに前の方に座っていた、ごく普通の若い男の子たちが次々と演奏中に立ち上がって会場から出てゆく。失礼な奴らだ。

結局のところ自分の金で鑑賞しない限り、何のプラスにもならないのだ。一般の観客はどうだろう。みんな熱心に聞き入っている。サンクトペテルブルグ周辺に住むベトナム人なのか、郷愁に駆られて聞きに来たらしい女の子も見かけたが、着飾った人はほとんどおらず、ただ音楽を楽しみに来た人々と見えた。入場料は非常に安い。普通の席で日本円でいえば1500円ぐらいだから、映画館より安い。やはりクラシックといえども、市民に浸透していると見た。

観察日記(4)
 言葉の問題:ロシアでなんといっても問題になるのは、なんとも英語の通じない国だということだ。国際空港と、外国人観光客が多く出入りするホテルを除いて、安心して英語を話せる人はほとんどいない。それよりもまずエルミタージュ美術館のような国際的に有名なところですら、各国語の館内案内図がそろっていても、ちょっと細かい説明になると、ロシア語だけである。モスクワ川の遊覧船は連日のように外国人観光客が来るのに、その船頭さんは英語で数字を言うことすらできない。ネパールやエジプトでは中学生でも上手に話す子たちがいっぱいいたのを思い出し、驚いてしまった。

ひとつには小中学校で英語をはじめとする語学教育に力が入れられていないせいだろうか。なるほど広大なロシア国内では、ロシア語が完全なる共通語であるし、旧ソ連に属していて、今はすっかり独立してしまった国々にしても、ロシア語は通商にも政治にも欠かすことができないのであろう。しかし、異民族が少ないモスクワやサンクトペテルブルグでは、日本ほどではないにしても、かなり閉鎖的な環境になってしまう。大部分のロシア国民はロシア語によるマスコミからしか情報を得る手段がないため、例えばウクライナ情勢にしても中東情勢にしても、様々な見方に触れる機会が少なくなってしまう。

ロシアは、今のところ極端な思想統制や報道規制はないから、その気になれば海外からの情報を大いに取り入れることができるはずだ。サンクトペテルブルグから西にわずか200キロ行けばフィンランドの首都ヘルシンキだし、ほかにも西部国境はたくさんの国々と接している。にもかかわらずソ連時代の東西対立の流れを引きずっているためか、外国人のロシア国内旅行はいまだに不自由だ。EU圏内のような自由な行き来ができるようになるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

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記 録(2014年)

  • 9月11日(木)1200-1710 成田空港発SU(アエロフロート)航空にてモスクワへ
  • 9月12日(金)モスクワ市内見物(1)
  • 9月13日(土)モスクワ市内見物(2)
  • 9月14日(日)1155-1310 SU航空にてサンクトペテルブルグへ・夕方サンクトペテルブルグ市内見物(1)
  • 9月15日(月)サンクトペテルブルグ市内見物(2)
  • 9月16日(火)サンクトペテルブルグ市内見物(3)
  • 9月17日(水)1450-1605/2000- SU航空にてモスクワ経由、成田へ
  • 9月18日(木)-1035 成田空港着

おわり

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