なぜ東アフリカなのか: アフリカ大陸は広い。せめて北、南、西、東の4つにわけないとその全貌を把握できない。北アフリカは、サハラ砂漠やエジプト文明を連想させる。南アフリカはマンデラ氏や喜望峰を思い出す人も多いだろう。西アフリカといえば、ガーナのカカオ豆、そして最近ようやく終息したばかりのエボラ熱が話題に上る。さて、残る一つの東アフリカといえば?
昔の人気テレビ番組に「少年ケニア」というのがあった。もう50年以上も前のことだ。日本の少年ワタルが少女ケートとともにケニアで活躍する話だが、少なくともそれでこの地域への関心が繋ぎ止められている人もあろう。そんな単純なきっかけから、いつかケニアに行ってみたいと思っていた。
ケニアの北にはエチオピアがあり、言語、文化ともにかなり異なるので、今回は訪れなかったが、ここはむしろスーダン、エジプトとのつながりから北アフリカと結びつけて行ってみたいところだ。
ソマリア、コンゴ、ブルンジは治安上の問題があり、当分不可能。となるとウガンダ、ルワンダ、ケニア、タンザニアの4つが残る。このうちウガンダとルワンダはヴィクトリア湖周辺の内陸部にあり、たどり着くのに時間がかかる。これらの国々では、さすがにガイドブック「地球の歩き方」でさえも、十分な記述ができず改訂版すらままならない。これは自分で行ってみるしかあるまい。
最終的にケニアとタンザニアが残った。この2つの国は、文化的背景、民族構成、宗教、そして言語面でも類似しているが、ケニアは経済発展著しく、一方でタンザニアは貧困のどん底というわけではないが、マイペースで国づくりにいそしんでいる。
また、ケニアでの国際協力を考えにあたって岸田袈裟氏を忘れるわけにはいかない。岩手県東野市出身の彼女は、故郷の台所からヒントを得た、誰でも作れる「かまど Kamado Jiko 」を普及させ、草履(パティパティ)を広めたりして、現地の生活向上に貢献した。「少年ケニアの友」というNPO法人があり、その副理事長だったこともある。
今回はケニアに3泊、タンザニアに10泊したが、タンザニアには東京農業大学をはじめとする農業技術協力の歴史があり(実際、在日タンザニア大使館は同大学の目と鼻の先だった)、世界中で開発途上国が必死になって生活水準を上げ、その中で格差が増大して社会不安の増大が伝えられる中、人々の生活はどのように営まれているか?
そのためナイロビ到着後、最終目的地のザンジバル島まで飛行機は使わず、バスとフェリーだけで移動を試みた。沢木耕太郎流の旅である。なお、この2か国はサファリで有名である。欧米人がピカピカのジープに乗って、東京首都圏以上の大きさの国立公園に出かけていくのを何度か見たが、それはまた別のタイプの旅行だといえよう。
また、今回の最大の目的はスワヒリ語の研究である。ケニアの首都ナイロビでは英語が圧倒的で、なかなか使う機会はなかったが、タンザニアに入ると、生活に欠かせない言語となっている。植民地の旧宗主国の言語である英語、フランス語、ポルトガル語でなく、アフリカ系言語をもとにしてできたスワヒリ語は国民とその文化の統合のために大変意義がある。
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