(2015年9月)

Nirobi National Park

目次

PAGE 1

東アフリカへ

ナイロビアルーシャ

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タンザニア西と東

ムワンザ→ダル・エス・サラーム

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もうひとつのタンザニア

ザンジバル=ストーンタウン

ザンジバル=北部海岸とプリズン島

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東アフリカへ 

 黄色の線は、ケニア、タンザニア国内の今回移動したバスとフェリーの軌跡(GPS記録による)。上が北。

赤い線の上から下が、ナイロビ→アルーシャ→分岐点。そこから緑の線で北上し、ヴィクトリア湖畔の町ムワンザに到着。

緑の線を再び分岐点を通って南下し、バスが遅れて車中泊をしたために、途中で水色の線に変り、インド洋沿岸のダル・エス・サラームへ。

ここから短い赤い線はフェリーでザンジバル島に渡った軌跡。帰路のザンジバルからナイロビへは空路。

なぜ東アフリカなのか:  アフリカ大陸は広い。せめて北、南、西、東の4つにわけないとその全貌を把握できない。北アフリカは、サハラ砂漠やエジプト文明を連想させる。南アフリカはマンデラ氏や喜望峰を思い出す人も多いだろう。西アフリカといえば、ガーナのカカオ豆、そして最近ようやく終息したばかりのエボラ熱が話題に上る。さて、残る一つの東アフリカといえば?

昔の人気テレビ番組に「少年ケニア」というのがあった。もう50年以上も前のことだ。日本の少年ワタルが少女ケートとともにケニアで活躍する話だが、少なくともそれでこの地域への関心が繋ぎ止められている人もあろう。そんな単純なきっかけから、いつかケニアに行ってみたいと思っていた。

ケニアの北にはエチオピアがあり、言語、文化ともにかなり異なるので、今回は訪れなかったが、ここはむしろスーダン、エジプトとのつながりから北アフリカと結びつけて行ってみたいところだ。

ソマリア、コンゴ、ブルンジは治安上の問題があり、当分不可能。となるとウガンダ、ルワンダ、ケニア、タンザニアの4つが残る。このうちウガンダとルワンダはヴィクトリア湖周辺の内陸部にあり、たどり着くのに時間がかかる。これらの国々では、さすがにガイドブック「地球の歩き方」でさえも、十分な記述ができず改訂版すらままならない。これは自分で行ってみるしかあるまい。

最終的にケニアとタンザニアが残った。この2つの国は、文化的背景、民族構成、宗教、そして言語面でも類似しているが、ケニアは経済発展著しく、一方でタンザニアは貧困のどん底というわけではないが、マイペースで国づくりにいそしんでいる。

また、ケニアでの国際協力を考えにあたって外部リンク岸田袈裟氏を忘れるわけにはいかない。岩手県東野市出身の彼女は、故郷の台所からヒントを得た、誰でも作れる「かまど Kamado Jiko 」を普及させ、草履(パティパティ)を広めたりして、現地の生活向上に貢献した。「少年ケニアの友」というNPO法人があり、その副理事長だったこともある。

今回はケニアに3泊、タンザニアに10泊したが、タンザニアには東京農業大学をはじめとする農業技術協力の歴史があり(実際、在日タンザニア大使館は同大学の目と鼻の先だった)、世界中で開発途上国が必死になって生活水準を上げ、その中で格差が増大して社会不安の増大が伝えられる中、人々の生活はどのように営まれているか?

そのためナイロビ到着後、最終目的地のザンジバル島まで飛行機は使わず、バスとフェリーだけで移動を試みた。沢木耕太郎流の旅である。なお、この2か国はサファリで有名である。欧米人がピカピカのジープに乗って、東京首都圏以上の大きさの国立公園に出かけていくのを何度か見たが、それはまた別のタイプの旅行だといえよう。

また、今回の最大の目的はスワヒリ語の研究である。ケニアの首都ナイロビでは英語が圧倒的で、なかなか使う機会はなかったが、タンザニアに入ると、生活に欠かせない言語となっている。植民地の旧宗主国の言語である英語、フランス語、ポルトガル語でなく、アフリカ系言語をもとにしてできたスワヒリ語は国民とその文化の統合のために大変意義がある。

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観察日記(1)

ナイロビの治安: 「地球の歩き方」の2015年度版までのナイロビについての記述を読むと、怖くなって誰もがナイロビに行きたくなくなってしまうだろう。「公園を一人で歩くな」「ビジネス街でも1600以降は絶対行ってはいけない」と書いてあるのだから。

空港からホテルまで乗ったタクシーの運転手は、以前と比べてだいぶ安全になった、絶対行っちゃいけない地区はあるが、ビジネス街ならまず大丈夫、と言っていた。4,5年前に比べれば、かなり治安は改善されたという。

でも油断をしていけないことには変わりはない。泊まったホテルでは、カード1枚、鍵2個を渡される。カードはそれぞれの階から廊下へ通じる金網製の「檻」の開け閉めのため。1個目のカギは従来のドアノブを開けるためのもの。2個目のカギはドアノブの上に新たに穴をあけて作られた小型のカギを開けるためのもの。

ロビーのチェック・イン・カウンターは開放式ではなく、アメリカ西部劇に出てくる銀行のような格子がはまっている。お金やパスポートはその狭い隙間から滑り込ませることになる。入口には警備員が最低二人が常駐。

このホテルはビジネス街の中心にあるのだが、かつてはいかに危険に満ちたところかよくわかる。でも、その隣にある広々としたピザ屋には、若者や子供連れやキリスト教の尼さんらが集まっており、にこやかに談笑しているから、事態の改善は明らかだろう。

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ナイロビへー東アフリカの玄関口 

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深夜の成田空港から、アラビア半島カタール国のハマド空港経由でナイロビに正午過ぎ到着した。ビザが空港では取れず、ネットによる申し込みでの「E ビザ」のみになっていることを、出発直前になって知り、大慌て。何とか間に合ったが、危うく入国の時点でトラブルに巻き込まれるところだった。

ガイドブックによれば、市内は大変治安が悪いので、空港からはタクシーを利用することにする。空港のATMで現地通貨ケニア・シリングを引き出した後、デスクを構えているタクシー斡旋会社に指定された金額を払うと、ホテルまで連れて行ってくれる。

昼間からとんでもない渋滞で、わずか10キロの道のりなのに、1時間半もかかってしまった。高速道路はできておらず、片道2車線の傷みの激しい路面とイギリス譲りのラウンド・アバウト形式の交差点が混雑に拍車をかける。ラウンド・アバウトは、交通量が比較的少なくて運転者に譲り合い精神があるときのみ、その真価を発揮するものなのだ。

予約したホテルは「Comfort Hotel」といって、都心のビジネス街の真ん中にある。屋上に鉢巻をしたような模様があるので、覚えやすい。大勢の人々が通るので、治安上は安心だし、ちゃんと入口には警備員ががんばっている。スラム地区以外での治安状況はさほどではなく、周辺を歩いて中華料理店を見つけて夕食をとることができた。

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ホテル4階の部屋から見下ろすと、水色のSAMSUNGのショールームと、その右側にビジネススクールがみえる。この町では「・・・University 」とあっても大学ではなく、成人向けの専門学校であることが多いのだ。いいかえると経済成長がさかんなので、みんな特技を身につけて生活の向上をめざすという風潮のようだ。夕方になると大勢の生徒が出入りしていたし、ホテルの窓から教室風景が丸見えなのである。

今は9月で乾季の最後の月なので、蚊はほとんどいない。しかしベッドの下に隠れているかもしれないので、蚊取り線香を念のためにたく。ベッドには蚊帳が据え付けられていて、いつでも広げられるようになっている。二日目の夕食には、地元レストランの定食を食べる。主食に「ウガリ」を食べたが、甘くない羊羹を4日ほど食べるのを忘れていたような舌触りであった。なお、主食にはほかに、米もフレンチポテトも選べる。

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ナイロビ市内の空港に隣接した広大な土地に、おそらくアフリカで最も小さい国立公園(117平方キロ)がある。警備員の少年に頼んで、知り合いの旅行社の人を紹介してもらい、翌日”サファリ”に出かけることにした。本来は単に「旅」を意味する言葉だが、スワヒリ語でもアラビア語でも用いられ、ヨーロッパ人の間では、「狩猟旅行」または「動物ウォッチング」の意味を持つようになった。

おじさんの運転する、屋根の持ちあがるワゴン車に一人乗せてもらい、入り口から公園内に入る。乾季の終わりは草が枯れて、冬景色のようだ。網の目のような道をあちこち進むと運よく、さっそくキリンに遭遇。ここは高原なので、赤道直下にもかかわらず朝は寒いくらいだ。

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公園の中央に「ライオンのたまり場」がある。運転手はほかの仲間と携帯電話で連絡をとりながら進み、池のあるところまできた。見ると、ほかのワゴン車もいっぱい集まってきている。2頭のメスが道を歩いていた。ワゴン車にはまるで無関心だ。

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サイがいた。近くに水辺は見当たらないが一頭だけ悠々と草原を歩いている。うしろにはナイロビの高層ビルがはるか遠くに見えるのが、本格的なサファリとは違うところ。もちろんここは日帰りのみだ。

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と、もう一頭のライオンが、道をこちらに向かってくる。檻のない彼らは気ままに歩き回り、このオスはワゴン車の横で寝そべって動かなくなった。朝寝のつもりだろうか。

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ガゼルが見えた。園内でもっとも数の多い動物だ。最初はその優美さにひかれるが、これはあとからあとからやってくるし、群れを成して道路も横断する。

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ダチョウにお目にかかるとは予想していなかった。意外と今日は幸運だったのかもしれない。敷地が狭いのに、多種多様な動物が生活しているものだ。

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ウォーター・バッファローが草むらから見えた。しかし望遠レンズを必要とする距離ではない。3時間余り園内を駆け回っただけで、ヒョウ、チーター、ゾウ(ここはゾウがいないのだ!)を除いて、たいていの動物に面会できた。5万平方キロある、セレンゲティのように広大なところなら、これだけの動物に会うのに何日も泊りがけで車を走らせなければならない。

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午後にはBomas of Kenya をおとずれる。伝統的な家屋と、舞踊を見せてくれる場所だ。平日でガラガラ。観客より多い出演者たちが次々と各地の音楽やダンスを披露してくれた。現代の音楽にこれらの昔のリズムが巧みに取り入れられているのがわかる。

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劇場の外に出ると、昔の住居が集められている。ちょうど愛知県犬山市にある、「明治村」みたいなものだ。この建物の左側に立札が立っているが、そこには「1st Wife's Hut」(第1夫人の小屋)とある。

翌日のバスの切符を買わなければならない。ところがあらかじめ約束をしていた旅行社の人を飛び越えて、別の人が切符を売りつけてしまった。こちらには実害がなかったが、切符の販売には手数料がかかわるだけに、業者の間に激しい客の取り合いがあるようだ。

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観察日記(2)
若者社会: いつものことだが、開発途上国に行くと、若者と子供の多さに驚かされる。というよりどこを探しても年寄りがいない。ケニアとタンザニアは、どちらも都市へすさまじい勢いで人々が集まり、あらゆるサービスがパンク寸前になっている。

車の渋滞が最もいい例で、1分間に1メートルぐらいしか進まない。しかし若者の持つエネルギーのおかげで、社会は非常に活性化している。トラックに荷物を積むこと一つとっても、機械がないだけに、筋肉労働の勢いのよさは日本ではとてもお目にかかれない。

「にぎわい」というものは、ただ人々が高密度で暮らしているだけではダメで、イベントなんか企画しなくても、住民が若くて外に出るのが大好きでなければならないのだ。また、テレビを持っていなくて、屋内にいてもつまらないというのも原因かもしれないが、とにかく通りにはどこにいても人が多かった。

ケニア人とタンザニア人:ケニア人は経済成長が続いているだけに、ビジネスライクな人々が増えている。職を得るために職業訓練を受けようという意欲も満々だ。タンザニア人は、ケニア人に言わせると「ノロいノロい」のだという。農業中心で、経済も順調に伸びているわけではなく、そうがつがつして金儲けをすることもあるまい、ということか。この二つの国民性には大きな違いがあり、将来にわたって広がっていくだろう。

為替相場(2015年9月)では、1ドル=105ケニアシリング(KES)、1ドル=2146タンザニアシリング(TZS)となっており、ともにイギリスの貨幣の名称をもらっているものの、経済力の点では、ケニアがはるかに優位に立っている。

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アルーシャ:国境を越えてタンザニア領へ

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翌日ははやナイロビに別れを告げて、早朝バスに乗り込む。幸い、ホテルの向かいからそのバスが出るのだ。これはナイロビ市とタンザニアのアルーシャ市にあるホテルとの間、400キロを国境越えして往復するシャトルバスで、小型だ。屋根の上に大きな荷物を載せる。道路の舗装は良好。ただし集落に近づくと、バンプ(盛り土)があって、それまで120キロを超すスピードで”暴走”していたバスも減速しないわけにはいかない。

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だから内部は座席が少なく、旅が楽だ。乗客は、ケニア人、タンザニア人だけでなく、隣に座っていたカップルはスペイン人だった。キリマンジャロに向かうらしい。バスで国境を越えるので、乗客は少ないほうが、手続きがすぐに済む。

タンザニアへの検問所では、黄熱病の予防接種を証明するイエロー・カードの提示を求められた。最近はやっているのか?また、タンザニアのビザは国境でもとれるが陸路の場合、時間の節約のためにあらかじめ日本国内でとっておいたほうがよい。

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アルーシャはキリマンジャロ山のすぐ西にあるメルー山のふもとにある町で、高原にあるのでナイロビと同じく、日陰や夕暮れ以降は暑くない。国境を越えてもサバンナの乾燥地帯が続くが、ところどころで小規模な竜巻が発生するのである。地元の人は見なれているので、関心を寄せないが、バスの窓から、あちこちで砂埃を挙げている光景は驚異だった。

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アルーシャ市内に入り、有名ホテル Impala の前で下車。バスはさらにキリマンジャロ山のふもと、モシへ向かい、スペイン人カップルもそちらへ行くのだった。こちらは地元のおじさんがマイカーで中心部まで(有料で!)乗せていってやるというので、途中の銀行ATMでタンザニア・シリング通貨をおろしたあと、バスのターミナルのあるところまで連れて行ってもらう。

タンザニア国内はホテルの予約をせず、行き当たりバッタリのつもりだった。人気の1件目は満室。2軒目でまずまずのところを見つけたが、電源が故障していて館内は真っ暗。夕方までには復旧するというので、荷物を置いて外に出る。まずは街の象徴、「アズィミオ Azimio 記念碑」のある広場に向かう。

1972年のイギリスからの独立宣言の記念碑だが、周りには若者がいっぱいたむろしていて、「カリブ!(ようこそ)」「ジャンボ(こんちわ)」の一斉攻撃を受ける。ナイロビではなかった、新しい現象である。彼らにしてみれば東洋人は非常に珍しい存在なのか、ここからタンザニアを出るまで、挨拶攻めであった。

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背景にメルー山(?)を抱くアルーシャの町は、緑が多く清潔な感じで、貧困国であることを感じさせない。ナイロビのような気違いじみた交通渋滞はないし、そもそも高層ビルがあるほどの大都会でもない。あたりにどうしてもムカハワーニ(大衆食堂)が見つからなかったので、路上でサファリを勧めてきた旅行業者に連れて行ってもらった。コカコーラのおごりで。食べたのはタンザニア風ビーフシチュー。

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ホテルの窓から下を見下ろすと、そこは「プジョー・バス・ターミナル」。バスは早朝便が多いので、出かけるときにはこの上なく便利。左端に見える骨だけのビルは建てかけで、(設計ミスで?資金不足で?)工事が中止されたもののようだ。こんなビルがタンザニア国内にはいっぱい見うけられる。急がなくてもよい、ゆっくりゆっくり(ポレポレ polepole )ということのようだ。

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翌日の市内見物は、まずマーケットから。中心部のものは、比較的小規模だった。街道に出て、徒歩で30分余り歩くと、川沿いに巨大なマーケットが出現。とはいってもすべてが露店で、「木炭」を売る店がある。ここではまだ煮炊きに炭を使う段階なのだ。その炭を入れるコンロはインド製であった。これくらい国産にできないものか?

それと不似合いなのが、ベッド屋。豪華な木製ベッドの「枠」を製造している店があった。マットレスは別売りである。靴屋。中古の靴が地べたにずらっと並べられている。ゴムゾーリが普及しているが、はだしの人も結構多いのだ。マーケットを出てさらに街道を30分ほど進む。頭に”生ゴミ”を入れたバケツをのせていると思えた少年に出会ったが、よく見たら彼は「卵売り」だった。

上の写真にある、モダンなデザインの「Cultural Heritage」が見えてきた。いわゆる大規模みやげ店なのだが、アフリカの絵画、彫刻、工芸品を無料で見せてくれる、この付属美術館がウリで、広大な館内をたっぷり鑑賞できた。みやげはひとつも買っていない。

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その彫刻には、のちに欧州の芸術家に多大な影響をもたらしたような、実にオリジナルなものもある。この写真の「人と人の絡み合い」など、非常におもしろい。

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Cultural Heritage から再び街道を歩いて戻ろうとしたところ、目の前にダラダラ(乗合ミニバス)が止まった。すかさず行先を告げると、乗れという。歩いて1時間以上かかった道のりをわずか10分余りでホテル近くまで戻れてしまった。

アズィミオ記念碑のすぐ横に「国立博物館」がある。広い庭はとても静かなので、学生たちの”自習室”になっている。ここは独立に至るまでの政治的流れをわかりやすく展示したところ。国父ニエレレ初代大統領がここで「アルーシャ宣言」を出して内外にタンザニアの独立を知らしめた。写真はその記念のトーチ。

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アズィミオ記念碑の北東は墓地になっていて、ここの住民の多数がキリスト教徒であることがわかる。軽井沢のように町並みが森や林によってところどころ隔てられており、墓地のある林を抜けると再び市街地に出た。そこの「自然史博物館」に入る。いずれの博物館もガイドブックに載っていないようだが、なかなか見ごたえがある。

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ただ、まだ展示が未整備で、あるいは予算不足か、せっかくの動物の剥製が倉庫みたいに山のように集められている部屋があったりする。それでも原生人類の頭がい骨や、泥の中に残された原始人の足跡(いずれもレプリカ)は、この大陸から出たものだけに興味を引く。

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特に圧巻なのが、動物学者で写真家のDick Persson 氏によるタンザニアの動植物写真展示である。スエーデン出身の彼はタンザニア国内の秘境から秘境を渡り歩き、泥にもぐり、蛇と一緒に寝ながら、貴重な写真を多数撮影したのである。展覧会 Wildlife に出された作品の多くがここに再展示されている。

館内に掲げられた額縁に、自然破壊への警告の文面が入っていた。「Only when the last tree has died, the last river has been poisoned and the last fish has been caught will we ealize that we cannot eat MONEY. 最後の木が枯れ、最後の川が毒され、最後の魚が捕獲されたときになってやっと、人間は”金は食えない”ことに気づく。」とあった。アメリカ・インディアンの古い格言だったらしい。

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観察日記(3)
あいさつ好き:日本の小学校では「あいさつ運動」なるものがある。先生が先頭に立って挨拶をやれ、としつけないと、子供たちはまともに人と会うことさえできないらしい。こちらスワヒリ語の国では、あいさつ言葉が発達していて、特に年寄りや長老たちは、別に公式の場でなくとも、長々とあいさつの言葉を述べるのがしきたりになっている。

その文化は若者の間にも浸透していて、アルーシャについた時から、あっちからこっちから「ジャンボ」や「カリブ」の掛け声が絶えない。まさか無視して通り過ぎるわけにもいかず、「Jambo」(本当はHujamboが正しいのだが、外国人にはわざとHuを省略した形で呼びかけるのである!)には「Sijambo」の返事を、「Karib」には「Asante sana」の返事をというように気をつけながら返事をする。

そしてスワヒリ語で正しく挨拶をすると、さあ大変!この東洋人はわれわれの言葉を話せる、というわけで大喜び。近くに寄ってきて、「どこから来た」、「何しに来た」、と根掘り葉掘り聞くのである。彼らの盛んなあいさつのやりとりは、コミュニケーションの流れに非常に大きく貢献しているといえよう。

人間関係の濃密さ あいさつ好きだけでなく、キリスト教やイスラム教の集まりに熱心に参加する人々を見て、現代社会における人間関係の希薄さは感じられない。むしろ緊密な連帯関係が存在しているように思われる。現代人はそれを嫌って宗教を捨て去ったが、そのあとに睡眠薬や拝金がとってかわったのだという見方もできる。ぜひ、この文章を読んだ人は、この国の宗教行事やお祭りに集まっているときの表情を見てもらいたい。

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