(2015年9月)

Zanzibar Northern Coast

目次

PAGE 1

東アフリカへ

ナイロビ→アルーシャ

PAGE 2

タンザニア西と東

ムワンザ→ダル・エス・サラーム

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もうひとつのタンザニア

ザンジバル=ストーンタウン

ザンジバル=北部海岸とプリズン島

記 録

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外部リンク・・・外部リンク


もうひとつのタンザニア 

ザンジバル島、タンザニアビリー・ジョエル:  アメリカのロック歌手、Billy Joel のアルバム 52nd Street (ニューヨーク52番街)の収録曲に Zanzibar がある。べつにタンザニアのザンジバル島のことを歌っているわけではない。ニューヨーク市内のスポーツ観戦のできるバーの名前にすぎないのだが、曲の持つ魅力的な雰囲気に乗せられて、いつか実際にその島に行ってみたいと思うようになった。

インドネシアにはバリ島が、マレーシアにはペナン島があるように、本土とは一味違う海の文化に彩られた土地というのは旅の最後に訪れるところとしては最適だ。

ダル・エス・サラームからフェリーで3時間余り、沖縄島より少し大きい赤道近くのサンゴ礁に取り巻かれた島であり、本土内陸部とはまるで別の文化の育った場所だ。

宗教も、本土はキリスト教徒が多いのに対し、こちらはアラビアとの貿易との歴史から、イスラム教徒が多い。ここにはアラビア人をはじめとして、インド洋の沿岸から商人が大勢訪れて、コスモポリタンな場所になっている。

ザンジバルから見ると、インド洋というのは大きく右にカーブした”湾”なのだ。だから、商人たちは季節ごとに規則正しく風向の変わる貿易風のおかげもあって、大昔からこの湾岸沿いに貿易をした。

スワヒリ語はここが本家本元である。さらに、ここはコンゴ方面から運ばれてきた、奴隷を積み出す港でもあった。第2次世界大戦後、タンザニアがイギリスから独立した時、ザンジバルはそれと合流して一つの国家を作り出すことになった。

しかし、スペインのバルセロナのように、非常に自治意識が強い。通貨は共通だが、単なるザンジバル”県”ではなく、「ザンジバル革命政府 Revolutionary Government of Zanzibar 」と名乗っていて、 ダル・エス・サラームからこの島に入るときは、ちゃんと”入国管理”があり、パスポートと黄熱病接種証明書を見せなければならない。

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観察日記(7)

コスモポリタンな街: その歴史が物語るように、アラビア人の作った砦、スルタンの宮殿がザンジバル、ストーンタウンの中に点在するが、イスラム教徒だけが住んでいるわけではない。モスクに加えて、キリスト教会も、その狭い小路の中に忽然と出現する。

コンゴ系のバンツー、アラブ、ポルトガル、インド、イギリス、中国が食文化に一役買っている。ここのインド料理店も、中華料理店も、そしてもちろん地元のザンジバル料理店も健在である。ただし共通点は周辺でとれた新鮮な魚介を使っているということ。こんなところがヨーロッパ人に魅力的に思われるのか、この島は彼らでホテルも小路もいっぱいだ。

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ザンジバル島ストーンタウンーもうひとつのタンザニア 

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サバンナの乾燥から一転して、海上の人となる。フェリーは双胴船で、安定がいいはずなのだが、港の外に出ると、やたら揺れた。なお、外国人は一等ではなく、VIP ROOM に通された。冷房が効いている。でもせっかくの窓が汚れていて、写真が撮れない。仕方なく船尾の甲板に出る。双胴船の残す航跡が美しい。平均時速23キロで、3時間かかりザンジバルの港に到着。

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港は乗客で大混雑。中心部を避けて北に移動し、二つ目のホテルで宿泊決定。小さなホテルだが、窓からの眺めがいい。写真は屋上にあるレストランから海を眺めたところ。宿の主人が大の映画ファンで、ホテルの半分をミニ映画館にしてしまい、夜は上映を楽しみにしている子供たちが詰めかけていた。

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泊まった部屋の窓から見ると、向かいの家の屋上にニワトリが飼われている。このホテルには4泊したが、毎朝4時ぐらいから雄鶏が「コケコッコー」と騒ぐので参った。このホテルは朝食付きで、オマーン国で英語を教えている英国リバプール出身の老婦人と食卓で知り合いになった。彼女はレンタカーで島を半周した。こちらは自転車の予定。

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最初の夜はまずストーンタウンを一周した。フェリーが着いたのとは反対側の海岸に出ると、欧米人向けのホテルが立ち並び、ビーチに人がたくさんいて夕暮れを楽しんでいる。

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フェリーターミナルは砂浜のすぐ横に作られている。もうすっかり日が暮れたが、ビーチではジョギングにいそしむ地元の若者がいた。

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ザンジバルで一番楽しみにしていたのは、スワヒリ語の教科書に載っていたカンバ・コチ(日本の伊勢海老にあたるらしい)を食べることだ。フェリーのターミナルのすぐ横に海鮮レストランがあったので、さっそく注文した。港の雰囲気を味わってもらうために、ここのレストランは照明を使わず、すべてローソクだ。

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ダウ船のたまり場。フェリーターミナルのすぐ東側は魚市場で、このダウ船が係留されている。ダウ船はヨットに似た、インド洋を吹く貿易風を利用したアラビアとの貿易が盛んだった時代からの優美な帆船だ。動力がいらないので、こうして現代でも盛んに使われている。

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翌日、いよいよストーンタウンの探索開始。地元の言葉ではムジ・ムコングェとよばれ、アラビア人の植民時代に作られた、まるでイタリアのベニスのように狭い小路が入り組んだ街並みで、世界遺産だ。写真は文化センターになっている、まるでアメリカ南部の建築を思わせるデザイン。

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アラビアのスルタンが建てた宮殿で、その名も「The House of Wonder 驚嘆の家」。博物館になっている。

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その「驚嘆の家」に入ると正面に鎮座しているのが、この実物の帆を張った「ダウ船」。内部は3階まで吹き抜けになっていて、マストが上まで伸びている。

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「The House of Wonder」の左隣にあるのが、やはり宮殿で、今改装中。横から見ると、柱の間の形式がいかにもアラビア風であることがわかる。

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赤道直下の花(1)

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赤道直下の花(2)

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典型的なストーンタウンの街並み。バルコニーがせり出して、ますます狭いアラビア風の雰囲気。いったん入り込むと、方向感覚がマヒする。直角の曲がり角なんてない。しかもいたるところに人々がたむろしていて、あいさつをするから、自分がどう進んでいるのかわからなくなる。せめての手掛かりは、夕方の赤い夕陽だ。それで西の方角だとわかる。

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ところがその狭い路地をちょっと曲がれば、まぶしい直射日光が降り注ぐビーチだ。

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ストーンタウンはアラビア人が住んでできた街だから、モスクをはじめとしてイスラム教の雰囲気が強いが、ところどころにこのようなカトリック教会が建っている。フランシスコ・ザビエルの像をさがしてみよう。ここは文化の混血の地なのだ。かくしてアラビア語とコンゴ奥地の言語が混ざり合って現代のスワヒリ語ができた。

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これは「オールド・アラブ砦」とよばれ、ポルトガル人を攻撃したアラビア人たちがこの地に植民を始めたころにできた。16世紀初頭のことである。

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内部には、円形の舞台と観客席すら残っている。ここでアラビアのダンスが披露されたのであろう。

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驚嘆の家の近くに「Old Custom House Forodhani」という画廊があり、その掲示板に「今夜コンサートがあります」とあった。ライブ音楽を聴くチャンスだ。Taarab Music (Tabasam) とはザンジバルとその南北の海岸に伝わる、地元の音楽のことで、アフリカ音楽というよりはアラビア音楽の色彩が強い。

Dhow Countries Music Academy というグループで、6名の器楽(アコーディオン、鉄琴、バイオリンを含む)と2名の歌手からなる編成で、地元では大人気だそうだ。今夜は外国人に親しんでもらうために開催した。

実はこのタイプの音楽は初めてではない。フランスの公共ラジオ外部リンクでは、頻繁にアフリカ発の音楽を流しており、しょっちゅうそれを耳にしているからだ。しかしすごかったのは、若い娘のほうの歌手だ。彼女は歌いながら踊りだす。腰をくねらせ、観客の間を渡り歩く。さすが実物の迫力!

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コンゴ方面から1000キロを超える道のりを、今のような立派な舗装道路もない時代に、奴隷たちが運ばれてきた。過去の忌まわしい奴隷の記憶を忘れないために、奴隷市場跡にこの大聖堂が作られた。奴隷市場が廃止された1873年からまだ142年しかたっていない。

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この大聖堂の東側は、街道に面して普通の市場が広がっている。そこは大変にぎやかなのだが、ザンジバルの歴史を見るとき避けては通れないものなのだ。

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観察日記(8)
イスラム教のお祭り: ザンジバル島はイスラム教徒が多い。このため、毎日の礼拝や、様々な行事が執り行われるが、9月の24日から4日間、信者はクルアーンを読み、既定の礼拝や追加礼拝、そして神への祈りのために費やした。「犠牲祭イード・アル・カビール」である。

たまたまこの期間をここで過ごしたため、大勢のイスラム教徒がストーンタウンの海に面したフォロダニ公園に集まってくるのを目にすることになった。もともとこの公園は物売りと観光客でごった返しているのであるが、この日は、大勢のイスラム教徒が集合した。

その数は、島の隅々から集まってきたと思われるほどである。多くは子供連れで、家族そろっての外出を楽しんでいるようでもあった。それに伴った、祈りの声やクルアーンを読み上げる声が深夜まで続いた。そのうち疲れて寝てしまったからはっきりしないが、午前3時ぐらいまでやっていたのではないかと思う。3日間それは繰り返された。

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ザンジバル北部海岸とプリズン島:奴隷貿易の跡

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狭いストーンタウンは一通り見たので、翌日は自転車を借りて、北の海岸をさかのぼることにした。まずは Maruhubi Palace Ruins つまり「マルフビ宮殿遺跡」である。街道沿いに看板があったのですぐわかった。スルタンのハーレムだった。トルコやアラビアでなく、こんなところで見るなんて予想もしなかった。今はただ荒れ果てた石柱や壁が残っているだけである。自転車でスーッと入っていったので、あとであわてて管理人が入場料をとりにきた。

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街道沿いの土手下で一休み。街並みは少なくなり、田舎の様相を示してきた。この通り、牛車がまだ活躍している。

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分かれ道に来た。左方向へ入る。看板には SMZ Coral Cave and Slave Chambers Mangapwani とあり、SMZ とは英語で表せば Revolutionary Government of Zanzibar のスワヒリ語 Serikali ya Mapinduzi ya Zanzibar の略字である。大陸部分と合併した今でも自分たちを「革命政府」と名乗っているのだ。マンガプワニ(村?)に向かう。そこには「サンゴの洞窟」と「奴隷の部屋」があるのだ。

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村の小学校があった。写真を撮っていると子供が3人やってきた。「おじちゃんどこから来たの?」「Japani から来たんだよ」「Japani ってどこ?」「学校の先生はどこだい?」「今日は休みなの」

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のどかで起伏の少ない道をどんどん行く。両端はココヤシの木が並んでいる。子供や若者たちは私の顔を見るとすぐ声をかけてくる。まるで有名人になった気分だ。

分かれ道と看板があり、左に曲がって、つまり海のほうに向かって未舗装の、頼りない細い道を進む。もし西洋人を乗せたタクシーが追い越して行かなかったら、ここは間違いだと思って引き返していただろう。

先ほどのタクシーが止まっているところが「サンゴの洞窟」の入り口だった。ガイドは青年。真っ暗な入口に案内される。幸い懐中電灯を持参していたので、だいぶ助かったが、狭く滑りやすく手すりなど何もないところをガイドの後をついていくのだから大変な冒険だ。

ガイドの説明では、ここに奴隷たちが真っ暗な中に閉じ込められた。この穴の中は、奴隷の収容所だった。奴隷が禁止された後でも続いていた秘密の奴隷売買は、ここを一時の保管場所としたのだろう。

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地底湖。海岸に近いのに真水である。フラッシュをたかなかったら、まるで分らない真の闇の中である。

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洞窟の第1の出口。入口からはわずか90メートルしか離れていないそうだが、急な登りを這い上がり、あまりに狭いので少しでも太っていたら通過不可能だ。第2の出口はいったいどこなのか、未だわからないという。

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本道に戻ってしばら行くと、今度は右に分かれ、さらに左に分かれてこの門にたどり着いた。自転車はこんな時、本当に楽だ。ダラダラ(乗合ミニバス)なんて時刻表なんかないのだから。最終バスがいつなのかわからない。青年ガイドとその見習いがいた。私がこの日最初の訪問者。昨日はあの英国夫人が来たらしい。

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門を入ると、「奴隷の部屋」がすぐ見えてきた。こちらは先の自然にできた洞窟と異なり、わざわざ収容所をこしらえたものだ。でも奴隷を閉じ込めるという点においては同じであり、歴史の汚点がそのまま残されている。奴隷たちはトイレさえもなく、男部屋と女部屋に分かれて入れられていた。

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「奴隷の部屋」は半地下室になっており、穴の上には石橋が架けられているのだが、一部崩れ落ちている。それはわざと壊したのだそうだ。奴隷に壊れた部分をジャンプさせ、渡りきれたか落ちたかで、脚力の強さを見極めて使い道を決めたのだという。

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奴隷の部屋のすぐ裏手が崖になっていて、それを降りると、目の覚めるような美しい海岸だった。ここから奴隷船が発着したのだ。ガイドの青年はなかなかのインテリで歴史的背景についても詳しく説明を加えてくれた。

そればかりか、「僕の未来はここにない」などと言って、将来は首都ダルで一旗揚げるつもりらしかった。いずこにも「赤と黒」のジュリアン・ソレルみたいなのがいるものだ。しかも私がストーンタウンからはるばる25キロも自転車でやってきたものだから、びっくりして「僕にとってチャレンジだ」などと言っていた。

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帰り道、草むらの中で持参したバナナ、トマトで腹ごしらえをしていると、放し飼いの子連れニワトリが通りかかり、私の捨てたトマトの切れ端をみんなで奪い合いをしている。まるで野生動物だ。文明国では、狭いかごに閉じ込められて一生を終えるのが普通なのに。

レンタル自転車ではいつパンクするか、いつ部品が落下するか、気が気でない。帰り道、変な音がし始めた。だましだまし走って無事ホテルに向かった。
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途中、海岸近くに、もう一つのスルタンの残した遺跡があった。観光客はおらず、苔むしたペルシャ式の浴室をみたあとで、ザンジバル産の栄養のよさそうなネコが昼寝していた。「なんだ、オイ、勝手にカメラを向けやがって!せっかく暖かな石の上でゴロンとしていたのに!
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その翌日はストーンタウンの海岸からすぐ見えるところにある「プリズン島」、直訳すれば”牢獄島”に行くことにした。北欧系の若い娘二人と乗合船に乗る。わずか20分ほどで到着。

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日差しが強いため上に半円形の屋根をつけた小舟が、すでに何艘も島の海岸に停泊している。ここが反抗する奴隷を閉じ込めるための収容所だったなんてとても信じられないほどの明るい海岸だ。水着を持ってきて泳ぎたくなる。

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ここが有名なのは「陸ガメ」のためでもある。しっかり保護されている。飼育員の説明も的確。

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たくさんのカメが飼われており、キャベツなどのえさ代も大変だ。

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プリズン島全景。カメ園があるだけでなく、ちゃんと地元の漁師も住んでいる。島を一周しようとしたら、浜に狭いところがあり、満ち潮になったら帰れなくなって危険だよ、と言われ途中から引き返した。

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ついに最終日。タンザニアには10泊した。すっかり風土にも慣れてしまったような。あまり帰りたくない。ザンジバルの空港から、ナイロビに向かって飛ぶ Kenya Airlines に搭乗。わずか1時間。

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飛行の途中、乗客が一斉に窓側を見ているので、何かと思ったら、キリマンジャロ山だった。いつも雲か雪に隠れて、なかなか全体が見えない。

さよなら!アフリカ!

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観察日記(9)
選挙運動: 12月には次の大統領の選挙が行われる。憲法では2期までと規定されているのに、強引に3期目を通した隣の国ブルンジや、クーデタで大統領が生まれたエジプトのようなことはあるまいが、とにかくアフリカの政治は何が起こるかわからない。

それでもタンザニアの国は、最初の大統領ニエレレ氏が理想化肌だったこともあって、社会主義は失敗しても、国としてのまとまりはアフリカではガーナと並んで最も安定している。ストーンタウンの狭い小路の壁にも候補者の写真がべたべた貼ってあって、あちこちで選挙演説会が開かれ、選挙運動は盛り上がっている。

今の大統領は第4代である。これまであまり強権的なのがいなかったのが幸いして、また部族紛争、宗教紛争、言語紛争がなかったこともあって、貧しいながらアフリカでは最も外国人が接しやすい国の一つだといえよう

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記 録

旅行期間 2015年9月14日より9月29日まで

9月14日(月曜) 成田空港よりカタール航空 QR807便にて2220出発 機中泊

9月15日(火曜) カタール Hamad 空港へ0330着。(乗り換え)QR1339便にて カタール0735発 ナイロビJomo Kenyatta 空港1310着、 Comfort Hotel にて宿泊

9月16日(水曜) Nairobi National Park/Bomas of Kenya 見学 Comfort Hotel にて宿泊

9月17日(木曜) バスでナイロビ→アルーシャ移動、 Natron Palace Hotel にて宿泊

9月18日(金曜) アルーシャ市内観光、Natron Palace Hotel にて宿泊

9月19日(土曜) バスでアルーシャ→ムワンザ移動、 MS Hotel Ltd にて宿泊

9月21日(月曜) バスでムワンザ→ダル・エス・サラーム移動、車中泊

9月22日(火曜) 午後よりダル・エス・サラーム市内観光、Sophia House にて宿泊

9月23日(水曜) フェリーでダル・エス・サラーム→ザンジバル移動 Rumaisa Hotel にて宿泊

9月24日(木曜) ストーンタウン観光、Rumaisa Hotel にて宿泊

9月25日(金曜) 北部海岸観光、Rumaisa Hotel にて宿泊

9月26日(土曜) プリズン島観光、Rumaisa Hotel にて宿泊

9月27日(日曜) Kenya Airways にて、ザンジバル空港→ナイロビJomo Kenyatta 空港、Comfort Hotel にて宿泊

9月28日(月曜) Jomo Kenyatta 発 カタール航空QR1338便 1235発 Hamad 1820着(乗り換え)

 

9月29日(火曜) Hamad QT806便 0150発 成田1755着

おわり

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