(2016年3月)

Nirobi National Park

目次

PAGE 1

ポルトガルへ

リスボン市内シントラ周辺ベレン地区

PAGE 2

第2の都市ポルト

第3の都市コインブラ

再びリスボンへ

記 録

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ポルトガルへ 

概要:2月の29日から3月の10日まで、ポルトガルを訪れた。首都のリスボン、第2の都市ポルト、第3の都市で古い大学のあるコインブラを回った。スペインのすぐ隣で、小さな国であるから、鉄道でもバスでも数時間で目的地に着いてしまう。それでもスペインとは文化的に違っていることが、次第にわかってきた。たとえば音楽に関していえば、情熱的なフラメンコに対して、憂愁に満ちたファドの存在である。

南欧の国々は、北欧諸国と違って、慢性的な経済停滞に悩んでいるようだ。しかし、坂の多いリスボンの街には、有名な市電に乗ろうと、北方から来た観光客があふれていた。開発途上国のような熱気はないものの、落ち着いた住環境が出来上がっているようだった。かつての植民地大国の記念碑が至る所にある。それらを手放した今、EUという新しい環境の中で、新たな進路を模索しているようだ。

カトリック教会が非常に多い。パリのように壮大なものはないが、あちこちの街角にあって住民の生活の中に溶け込んでいたことを示している。ドイツ、フランス、イギリスなど、世俗主義がすっかり定着し、カテドラルが礼拝の場ではなく、観光名所になってしまったのに対し、こちらはまだまだ信仰が生活の中に根付いているようだ。礼拝堂に入ると、祈りをささげている信者を数多くみかけた。

3都市どこにもまだコンビニはほとんどない。小さなパパママショップが大部分だ。また、狭いカフェには近所の人たちが入ってエスプレッソを飲みながら延々と話に花を咲かせている。北のロンドンやパリと比べると、こちらは確かに”いなか”なのかもしれない。しかしまだ効率主義や不眠症や拒食症に侵されていない素朴な部分がまだまだ残っているような気がした。

コインブラは小さい町で、ちょっと郊外に出るとオリーブ林が一面に広がる丘が続くが、そこを通り抜けるローカル・バスには、大勢の子供たちが乗っている。ちょうど下校時だったのだろう。ポルトガルは確かに人口が少ないし、高齢化社会への変化も深刻さを増しているはずなのだが、この子供の多さはどうだ。

もちろん、アフリカの開発途上国とは比べるべくもないが、町や村に高齢者のみならず若者が結構多いのは新鮮な驚きだった。ちょっと気になったので、ポルトガルにおける、都市に届かない小さな村やコミュニティーの最近の人口推移を調べてみると、変化なしまたは微増が大部分だったのだ。過疎化があちこちで深刻化しているわけではない。また、人々は主要3都市に集中していない。国中にまんべんなく広がっている感じだ。日本の田舎で無人の校舎の前に”閉校記念碑”がたっている光景をふと思い出してしまった。

経済成長、物質繁栄だけが人間の追い求めるすべてではない。そんなものはとっくに卒業して、あるいはモザンビークやブラジルなどの後輩にお任せして、”マイペース”でポルトガルは未来に向かって進んでいくのだろうか。それまた北欧などとは違う、新しい形の成熟した西欧文明の一つになろうとしているのかもしれない。

 地理:黄色と紫の線は、リスボン市内の今回移動した徒歩、市電、メトロの軌跡(GPS記録による)。上が北。

リスボン市は半島の先にあるように見えるが、実はテージョ川の大きくふくらんだ河口にある町で、その河口は一見湾のように見えるし、対岸はかなり離れている。

リスボンの後、第2の都市ポルト、第3の都市コインブラを訪れた。人口は国全体で1000万程度なので、いずれもこじんまりとした街並みである。

ギリシャ、イタリア、スペインと並んで南欧なので、北の国々と比べても、東京と比べても、かなり暖かい。街路樹の一部に棕櫚(シュロ)の木が利用されているくらいだ。

なぜポルトガルなのか:  ヨーロッパと一口に言っても、さまざまだ。北欧のように整然とした街並みと社会制度を目指すところがあれば、東欧のように農業を基盤にしながらこれから工業を起こそうとしている国々もある。ロンドンとパリが、政治や社会制度の様々な実験場になった歴史をみても、それ以外の国々は、”影響を及ぼした”というよりは”影響を受けた”要素のほうが近い。

南欧もそうだ。ポルトガルがほかのヨーロッパ諸国に先駆けて植民地活動を始めたのは周知の事実であるが、自国内の社会基盤をしっかりさせないまま海外へ出て行ったので、スペインと同じく衰退の運命を免れることはできなかった。そして南欧にはほかのヨーロッパ地域とは違った社会的雰囲気、例えば社会的成功とか、社会的地位を目指す態度などにおいて、かなり異なる特徴が目につく。

歴史的にみると、ポルトガルは隣国のスペインと同じく「レコンキスタ」、つまりいったん南からのイスラム教徒に占領されたが、キリスト教復権の名のもとに再び領土を取り返したという経緯がある。

したがって南に行くほどイスラム文化の香りが強くなり、斜面にへばりつく白壁の家々は、北アフリカの雰囲気を思い出させる。そして人種的にも植民地からやってきた黒いアフリカの住民だけでなく、モロッコやチュニジア出身と明らかに思われる人々がポルトガルの国民を構成している。

さらに忘れてはならないのは、ポルトガルの旧植民地の中で最大かつ経済的社会的発展の著しいブラジルとの関係だろう。ポルトガルの言語と文化を知っていれば、ブラジルに行ったときにそのつながりをきっと強く感じることだろう。何しろ地図を開いてみると、ブラジルのとんがった東端にあるナタールとアフリカ大陸の西端にあるセネガルの首都ダカールが非常に近い距離にあるのだ。

なお、この町 Liaboa (英語では Lisbon)にいざなう最初の役目を果たしたのは、ジャズ歌手 Melody Gardot外部リンク のアルバム Absence に含まれている Lisboa の曲である。これを聞いたら、誰でも教会の鐘の音とあの市電の走る、石畳の狭い坂道をすぐに思い浮かべてしまうだろう。

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観察日記(1)

ポルトガルの自動車交通: わずか10日間しかポルトガルにいなかったのに、交通事故の現場を2回も見た。いずれも高速道路上であり、救急車が到着したばかりで、救急隊員がつぶれた自動車の中から負傷者(遺体?)を引っ張り出しているところだった。

街を歩くと横っ腹を擦ってへこんでいるいる乗用車が目につく。歩行者は赤信号であっても車がいなければ、ためらわずに横断歩道を渡る。なかには地元の人間のまねをして横断しようとした旅行者が危うく車とぶつかりそうになるところも目撃した。(旅行者は地元の人を”盾(タテ)”にして横断歩道を渡るのが鉄則!!)

ある女の運転する自動車は、曲がったまま後退で駐車場に突っ込み、隣の車と接触しそうになり、その車の運転者から、大声で注意を受けているところも目撃した。

一言でいえば、この国の国民は運転が下手なのである。そしてせっかくの石畳の情緒を台無しにする、あらゆる街角にはびこる路上駐車。かつてのパリもそうであったが、当地では警官も取締りをするのをあきらめているようだ。リスボン市街地からすべての駐車を追い出し、郊外に一大地下駐車場を作るのはいつの日であろうか?

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リスボンへーポルトガルの玄関口 

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深夜の成田空港から、アラビア半島のアラブ首長国連邦ドバイ空港経由でリスボンに正午過ぎ到着した。リスボン市街域の人口は50万人程度なので、こじんまりした感じを与える。

地下鉄はヴェルメーリョ(赤線)とかヴェルデ(緑線)などと色別になっているのでわかりやすい。空港は緑線の終点なので、楽に中心街へ向かうことができる。

さっそく「リスボン・カード」を買う。これは市内交通が、24時間、48時間の間乗り放題だし、博物館などの観光施設が割引や、無料の場合もあるので、大助かりだ。カードは、世界の大都市どうそうなっているようにタッチ式で、改札口やバスの乗り口を通過できる。

正午すぎなので、地下鉄のホームや車内には人々がまばらだ。パリやニューヨークのような殺人的雑踏がないのでのんびり歩くことができる。

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ホテルの場所はバイシャ地区といって、旧市街でも特に観光客が多く見かけるところだ。海岸(というよりはテージョ川岸)に面しており、岸に並行して2本の市電が走るが、縦に歩行者専用の道があり、岸近くのコメルシオ広場につながっている。

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その歩行者専用の道路(アウグスタ通り)から岸の方面をみたところ。泊まったホテルは右の建物の3階にあり、(部屋は別にしても)地の利は最高に良い。到着日に合わせて予約をしたが、気に入って、さらに2日、そして最終日の前日にも宿泊をした。

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このアウグスタ通りを山の方向にみたところ。このようにきれいなモザイクが敷き詰められており、夜中まで人々の流れが絶えない。撮影はホテルの窓から。

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コメルシオ広場の入り口。南欧独特の真っ青な空がいい。

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コメルシオ広場に立つ。川に向かって左(東側)は観光客向けの施設が並び、右((西側))はそれに加えて官庁舎も入っているが、外装は重厚な昔風の建物である。

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コメルシオ広場の東側。左側の観光客向けのレストランやお土産屋の入っている建物。サンクト・ペテルブルグのエルミタージュ美術館を思わせる建築デザインである。回廊もついている。

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テージョ川岸に出た。2本の柱が見えるが、元あった建物の残骸らしい。それでも市民の憩いの場だ。カモメがやたら多くハトが干潮時には砂浜に群がって、ゴカイなどの良質タンパク質をさがしている。

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いよいよ名物の市電28番線にお目にかかる。これほど町の情緒をかきたてるものはないし、小さな町では都市交通の最高の手段だ。この街では黄色が主流である。この町は丘の中に立っており、坂だらけなので、市電やケーブルカーが大活躍なのだ。
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市電28番に乗って西へ向かった(バイロ・アルト地区)。狭い電車通りを上り坂と下り坂、急カーブを繰り返しながらエストレーラ聖堂までやってきた。(市電の終点は墓地だそうだ。うまくできている。)

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この聖堂から徒歩で国会議事堂の前を通り、北へ上がっていくとポンバル侯爵広場が見えてきた。彼はリスボン大地震の再建をはじめとした仕事をこなした18世紀の政治家である。

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さらにその広場の北側には、エドゥアルド7世公園があるが、丘に作られており上り坂になっているため、上から川や市街地が見渡せる。彼は英国のエドワード7世のことで、1903年にリスボンを訪れたが、それを記念して公園を作ってもらったというのは大したものだ。
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リスボンは大西洋に面した港町でもあり、漁業も盛んだ。タコの料理を注文した。オリーブ油にニンニクを入れた中にタコが浮かんでいた。醤油や酢を使う日本風とは違っても、その味をなかなかうまく引き出している。バイシャ地区のレストランで。

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観察日記(2)
若者社会: ヨーロッパは全般に日本と同じように、少子高齢化社会に突入している。だが、ポルトガルはちがう。まずフランスや英国のように旧植民地を持っていたために、そこから流入する人々が後を絶たない。

そして農村の過疎化はさほどではない。田舎に行っても人影が見える。(日本ではサイクリングで地方の都市を回っても、犬一匹にも出会わないことも珍しくない!)そして驚くべきことに都会では若者の数が大変目立つことである。

これは失業率が大変高いために、時間を持て余した若者たちが街をぶらついているという、うがった見方もあるが、とにかく日本の比ではない。若夫婦は、乳母車を引っ張りまわして大変目立つ。

田舎のバスに乗ったが、午後4時ごろにはバス停に学校を終えた小学生たちが大勢待っていた。こんな小さな村のどこから通っているのだろうかと不思議に思うほどだ。彼らはいくつかのバス停で次々と降りてゆき、その村を通り過ぎるころには全員降りていたところを見ると、村は別に高齢化しているわけでもない。

ポルトガルは、社会保障の点で、北欧などに比べて別に手厚いわけでなく、むしろ景気はいつも低迷状態なので、生活の苦しさは、出生率には関係していないようだ。

ポルトガル語とスペイン語:ポルトガル人とスペイン人。この二つの国民は、長い闘争の歴史と協調の時期を絶えず繰り返してきた。そもそもポルトガル語とスペイン語とは似ていると思われているが、実はさほどではない。

確かに語彙は共通のものが大多数なのだが、よく使うものはかなり違う。オレンジジュースは前者では「スーモ・ジ・ラランジャ」なのに対し、後者では「スーモ・デ・ナランハ」であり、リスボンのコンビニでスペイン式に言ったら、「なんや、こいつスペイン式で言いおって!」と思ったらしく、わざわざ言い直されてしまった。

また、動詞の活用が大きく分かれてしまっている。前者は(おおもとのラテン語より)ずっと単純化して、簡単になっているのに対し、後者の複雑さは学習者を常に悩ませる。そしてまた発音が前者はメロディが流れるように、後者はさほど音楽的ではない。

このためイベリア半島の面積からは想像もできないほどの違いが生じている。国境地帯に越えがたい峠や切り立った高山があるわけでもない。イベリア半島のフランスとの間にあるピレネー山脈を除くと、全体的になだらかだ。

音楽にしても、前者では憂愁をおびた一種の’演歌’といえる「ファド」が主流なのに対し、後者では世界的に有名になった情熱的な「フラメンコ」が何と言っても思い出される。音楽的な感性はまるで異なるようだ。

日本国内でも北から南へ移動すると、聞き取りが困難なほどの相違があるから、当地でも少し練習を積めば、相互理解は困難ではないと思われるが、ポルト市の博物館でガイドはまず英語で、その次にスペイン語で説明をした。ポルト市のドゥーロ川のクルーズ船でのアナウンスは<ポルトガル語→英語→スペイン語>の順序で常に行われた。観光の世界では、お互いに外国語の扱いなのである。

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シントラ周辺:リスボンの西、宮殿と砦と岬

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翌日ははやリスボンに別れを告げて、早朝の中距離列車に乗り込む。西にあるシントラ市に向かう線で、30キロ余り。「地球の歩き方・ポルトガル」にある周遊コースの始まりである。

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シントラ駅に着いた。ここは街の中心から離れていて、バスに乗らなければならない。幸い、観光地として売り出しているせいか、周遊バスが完備していて、短い間隔で発着している。しかもこのバス会社の発売する乗り放題切符を買ったので、余裕しゃくしゃくだ。

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バスで最初に下車したのは「ペーナ宮殿」。丘の頂にある。このエンジ色と黄色の宮殿はデザイン的にはいま一つだが、ディズニーランドの楽しさがある。バスの停留所から急坂をあがっていかなければならない。”登山バス”もある。ただし別料金で。

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この宮殿の壁のタイルを間近にみると、この通りイスラム風のデザインが見える。ここでも昔のイスラム教徒のイベリア半島制圧の影響を見ることができる。

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実はこの宮殿は、観光客や若者の間に大人気なのだ。私は朝早くに来たので助かったが、帰るころには観光バスが次々と到着し切符売り場に長い列ができているのには驚いた。その人気の理由はこの楽しい色合いにあるのかも。

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次に降り立ったのは「王宮」の前。一階に見える桃のような入口は明らかにイスラムのモスクのようだ。これまた、様式の定まらないデザインではあるが、特に右端に先端が見える煙突らしきもの。これは仏舎利塔ではない。

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そして中に入ってみると、何とフランス式の庭園があった!

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中に入って白い塔の正体が判明した。宮廷の台所の煙の出口だったのだ!

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次なる停留所は「ムーアの城跡」。ムーア人とは北西アフリカ(モロッコ、モーリタニアなど)に住むイスラム教徒のことだ。7,8世紀ごろにイベリア半島に侵攻したのであろう。そのあとのレコンキスタによって、再びアフリカ大陸に押し戻されたのだ。険しい岩山を上っていく。この通り、山腹に巨岩が埋もれているが、城もこの岩を砕いて建築材料にしたものと思われる。

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かなりの高さに達し、シントラ市全景はもちろん、大西洋まで見える。だが登りは続く。石畳の道が完備している。

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入場料を取る場所が中腹にあった。こんなに苦労して上ったのに、さらに先に行かないのはもったいないという人間心理の応用だ。ここで切符を買わずに引き返す客はいない。さてこの万里の長城のようなところが城跡なのだ。すでに11,12世紀もたっている。いたるところに見張りのための穴があり、彼らの警戒網が非常に徹底していたことがわかる。

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さっき訪れたぺーナ宮殿がはるか向こうに見える。つまりそれぞれの丘の頂に建築物を作ったのだ。

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周遊バスのコースには、ほかにも名所があったが、時間が足りないのでこのくらいにし、再びシントラ駅前に戻る。ここからは「ロカ岬」経由の鉄道駅であるカスカイス行きのバスが出る。ついにやってきた!ユーラシア大陸最西端。周りの景色は大西洋の強風を常に受けているせいか、青森県の尻屋岬とそっくりだった。ただし馬はいない。岬の碑は上部に十字架が立っている。
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そして岬には付き物の、灯台。
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そして風雪に耐えている、サボテン状の草(左上)と可憐な花。
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ありがたいことに、バスの便はかなり多く、すぐにカスカイス行きがやってきた。駅前から再び鉄道でリスボン市に戻るのだが、途中寄り道して、カイス・ド・ソドレ駅に下車して、「リベイラ市場」という市民の台所をのぞき見する。だが、夕方で市場はもう店じまいし、観光客向けのフード・コート「TIME OUT」だけがにぎわっていた。
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前日のタコにつづき、魚類ミックスを注文する。イカのリング揚げ、ゆでたエビ、イワシのフライぐらいではあるが、いずれも新鮮で安価。

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観察日記(3)
カフェで: 忙しい人は、リスボンでなくともカフェに飛び込むだろう。ただしフランスのようにフランスパンにハムやレタスを挟むのではなく、日本でいう”菓子パン”に相当するようなものを多くが食べている。ちょっと栄養的には足りないとは思うのだが…ガイドブックにはさもおいしそうに書いてあるが、どうも甘ったるい。

せっかくテーブルがあるのに、パンの並んでいるガラスケースの上で食べる人も多い。テーブルに座るのは老人と観光客ぐらいなものではないか。ほとんどの人がビッカ(エスプレッソ)を注文する。これは濃すぎて私には合わない。私は常にカフェ・コン・レチェ(=カフェオレ)なのだが、それを飲んでいる人を見たことがなかった。

とにかく物価が安い。パリでは6~7ユーロはするであろうコーヒーとパンの組み合わせも、こちらでは2~3ユーロだ。中には2ユーロでおつりがくる場合もあった。ユーロ圏といっても値段は千差万別なのである。

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ベレン地区:リスボンのテージョ川沿い

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第3日目、リスボン市の西のはずれにあるベレン地区へ向かう。ここは、泊まっているバイシャ地区と同じく川岸に面しているが、観光客向けの名所が集中しているのである。その第1が、市電と並んでリスボンの象徴ともいえるベレンの塔だ。

鉄道のベレン駅は、前日も通ったのだが、今日乗った列車はここに停車せず、ずっと先まで運ばれてしまった。急行ではなく、”区間快速”だったのである。おかげでまた戻るという手間をかけてしまった。ベレンの塔は1520年に作られた一種の監視所だ。

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ベレンの塔に入る、朝一番乗りの観光客となる。テージョ川をにらむ砲台が並んでいる。
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バルコニーに出た。そこに至る階段は大変狭く、信号がついていて片側相互通行になっている。建造当時、まさか観光客が行き来するだろうとは思わなかったろうから。
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市電で2区間ほど東に戻ったところに、これまた有名なジェロニモス修道院がある。これこそ、ヴァスコ・ダ・ガマに代表される大航海時代の記念碑みたいなものだ。航海安全祈願の金毘羅様に相当する。
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中の回廊は観光客でいっぱいだが、奇声が聞こえたので行ってみると、高校生が見学に来ており、その前で色とりどりの衣装を着た役者が演技をしてやんやの喝さいを受けている。演劇でこの寺院のことを伝えようという苦肉の策らしい。型通りのガイドの説明と違って、印象付ける工夫はいろいろな博物館、美術館で試みられている。
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回廊が囲む、中庭も広大だ。
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これは何か?現代美術の新奇な作品か?実はこれは鋼鉄でできた軍艦を貫通した砲弾の跡である。すさまじくねじまがった穴がなまなましい。ここはジェロニモス修道院のお隣にある、海洋博物館の庭に展示されていたものだ。
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海洋博物館全景。ポルトガルの海とのかかわりを知るためには、ぜひとも訪れたいと思っていた。展示されている小型船で、所在がすぐわかる。ロンドンのグリニッジにある海事博物館を思い出す。切符売り場に行くと、係員が65歳以上なら割引だよ、とわざわざ教えてくれる。なんと、私が65歳以上に見えたのか?ガックリ
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巨大な屋内展示場にあるローマ時代のガレー船。復刻ではあるが、実物大だ。
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海洋博物館をでて川岸に出ると、最近作られた「発見のモニュメント」がある。エンリケ航海王子を先頭に航海者たちが並んでいる。
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川岸と修道院、海事博物館の間は広大な空間(インベリオ広場)で、貸自転車の観光客も多く見かけた。こんなかわいいサイドカー付きもあり、中に子供が乗っていた。いや違った、サイドカーではありません。白い服を着た女性のうしろを走っている男性の自転車が引いている”リヤカー”なのです。
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地中海ではないが、その雰囲気はたっぷりに持ち合わせているテージョ川近辺。だからヨットハーバーもあり、数多くがつながれている。
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さすがに「国立馬車博物館」まで来るとくたびれてきた。だが、こんな珍しいものは見ないわけにはいかない。広大な空間に王侯貴族専用から、郵便馬車、フォードの自動車のモデルになったようなものまで陳列されているのは圧巻だ。
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これを除きみんな”馬なし”である。ただしこれは模型であって本物の馬ではない。
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疲れた足を引きずって、もう一つ、文化センターの内部にあるベラルド美術館に入る。ここは(傑作ではないにしても)ピカソをはじめとするそうそうたる現代美術の作品が並べられているのだ。

ところが館内のスリは、この男が疲れて頭がボーッとしていることをすぐに見抜いたらしい。気づくと3つのチャックのうち2つが開けられ、財布から札を抜き取られていた。パスポートやクレジットカードは腹の中に、そして肝心の現金は三日目で大部分使い果たしていたので、損害は少なかったが、一時パスポートまでなくなったと思い込み、真っ青になった。

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