(2016年6月)

目次

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ギリシャへ

ピレウスからアテネ市内へ→アクロポリス周辺クレタ島へ

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サントリーニ島(1)

サントリーニ島(2)

テッサロニキ

記 録

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観察日記(1)

トイレに紙を捨ててはいけない!: まだ世界には、下水道が完備していない都市も多い。ギリシャの都市もそうだ。トイレで水を流すことはできるが、トイレットペーパーを入れてはいけないのだ。新聞紙なんか論外だ。

というのも下水管が細く、多くの残渣がたまっているため管が動脈硬化、いや静脈硬化をおこしているためだ。そのため、便器の横には足でペダルを踏むと蓋が開くバスケットが用意されている。

紙を流せるようにするためには、市内全域の下水管の交換が必要だろう。しかし経済危機にある今、その費用の負担は想像を超えることだろう。

道路にはいたるところ工事中のサインがあり、舗装のやり直し、あるいは偶然見つかった遺跡の発掘などが行われている。そのためすぐに工事が済んで再び車が通れるようになるためには、長い時間が予想される。

車の慢性的渋滞も解決が遠い。なぜなら公共駐車場というものがまるで整備されていないからだ。田舎ならともかく、ギリシャの都市は中世以来の狭い石造りの道路のままだ。地下駐車場を作りたいが、きっと遺跡にぶつかるだろう。それでも容赦なく住民は自分の車を所有しようとする。思い切った政策が実行されない限り、都市から不要な車をなくすことができない。

日本でも次第に数を増す「テナント募集」の看板。その前にその建物の徹底した改装が必要なのだが、その金が不足しているために、そのまま貸し出されている。いったん不動産のブームが始まれば、経済が回転し始めるだろうが、そこまで持ちこたえられるか…

物乞いをしている人が街角に座っている。物乞いの代わりにティッシューを売っている子供もいる。パリでも物乞いが多いが、ギリシャでは事態がはるかに深刻だろう。物乞いの中には老人のみならず、若者も交じっているのだ。

ドイツから社金の返済を猶予されたものの、すでに無理が来ている社会のインフラは容易に再生されない。国の借金の返済のためには緊縮経済が必要だというが、底辺層の所得を支えることを欠かすわけにはいかない。

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サントリーニ島 (1) 

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次なる目的地はサントリーニ島。イラクリオンの港からは双胴船が出ている。まずはバスターミナルの旅行代理店に入って、船の切符とホテルの2泊分を頼んだ。どんなホテルかは運任せで、場所も中心の町、フィラの町はずれだということしかわからない。二日の滞在のあと、サントリーニ島を出て再びアテネに戻る予定にした。

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午前8時に出発。行ってみると、先の旅行会社の主催する日帰りツアーの一員になっていて、帰りの船賃だけは差し引かれている。天気は絶好調で、鏡のように滑らかな海面を、時速60キロの定速で2時間余りでサントリーニ島の New Port に到着。(帰りのサントリーニ島からアテネへの海路は大荒れで、船酔い者続出)

そこにはバスが待ち受けていて、それぞれ言語別のバスに乗せられる。わたしは English-German グループ。このバスのガイドは、かつてはドイツで暮らしていたということで、ドイツ語を話すのが楽しそうだった。だからドイツ語での説明は英語での説明の2倍ぐらいの時間をかけている。

まだ夏休みでもないのに、バスは満杯。そういえば、ホテルの人から7,8月はクレタ島に来るなと言われた。泊まるところがまるでない。

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サントリーニ島は火山の大爆発の後でできたカルデラのふちが一部弓型に残った、小さな島であるが、そのためもあって周りがほとんど100メートル以上の絶壁で囲まれている。町や村は、その上にある台地みたいなところに固まっている。

噴火後、屋根は青く、壁は白くするという建築規制があるため、遠くから見ると、岩の上に雪が積もって見えるほどだが、これが観光の面で大成功し、ヨーロッパじゅうから人々がやってくるようになった。

バスツアーは、北の端にあるイアの町に到着。バスの駐車場から歩いて絶壁の展望台広場に着くと誰でもその美しさに歓声を上げてしまう。これを撮影するには普通の画面ではだめで、パノラマフィルムがいる。新婚さんが多い。どうも場違いのような気がする。

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展望広場を北にたどると、細い道ぞいにレストランやら、みやげ物屋が鈴なりに続く。すれ違うのに肩が触れるほどの狭いのがいい。
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 同じ方向で海のほうにレンズを向けると、カルデラのもう一方の残った島が見える。
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海側の真下を見下ろすと、絶壁になっており、間に何層かの家が岩にへばりついている。洞窟スタイルの家も見受けられる。それにしても、この海の”群青色”はどうだ!

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 ところどころに聖堂があるが、この通り丸屋根はブルーになっている。
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 カラフルな腕輪。
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色にこだわった陶器も売られている。
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青い海と青い空にふさわしく、ポスターや絵も明るい配色。

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アイスクリームとは一味違い、糖分、脂肪分もおさえてあるフローズン・ヨーグルトが人気。しかもセルフ・サービス。自分で好きなサイズのカップを選び、自分の好きなフレーバーを選んでレバーを押し、長押しすれば大量に、瞬時に押せば少量出てくるのを自由に決められる。

さらにトッピングがあり、イチゴ、マンゴー、などをのせる。最後ははかりの上に乗せて、”重量”で自動的に値段が決まる。おいしいがすぐに消化してしまい、おなかがすくのが欠点。

ここはサントリーニ島の中心の町、フィラ。ここはイアと同じく岸壁の細い道があるほか、普通の商店街もあり、ビジネス街も広がっている。双胴船が到着した港(New Port)から断崖につづら折りの道を上って上に上がったところがフィラの町だ。

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フィラの町は島の中央部にあり、そこからは、火山で有名なカメニ島の全体がカルデラの中に見える。
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日帰りツアーの最後は島の南東部にある、ブラック・ビーチとあだ名される、火山灰による黒い大粒の砂の海水浴場。7月になれば、海水浴客でいっぱいになるが、6月でも冷たさをこらえて泳ぐ人々がいないわけではない。ヨーロッパ人のなかには、待ちきれずに泳いでしまう人が少なからずいる。

これでバス・ツアーはおしまい。参加者たちは再び双胴船の発着するNew Port に連れていかれ、夕方の便でクレタ島に戻る。私だけは島内に宿泊することになる。

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フィラの町はずれにあった、ホテル Margarita。街はずれといっても剣客には大した距離でないし、翌日のツアーの集合所に近いので問題なかった。周りはもっと豪華なホテルが林立している。
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ホテルの部屋にはベランダが付属しており、海が見える。
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ベランダにはイスとテーブルがあり、テーブルの上のランプは夜が更けると点灯する。

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観察日記(2)
自転車 なぜ、この若者はメトロのホームにいるのか?そう、ここはギリシャ。ヨーロッパの大部分では、日本と違い列車に自転車を乗せることが許可されているのだ。

とはいっても満員のときはまずいし、すいているときでも客車の一番恥の広くあいたところに置く。滞在中に見かけた回数から見てかなり利用する人が多いと見た。でもメトロの営業区間の距離はたかが知れている。頑張って走ってみたら?

街を走る自転車の数はそう多くないし、自転車道が整備されているわけではない。路上駐車が多く道の狭いアテネでは自転車は最適だ。世界的に広まってきている、市による貸自転車のシステムが望まれる。

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サントリーニ島(2)

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ホテル Margaritaから断崖のほうに歩くと、すぐにフィラの Old Port へ向かう小道に出る。夕日の美しさを求めて、観光客が集まってくる。

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北のほうには、昼間訪れたイアの町が見えている。白い壁のせいで雪が積もっているように見える。

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中国人がたくさん集まっているタベルナ(Salt & Pepper)があったが、中国の観光団体の推薦ナンバーワンという張り紙があったので納得。夫婦二人でやっている小さな店だが、何しろ大人気なので、ウェイトレスをしている奥さんは大忙し。2466番は、そこで注文した、ズッキーニを焼いたもの

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さらに、トマト味のすり身だ。白いのはタジキのはず。どちらも典型的なエーゲ海料理。

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手前の大きな島がネア・カメニで火山で有名、左奥の小さな島がパレア・カメニで温泉で有名。明日はこの両島に船でツアーに出かける。

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New Port では双胴船、フェリーのように大型の船が発着するが、Old Port のほうは港が狭く小さなツアー用の船や漁船などが出入りしている。絶壁を行き来する方法は、ケーブルカーに乗るか、階段を上り下りするかのどちらかだ。階段は自分の足でもいいし、5ユーロ払ってロバの背中に乗ってもいい。

私は帰り(つまり上り)のときにロバに乗った。馬と違って背が低くて誰でも乗れるし、勝手に階段を登っていく。地元のシンボルの一つになっている。

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Old Port におりたところ。絶壁を背景にして、狭い岸壁にツアー客がひしめく。飲み物などの値段はフィラの町中の3倍ぐらいする。

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20分ほどで対岸のネア・カメニ島に到着。ツアー戦を降りて、客たちは徒歩で溶岩がごろごろする道に向かう。一応添乗員つきだが、彼女は体重が増えすぎて、その急坂が辛そうだった。

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途中で担架に乗せられた、ふとった男性を担ぐ人々に会う。熱中症らしい。確かにこのところ晴天続きだし、気温は30度を越えているだろう。しかもゴロゴロした溶岩のせいで、足をとられそうだ。

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ついに旧噴火口に到着。もう口はふさがっているが、岩の割れ目に触ってみると、やけどするほど熱い部分があった。まだまだ活火山なのだ。

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船に戻り、パレア・カメニ島に向かう。船は海岸から100メートルぐらいのところで停泊し、水着を着た勇敢な人々が、次々と船のデッキから飛び込んで島の岸に向かう。そこは海水の色が変色しているが、温泉が湧き出ているのだ。

ヨーロッパでは一生に一度も地震を経験したことのない人もいる。温泉を初めてみる人も多いだろう。パスポートさえ携帯していなかったら私も飛び込んだのに…

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すっかり日焼けして港に戻り、フィラの町を散歩する。ふと目に留まったのがこれ。足を水槽に突っ込んでいる。そして周りに群がっているのはメダカぐらいの大きさの魚たち。

これは Fish Spa という、ギリシャでははやりの商売で、Doctor Fish と呼ばれるこの魚たちは、メダカぐらいの大きさだが、人間の皮膚の角質をかじり食べてくれるのだ。15分で10ユーロだが、おかげで、ささくれ立っていた足はかなり滑らかになった。

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この Fish Spa の店内は観光客より地元の人が多そうだ。ちょうど”足湯”をしているような格好で人々は人々は15分間足の掃除をしていく。

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ホテルへの行き帰りのとき、「ヤス(こんにちは)」と声をかける、タベルナの主人がおり、夕方になって、つい足を運んだ。手前の透明な瓶がギリシャ焼酎「ウゾ」、その奥が普通のテーブル赤ワイン。左の角形の器に入っているのはツマミで、オリーブの実などである。

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まず運ばれてきたのが、「マンマ・ミーヤ(私のかあさん)」という野菜スープ。トマト味。
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今晩の特別料理は、この「子羊の骨付き肉」。まさにこれこそギリシャ家庭料理の神髄だ。このタベルナはホテルの近くだから、ついつい飲みすぎても大丈夫。

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観察日記(3)
集団スリに取り巻かれる: ピレウス駅から都心に向かうメトロに乗った。2つか3つ目の駅に着いた時、イブ・モンタンをやせさせたような、妙に目つきの鋭い男がのってきて、私の前に立った。

どうもいやな気がしたが、次第にほかの客は降りてゆき、その男と、右側にあんちゃん風の男、そしてその右にはぶよぶよ太った男が目に入った。

いよいよ次の駅で降りるというところで、体をドアのほうにむけると、あんちゃん風の男が、自分の足を出して私の足がぶつかった。あんちゃんは咎めるように私を見たが、明らかに向こうがわざと足を出したようだった。そしてそのことに気を取られている間、このあんちゃんは私のポケットのボタンを外していた。

すぐに気づいた私はポケットを手で押さえ、ドアに向かおうとしたが、デブの男が立ちふさがって動かない。「Excuse me!」と叫んでも、まるで知らんぷりでドアのほうに行かせてくれない。

そうこうしているうちに時間が過ぎてドアが閉まりはじめた。危機を感じた私は、もっと大声で「Excuse me」とわめいたものだから、その車両の遠く離れたところにいる客たちが気付き始めた。

これはまずいと思ったらしい。デブの男よりドア側にいた男がドアを力づくでこじ開けでドアを再び開いた。このため仕方なく、デブの男は私を通してくれたので、息つく暇もなく、ホームに飛び出したのだ。

すぐにドアは閉まり、列車は動き出した。イブ・モンタンがボスで3人組、もしドアをこじ開けた奴も一味だとすれば、4人組の集団スリだった。

スリは強盗ではない。強盗行為をすれば、重い刑が待っているし、そこまでして金をとろうとは思わないだろう。ホームで私は所持品をチェックした。何も取られていない。彼らの作戦は失敗に終わったのだ!

 味にかける情熱:タベルナに入って感心したのは、時間が早く客がまだ少なくて、店も小さいとき、店の人がテーブルに食事を運んでくるとたびに、何度もおいしいかどうか聞いて、外国人なら食べ方がわからないだろうからと、食べ方まで解説してくれることだ。

これもギリシャ人の旺盛なサービス精神というべきものだろう。オリーブを主体にしているところは他の南欧諸国と同じだが、ギリシャらしい味つけを工夫し、食への情熱が感じられる店に入ることができた。

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テッサロニキ:アテネの北300キロ

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大荒れのエーゲ海をわたってアテネにたどり着いた翌日は、今度は陸路北へ300キロほど行った、ギリシャ第2の都市、外部リンクテッサロニキへ向かうことにした。

ところが、国鉄がストライキを敢行し、バスを利用することになった。6時間はたっぷりかかるので、早朝ホテルを出た。しかもバスターミナルはメトロの駅から何キロも離れているのだ。なんと不便な!

メトロ駅オモニアから、バスターミナルへのバス乗り場をまず見つけ、ローカルバスで20分ほど揺られ、バスターミナルで長距離バスのステップを踏んだ時はすでに10時になっていた。

したがって午後4時の到着予定である。列車が止まっていても、だからといってバスに人々が殺到するというわけではない。スト慣れしているのか、あきらめているのか・・・

バスのルートは高速道だけでなく一般道も通り、エーゲ海に沿った海岸近くを走行する。2483番にあるように、アテネ付近やクレタ島は、樹木がまばらである。土の色が見えないほど密生している場合が少ない。

これはかつての文明が、樹木をやたら伐採して、(その結果衰退して)植林や自然の復元がなされないまま現在に至ったものだ。 本来この地域は大木がうっそうと茂っていたらしい。巨大な艦船の建造や大量の陶磁器の生産に使うマキの消費より、豊かな資源もあらかた使い尽くされてしまった。

日本だって出雲大社に使われている大木を見れば、縄文時代には日本にはとんでもない大木が生えていたことがわかる。幸い日本は高温多湿なのでハゲ山にならなかったが。

2484

アテネを出て1時間ほどすると、海が見えてくる。向こうの山々はエビア島と言って、長細いので、しばらくこのように狭い水道を挟んだ状態で道が続く。

アテネから遠ざかるにつれ緑が濃くなってきた。文明の傷跡が次第に少なくなっていくせいだろうし、次第に降水量の少ない地中海性気候から離れて行っていることもあろう。この後ルートはカルキディキ半島を目指して北東へ湾曲していく。

2485
ほぼ予定通りテッサロニキのバスターミナルに到着。ここは別に観光都市ではない。ただし、アレキサンダー大王の生まれた場所であり、東洋と西洋の貿易路の宿場町だったので、発掘調査次第では今後注目をあびることになるだろう。

何しろ東へ300キロ行くだけでイスタンブールについてしまう。(今は両国の関係が悪くて行き来が少ないようだが)2485番は、テッサロニキ鉄道駅から東を見ている。

右側の道は、海と平行に東西に走っているモナスティリウ通りで道なりに行けばかつての東西貿易の幹線ルートであるエグナティア通りに入る。街は普段着の雰囲気だ。観光客たちはあまりいなくて、地元の人々でにぎわっている。

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エグナティア通りにあるホテルにチェックイン後、南へ向かって海岸に出た。テッサロニキ港にある海浜公園だ。ここはウォークボードが敷き詰められ、かつての港の倉庫を利用して画廊や居酒屋が並んでいる。

バスの休憩時にドライブインで買ってから、すっかり病みつきになった”飲むヨーグルト”を持って。これはまったく甘くなく、少し酸っぱいぐらいの味つけだ。

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ここはテルマイコス湾といって、緩やかなカーブを描いて東の方向にのびている。今から岸壁沿いに東へ向かう。

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このテルマイコス湾の東の端にある円筒形の建物が「ホワイトタワー」だ。やはりベネチア風であり、公園内にあり、観光客のたまり場だ。これをみるとリスボンにあった「ベレンの塔」を思い出す。

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6月はギリシャではブックフェアの季節なのだ。テント張りの本屋が海岸沿いにずらっと並んでいる。これはピレウス港でも見かけた。客が多い。ということは、活字文化が衰えていないのかな?たいていが新刊本だ。

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いました!地元の英雄が。アレキサンダー大王はテッサロニキからわずか30キロのところで生まれ、歴史的な事業を成し遂げたが、時代が古すぎるのと、研究がまだ中途段階にあるため今一つ人々の関心は強くないようだ。

またこの男は、野心が強すぎ、あまりに遠くまで遠征するので、部下たちはみんな故郷に戻りたくなって不満を漏らしたらしい。だから大王の死後たちまち大帝国は分裂してしまったのだ。

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有力な観光資源に乏しいテッサロニキでは、この見本市会場の展望タワーも観光バスの訪れる場所の一つになっている。ただデザインがだいぶ前のもののようだが。

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2492番で左下の女性がこっちを向いて微笑んでいるようだが、なんでだろうか?自分も写してもらえると思ったのだろうか?ポイントはうしろに見える円筒形の建造物で、ロトンダ(聖イオルギオス教会:世界遺産)らしいが、近くまで行かなかったので定かではない。

2493

これぞまがうことなく「ガレリウスの凱旋門」だ。この地点でエグナティア通りは狭くなってしまっているが、この門は西暦303年以来この町に君臨している。もっとも、ペルシャとの戦いに勝ったのは、ローマの皇帝だった。

2494

テッサロニキだと、必ずしも観光客を意識していない店が多いだろう。路地に入ったところにあった居酒屋に入ってみる。そこでは昔からの旧友同士がウゾを酌み交わしながら話し込んでいる。明らかに地元の若者だ。

うしろには男女二組のグループ。服装からしてどう見ても観光客ではない。2494番はそこで注文したサバのオリーブ煮。

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これに加えて、スパゲティを注文。イタリア風とは異なり、あっさりしているし、真ん中に香草がのっている。

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これらでは量的に物足りなかったので、さらにリゾットを追加注文。これもまたイタリアとは違った味つけだった。飲み物としては先の若者たちの飲んでいたウゾ200mlを注文したが、すでにグラスワインを2杯も飲んでおり、酔いが急激に回ってきたため、100mlだけ飲んでやめにした。

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1泊したが、テッサロニキとアテネの間の鉄道ストは終了していなかった。バスターミナルに向かう途中、エグナティア通りの北の部分を回ってみることにした。発掘中のトルコの浴場跡の隣に、古い寺院がある。改修中で一部しか見えないが、パナギア・ハルケオン教会だ。(たぶん)

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さらに北へ進むとアテネに会ったようなローマ時代のアゴラがあり、その東側に2498番のアギオス・デミトリオス教会がある。

2499
 

アギオス・デミトリオス教会から通りを隔てた向かい側にイコン(聖像)を売る店があった。教会に来る人々がこれらを求めるのであろう。地元の人々の宗教的生活がうかがい知れる。

2500
 

テッサロニキ最後の見学は「使徒教会」。どうやら使徒パウロが布教に使った教会らしいのだが、ギリシャ語での看板しか見あたらないので、何とも言えない。

この後、無事にアテネに戻ったが、夕方突然メトロのストが始まり、野外劇場で歌と踊りを見物に行こうと思ったのに、街の真ん中の乗換駅で立ち往生し、バスの乗り場も見つからなかったので、偶然止まっていたタクシーに乗ってピレウスのホテルに戻った。

その翌日には再びメトロのストが正午から午後5時まであり、国立考古学博物館でじっくり見ようという計画はつぶれてしまった。しかたなくピレウス港始発の空港行バスに乗り、帰りの飛行機の出発時刻より6時間も早く空港に到着する羽目となった。

記 録

旅行期間 2016年6月6日より6月17日まで

6月6日(月曜) 羽田空港より カタール航空 QR313便にて0030出発 機中泊 ハマド空港へ0545着。(乗り換え)QR209便にて0715発 アテネ空港1145着、アテネ市内アクロポリス地区他見学 Anita Hotel にて宿泊

6月7日(火曜) アテネ市内見学 Anita Hotel にて宿泊

6月8日(水曜) アテネ市内見学 ピレウス港よりフェリーに乗船 船中泊

6月9日(木曜) 朝、クレタ島着 イラクリオン市内とクノッソス宮殿見学、 Hotel Mirabello にて宿泊

6月10日(金曜) 長距離バスにてハニア市、レシムノ市見学、Hotel Mirabello にて宿泊

6月11日(土曜) 朝、イラクリオンより双胴船にてサントリーニ島着 ツアーバスにて、イア、フィラ、ブラックビーチ見学 Hotel Margarita にて宿泊

6月12日(日曜) 火山・温泉ツアー参加、Hotel Margarita にて宿泊

6月13日(月曜) 朝、サントリーニ島より双胴船に乗船 昼過ぎアテネ市着、ピレウス港見学、Anita Hotel にて宿泊

6月14日(火曜) 朝、長距離バスにてテッサロニキ市へ移動 、市内見学 Empcrikon Hotel にて宿泊

6月15日(水曜) 朝、長距離バスにてアテネ市へ移動  Anita Hotel にて宿泊

6月16日(木曜) アテネ空港より カタール航空QR212便 2020発 機中泊

6月17日(金曜) ハマド空港 0045着(乗り換え) QR812便 0705発 羽田空港 2245着

おわり

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午後8時ごろになると
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