(2018年11月)

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目次

PAGE 1

イランへ

まず一回りテヘラン南部

PAGE 2

第2の都市エスファハーン

第3の都市シーラーズ

再びテヘランへ

記 録 総まとめ

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イランへ 

 なぜイランなのか: 

中東といえば、たいていの人がアラブ民族とその影響下にある部族や国々を思い浮かべる。ところが、それがすべてではない。イスラム教の聖典、コーランがアラビア語で書かれ、信者はその文章をアラビア語ででしか読んではいけないため、アラビア語が急速に広まったわけだが、トルコやペルシャの地域では、かつてからの言語と文化が根付いており、人々の話しことばがアラビア語に変化することはなかった。

その他、イスラエル、レバノンなども含めて中東というわけだが、これらの国々はイスラム圏ではない。このように中東にはアラブ民族系統とは異なる言語、文化、民族が多数混在している。その中でペルシャは古代から帝国を作り、侵略し、侵略され、それでも一つのアイデンティティをもって現在に至っている。「アラブの文化」とは明らかに異なっている。

これはトルコの場合も同様である。オスマン帝国をはじめとして周辺地域に多大な影響力を及ぼしている。このようなわけで、アラブ、トルコ、そしてペルシャ地域を中東の3大文化発信地として、それぞれの観点から調査研究を行おうと考えた。

したがって、今回の旅行は、その3番目にあたる地域の調査である。ペルシャ語はイラン独特の言語であるが、隣のアフガニスタンのパシュトゥ語とも関係があり、さらに東に進んでウルドゥー語(そしてヒンディー語)にまで影響を及ぼしている。言語は文化の伝搬媒体だ。その言語に親しむことによって、それに付随する芸術、政治、社会の様々な側面を発見する機会を得られる。

最後に、2018年特有の政治情勢についても言及しなければなるまい。トランプ大統領がイランの核合意から脱退し、新たな制裁を加えることになってから、通貨は暴落し、貿易は縮小した。そして言うまでもなく観光客は激減した。まったく一人の日本人も見かけなかったし(サッカーの試合には応援団が出かけたそうだが)、中国人もごくわずかだった。

一方観光客の多さで目立ったのが、フランスとロシアである。彼らは多くの場合、ツアーで大型バスに乗って移動していたが、この二つの国はトランプ氏の脅しなどなんのその、むしろ明らかな侮蔑の気持ちを持っているのだから、その国民たちも今までと何ら変わらずイラン見物に出かけてきているのだ。

 photo3404地理:

黄色と紫の線は、テヘラン市内の今回移動した徒歩、BRT、タクシー、メトロの軌跡(GPS記録による)。上が北。 右下の台形の部分はバーザールを歩いた跡。直線は他の地域からメトロ又はタクシーを利用したため。

テヘラン市はカスピ海の少し南にあり、市街地から見ると、北のほうに高い山がそびえている。市街地はおしなべて平地。今回は旧市街地ともいえる、観光名所の集まっているところを歩いたが、この辺りは公園も多く、メトロやBRT での連絡がよい。一方で古い迷路のような道も混ざっており、英語で alley (路地)と標識に記載されている道が多数見受けられる。バーザールに至っては16世紀から続いてきただけあって、迷路そのものだ。

テヘランの後、第6の都市シーラーズ、第3の都市エスファハーンを訪れた。いずれもかなりの大都市で、便利なバス路線網はもちろんのこと、メトロがすでに運行を開始している。また、郊外には近代的なアパートが林立している。砂漠とは言わないまでも、岩だらけの荒れ地が主なので、道路づくりにゆとりがあり、たいていは一直線だ。

11月の初旬に行ったので、寒さはまだ始まっていない。早朝は冷えたが、太陽が出ると、すぐに暖かくなった。大陸性のため、一日の寒暖の差は大きい。この3都市のあいだは、背の低い灌木以外は何も生えていない岩山ばかりだが、エスファハーンにいた日だけは、シトシト雨が降った。また、エスファハーン中央を流れる大きな川はワジ(涸れ川)だった。

岩だらけの土地なので、農業など不可能かと思いきや、そうではなく、地下水をくみ上げて様々な作物を栽培している。岩山と岩山のあいだに、オアシスのように緑の四角形が点在している。それでも今年2018年は特に南部では、深刻な干ばつに襲われたそうだ。

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観察日記(1)

イランの自動車交通: 

イランの運転者は、お世辞にも上手とは言えない(タクシー運転手を除いて…)というよりは、きちんと交通規則の躾けがなされていないと言っていいのだろう。一時停止、左折(右側通行だから)、歩行者保護、などの点で、もしイランに運転教習所があるとすれば、何も教えていないに等しい。 オートバイは歩道を通ってよい。無茶苦茶だ。

人口1200万のテヘランの町には、信号機がほとんどない。あったとしても10本前後だろう。この驚くべき事態は、カイロにもイスタンブールにもない。かといって、ネパールのカトマンズのように、そもそも信号を設置する資金や技術がないというのでもない。立派なメトロを建設する余裕はあるのだから。 だからメトロ駅の中は、横断地下道を兼ねている。そこだけは安心できる。

最大の理由は、「完全自動車優先社会」だからであり、歩行者は車の流れの中を、病人、老人を問わず、すり抜けていくしかないということにある。外国人がイランの町を安全に歩くには、地元のすばっしこそうな若者を”盾”にして道路や交差点を横断することだ。 歩道の設置はまずまずである。

信号機のないもう一つの理由は、第二次世界大戦後、イギリスの進駐があったせいか、円形広場とそれを取り囲む Roundabout が多数設置されているためである。このためテヘランでは、交通渋滞は朝夕のラッシュ時を除いて、比較的円滑である。だが、歩行者にとっては依然として命がけである。

長距離バスに乗っていると、立派な造りではないが、大都市間の自動車専用道路は良く機能している。小さな村で降りる客があると、バスはいったん高速道路から降りて、村の中心部へ向かい、乗客を降ろし、再び高速道路に戻っていく。なお、荒れ地ばかりで土地に余裕があるため、多くの上り線と下り線は思いっきり離れて作られている。別の道路のようだ。だから日本のように事故を起こして対向車線に飛び込むなどという心配は少ない。

BRT というと、東日本大震災では津波で破壊された鉄道線路の代わりに活躍して、一躍脚光を浴びたが、路面電車のように線路を作る必要も、電線を張りめぐらす必要もなく、ただ決められた専用ルートを進むだけだから渋滞もなく、極めて効率的だ。ちゃんと停留所があり、乗客は車両に乗り込む前に、ICカードをかざして料金を払う。もちろんそれぞれの停留所には係員がいて見張っている。

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まず一回りーホテル周辺 

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深夜の成田空港から、アラビア半島のカタール国ドーハ空港経由でテヘランに正午前に到着した。「国内旅行傷害保険の購入(※)」「Arrival Visaの取得」「Passport チェック」「両替」と、こなさなければならない手続きが待っている。ドルをイランリアルに空港にて両替した。8月1日に暴落した後なので、1ドル=42.000リアル。

次には空港と接続しているメトロの駅に出向き、問答の末、ICカード(日本の交通系カードにあたる)を購入。ようやく都心に向かう列車に乗り込む。始めはガラ空きであったが、テヘラン郊外から次第に街並みが増えてきて、乗客も次々に乗ってくる。Women Only 、つまり女性専用車が必ずある。この国ではもともと男女別々が基本なのだ。

そして登場したのが無数の物売りたち。車両はピカピカで性能も非常にいいが、物売りたちは、みすぼらしいなりで回ってくる。手足のない人もいる。物乞い(寄付?)をする人も通る。バッグ、ベルト、歯ブラシ、その他日用品なら何でもそろってしまう。圧巻は、小学生の女の子だ。袋菓子をぶら下げてやってきた。私の隣に座っていた若い男はそれを買っていた。小学生でもたくましい。生計を得ている。

都心の駅「Emam Khomeini」で下車。地上に出ると、「エマーム・ホメイニー広場」があった。ここから大通りをまっすぐ北に600メートルほど向かう。都心だけあって銀行ばかりが多い。交差点の先に、イギリス大使館の長大な塀が見えてきた。ここを左折してしばらく行くと、お目当ての「Hotel Naderi」に到着。ここは老舗で、観光名所のど真ん中にあり、かつては最高級のホテルであった(上の写真はその廊下)が、長年の老朽化と維持不徹底のため、安宿になってしまった。

それでもフロントの人は親切で、とても雰囲気はいい。しかも部屋のシャワーの排水口が詰まることもなく、清潔だった。ただし夜中に蚤(ノミ)に腕を食われたようだ。

※ 傷害保険の加入はビザをもらうために必要。日本で大手保険会社の保険を買っても、現地に連絡網が不備なので、イラン現地の保険会社に入ったほうが安心できるし、ずっと安い。

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この国は、階の数え方はイギリス式だ。The Third Floor (2階)からの眺めは、かつてこのホテルにはプールもあり、東屋もあり、素敵な散歩道だったことがうかがえた。さび付いたエアコンの室外機のあいだから、従業員のおばさんたちが大声でおしゃべりをしているのが聞こえる。

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午後4時になり、たいていの博物館やその他の施設はそろそろ閉まる時刻なので、軽く散歩をして、途中で夕食をとることにした。チャドルを来た女が通る。、それも目しか見えないのはごく少数派で、たいていは頭にスカーフをかぶっている程度。中にはスカーフをほとんど外してしまって、髪の毛が丸見えなのも多い。彼女らの多くは”不信心”なのだ。さもなければ政府の抑圧にひそかにプロテストしているのがわかる。

ほとんど唯一の東洋人ということで、視線を感じるが、地方都市にあるように挨拶をしてくる人はいない。ここはやはり首都なのだ。四角形のコースを通り、明日の訪問予定地を確認する。次第に夕日が傾き、立派な円形広場に出た。写真にあるように、二人の兵士が銃を構えている像が飾ってある。ここはメトロ2号線 Hassan Abad 駅の真上である。

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これを見た人は誰でもイスラム寺院だと思うだろう。さにあらず。かつてはそうだったのかもしれないが、今は「郵便・電話博物館」である。ほかの観光名所に気をとられて、ここに入らなかったことを今は後悔している。

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この「郵便・電話博物館」 の前ならではの像。郵便ポストも模型なのだ。イランには各地に、このようなユーモラスな像がたくさんあったので、いくつか撮影しておいた。

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「民よ!あなた方全てにはアラーの神が必要だ!」このような黄色い看板は、大きな施設のフェンスに張り付けてある場合が多かった。まさに宗教国家である。一番上がアラビア語、真ん中がペルシャ語、そして一番下が英語である。

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「エマーム・ホメイニー広場」を北側から見る。この広場を中心にしてこの広場を中心にして Roundabout になっているのだ。この町のへそだ。地下はメトロの主要駅なので、ちゃんと地下道が各方面に延びていて、危険を冒してまで横断する必要はない。でも最初はそのことに気付かず、現地人のあとについて横断し、怖い思いをした。

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適当な食事処を見つけた。メニュー表なしで、チェロ・モルグ(ご飯+鶏)と飲み物を、ペルシャ語で注文することに成功。モルグはパリッと上がって実にうまい。この国ではアルコールはご法度だから、飲み物はコカ・コーラ。ちょっとさびしい。

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ペルシャ語での注文に成功したので、店の主人が感心して、いろんなことを聞いてきた。店の中は俳優、歌手の写真でいっぱい。この後、お持ち帰りの客が現れて、その人からも日本のことをたくさん聞かれた。

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観察日記(2)
若者社会

イランも、タンザニアやエジプト、トルコなどと同じく、若者社会である。町ゆく人々は若者だらけ。中年になると、高齢者の中に含められそうだ。これらの国々は最近まで平均寿命が低く、多くの子供が生まれ、そののち経済成長を遂げた後で急速に平均寿命が延びたので、若者たちが数多くいる事態となったのだ。

もちろんいずれは、これらの国々も高齢化社会になるのはわかっているのだが、日本や韓国などより、ずっと遅れてやってくる。若者社会の強みは保守的な人間より、進歩的な人間の勢力が強いため、社会構造の進化が早いということだ。例えばかつては閉鎖的な社会だったのが、若者たちの要求により次第に開放的になっていくというような場合だ。

さらに若者社会は災害や大変動に強い。国が災難、例えば大地震や大洪水、大戦争に襲われた時、復興を手早く行わなければいけないが、お金が不足していてもエネルギッシュな建設ブームが容易に起こるということだ。第二次世界大戦後の日本も、そのような状況に恵まれ、瞬く間に焼け跡から商店が姿をあらわしたのだから。

イランの場合、国際的にも国内的にも難題が山積している。宗教国家という世界に例を見ない体制であるために、これが発展の足かせになっていることはだれもが認めることだが、一方で若者たちのエネルギーは、特に教育を受けたグループによって、次第にその力を見せ始めているようだ。

ペルシャ語とアラビア語

隣国イラクとの関係は、かつてイラ・イラ戦争があったにもかかわらず、さほど悪くない。イラクはスンニ派が主流であり、典型的なアラブ国であるが、隣同士ということで、両国の間の関係は深い。だが、最大の問題は言語の違いと、それらの背景にある文化の違いである。

互いに昔から通商を行ったり、戦争をしたりで、お互いの関係が非常に深いため、語彙は共通なものが多い。それどころかアラビア文字とペルシャ文字との違いは基本的にない。ペルシャ文字はアラビア語にない発音のため、いくつか新しく文字を作りだしたというだけである。文字を右から左に書くのも同じだ。一見、大変似ているように思われる。

ところがいったん文法構造に目を向けると、これがまるで異なる。アラビア語は西欧の言語、つまりラテン系やゲルマン系の言語と、語順がよく似ているし、単語の男女性別がある点でも同じだし、関係代名詞を使って形容詞修飾を行うという点でも似ている。

一方、ペルシャ語は語順からして動詞が最後に来るような構造、つまり日本語にその点では似ているのだ。でも形容詞修飾において関係詞を使い、連体修飾を行うことはなく、この点ではトルコ語、朝鮮語、日本語とは異なる。つまりアラビア語と遠い祖先では共通しているようなのだが、連体修飾をする言語とは祖先がはるかに遠い所にあるということだ。 むしろアフガニスタンのパシュトー語、パキスタンのウルドゥー語、インドのヒンディー語に近そうだ。

コーランはアラビア語で書かれている。これをペルシャ語に翻訳することは許されているのか?もし許されないとするなら、イラン国民はアラビア語を学習しなければならないことになる。許されているとしても、礼拝で大声で唱えられる言葉は、やはりアラビア語だろう。

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テヘラン南部:考古学博物館周辺

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翌日はいくつかの博物館、美術館を訪れてみようと思い立った。泊まっているホテル Naderi から一番近いのが昨日の夜、夕食を食べた料理屋からすぐ目と鼻の先にある「アーブギーネ博物館」。ここはガラス器と陶器の装飾やデザインの優れたものを収集している。これがある Tir Street という通りもなかなかシャレたところでギャラリーや工房が点在している。

ところがなんということか!写真にある門の前に立つと、掲示が見え、「本館は改修のため当分の間休館します」とあった!今日がだめなら、旅の最終日に行ってみるしかない。ただし期待していないが・・・

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この Tir Street をさらに南に下ると、テヘランでもっとも有名な博物館、「イラン考古学博物館」が左手に見えてくる。その南側には、写真のようなシャレた公園があり、噴水池には豊富な水がたたえられている。ただし、この英語名は National Museum of Iran 、つまり直訳すれば、「イラン国立博物館」であって”考古学”の名は入っていない。なぜだろう?

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この考古学博物館は撮影禁止であって、残念ながら何の映像も持ち出せない。だが入館者は他のいずれよりも多い。地元の研究者や大学生と思しき人々もいた。イランの、イスラム化する前の時代の考古学的発掘物のほか、生活用具、兵器など幅広く展示されている。

東隣にある「別館」では撮影は許可されている。上の皿など、イランがイスラム化した後での収集品が収められている。だが、正直言って、イスラム化する前のイランのほうがはるかに文化的想像力があったことは否めない。

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こちらも別館のものだが、ドアがあり、階段が途中まで続いているものだが、足の部分にはキャスターがついている。解説が読めないのでわからないが、たぶん説教者が信者に向って話すときの「演台」ではないか。でも上のほうに説教者が安定して座るか経つスペースが見当たらない。もう一つの説は、これが「お祈り台」ではないかということだ。一番上に上がって、つまり”より天国に近づいて”礼拝する。そうだとすると階段の上がり口にドアがあるのも説明がつく。

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考古学博物館から Amir-e Kabir Street を挟んで南側にある広大な公園が Shafr Park である。この後この公園は何度も横断することになるのだが、外の自動車や町の騒音を忘れさせる素晴らしい所だ。なんとなくロンドンのハイドパークを思わせるところ。

上の写真は南北にのびる池であるが、「泳ぐな」という立て札のあるところを見ると、夏の猛暑期には飛び込みたくなるのだろう。インドのタージマハールのように、冷房効果も期待できるだろう。旅の最終日には暗くなって通ったが、見事にライトアップされていた。

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公園内のごみ箱。蓋が鎖で吊り下げられている。これでは蓋を閉めることができないのではないか?これは雨除けなのではないか。またこのように狭い隙間だと、カラスが入り込むことができない。なかなかうまい工夫だ。

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ミニ動物園もある。これはロバらしいのだが、ダチョウもいた。さらにあとで子供の遊具を集めたところや、メリーゴーランドを備えた本格的な遊園地もあった。ベンチに座っている若者に呼び止められる。日本に大変関心を持っている40過ぎのサラリーマンだが、独身。なぜ結婚しないかというと、新妻の家族に渡す結婚資金が足りないからだという。このために一生を独身で過ごすイランの男たちは大勢いるらしい。最近の高インフレではなおのことだ。

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Shahr Park から Khayyam Street をはさんで南東側には「ゴレスタン宮殿 Golestan Palace」がある。この通りには、おそらくイラン唯一と思われる歩道橋がある。

この宮殿は恐ろしく広く、建物は10棟ほどあって、入場券を買うときに、どこに入るのか選ばされる。人気の建物を含めて4つぐらい選んだ。どうして総合入場券にしないのだろう?この宮殿でイランの女子高生グループなるものを見た。おしゃべりをしたり、はしゃいだり、大声で笑ったりする様子は世界どこでも同じ。

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Tarar-e Asli はいわば鏡の間。上も下もあらゆる方向がキラキラ輝く素材でできている。(ゴレスタン宮殿の一部)

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これはどこの建物だか忘れたが、この椅子はかつては皇帝が座っていたもの。この皇帝は人形。この絢爛豪華さはヨーロッパの大部分の宮殿に勝る。ヨーロッパの宮殿は植民地主義によって資金を得たが、ペルシャの宮殿は、周辺諸国を広く支配することで資金を得た。現在の開発途上状態との落差は大きい。(ゴレスタン宮殿の一部)

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この建物は、エマーム・ホメイニー広場からまっすぐ北に延びる通りにある、ほかの銀行と何ら変わりがない平凡な造り。。だから、池袋で5年ほど運転手をしていたという親日家の両替商が親切にも教えてくれなかったら、たどり着けなかったかもしれない。ほかの観光客はみな団体で来ていた。グループごとに区切って入らされるのである。私は若い女子職員の計らいで、フランス人グループのしっぽに混ぜてもらった。

この銀行の入り口を入って、普通の警備員のまえを通り抜け、窓口の方向に行かずに下の地下金庫につながっているような階段を降りると、そこは「宝石博物館」。荷物はすべて預けさせられ、金属探知機が何と三か所も設置され、厳重に厳重を重ねた先に、まばゆい宝石が輝いていた。もちろん撮影禁止。

どこかの女王の王冠や、これでもかと細かい宝石を張り付けた剣など、だれもが口をあんぐり開けて見入っている。最後の展示は、一面に宝石を張り付けたベッドである。そのベッドは光り輝いているにもかかわらず、何か重苦しい雰囲気を持っていて、これらの宝石を手に入れるために、過去に引き起こされた殺人や強盗の臭いが漂ってくるのだった。

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イランでは歩道をオートバイで走ってもいいが、暴走されたら困る。それでできたのがこの苦肉の策。オートバイに乗った人は、首を出して恐る恐るこの狭い隙間を通り抜けるのだ。時速100キロで通れる人はいないだろう。これがあちこちの歩道に設けられているのだが、いっそのこと歩道上はオートバイ完全禁止にすればいいのに。

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観察日記(3)
 高インフレ

昔、歴史の書物で、ドイツが第1次世界大戦に敗北した後、巨額な賠償金のためものすごいインフレになり、トランクいっぱいに詰めた札束を持って歩く人々の写真を見たことがあった。キャッシュレス社会に入ろうとしている我々には想像が難しい事態だ。

photo3476ところがイランに行って、それをまのあたりにしてしまった。トランクいっぱいとはいかないまでも、200ドルをイランリアルに両替すると、ちょっとしたポシェットには到底入らない。ぼろぼろのお札、それも高額紙幣で、持ち歩くのも大変なこととなった。 右の写真は50万リアル紙幣。日本でも50万円札があるといいな。

すでにだいぶ前からインフレは進行していたため、イラン人は、日常生活の場ではリアルを使うのが面倒くさくなり、桁を10分の1にした「トマーン」という単位を自分たちで使っていた。これは政府に公式に認められていないものだが、バーザール、ファストフード店のなどの価格表には公然と使われている。たとえば10.000リアルは1.000トマーンである。

では、10.000リアルは日本円ではいくらにあたるか?27円である(2018年11月時点で)。でもこれでは子供のお菓子を買うのも難しい。繁華街で売っているしぼりたてジュースが6万リアル、タクシーの最低料金が10万リアル、ご飯と鶏のから揚げを組み合わせた(ちょっと上等な)定食が23万から30万リアルぐらい。安宿は一晩100万リアル。中級の宿なら150万リアルぐらい。

ということは、10,000リアル以下のお金は実用的価値はないし、硬貨など外国人観光客の記念品にしかならないということなのだ。だから早急にデノミネーションが望まれているのだが、まだまだインフレは続きそうだから、まだ実行段階に入っていない。 しかも価格設定が大雑把になり、10.000リアルの商品はあっても、10.500リアルの価格などは意味をなさない。日本の998円で客をおびき寄せようなどという戦略は通用しないのだ。

だから庶民は、先のトマーンだけでなく、様々な呼び名でお金の単位を呼びならわすようになった。50万リアルを、単に50というふうに。ただでさえ訪問国のお金の問題には苦慮する外国人一人旅では、お金を払うたびに、桁を間違えてはいやしないかとハラハラするのだ。

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