アメリカ南部

(1989年)

ブルックリンブリッジから見た摩天楼

HOME > 体験編 > 旅行記 > アメリカ南東部

目次

第1章 バス旅行と一人旅

第2章 南部の人と言葉

第3章 ニューオーリンズという町

第4章 マイアミとキーウエスト

第5章 アメリカでの日本人旅行客

第6章 ワシントン D.C.

第7章 ニューヨーク・シティ

第8章 浪費社会再考

第9章 語学教師の海外研修

第10章 旅の終わり

第11章 記録

第1章 バス旅行と一人旅


地を這うバス 今回の旅行の最大の特徴はアメリカ大陸をバスを使って移動することであった。乗り合いバスの長所は航空機と違って、地をはうように進むので、地形、気候などがよくわかり、同時にアメリカの広さを実感することができることだ。さらにバスの中で隣り合わせた人々と話をすることができ、単なるホテルや駅やレストランでのやりとりと違って、アメリカ人から直接込み入ったことが聞けるし、あまり行儀のいいことではないが、地元の人々の世間話に耳を傾けることのできるチャンスでもある。前年の夏、私は沢木耕太郎が南アジアをバスで旅したルポルタージュ、「深夜特急」を読み、大いに刺激されたのでぜひ自分でも実行したいと思っていた。

南から東へ グレイハウンド社の発行するアメリパスは有効期間内ではアメリカ国内でのバスが乗り放題だから、自由に旅行の計画を立てることができる。今回は、7日間でニューオーリンズを出発点にして、マイアミ、キーウエスト、今度は映画「真夜中のカーボーイ」の主人公のコースとは逆に、北上してワシントンD.Cそしてニューヨークへと向かうコースをとった。普通の乗り合いバスと違って、昼夜兼行で走り、座席もゆったりしている。運転手だけが乗員なので、切符の処理から、走行中の乗客に対する注意に至るまで、すべてをこなす。運転は非常にうまいが、アメリカの道路は老人と女性の運転する車の速度が遅いために、その流れはスムーズではない。極端な話、走行車線と追い越し車線に、遅い車が2台並行して走っているときは、まさに血栓症を起こしたがごときである。平均的なグレイハウンドバスの走行速度は一般の乗用車より常に上回り、おそらく120キロ以上は出していると思われる。

乗り遅れるな! バスは航空機と違って、庶民の足である。マイアミからニューヨークのように30時間近くかかるところを乗る人も少なくない。しかしみんな気が長いのか、そのような長時間を苦にすることもない。ある人は眠りつづけ、ある人は絶え間なくおしゃべりをし、それぞれバス旅行をエンジョイしている。どこかの国のようにビデオセットを取り付けて、退屈させまいなどという配慮はまったくない。2,3時間たつと、バス・デポに止まるが、その中にはバーガー・キングのような食事のできる施設を備えたところもあって、そこでは30分ぐらい停車して、それぞれ食事をする。中には混んでいるため、注文してできあがるのが、発車3分前ということもあった。そんな場合には、持ち出し用の容器に詰めてもらう。私はそのようなものがあることに気がつくのが遅かったので、3分ですべての食事を飲み込んだ。バス旅行の恐怖は置いていかれることにある。運転手は出発前に人数を点検するが、10分間待っても、一人が現れず、そのまま置いて発車したこともあった。

煙草はだめ? バスの中は原則的に、煙草を吸うことが許されている。しかし場所、たとえばニューヨーク州などでは、州の法律により、公共の乗り物の中では煙草を吸うことが禁止されているので、州境を越えたとたん、吸うことができなくなってしまう。後ろの座席で密かに吸ってもだめである。エアコンのおかげで、車内の空気は絶えず循環しているから、運転手がにおいをかぎつけて、注意をすることになる。運転をしながら、前を向きながら注意するのだから大変だ。私のみていたときは、その煙草を吸っていた客はすぐやめたが、守らない場合はどうするのだろう。運転手たちはそのような場合に備えて、さまざまな訓練を受けていると聞く。とにかくさまざまな人種、所得層のものが乗り込んでくるのだから、密室内の秩序を守らせるのは運転以上に大変なことだろう。

全国ネット グレイハウンド社はトレイルウエイズ社などを吸収合併して大変大きな会社になった。独占企業みたいなものであるが、全米をまたにかけて、旅をする場合にはかえって便利だ。マイアミのような主要都市からシカゴ、ニューヨーク、ロサンゼルスなどに向けて一日に5便ぐらいがでている。マイアミからフロリダ州の中では各駅停車みたいな形が続くが、いったん州の外に出ると停車駅の間隔が広まる。前者では一般国道を、後者では高速道路、特にインターステートを通って行く。インターステートは大部分が無料で、インターチェンジからの出入りによって、その町の中心部まで行くわけだが、日本と違って、森林を通り抜け、かなりの距離があるので遠回りになる。

大森林を行く 今回はニューオーリンズからマイアミまではメキシコ湾岸沿いに進み、マイアミから北はインターステートの95号線を中心に進んだ。95号線は東部の最も重要な高速道路であり、その交通量はマイアミ付近の田園地帯でさえ、かなり多く、ワシントンD.C.に近づくと、東名高速なみの混雑ぶりである。今度のルートは山がほとんどない。行けども行けども平地ないしは、湖沼地帯である。従って道路は大森林の中をどこまでも突っ切っているのであった。これが夏であったら緑が目にしみるだろう。

乗客 ホテルを探したり、切符を買ったり、時刻表とにらめっこしたり、いろいろ大変だが、バス旅行は一人旅に向いている。航空機ではあっけなく着き、ビジネスマンが多く、隣の人がどんな人か最後までわからないのに対し、バスでは乗客に絶えず変化があり、一緒に休憩場所で食事をすることもある。一人でも絶えず土地の人々に囲まれていて、いろいろ観察できる。ビートルズの映画にある、マジカル・ミステリーツアーみたいなものだ。これでレンタカーにしてしまうと、モーテルやガソリンスタンドに着くまで、他人との接触がない。

真夜中を突っ走る バス旅行のもう一つの楽しみはラジオである。ウオークマンを持って行くべきか迷ったが、カセットをたくさん用意しなければならないのでラジオにしたが、これが成功だった。バスの車内はAMの受信は良くないが、FM放送はとてもきれいな音だ。アメリカは放送局の数が、たとえ田舎でもとても数が多い。ただしFM電波の届く範囲は狭いので、道路を高速で進むと、放送局が鎖状につながった線上を進むことになる。きれいな音が15分もするととぎれてくる。すると行く先にある、別の放送局に切り替えてゆくのである。放送内容は地元のディスクジョッキーがしゃべり、音楽と音楽の間に聴取者からの電話でのおしゃべり、誰それにこの局をプレゼントしたい、といった他愛のないものであるが、それでもそれぞれ土地の雰囲気がでていて、大変おもしろかった。一番すてきなのは、真夜中に真っ暗な森林に囲まれた、高速道路をバスが突っ走って行くときに、ラジオを聴くことだ。音楽とバスのエンジン音と暗闇。この組み合わせは何ともいえない。

スペースシャトルを目撃! 今回のバスの旅での最もすばらしい偶然はスペース・シャトルの打ち上げをみることができたことだろう。マイアミをでて、フロリダ州の東海岸を北上していたが、ちょうどその日の午前10時が打ち上げだったのだ。海辺に面した一般国道は、双眼鏡やカメラを持った人々の車で鈴なりで、交通渋滞まで起きる騒ぎだ。折しも天気は朝からぱっとせず、打ち上げは一時延期された。早速地元のラジオ局にダイアルを合わせると、天気が回復してきたので30分以内には秒読みが再開されるとのこと。乗客が突然どよめく。バスの運転手が道路の脇に車を止めてくれた。空には真っ赤な炎をあげた物体が東の空をどこまでも上がって行き、その後には巨大な飛行機雲が残されていた。

第2章 南部の人と言葉



親切な人々 Southern Hospitality(南部風の歓迎)という言葉があるが、それを実感したのはニューオーリンズ空港に到着したときだった。YMCAホテルに泊まるつもりでいたが、空港に車で迎えに来てくれるわけでもない。有名ホテルへの送迎バスのルートと全く違う方向にYMCAホテルはあった。とにかく市バスに乗ればいいのだということだけを手がかりに、ホテルにたどり着くのに4,5人の人々の手を煩わせたが、送迎バスの運転手がわざわざバス停まで連れていってくれたり、乗り換えの仕方を教えてくれたり、その親切さには感激した。南部の都市だから、そのほとんどは黒人であり、ニューヨークなどの北部とは違い、住民の中心をなしているという一種の重みみたいなものがある。

市バス内の事件 YMCAホテルへ向かう市バスの中でのことだ。臭いにおいをまき散らし、汚れに汚れた毛皮のコートを着た若い女の浮浪者みたいなのがバスに乗り込んできた。バスの運賃はきっかり80セントだ。お釣りはくれないから、とにかく小銭をかき集めて料金箱に入れるしかない。この女が乗った後、運転手が叫んだ。「おい、20セント足りないぞ」女は何かもぞもぞ言っていたが、そもそも金を持っていなかったのだ。運転手はせかす。とその瞬間、真ん中あたりにいた一人の若い白人の男がその女に代わって20セントを払ってやって、事なきを得た。そのタイミングのいいこと。アメリカ大陸について30分もたたないうちに、こんな光景を見て、すごく心の和む思いだった。タクシーやリムジンに乗らないで、市バスに乗ったおかげで、見ることのできる幸運を得たのだ。

お釣りはだめ? ところでこのように小銭が、到着間もなく必要だったわけだが、前にバンクーバーに行ったときに残しておいた1ドル50セントほどの小銭が大いに役に立った。それにしてもどうしてお釣りをくれないところが多いのだろう。日本ではどんな田舎のバスでも、それくらいのサービスは徹底している。市バスには時間表もないし、もちろんアナウンスもない。乗り換えの仕方もこちらからしっかり聞かない限り、何も教えてくれない。バスの停留所も棒が一本建っているだけだ。でもこれが世界全体の趨勢であって、日本こそ過剰サービスなのかもしれない。ニューヨークへ行って、地下鉄のアナウンスが5年前に比べて大変親切になっていたので、大変奇異な感じがしたものだ。

老婆から聞いた話 南部訛りSouthern Drawlは、大変聞き取りにくい。場内アナウンスの類はまだしも、バスの中で乗り合わせた黒人の老婆や、地元の若者の言っていることの半分しかはじめは分からなかった。こちらの言っていることは分かってもらえるのに。特に黒人の老婆は足が悪くて、私が荷物を運ぶ手伝いをしたことが縁で、それから真夜中まで4時間近く、自分の田舎のこと、どんな作物を植えているか、白人との人種統合integrationのこと、北部の経済侵略などについて、延々と聞かされた。しかしこのおばあさんは、なかなか博識で、社会に対する目が鋭くて感心した。

さびれた町 ニューオーリンズとマイアミの間はメキシコ湾沿いに、ルイジアナ、ミシシッピー、アラバマ、フロリダ州と並んでいるが、そのどれもがサンベルトSunbeltとして、もてはやされている。ところが南部にも光と陰があり、テキサスのヒューストンあたりは、コンピュータ産業のおかげで隆盛を誇っているが、生産面で取り残されたニューオーリンズなどは近年、一貫して人口が減少しているのである。観光で身を立てられる都市はまだいい。バスが途中で休憩をとった、アラバマ州のモービルMobileという町は全くゴーストタウンだった。ビルはFor Sale(売りたし)やFor Lease(賃貸募集)の看板ばかり。真っ昼間なのに、うらぶれたビルから若い女が出てきて、「(麻薬を)一発やるか」と聞いてくる有様。この町がこんなことになったのは、一つには産業化に乗り遅れたため。もう一つは無理な人種統合政策が、黒人を嫌う白人を町の中心から追い出してしまったことにある。アラバマといえば、あの有名な黒人虐殺を描いた映画「ミシシッピー・バーニング」の舞台となったミシシッピー州の隣なのだから、たとえ30年前のようなKKKによるあからさまな暴行はないにしても、まだまだ怨念がくすぶっているといえよう。経済的に栄えている都市も、南部人の素朴な考え方を急激に変えつつある。レーガン大統領やサッチャー首相がすべからく進めた、新しい経済政策は、アメリカやイギリスに活を入れたものの、どん欲さをへんぴな片田舎にまで蔓延させた。拝金主義がはびこり、南部人もクールになってきたという。

外国人の人助け 以上のことをその黒人の婆さんは話してくれたのだから、一つそれらのことに関しての論文を読んだくらいに、私も南部事情に明るくなった(ような気がした)。この婆さんはバス会社の人から間違って教えられたため、時刻表をみて私がそのことを指摘しなかったら、危うく乗換駅で目的地へのバスに乗れず、違った方向に行ってしまうところだった。南部の田舎町で、その土地の人に少しは人助けをしたと思っている。

聞き取れない発音 その後で乗り合わせた若者も訛りがひどかった。いわゆる土地の与太言葉といえるもので、音節がなく、文章全体が一つの単語のように癒着してしまっている。そしてその用語も、日本語である人たちが、「オンナ」を「ナンオ」と言っているくらいのものだ。ところでフロリダ最南端のキーウエストではここは避寒地として、北部の人間がやってくるせいか、レストランのウエイトレスも観光案内所の人もとてもきれいな英語だ。そして当然のことだが、フロリダ、ジョージア、サウス・カロライナ、ノース・カロライナ、バージニア、ワシントン・DCと北上するにつれて、歯切れがよく、わかりやすくなってくる。しかし言語学的な見地からみると、大変興味のあることであり、一つ世界の英語圏をすべて旅行して、その地域的な差異をすべて調査してみたいという気持ちが生まれている。

第3章 ニューオーリンズという町


格安ホテル 私の泊まったYMCAホテルは有名なフレンチ・クオーターとは反対側にあって、しかもとても寂れたところにあった。ただ、その前にある、南軍のあの有名な将軍の名前にちなんだりー・サークルという広場はなかなか立派だったが。バンクーバーのYMCAホテルのことを思い出したから、そんなものだろうと思っていたところ、ここのホテルはもっと汚い独房のような所だった。ただ19ドルと、ものの見事に安かったが。ここではフロントで国際電話の取り次ぎもしてくれない。

欲望という名の電車!町の雰囲気 この町は今ひとつ活気がない。サンベルト地帯に属するはずなのに、ベルトからはみ出てしまったようだ。でも、ニューヨーク、サンフランシスコと並び、アメリカの三代人気都市といわれるだけあって、その独自性は確かに目立つ。町並みが画一的でないし、観光ルートからはずれたところでも、南部特有の装飾の多い、美しいバルコニーを持った一軒家が多い。フレンチ・クオーターは観光化されすぎた嫌いはあるが、昔の雰囲気をよく残している。昔の西部の町のようでもあり、フランス風の家並みが目立ち、思わずカメラを向けたくなる。ディズニーランドのアトラクションに採用されないことを祈るばかりである。海辺にはフレンチ・マーケットと呼ばれる、今アメリカではやりの「明治村」的な市場があり、そこをあのテネシーウイリアムズの「欲望という名の電車」のモデルとなった市電が保存されていた。




昔を懐かしむ町 保存といえば、この町はすべてが保存されたものばかりだから活気がないのかもしれない。何しろジャズ発祥の地であり、その音楽を演奏して後世に伝えようというところがプリザベーション・ホール(保存殿堂?)と呼ばれているのだから。それでも夜になるとフレンチ・クオーター界隈はジャズの音で満ちあふれる。みんなドアを開け放っているので、路上にあふれた演奏の音が興奮を高めるのだ。立ち聞きすればただ。大道芸人も多い。その点はニューヨークに似ているが、聞くためのお金がいらないのは、南部特有の解放性のためか。またここでは草津温泉街のようにストリップ劇場もまた多い。その上すばらしいことに、これもまた、戸を開け放ち、その一部を通行人にちらりちらりと見せてくれるのだからたまらない。どのストリップ小屋も大勢の人が入り口を取り囲み、揺れる巨大なおっぱいが見え隠れするのをよだれを垂らしながらみている(みた)し、ついに我慢しきれなくなって入場料を払って中に入って行くものもいる。

ミシシッピー川河口ハックルベリーの世界 でもこの町で一番夢のあるものは、ミシシッピー川だろう。その悠久の流れはフレンチ・クオーター側からはその無数の三角州によって分断された大河のごく一部しか見えないのだが、それでも大型貨物船が停泊する巨大な港のようだ。水は「ハックルベリー・フィンの冒険」に描いてあったとおり、赤茶けた泥水だった。あの小説で言っていたのは本当だったのだ。水は河口に近いのに、かなりの速度で流れ、目で見てもはっきり分かる。フェリーが渡し船になっており、これは外輪の着いた観光船とは違い、生活の足で無料。

思い出のレストラン 向こう岸をふとみると、あのトム・ソーヤーが隠れ住んでいたような、トタン板の裏寂れた、大きな小屋か納屋のような建物が見える。赤茶けた錆が出た、崩れかかった建物が今にもミシシッピー川に崩れ落ちそうに、岸辺に立っている。それがまさか高級レストランとは!フェリーで向こう岸にわたり、歩いて5分もすると、その場所に着いた。うまくできている。外側がわざとよれよれに作ってあるのに、中はすてきな南部風のインテリアだ。生ガキを半ダースとビールを注文し、今わたってきたフレンチ・クオーター側を眺めて、しばし夕暮れニューオリンズの大道芸人を楽しんだ。カキは酢醤油なんかつけない。ケチャップだ。それで物足りなければ、タバスコを垂らす。それをクラッカーに乗せてカナッペ風にして食べる。ケチャップにした方が、はるかにカキ特有の生臭さがない。これからはこれでいこう。カキの値段はフレンチ・クオーターの中より1ドルほど高かったが、ニューヨークのオイスター・バーで食べる場合の半分である。

食べ物の豊かさ フレンチ・マーケットでみた農産物の豊富なこと。いちご、ニンニク、杏など、山盛りで安い。いやアメリカ、カナダのどこに行っても食べ物だけは贅沢を言わなければとても安い。今更ながら日本の農業や食糧政策の貧弱さを痛感させられる。やはり自分の国で、自分たちの食べ物を生産できるということは、自分の国に対する自信、食物の新鮮さ、どの点を取っても輸入品とは比べものにならない。レタスを飛行機で運んでくるなんて狂気の沙汰だ。日本は自分の国で生産した、コンピュータの中に埋もれて飢え死にすることになりはしないだろうか。ニューオーリンズは工業の点では今ひとつぱっとしなくても、南部農業の豊かさを教えてくれる町であった。

第4章 マイアミとキーウエスト



スペインの息づく町 緯度の点からみると、マイアミは石垣島と同じだそうだ。近づくに従って、湖沼地帯が増え、植物が亜熱帯らしくなり、特に棕櫚の木が目立つ。この町は老人とスペイン系の人々の町だ。老人は北部の金持ちで、避寒に来た人々。スペイン系は主としてキューバからの難民と中南米からやってきた人々だ。この町に来て最初にハムのいっぱい入った、キューバンサンドイッチを注文した店の主人もスペイン系で、英語は話すが、昼からビールを飲んでいるほかの客とは、ほとんどスペイン語で話していた。スペイン語で「いくらですか」と言おうとしたが、数字の方が聞き取れないだろうと思ったので、英語にしておいた。マイアミは全米でも1,2位をあらそう殺人事件の多い、物騒な都市だそうだが、少なくともバスのターミナル付近はそれほどでもないらしい。それとも運が良かっただけか。世界一の安全都市東京でも、路上で通り魔に襲われて死ぬ人もいるわけだから、やはり殺人者に遭遇するかしないかは、運を天に任せるしかない。

辻強盗か? ただ、貨物線の通る踏切で夜遅く不思議な光景を見た。一人の黒人が懐中電灯をしきりに振って、通りかかる車を止めようとしている。たいていの車は無視するか、警戒してその男の所を通り過ぎて行く。ふと、一台の車が止まった。するとその男は駆け寄って何か話している。どうやらこの道は通れないから、左に曲がって倉庫の方へ向かえ、と言っているようだ。倉庫の方はさびれた無人地帯で真っ暗である。その車は倉庫の方へ向かっていった。その後どうなったかは知らない。ただ想像するところ、倉庫の方でこの男の仲間が待ちかまえていて、その車に乗っている人から、身ぐるみはぎ取ったのではないかという気がする。新手の辻強盗だったのかもしれない。

モノレール この町にはモノレールがある。ダウンタウンをぐるっと一周していて、ターミナルからは郊外へつながる新交通システムが2方向にのびており、下はバスターミナルになっている。こういうシステムはわかりやすくてよい。たった25セントの料金で、このモノレールに乗り、町を一周した。主な街路は大渋滞で、あまり快適な車の運転は望めそうもない。

砂浜にみたもの ところでマイアミと言えば、そのあとにビーチがつかなければ、さまにならない。この町は海に面しているが、沖合に大小の島があり、そこが橋でつながっている。ビーチはその島に付属している。その一つに行ってみたが、やはり海の色といい、真っ白な砂浜といい、沖縄の海とよく似ている。江ノ島に行くと「東洋のマイアミ」などと入り口に書いてあるが。江ノ島の観光課の人はマイアミに行ったことがあるのだろうか。江ノ島の海の汚れのひどさに恥じ入るべきだ。ここの海はどこまでも遠浅である。200メートル歩いても、まだ膝までしかこない。浜辺は車で乗り付けたスペイン系のアベックでいっぱいだ。スペイン系の男はマッチョが多いと聞く。女の前で男らしく振る舞い、強がりをいい、かっこよく見せようとするという。そんな光景が至るところで見られた。ふと砂地をみるとゴム製品が落ちている。それも特大のが。たった1個だったら何とも思わなかっただろう。さらにその近辺にも、もっとたくさん落ちているのに気づいたとき、そろそろダウンタウンに戻る頃だと思った。

お祭りで マイアミがスペイン系の町であることを痛感させられたのは、その夜、海浜公園に散歩に出かけたときだった。その公園には大きなステージがしつらえてあり、そこには我が日本国の通うアイドルよろしく、身振り手振りも大げさに、若い男女がスペイン語の歌を歌っていた。聴衆の方も熱狂している。周りは黒髪の美人だらけ。だがなぜスペイン系の若い女の人は目の切れ目が深いのだろう。彼女らの誰もが美しいとつい思いこんでしまう。屋台では彼らのお気に入りのスナックが売られている。牛肉を焼いたものに、日本のおでんのような具を混ぜて、ポリスチロールの入れ物に入れて売っている。普段白人や黒人の食べているものとはだいぶ違う。しかし夜店の楽しさは日本の盆踊りと何も変わるところがない。子供はあれが食いたい、これが食いたいと親にねだっている。親は、だめだと叱りとばす。世界中どこに行っても同じ光景だ。周りを見回すと私がたった一人の東洋人だった。
 
海上橋を行く キーウエストはマイアミからは日帰り圏内にある。朝早く出れば、11時には到着できる。バスの中はたいていが日本人学生であった。フロリダ半島は伊豆半島のような形をしている。ちょうど下田に当たるところにマイアミがあり、そこから南の端に向けて、転々と鎖のように珊瑚礁でできた小島が連らなって、そのすべてに橋が架かり、最先端までつながっているのだ。地図でみると、大したことがないように見えるが、それでも100キロの道のりである。海上すれすれに道路があるので、船が進むような錯覚にとらわれる。シュワルツネッガー主演のトウルー・ライズ(TRUE LIES)にはこのすばらしい場面が出てくる。マイアミよりさらに海は青く、カリブ海に近づいていることがわかる。実際、この先端からキューバまで120キロぐらいしかないのだ。

海中見物 キーウエストの町は静かな落ち着いたところだ。真ん中に大通りがあって、町の主な機能はほとんどそこに集まっている。ここで何をみるべきか。夕方5時のバスまで時間は限られている。島がいいか。八丈島に行ったときのように、自転車を借りて一周しようか。それとも猫のたむろする、へミングウエイの家や博物館巡りをしようか。いや、ここはなんといっても海じゃないか。そう考えているところで、船底がガラス張りの船で、沖合の珊瑚や魚を見学するツアーの誘いを受けた。12ドルで2時間の海の旅。この島からさらに南へ行く。ガラス越しに見える魚はまさに熱帯魚の模様をしている。船の乗組員が海上にポップコーンを播く。と、黄色い魚がまるで田中角栄氏の家の鯉のように、海面まで上がってきて水しぶきをあげ、餌を奪い合う。案内の人が出航前にここの魚を見たら、「海は死んだ」なんてとても思えませんよ、と言っていたが、やはり珊瑚の方は沖縄と同じく危機的状況にあった。確かにすばらしい最南端に立つ見事な珊瑚は至る所にみられたが、それらの間を船が移動する間にはバラバラになった珊瑚の残骸がたくさん転がっていた。そうだろう。あれほどたくさんの ホテルが建ち並ぶ島なのだから、その垂れ流す汚水だけでも、ここの珊瑚を滅ぼすのに十分だ。ましてやメキシコ湾は石油の採掘が盛んに行われている。

記念写真 島の南には大きなコンクリートでできた、釣り鐘型のアメリカ合衆国最南端を示す標識が立っていて、観光客は必ず(ここに来た証明に?)写真を撮ってゆく。私もそういう写真がほしくなった。そこへ老夫婦が通りかかった。老夫婦や、あつあつの恋人たちは、二人だけの写っている写真を強く希望しているものだ。前者は老い先短いから、自分たちが一緒に生きていることの記念に、後者は女をモデルにして撮り疲れた男の方が、たまには一緒に写って女との関係の証明がほしいという気持ちのためだ。 早速そのおじいさんの所にいって、二人を撮ってあげるから、代わりに自分を撮ってくれないかと頼んだ。。ところがはじめ、このおじいさんは警戒心が強く、私の(馬鹿チョン)カメラを先に渡すのでなければ、自分の(高級)カメラを渡せないと言う。私がひったくって一目散に逃げて行くのではないかと思ったのだろう。さすがアメリカだ。何はともあれ、彼の要求に応じて、カメラを渡し、まずその老夫婦を撮ってやり、代わりに私も最南端に来たという証明写真をめでたくものにすることとなった。

第5章 アメリカでの日本人旅行客



ページングって何? 成田空港からニューオーリンズへ向かう途中、サンフランシスコで乗り換えたが、ここは日本人のアメリカ観光の玄関口だけあって、成田空港の延長ではないかと思うほど、日本人が多い。場内アナウンスでしばしば日本人の名前を呼びだしている。「・・・様、いらっしゃいましたらお近くのインターホン(paging phone)でご連絡ください。」と英語で言っているが、たぶん当の人には添乗員がついていなければ、通じないだろう。カナダへ向かう途中、前にここに来たとき、壁に所々に取り付けられている、その白いインターホンが何の役目を果たしているかを知っている日本人はほとんどいなかったから。これだけ日本人が増えたのだから、サンフランシスコ空港でも日本語のしゃべれるアナウンサーを雇ったらどうだろう。

少ない日本人 さすがにアメリカ南部にまで来ると、日本人の数はぐっと減る。バスの乗客にも全くいないか、せいぜい一人だ。もっともニューオーリンズの観光の中心地には大勢固まっていたが。3月は春休みがかかるから、95パーセントまで学生である。後のわずかな部分が老夫婦が占めている。私のような働き盛りの年齢層は?全くゼロ。日本の労働者諸君、今後も仕事に精を出して円をいっそう強めてください。

ある英語留学 ニューオーリンズのYMCAホテルで知り合ったA君は大阪の学生で、一年休学してアメリカの語学学校で一年間、英会話を勉強したとのこと。はじめボストンでその学校に通っていたが、あまりにも日本人が多く、みんなで固まって毎日日本語会話ばかりになって嫌気がさし、同じチェーンであるロサンゼルスにある学校に転校したという。しかし彼がこの一年を振り返って述懐するには、単語をあまり一生懸命覚えなかったので、言いたいことが十分に言えないということだった。一年じゃ足りませんね、と彼は言う。何が一年だ。こっちは14日間で何とかヒアリングの感覚を取り戻そうと必死になっているのに。確かにこの男は聞き取りという点では何とかなっていたが、話すとなると自分で文章をうまく組み立てられないようだった。今度の旅は彼にとっての卒業旅行だった。ロサンゼルスを出発し、私と同じくバスを使って合衆国一周をしようとしている。その後彼とはマイアミ行きのバスにも、ワシントン行きのバスにも一緒になり、ワシントン市内ではまた鉄道の駅の前でばったり会い、その夜の安ホテルを紹介してもらい、最後には、なんとニューヨークの世界貿易セ ンタービルの展望台でまた偶然に会い、私が今度はミュージカルに割引で連れていってやるというおまけまで付いた。

大胆さで押しまくれ 彼の場合にはまだ少しは会話できるからよい。マイアミでは黒人の男二人に安いホテルがあるからと、のこのこついて行き、泊まった部屋で麻薬の売人にならないかと誘われ、真夜中にそっと逃げ出してきたなどと言う冒険までしている。しかし普通の学生は単語を羅列することがやっとだ。後は若さにまかせて、大胆さで押し通す。大学受験の時に勉強したことを少しぐらい役立てたらいいのに。英作文をいったい学んだのか。観光地では日本人はしゃべらない、しゃべれないと言う定評がすっかりできている。向こうもあきらめているみたいだ。もっとも、ニューヨークではスペイン語しか話せない人々が急増し、店で注文するときに一悶着起きるのを何度も見たから、日本人だけを責めるのはあたらないが。私もキーウェストのレストランで、ウエイトレスにトロピカル・ドリンクを注文したところ、たちどころに10種類ぐらい、見たことも聞いたこともないような名前を言われ、閉口したが、そこであわててはなるまいと思い、いかにも分かっているような顔で、「今君が言ったうちの一番最初のやつがいいな」と言っておいた。内心どんなドリンクが来るものや ら、ひやひやしていたが。なに、とにかく甘いんだろう?

地球の歩き方 日本人の学生たちが必ず持っているのが、私も重宝した「地球の歩き方」である。この分厚い本をのぞき込みながら観光地を渡り歩く。しかし同じ本を持っていれば、同じ所に集まってくるのは当然だ。この本は従来のお仕着せの観光ツアーを脱して、オリジナルな旅を目指して編集されたはずなのに、猫も杓子も持つことより、その魅力も失われてしまった。私もその点反省し、もうこの本にはあまりお世話になるまいと決めている。さもないと旅ではなく、よく野山で行われているオリエンテーションになりかねない。「旅の大衆化」とは常に独自な体験に対する敵である。特に団体行動の好きな日本人にとっては。私が身近に見た学生たちはみんな、ツアーの一員ではない。第一、ツアーに乗り合いバスなど用いない。一人旅か、2,3人のグループが多い。成田空港では、何とか大学ヨーロッパ研修旅行といったバッジをつけた学生の一団を見たが、あれでは伊豆の温泉旅行と大差あるまい。どうも日本の若者も大きく2種類に分けられるようだ。

半額割引 ニューヨークの街角では二人の日本人の女の子が重たいスーツケースを抱え、時差による寝不足の顔で右往左往している光景をよく見た。あれでいいのだ。若者に大名旅行は似合わない。でも、もう少し英語を勉強してほしい。切符売り場に、半額割引のクーポンがおいてあるのに日本人の誰も気づかず、正規の料金を払っているのだから。私は一日10人に話しかけるよう心がけた。すると全行程で100人以上の人と話すことになる。なるべく掲示やガイドブックは見ず、できるだけ人に聞くようにした。キョロキョロあたりを見回すのが日本人の特徴の一つになってしまっている。あれでは観光客であることがまるわかりだ。カモにもなりやすい。

第6章 ワシントンD.C.




一路北へ あれほど暑かったマイアミから北上し、一昼夜が過ぎてみると、身にしみるほど空気が冷たい。言葉も違う。隣に座ったおじさんはペンシルベニアにいる妹の所に向かうとのこと。普段は自分で車を運転して行くのだが、今回は試しにバスを利用してみたのだそうだ。65歳。私の父親と同じ年齢なのに、50歳ぐらいにしか見えない。若々しい。彼にはワイフがいない。「マイガールフレンド」という言葉を聞いて納得がいった。1945年には厚木基地にいたという。彼の話す英語はフロリダに住んでいながら、とてもきれいだ。親類が北部に大勢いるせいだろうか。

恐ろしい裏町 ワシントンD.C.の、いかにもターミナルらしいバスデポからは朝早いこともあり、歩くことにした。30年前に見たリンカーン記念堂などは何も変っていないだろうか。国家的記念物は何も変っておらず、相変わらず大勢の観光客が詰めかけている。ひどかったのはその裏町の崩れ方だった。一連の政府の機関から1キロと離れていないのに、スラムのひどさに午前中でありながら、身の危険を感じる。空家、煉瓦の崩れた、放火された家屋、地下鉄から吹き上げる暖かい空気を毛布でパラシュートのようにして受け止め、その周りに集まる浮浪者たち、それらがわずかなダウンタウンをはさんでアメリカ国家の中枢と隣り合わせになっている。地下鉄に乗ればよかったと後悔した。後で調べると、ここの殺人件数はニューヨークのそれをはるかに上回る。クラックの取引が仲間同士の喧嘩に結びつくらしい。恐ろしいところを通ったものだ。観光コースを少しでも外れると、生命を危険にさらすことになる。

地下鉄に乗って その夜、学生街ジョージタウンの中に泊まれるところを見つけたが、さすがに日が暮れてから再びその地域は歩く気がせず、地下鉄メトロを利用した。目的地まで80セントだったが、自動販売機に1ドル入れるとカードがでてくる。お釣りはでない。そのかわり、そのカードを改札口の機械に通すと、残額20セントと印刷されてでてくる。それでこれを再び機械に入れ、80セントになるまで再び乗車券として使えるようになる。お金を継ぎ足せるオレンジ・カードを思えばよい。ニューヨークでは一個1ドルのコイン(TOKEN)だったし、香港の自動販売機では、先に行く先ボタンを押した後で、お金を入れる。世界は様々で旅行客泣かせだ。

ベトナム戦争の傷 30年前になかったものはベトナム戦死者の名前を彫ってある碑だ。長さ200メートルにわたり一人一人の名が彫ってある。在郷軍人会の花束が飾られていたり、自分の夫、兄、父親の名を見つけて涙にかきくれている家族の姿が数多く目にはいる。近くには、いまだベトナムから帰らぬ、戦争捕虜の返還を求める看板を掲げた小屋があった。最後の一人が戻るまで有志が交代で泊まり込みを続けるという。戦争の傷は深い。

第7章 ニューヨーク・シティ


目の前の摩天楼 あと帰国まで5日を残すところでニューヨークにたどり着いた。ニューヨークに近づくと、高速道路を離れ、マンハッタン島へつながるリンカーントンネルへ続く道にはいる。その道はハドソン川に向かうに連れて少しずつ小高くなり、カーブの多い道を登って行くのだが、それまで谷間で周りの景色が見えないまま進んできて、あるカーブを曲がりきると、突然、目の前に摩天楼が川の向こうに開ける!それは文明の象徴であり、大自然の中を走ってきたあとでは感動的な光景である。

ホテルを探す バスの終着点のポート・オーソリティのターミナルは人生の縮図だ。ケネディ空港の清潔な雰囲気とは違い、ここはごった煮の世界。ここはホームレスにとっては最も居心地のよい場所であるようだ。構内のハンバーガーショップ。今私が食べている場所の向かいに座っていた男が店の人により追い出される。しかしエスカレーターや大きな柱の陰には必ずと言っていいほど、浮浪者たちがたむろしている。ここは世界で最も豊かな国の実質的な首都である。にらみを利かして腕組みをした、おっかないお兄ちゃんのそばに公衆電話を見つけ、見込みのありそうなホテルに電話をかけまくる。あいているところがあった。なんとバスターミナルから歩いて3分の所だ。古いぼろぼろのホテルだったが、この旅で初めてバスルーム付きの部屋に入れて感激。55ドル。ニューヨークタイムズ社の真向かいだから、これ以上の場所は望めないだろう。ここの経営者は中国系の人。金銭面でがっちりしていて、国際電話をかけるときは20ドルの保証金を取ったのはいいが、精算するとき料金を新たに請求してくる。向こうは保証金を取ったという記録はいっさいしない。もし保証金の領 収書をなくしたら、絶対にお金は返してくれないのだ。

デリで朝食を 朝食はブレックファストメニューがそろっているから、デリがいい。卵だ、ハムがいい、サンドにしてくれ、など注文するのが面倒くさいが。近くで買ってホテルに戻り食べる。昼と夜はこの町ではカフェテリア方式が一番気楽だ。チーズ入りオムレツ、メキシコ料理、そしてパスタなど、何でも手にはいるし安い。600円を超えなくとも十分な食事ができるのがうれしい。消費税にもなれた(当時8.25%)14日間すべて地元の食事で済ませた。みそ汁や醤油がほしいと思ったことは一度もない。私は食事の面では本当に無国籍者なのである。

ひとときのブロードウエイ ミュージカルでは「オー!カルカッタ!」と「コーラスライン」を見た。前者はもう25年にもなるロングランだが、もうとっくに最盛期を過ぎており、半額クーポンをプレイガイドに置いても客席の3分の1は空席であった。60年代における性革命の始まりを全裸の男女が踊って幕を開ける。ある批評紙に書いてあったように、今のように醒めた、金銭第一主義の世の中においてはまた新鮮なのかもしれない。今考えると当時は本当に純情だったのだ。コーラスラインのほうは映画で筋は分かっていたが、実際の歌と踊りのうまさには改めて感心させられる。この出し物は舞台に置く装置がいっさいないから安上がりだ。もっとも、登場する人物が多いので、主役の交代など、いろいろ大変らしい。このミュージカルもかげりが来ており、45ドルのところを割引クーポンを出して30ドルで入れた。その日の売れ残りを半額で出すチケット売場もあるが、わざわざそこに並んで時間を無駄にしなくても、こうやって手に入れることができた。ニューヨーク・フィルの演奏会の場合は、半額チケットがすぐ買えた。オーケストラは見事だったが、選曲が今ひとつだ った。だから売れ残っていたのか。しかし人気の度合いが敏感にチケットの値段に反映するのは結構なことだ。

万能都市 ニューヨークはそれぞれ自分に興味のある文化の分野についてさまざまな情報を提供してくれるから、大変勉強になる。およそ人間活動に関する限り、どんなことでもこの町で得られると言っていい。帰りの飛行機の中で隣に座った若い女性は成田市に住む結婚式場の美容師だったが、1週間の滞在で大変学ぶことが多かったと言っていた。彼女は英語を話すことはできないが、友人が市内にいるのでその案内でいろいろ巡ったという。彼女が自分の目的がショッピングではないというのを聞いて、旅行の目的もいろいろ多様化してきたと思う。私は美容院など一度も見なかったが、やはり興味のあるところが違うと見えるものも違うのだ。

ニューヨークの大道芸より危険のない町へ 郊外にもいろいろとおもしろいものがある。ブロンクス動物園、コニーアイランドは市民の憩いの場だ。しかしひとたびマンハッタンを出ると、その風景はとたんに平凡なアメリカ的風景となる。そしてブロンクスの場合は、スラムと崩れ落ちた煉瓦づくりの家。しかし5年目にここに行ったときと比べると、だいぶ改善された。地下鉄の中の落書きは完全に姿を消した。もう危険な乗り物とはいえない。でもあの流麗なスプレーによる抽象画が車内にみれないとなると、少しばかり寂しい気持ちになる。混乱が秩序へ向かうとき、多様性は常に人間社会では犠牲にされる。香港の場合と同じだ。清潔、便利は無菌室への道だ。でも大道芸人の数は減っていない。むしろ冬の期間にも関わらず、週末には結構多いくらいだ。日曜日のワシントンスクエアにはやはり思ったとおり、芸人がたくさん見物人を集めていた。剣を飲み込んだり、見物していた若いフランスから来た女の子を一輪車に乗せて走ったりした熱演の後、一人平均1ドルの見物料をもらっていたが、あのとき少なくとも150人はいたから、結構いい収入になるようだ。

貪欲の80年代? しかし全く偏見と独断に満ちた観察によると、5年前に比べると人々はケチになってきたようだ。大道芸人の実入りはあまりよくないようだ。ホームレスの激増と、若くてぴんぴんしている若者までが、麻薬を買うため小銭をねだるようになってきたため、慈善とか町の芸術家の生活を助ける、といった気持ちが薄れてきたのかもしれない。みんなレーガン大統領やサッチャー首相の始めた経済振興策のせいだと思いたい。今は貪欲(greed)の時代なのだ。あの有名な宝石店ティファニーの隣にある成金不動産王ドナルド・トランプの建てた、トランプ・タワーを見よ。壁はみんなどぎつい黄金色だ。5階ぐらいまで吹き抜けになった空間には、植物が植えられ、高級ブティックが並んでいる。今や有名な観光スポットになったこのビルも時代を敏感に反映している。

パレード 3月17日金曜日はセント・パトリック・デーで、春の始まりを告げる、アイルランド人のお祭りの日。40ブロックにわたって軍人や名士たちのパレードが続く。見物人は奇声をあげ、アイルランドの象徴である、緑の旗を振ったりしている。みんな何か緑のものを身につけている。私のジャケットも偶然緑だった。通り過ぎた黒人の子供たちが私を見て、「アイルランド人みたいだ」とはやす。しかしいろいろな服装をした人々がバグパイプの演奏を先頭にただ行進するだけで、いまひとつ盛り上がらないのだが、人々はそれなりに楽しんでいる。パレードの楽しさはミュージカル「イースターパレード」を見ればよい。ただこの日が稼ぎどきとばかり、空き缶を集めてひと儲けしようという人たちでゴミ箱が、10分に1回の割合で巡回を受けている。ジョークの本を見たら、こんななぞなぞがあった。
What's eight miles long and has an IQ of forty?
--The St.Patrick's Day Parade.(8マイルの長さで知能がやたら低いのはなあに?)

第8章 浪費社会再考


他の国はまねするな アメリカ人1人でインド人何十人分のエネルギーや食料を消費するか。世界の限りある資源について述べた文章で、よく目にする話題だ。今度の旅で1番目についたのは、カフェテリアにおける使い捨ての紙やポリスチロールでできた皿、ナイフ、フォーク、砂糖や塩の入った小袋、そしてナプキン類である。そしてたった一人で乗っている巨大な乗用車。車がこの国では欠かすことのできないものだということはよく分かるが、大都市付近の自動車専用道路なんて、何車線に増やしても同じことだ。その点バスは省エネの筆頭といえよう。ワシントンD.C.に近づくと、高速道路の車線は片道4線から5線になるが、その1番左側はバス専用路線である。右側の大渋滞を後目に、グレイハウンドバスはすいすいと進む。遅れゼロ。実に気持ちがよい。日本でも一部の都市でバス・レーンが導入されているのは知っているが、こちらでおもしろいのは道ばたの看板。「バス専用線を走っている車を見つけたら直ちに通報せよ。電話番号は・・・HERO」局番は数字でも、その後の4桁はプッシュホンの数字とともにボタンに打ってある、アルファベットでの語呂合わせにしてある 。通報したものは英雄だというわけだ。日本の高速道路の側道を渋滞時に通る不逞の輩に見せてやりたい。

ニューヨーカーのポスターリサイクルを求めて カフェテリアでは、使い捨ての食器はただということになっている。衛生面から考えてもその方が安上がりだといえようが、結局食べ物代に含まれていることは間違いない。これを食器を洗って使うならば、洗剤と水の大量消費が起こるだろう。どっちみち浪費は免れない局面に立たされている。最近では、紙製のおしめの中にも、燃さなくとも土に埋めれば、自然に腐るものが出回っているという。今のように洗剤で洗うとか、燃してしまうといった一方通行を早くやめ、循環式のシステムを早く作り上げる必要があろう。空き缶のデポジット方式は、すでにカナダに行ったときも、目にしていたが、回収を積極的に押し進めるような方法の工夫が必要だ。カフェテリアでも食器類を無料にせず、いくらかとるか、クーポンを集めて割引が効くようにすると、自分で食器を持参する人が増えるのではないか。そんなの持ち歩くのが面倒くさいという人のために、誰かとても便利で洗いやすい携帯式の食器セットを発明すれのもよいのだ。

強制は無理 先に述べたデポジット方式のほかに、アメリカの方が日本より進んでいるのは、デパートの包装だ。どんな高級品を買おうが、何も印刷されていない茶色の袋に入れてもらえる。ごていねいにLITTLE BROWN BAG と大書されているのはご愛敬だ。この紙は再生に再生を経た、最終生産物だろう。もう捨てられ、燃されてもいい。カレンダーのような日本の包装紙は、また煮溶かして3,4回使えそうだ。そして食べ残し。贅沢に慣れた人々に、節約の生活方法を押しつけるのは不可能である。でも残ったものを気軽に持ち帰れるよう、入れ物が用意されていたり、別にそれが恥ずかしくない環境であれば、残飯の山は減るだろう。やはり節約することにより、利益があるというようにシステムをもって行かなければなるまい。イソップ物語の北風と太陽の教訓を生かすべきだ。

第9章 語学教師の海外研修


教師の語学力 語学、特に英語を教えている人たちは日本中に何万人といることだろうが、英会話学校の教師は別として、一般の教育課程の中で教えている人たちの英語の能力はどのようになっているのだろう。教師の能力とは大きく2つに分けて、わかりやすい説明ができる能力と、英語そのものの言語の運用能力になるが、後者のチェックは一度この仕事に就くと、全くと言っていいほど行われていない。そのような状態で、生徒に英語を教えられるのだろうか。毎年強制的に、たとえば、TOEFLなどを受験させて、その点数を給与や昇進の参考資料にすれば、英語教師の質は大幅に高まると思うのだが。

とにかく外国へ そのようなテストによる英語力の向上を図るとともに、やはり海外研修を欠かすことはできない。文部省は海外から外国人を招聘して、日本の中学や高校で教えさせている。きれいな発音、文化の違いなどを生徒に教えるのは大変結構なことだ。だが気になることは毎日教えている、先生たちに対する教育はどうなっているのだろうか。高い金をかけてイギリスやアメリカから先生たちを呼び、給料を払うのも国際親善の一つだろうが、日本人の英語の先生を海外に送り、研修させる方が先決ではないか。その方面に対してはあまりにお粗末だ。教師は夏、春、冬休みと休暇の期間が恵まれているのだから、その時期に英語国に送り込み、徹底的な語学研修プログラムに参加させたら、はるかに効果的だと思う。毎日生徒に接するのは彼らであり、海外からの新鮮な情報がわずかでも国際感覚を身につけて持ち帰ることができれば、どれだけプラスになることだろう。英語教師の中には海外3日目でみそ汁が飲みたいとか、しゃべることが全くだめでノイローゼになる人もでてこよう。それはこの仕事を辞めるよい機会ではないのか。

実践あるのみ 受験英語は害があるとか、日本人が英語のできない理由をいろいろ知ったかぶりをして挙げる人は多いが、教える教師が「井の中の蛙」である限り、どんなに教育制度が改革されようと、言語教育の進展があるはずがない。私は誰も行かせてくれないなら自分で行くしかあるまいと思っている。これからも毎年出かけてスピーキングやヒアリングの力が衰えないようにしなければならない。

第10章 旅の終わり


どこでも行ってやろう 今回も精力的に歩いた。特にフレンチクオーターやマンハッタンでは細かくあちこちまわり、足に大きなマメができた。でもやはり、歩かなくてはだめだ。バス旅行も正解だった。アメリカの田舎の良さがよく分かった。全費用は約32万円で、安上がりにしては経験できたものは多かった。この小さな見聞録では書ききれないほどだ。ふと小田実の「何でも見てやろう」を思い出す。それにしても非日常的体験をした後では日常生活に戻るのは苦痛だ。また出かけたい。

第11章 記録



旅行期間 1989年3月8日より21日まで

8日(水) 成田空港ユナイテッド・エアライン機にて14時出発。同日9時サンフランシスコ着。乗り換え後、19時55分ニューオーリンズ着。YMCAに宿泊。
9日(木) ニューオーリンズ市内見学、YMCAに宿泊。
10日(金)ニューオーリンズ市内見学。14時15分バスで出発。車中泊。
11日(土)マイアミ15時25分着・市内見学。CENTRO AMERICAに宿泊。
12日(日)マイアミをバスで7時15分発。キーウエストに11時45分着。キーウエスト巡り。17時30分発。22時頃マイアミ着。
13日(月)バスデポで午前2時15分まで待って出発。1日中のりっぱなし。車中泊。
14日(火)午前8時ワシントンD.C.に到着。市内見学。ALLEN LEE HOTEL に宿泊。
15日(水)9時30分発。14時ニューヨーク着。
16日(木)この日より19日(日)までニューヨーク市内をあちこち行く。CARTER HOTEL に5泊。
20日(月)11時50分ケネディ空港よりユナイテッド機にて帰る。
21日(火)15時成田空港に到着。

総費用

往復航空機代19万円
アメリパス2万円
ホテル代、交通費、食事代その他小遣いを合計して11万円をトラベラーズチェックにて(おみやげ代は除く)
合計約32万円

おわり

HOME > 体験編 > 旅行記 > アメリカ南東部

inserted by FC2 system