その1(2022年10月)

5255

HOME > 体験編 > 旅行記 > インドネシア3都市(1/6)

目次

PAGE 1

インドネシアへ

ジャカルタ北部

付録:滞在日記

PAGE 2

ジャカルタ南部

PAGE 3

ス マ ラ ン

PAGE 4

ジョグジャカルタ市内:王宮等

PAGE 5

ジョグジャカルタ市内とプランバナン

PAGE 6

ボロブドゥール遺跡

Contact Usl

 

外部リンク・・・外部リンク


インドネシアへ 

 なぜ”インドネシア”なのか: 

2019年11月にマレーシア・シンガポールを旅行した。そのあとコロナが流行し国内に閉じ込められて3年近い時が流れたが、ようやく今回インドネシアへの入国と日本への帰国のめどが立ち、いわゆる「マレー系国家三部作」の締めくくりをしようと旅立った。この3つの国は文化的背景は類似しているが、経済的レベルにおいて隔たりがある。また社会のオープン度や民主主義の発展度合いにも差異がある。お互いに近い関係にあるマレー語・インドネシア語の比較も兼ねて総合的に眺めてみようと思った。しかもインドネシアには10年前からのメールで“文通”している友人がおり、初めての対面もまた今度の旅行の大きな目的の一つとなった。

 地理:

インドネシアは人口が2.735億(2020年)で、その中心地は首都ジャカルタのあるジャワ島である。世界地図で見るとジャワ島は南北には200キロぐらいの幅しかないが、東西には幅が1040キロある、たいていの日本人はジャワ島の東隣にあるバリ島にしか行かないので、今回はバリ島ではなく、首都のジャカルタ、インドネシアの京都と言われるジョグジャカルタ、個性ある地方都市スマランの3都市を訪れることにした。いずれの都市もジャワ島の西半分にある。その途中は大部分が米作に向いた平原である。島の背骨に当たる山脈はあるが険しい高山はあまりない。気候は赤道よりわずか南に位置する熱帯性で、雨季と乾季があり、ほとんど毎日夕方になるとスコールが降る。

上へ

付 記

旅行記編集について: 今回、 スマホに「文字変換アプリ」を仕込んだので、 今までとは違った方法で旅行記を書くことにした。今まではたいてい日本に帰ってから思い出しつつ新しく書き加えていたのだが、今回はホテルに毎日夜戻って寝る前に、ホテルのベッドで横になりながら自分が今日やったことを思い出しながら一種の口述をしてそれを保存しておき、家へ帰ってからそれを適当に編集することにした。 これならば、 生の経験がすぐそのまま文字に出来るので大変ありがたい。ただし日本語には同音異義語が多いので、編集段階での訂正が多いのが大変だった。

SIMカード:前回2019年の時と違い、スマホに特定の国で使えるデータ専用SIMカードを用意した。1週間用のカード2枚である。おかげで幹線道路を通らず肩が触れるような狭い道を通って目的地まで歩いたり、間違ったバスに乗って置いてきぼりになった時も、無事もとのところに戻ることができた。もはや迷子になる心配がなくなったのだ。 人口密集地を旅行したので圏外になるようなことはなかった。

上へ

ジャカルタ 北部 

5139
クアラルンプールよりハッタ・スカルノ空港に到着。空港はジャカルタ市北部にあり、夕方の到着だったのですぐには都心に向かわず、とりあえず空港近くのホテルに一泊した。Kyriad Hotel を選んだのは、かつてパリで同じチェーンのホテルに泊ったからだ。これは窓から眺めた翌朝の風景。目の前に川というより、運河のような流れが見えている。
5140
真ん中にある橋のそばでは女たちが洗濯をしている。川の水が灰白色なのは汚れているからだけでなく、この島の熱帯性と火山性の土が溶け込んでいるからだ。だから島中ほとんどの川がこの色をしている。
  5141
右上に見えていたのがモスク。大部分がイスラム教徒であるこの国では街ごとに置かれているし、早朝の「アザーン」もやっている。中東諸国のモスクと比べると緑や黄色、赤など明るい色が多い。
  5142
ホテルのロビーに飾ってあった人形と供えられた食物。これらはイスラム教ではなく土着の習俗に基づくものであろう。
  5143
空港から都心に出るには、「空港鉄道」が一番だ。あとでわかるがジャカルタの交通渋滞は世界最悪に数えられるぐらいだから、中長距離での自動車は極力避けるべきだ。本数は少なく座席はガラガラだが、まだコロナの影響が残っているのと、切符はクレジットカードでしか買えないため、一般庶民が乗車から締め出されているため。
  5144
空港から二つ目のDuri 駅に下車。とはいっても40キロぐらい離れている。駅周辺にいたこの猫は比較的太っている。あとでわかるが国中のほとんどの猫はガリガリに瘦せている。
  5145
こちらは空港鉄道に一部並行する各駅停車の車両。普通の乗客はこちらを利用。首都圏なので、車輛は比較的新しいものが多い。しかもこの辺りは電化している。
  5146
Duri 駅の駐車場から駅を眺める。この駅は山手線でいえば渋谷駅ぐらいの重要性を持ち、これから泊まろうというホテルには徒歩30分ぐらいである。街の様子を調べるため、あえてタクシーやバジャイ(オート三輪)には乗らない。グーグルマップによるナビのおかげで迷う心配はない。炎天下で必要なのは体力だけ。
  5147
線路に並行してドブのような濠(ホリ)になっている。
  5148
濠と線路に沿って南下していくのだが、グーグルマップの案内する道はわずか2メートル程度の狭い道。両側が商店や住宅になっている。狭い道に合わせてか屋台の車も細くできている。それでもここをオートバイが強引に通過するのだ。
  5149
飼い主の了承を得て撮影。瘦せてはいるが毛並みは悪くない。
  5150
細い道を出て普通の道路に入る。かぶっている麦わら帽子が奇異に見えるらしく、声をかけられたりする。
  5151
この標識は右側にモスクがありますよと告げている。モスクは生活の中で重要な役割を果たしているのだ。
  5152
真ん中に中央分離帯のある片側2車線の道に出た。これがホテルのある通り、ジャラン・アシャリ(Jalan Ashari)。信号機というものはまずめったに設置されていない。もしあると渋滞が今までの数倍もひどくなるからだろう。交通は自動車の両側にオートバイが強引に割り込むことで成り立っている。1秒でも遅れると後ろから警笛を鳴らされる。とはいえそれは中東などでも同じこと。この道路を横断するにはまず地元民を盾にしてぴったりくっついていくことだ。それによって交通の流れを泳ぐコツを覚える。
  5153
ホテルにチェックインしたあと外に出て、大衆食堂で夕食をとる。ナシ(白ごはん)、ソト・チャンプール(ごたまぜ汁)、テ・タワル(砂糖なしお茶)の3品だ。最初は店の人に、「あの人とおんなじ物持ってきて」と言って注文する。あとでわかるがここはSolo Roxy といってなかなかの有名店であったのだ。ソトがうまい。
  5154
ここは山手線でいえば、そのど真ん中というところだが、あちこち歩きまわって分かるのは、車道部分はまあちゃんと作られているが歩道は極端に狭いか、敷き詰められている石が崩れているか、下手すると歩道に根を張った街路樹のために車道に出なければならない。この国に「歩行者優先」という考えは存在しない。この狭い歩道の向かいには巨大で豪華な銀行のビルがそそり立っている。この社会の縮図である。
  5155
一応レストランと名のつく店に入ってみた。左の皿は白ご飯と唐辛子のペースト(サンバルトゥミス)、右手前は鶏唐揚げ(アヤム・ゴレン)、奥は野菜の煮込み。後でマレー語のテキストに載っていた「テタリッ(ミルクティー)」も注文してみた。2週間いて分かったが、辛い辛い唐辛子練製品は食中毒予防のために、進んで口に入れたほうがいい。
  5156
山手線でいえば上野駅に当たるのが、北のほうにあるコタ駅だ。ここは全国に向かう長距離列車ではなく、短中距離の列車が発着する。通勤用のコミューター列車にも乗ってみた。電子マネーで快適に改札を通れる。
  5157
上野公園に当たるのが駅前からすぐの「ファタヒラ広場」。市民の憩いの場であり、麦わら帽子を添え蛍光色に塗り立てたレンタサイクルもある。
  5158
学生の団体行動が目につく。博物館見学にやってきたのか。高校生のようだ。
  5159
「ファタヒラ広場」全景。正方形をしており、赤い屋根の建物は「ジャカルタ歴史博物館」。
  5160
ヨーロッパの観光地でも見かけた、生身の体全体にペンキを塗ったくって銅像のふりをする商売。
  5161
 歴史博物館の中庭。大砲も置かれているが、ニワトリもいる。
  5162
コタ駅の北は港まで「バタビア地区」だ。オランダの植民地だった時に、長崎の“出島”みたいな役割を果たしていた。旧日本軍に占領されるまではここにオランダ人が住んでいたのだ。ぼろぼろの屋根の取れてしまった放置された時代物の建物があるが、これは保存する気があるのかどうか定かではない。
  5163
ゴッホの「跳ね橋」そっくりだ。これは再建されたものだがいかにもオランダ風だ。
  5164
その跳ね橋を渡って水面を見下ろすと、そこには裸の男たちが川底の泥をさらっていた。
  5165
 ここから先は「旧バタビア港」だったところ。今では「海洋博物館」になっている、スパイス保管のための倉庫やこの見張り塔。この先さらに北に現在の港がある。
  5166
見張り塔の上からは港全体が見渡せる。すぐそばの運河のほとりには赤屋根のPasar Ikan (博物館・美術館)が見える。
  5191
海洋博物館からさらに北に上がると、現代の港「スンダ・クラパ港」が見えてくる。この青い帆は港の入り口にある模型の船のもの。
  5192
 そこにあるのは、先のとんがった木造船「ピシニ船」である。鉄の船とはいささか雰囲気が違う。
  5193
 そのピシニ船にトラックが横付けされ荷物の運搬が行われている。ここは細長い突堤になっており、背後にはウォーターフロントの高層ビルも見える。
  5167
 跳ね橋から南へ下がる大通りは歩道が広く、いろいろな変わった建物が楽しめた。このホテルは全体が緑に覆われているうえに、屋上には手の込んだ彫刻が施されている。
  5168
 歩道に建つ少年の像。裸足なのだ。
  5169
 ポンツーン(浮桟橋)を利用した運河上の散歩道。
  5170
 オランダ風の家並みが続く。観光馬車も通る。
  5171
 跳ね橋から1キロほど南下すると、この町にも中華街があるのだ。世界中に「中華門」がある。これは「Pintu Kecil (小門)」と書いてあるから、ほかにでっかい門があるのかな。
  5172
 せっかくだから「Santung (山東)」という店で水餃子を食べることにした。連日の地元料理のあとで、餃子がとてつもなくおいしい!みんなこんな店構えだから、オートバイに埋もれて見つけるのはなかなか難しい。
  5173
通りを歩いているとペットショップがある。そこに閉じ込められているのはジャワ島だけでなく、スマトラ島、ボルネオ島、そしてはるかニューギニアから運ばれてきたとみられる野生動物たち。国際的な取引ではなく国内での移動だからいくらでも法の網をかいくぐることができる。野生動物の激減が心配だ。
  5174
 ペットショップは屋台と同じように歩道上に設置されている。動物だけでなく植物も所狭しと置かれている。中国・武漢におけるコロナの発生もこんな野生動物がぎゅうぎゅう詰めになっているところで起こったといわれているが…
  5175
 大通りに出ると、巨大な中華門が目に入る。その横には豪華なモールもある。華僑であっても富裕層と貧困層とに別れているのだろうか?
  5176
 コタ駅前の通りに出る角に、この「シオン教会」はある。オランダ植民地時代の1600年代につくられたジャカルタ最古の教会。中に入れなくとも木立の間で車の騒音に悩まされずに休憩できた。大きいのに、形が小屋のようだ。
  5177
 コタ駅西側にある川のほとりで。いかだに乗った男がごみを運搬している。

上へ

ここから先は長文で写真なしです。

10月3日

羽田発でKL(クアラルンプール)の空港に着いたのは、朝の9時ぐらい、それから6時間ぐらい待って、 その次に、 ジャカルタ行きに乗る。 KL の空港は大変混雑していて、 相変わらず大勢の人々が行き来している。 KLの空港内では新しいものがあった。 一つは迷路の模型。子供が垂直にに作られた迷路をいろいろ辿っていくことができるゲーム。もう一つはコーヒーの自動販売機で従来のものとは異なる。この機械はスマホ感覚でタッチをすることによって商品が得られる仕組み。しかし使い方が面倒なので大勢の人は試みても諦めて去っていく人が多い。人がいなくなった時を見計らい、私はしっかり買うことができた 。大変美味である。

約2時間弱の飛行機でジャカルタ着。 ジャカルタに着いたのは3時だが、そこからは大変面倒な手続きが待っていた まず、飛行機を降りてから。 いろいろな手続きの所に行くのになんと2 km 近く歩かなくてはいけない。延々と続く通路を行く。

最初にまず検疫に証明書を提出してそれによってまずハンコをもらわなくてはいけない。幸いアプリに接種証明書を入れていたのでなんとかクリアすることができた。 最後に valid というハンコを飛行機の搭乗券に押してもらった。 次は通関申告なのだが、まだSIMカードの設定ができていなくてスマホが使えない。それで仕方なくパソコンに直接入力をすることになった。これがまた面倒だったが、操作の最後にQRコードが出てきたので、それを写真に撮ってこれを税関の職員に示すとやっと通過できた。

その次は、 飛行機に預けていた荷物をとる。 普通だったら何の問題もなくとれるのに、 ここは多くのコンベアーのあっても、そこに書かれてる航空便の名前がものすごく小さくて、全部で7つぐらいのコンベアを一つ一つ見て回って探さなければない。ものすごく不便な場所であった。 ところが幸運なことに、その自分の乗ってきた飛行機の荷物が運ばれてくるコンベヤを遠くから見つけて、すぐに自分の荷物が回ってきた!まぁなんとか、これでやっと外に出て、すぐ横に通貨の両替所があったので大昔に買っていたドルの紙幣を使って両替した。 ドルの紙幣ならば、円安にあえぐ日本の紙幣よりもずっと交換率がいいだろうと。

空港のターミナルビルから外に出たとたん、後ろから「タクシー」と呼び止められて、タクシーの事務所に入った。 かつてのネパールあるいは、インドのコルコタの時と同じように、あらかじめ事務所で少々高いがお金を払ってそのあと連れていってもらうシステム。タクシー運転手との金銭上のトラブルは避けられる。それは良かったんだが、自分の行きたいホテルまでの料金を後で調べたら、ものすごくぼられてることは分かった。第一の失敗。多分これは正規の運転手じゃなくて白タク(スマホアプリ)だからと思うが、普通の乗用車に乗って約30分ぐらいの混雑する道を行ってようやくホテルに着いた。

ホテルは空港から直線距離では大したことはないのに、 ものすごく大回りをしなくてはならない。なぜならば滑走路がある所を迂回しなければならないからだ。しかも道路の300 M に1回ぐらいに路上に「ハンプ(凸)」というのがあって、その度に車はスピードを落とさなくてはいけないので、何とも面倒な道だった。周りはオートバがやたら多い。オートバイが普通の車の運転を邪魔する。まあそれでもなんとかホテルにたどり着いた。

ホテルはもちろん、ものすごく安くて、それでもかつてパリに行った時に泊まったKiriardホテルというチェーンだったので、そんなに不安はなかった。レストランもついいてそこで バイキング料理を食べたんだが、これが日本円にして800円強。 まあ、妥当な値段でその料理の中身は西洋料理じゃなくて典型的なマレー料理と言うかインドネシア料理と言うか、味付けもちょっとまあ普通の人にとってはあまりいただけないものかもしれないが、私にとっては美味しく食べられた。最後にデザートも食べて、これで疲労困憊して寝たのが9時半ぐらい。 まあそれでも部屋はエアコンが効いてるし、ベッドもダブルベッドなので、これで疲労を回復することができただろう。

10月4日

今日は2日目。 まずは、ホテルの移動だ。 今までいたホテルが空港の端にあり都心からもあまりにも不便で、街の中心部にある「Lozari Roxy ホテル」に移動することにした。とはいってもこれは大変な作業で、一旦空港までタクシーで行き、空港から今度は空港特急に乗って駅で三つめのあたり Duri という駅で降りる。 そこから2.5キロぐらいだから歩けば30分ぐらい。

駅を降りて南に下ると非常に貧しい家並みが続いているところがあった。 ちょうどエジプトのカイロの時と同じように、社会の最下層の人達が自分達で食べ物を作ったりして売っている。そして その狭いところは自動車は無理だがオートバイは通れる。長屋の人々が顔を付き合わせて暮らしているというところだ。

これがインドネシアの格差社会の実態なのだ。その狭い小路を抜けると、 普通の都市部に入った。 真昼間から車が渋滞しているわけだが、特にオートバイが多くてそのために歩行者はいつも肩身の狭い思いをしなくてはならない。 とにかくこんなわけで。 次の新しいホテルに到着したのは昼過ぎだった。

その後、近くのレストランで地元料理を食べた。 Soto という 肉や野菜を煮込んだスープ。 これなかなか美味しかった。 食事をしてからちょっと昼寝をして目が覚めたら、大変な夕立で雷が鳴っており、これはとても駄目だと思って雨が止むのを待っていたんだが、 4時になっても雨はやみそうにない。仕方なく傘をさしてで外に出た。

このジャカルタの雨というのは、夕立の場合はあんまりにわか雨らしくない。 一旦止んでもその後、 キレの悪い小便のように。 相変わらず降ったり止んだりして。 しかも空はずっと黒くて厚い雲が立ち込めたままで、いつまでたっても青空が出てこない。つまりカラッとした空がいつまでも現れないのだ。 仕方なく、 外に出るが、傘を差している人はごく少数だ。みんな雨にぬれてもまるで平気だ。

渋滞する街の中を30分ほど歩き、 独立記念塔「モナス」まで行った。 ところがもう時間は遅くて夕方の5時過ぎだったので、入口は閉鎖され、遠くから写真を撮るしかなかった。 それからも歩いて戻ったんだが、 雨はだんだんだんだん激しくなってきて。、もう足はずぶ濡れになりながら、しかし気温は高いので体が冷えることはなく、まぁなんとか6時過ぎには 帰り着いた。

というわけで、今日はあんまり実りのない1日だった。 Diri 駅そばの貧民街の様子はこれはちょっと心に残った。独立記念塔は大したことはない。これはもうイランのテヘランでも、 マレーシアのクアラルンプールでも、 あるいは、タンザニアのアルージャでもみんな同じだ。 どこでも自分の国が独立したことをすごく喜んでいるんだろうが。 ま、時が経つと共にみんなに忘れられて、観光客の写真の対象にしかならないものなのだ。

10月5日

第3日目、今日は北部地区へ向かう。 昨日の雨に懲り、最初からタクシーを利用して、 コタ駅まで行くのに約20分かかったが、 それで4万ルピア。 その後、 このコタ駅で色々な鉄道の情報を調べた上で、まずは北上をして広場に向かう。

「ファタヒラ広場」というところにいろんな博物館が集まっている。しかも大勢の小中学生などがいて、どうやら今日は見学日和だったらしい。まずは「ジャカルタ歴史博物館」に向かい、この地域がかつてはオランダの植民地であって「バタヴィア」と呼ばれていたことを知る。

その後、近くの川を港に向かって下っていく。 そうすると、 鉄道線路や高速道路の高架橋をくぐって、次の目的地は「海洋博物館」となった。海洋博物館は、 かつてのオランダのスパイスの倉庫あるいは見張り所だったらしい。しかもそこには高い塔が立っていて、そこで緯度経度を正確に測った。これによって、 ジャワ島の正確な測量の基準ができたのである。

港に近づくにつれて道路は乗用車だけじゃなくて、大型トラック、コンテナ・トラックがたくさん走っており、昨日と同じく、ろくに信号もないものだから、車の間をすり抜けるという命がけの体験をしなければならない。 またここに流れてる川は皆とてつもないドブ川で、 その真っ黒な川を裸の人間が浚渫(シュンセツ)つまり底の泥をさらっているという状態である

海洋博物館を出てから再び南に下がり、 チャイナタウンに入った。 クアラルンプールのチャイナタウン、シンガポールのチャイナタウン、そして世界中のチャイナタウンに興味がある。 しかもマレー料理というかインドネシア料理をがだいぶ続いたので、ちょっと口直しをしたくなったところだった。

チャイナタウンの中にある餃子の店に入った。「山東餃子」という店だが、そこで水餃子を食べた 実にうまかった。 そのすぐ横には中国系のモールがあって、そのモールでは大勢の中国系の人々が買い物をしているようだった。だがコロナのせいなのか賑わっているのは一階だけでそれより上の階にはテナントはまったくくなく、伽藍洞(がらんどう)だらけで、アンバランスな建物であった。

この後、 いろいろとその辺りの小路をさまよった後、再びコタ駅に戻る。 そして今度は「コミューター列車」に乗るために IC カードを買う。 世界中のICカードを集めるのも私の趣味なのだ。このコタ駅から南へ三つほどの駅まで試乗してみた。

そこは、 今泊まっているホテルに近そうだったので、行ってみたんだけども、実際には歩いて40分かかるということはわかったので、もう大渋滞の中を歩くのはうんざりだから、そこに走っているバジャイを呼び止めて乗ってみた。 スリル満点で、他の乗用車の中に揉まれながらくねくねと進んだ。15分から20分でホテルに帰ることができた。 値段は一般タクシーと同じか高め。でも狭い空間と気取らない庶民感覚が気に入った。それから何度もバジャイを利用することになる。

上へ

次ページへ

HOME > 体験編 > 旅行記 > インドネシア3都市(1/6)

inserted by FC2 system