インド北部 Northern India

(1990年)
カルカッタの繁華街

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 インドの流行歌speaker

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第1章 インドへの道(原稿) 第2章 コルカタ(原稿) 第3章 ブッダガヤー(原稿)

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注;旧名カルカッタ→コルカタ 旧名ベナレス→ヴァナラシ

第1章 インドへの道 

第1章インドへの道

北部ルート 今回の旅は成田からバンコクを経てコルカタにいたり、そこから鉄道を使って釈迦が悟りを開いた地ブッダガヤ、ヒンドゥー教を信じるインド人にとっての聖地ヴァラナシ、タジ・マハールで有名なアグラをへて、首都デリーへと至るルートをとった。このコースはインドを初めて訪れる人にとってはもっともポピュラーであり、至る所日本人観光客を目にすることができる。インドは逆三角形をしており、その広さはアメリカ合衆国の半分ほどもあるが、その右の端(東インド)から左上(北インド)へと至るコースとなる。インド第一の人口を誇る都会コルカタはいわばニューヨークであり、首都ニューデリーは近代的な都市計画地域を含む、いわばワシントンに当たる。

昔を求めて なぜまたインドに行くことにしたか。物質文明に酔いしれる日本からわざわざ生活水準が極端に低い国に出かけてゆくこともあるまい、東に同じ距離をゆけば、10倍の日本人観光客の群がるハワイがあるではないか。しかし西洋文明に侵略を受ける前の状態について我々はあまりに無知である。日本の終戦直後のような社会的文化的状況はすでに日本人の心から消え去ってしまっている。その消え去った記憶を求めて、インドに向かったといえよう。さらに英語が一般庶民の間で通じる。これは心強い。インドの片田舎でもよぼよぼの老人が片言でも英語を解する人がいるということは何か奇妙な思いがする。英字新聞もたくさん種類があるし、店の看板もたいていはヒンディー語と英語が併記されている。もしビルマ、アフガニスタンのような国々を旅したら、きっとこのような便利さは体験できなかっただろう。

未知の文化圏 ユーラシア大陸の南の縁は日本から西へ進んでゆくと、朝鮮、中国、ベトナム、タイ、カンボジア、ビルマあたりまでは仏教と米作の文化圏でひとまとめにすることができる。ところがバンコクからたった2時間、距離にして約1200キロ行くだけで、バンクラデッシュを経てあっという間に別世界が始まるのだ。カレーによって代表された中東的世界だ。実際インドに行って、もっとも強く感じたのはそのアラビア的雰囲気であった。ここから西へパキスタン、アフガニスタン、イラン、イラク、サウジアラビアと、トルコに至るまでこの文化圏は続くのだ。東南アジア文化圏しかなじみのなかった私にとっては、新しい地域に足を踏み入れたことは、本当の意味でカルチャーショックであったのだ。

価格的に遠い国 ハワイまでの往復航空運賃が安いことは周知の通り(7万円前後)だが、西へゆくときはバンコクまでは6,7万円で確かに安いが、さらに西のインド圏に足を踏み入れると、とたんに高くなる。さらに5万円以上、上積みをしないといけない。安く済ませる方法としては、バンコクから西への航空切符を日本国内ではなく、バンコク市内の格安航空券を売る店で買い求め、それを日本へ郵送してもらう。この手の込んだ方法を採ることによって、今回は13万円に抑えることができた。それにしても、東京ーロンドン間の往復を知り合いが15万円で買ったというから、市場の原理とはいえ、この価格上の不釣り合いには当惑させられる。極東の人々は東南アジアとヨーロッパには多く出かけるが、インドは素通りしてしまうという事実があからさまにでているのだ。

インド社会の行方 このようなわけであるから、インドは鎖国をしてるとはいわないまでも、世界の中では独特な文化圏を最近まで維持できている数少ない国の一つである。しかもこの国は外国の会社の投資や参入を厳しく制限し、コカ・コーラでさえも、飲めないほどであり、必要なものはすべて国産品でまかなおうとする自給自足の気概に燃えている。その点、外国のものは何でも受け入れ、町には日本製の自動車が氾濫しているタイとは両極端の例としてあげられよう。どちらの道が正しいかは将来になってみなければわからないが、今のところはタイの方が少なくとも経済的な面においては有利なように見える。しかしインドは21世紀に向けてどのような道をたどろうとしているのか。結局は西洋化し、行き着く先は日本のような高度消費社会なのか。それともまったく違った世界を形作るのか。

(注)その後、1998年の後半においてインドは大きく自由化を進め、やはり消費社会に進もうとした。そして21世紀になった今、インドがアメリカ的な世界に突入しようとしていることは間違いあるまい。

第2章 コルカタ 

第2章コルカタ(1) 第2章コルカタ(2) 第2章コルカタ(3) 第2章コルカタ(4) 第2章コルカタ(5)

空港到着 糞と小便と痰とカレーのにおいを混ぜるとどんなにおいがするか知っていますか?知りたい方はコルカタへどうぞ。この町に一日いると青っ洟がでるようになる。さまざまな物質が入り交じった空中の多量のホコリがそうさせるのだ。

バンコクからの飛行機がコルカタに着いたのは午後の3時頃だった。のんびりしたお役人の長い入国審査の後、両替を済ませ、中心部へ向かうタクシーを拾う段になって、さっそくインド式歓迎の洗礼を受けた。乞食がさしのべる手、(両替したばかりで小銭など持っていないのに)乗り合いミニバスに乗れとたたみかけてくる運転手、ただの見物人など、50人とも1000人ともわからぬ人々が空港の出口に群がっているのだ。それだけで肝をつぶしていたらこれから14日間の旅行なんてできやしない。気を取り直して、タクシーをうまく拾う方法を考える。

助かりました。コルカタのタクシー同業者組合の方々は、初めてコルカタのダムダム空港に降り立つ外国人旅行客が悪徳タクシー業者の餌食にならないように、ちゃんと「タクシー料金前払い制度」をもうけてくれていたのだ。インドのタクシーはメーターがたいてい壊れていて、出発前の交渉で料金と行き先を決めるわけだが、相場を知るわけがない外国人のために、まずは適正な料金を決めて、それを前払いの形でクーポンを発行してくれるのだ。50ルピー。目的地は都心にあるインド博物館で、約50分かかるはずだ。というわけでと りあえず最初の難関を乗り越える。

牛たち 空港周辺は成田と同じく田園地帯だ。牛がやたらに目につき、道路の脇で昼寝をしている。中には交通妨害をしている牛もいる。運転手は怒る様子もない。ただ牛のお尻をピタピタたたいて移動をお願いするだけだ。コルカタはガンジス川の河口近くにあり、その無数の三角州の一つの上に形成されている。だから湿地帯で、沼や湖が多い。空港からの道の脇も水たまりが多く、人々が水浴している。もっとも、この日はコルカタにしては珍しく涼しい日で、特に日が暮れるとふるえるほどになる。運転手は陽気で盛んに話しかけてくる。そしてこれから会う既婚のインド人すべてに共通していることだが、とにかく子沢山なのだ。子供が多いから貧しくなる・・・貧しいから子供が多い・・・

糞・小便・痰 町に近づくと、紫の染料を頭からかぶった人がやたら目につくようになる。髪の毛も顔も服もなにもかも、紫色になってしまっている。今日はホーリー、つまり春の祭りの日で、ヒンドゥー教のある宗派に属する人々はこの紫の染料のかけっこをするのだそうだ。田園地帯から町中へ入るにつれて、急速に汚れが目につくようになる。道路は人間、牛、犬、鳥などの糞、小便、痰のまき散らし放題。今は乾期の終わり近くなので、風が吹くとその乾いたチリが空中に舞い上がる。だが同時に200メートルおきぐらいに歩道には井戸ポンプが備え付けてあり、人々はそこで水をくみ、手や体を洗い、食べ物を料理する。町へ近づくほど人々の数は増え、道路は交通の場というよりは生活の場の様相を呈してきた。ふらふら歩いている老人。大量の荷物をリヤカーに積んだ労働者。道にしゃがみ込む子供や乞食。道路は狭いがそこへ多量の車両が入り込む。日本やイギリスと同じく左側通行なのだが、前の車を左から追い越すか右から追い越すかはその隙間の大きさ次第。車の台数が少ないので路上駐車がひどくないのが救いだ。けたたましい警笛。もともとバッテリーが弱いところ に少しでも前の車が遅いとプープー鳴らす。昔、日本で警笛がうるさいからと相手を殺してしまった男がいたが、この国に来たら、10分で考えを変えるだろう。とにかく自動車も激しく自己主張をしなければ前に進めないのだ。

露店の群 次第に食べ物の露店が目につき始める。油で揚げたスナックや、サトウキビジュース屋、インドで思いつくありとあらゆる食べ物が路上で手にはいる。人々は露店で腹を満たし、その食べかすや皮は側溝へポイ捨てする。ただしプラスチック製品は極端に少なく、皿も木の葉っぱを使っているから、これらは町の一カ所に集めて肥料にされる。街角からその肥溜めのにおいがするのはたまらないのだが、これがやがて運ばれてインドの農地を豊かにするのだろう。江戸時代の農業に似ている。そうこうしているうちに迷路のように細い道を右に左にくねくねと、タクシーは進み始めた。ここは東京都に匹敵する、人口1千万弱の大都会。だが都心に進むにつれて道はますます細くなる。高速道路などはもちろんない。人の行き来が激しくなる。

サダル・ストリート やがてインド博物館の前に到着。ここは世界的にも有名な安宿の集まった、サダル・ストリートと呼ばれるところ。数々の日本人作家もここに泊まり、それぞれの紀行文にこの通りのことを記した。そしてその様子は20年前も今もほとんど変わっていないようだ。建物はスラム街のように崩れ、煉瓦はむき出しになっているが、その中からは人間の叫び声が聞こえてくる。この界隈の一般庶民、路上生活者、乞食の人数比率は5対1対1というところか。家のある人は本当に幸運な人なのだ。路上生活者は乞食ではない。中には定期的な仕事を持っているし、体もしゃんとしている者もいる。ただ住むところが歩道の上だというだけだ。多くはバングラデッシュ独立の際に流れ込んできた難民だという。彼らは夕刻が近づくと、鍋を出し、段ボールや木の枝など適当な燃料を見つけてきて、お湯を沸かし始める。なにを煮ているのだろうか。白いものが浮いている。鳥の鶏冠(とさか)と皮だ。ぐつぐつと煮えるにつれて、それらから油が浮いてくる。女の人がへらでもってそれをかき回す。周りに家族らしき人たちが座り、その「料理」ができるのを心待ちにしている。彼らは飢えてはいな い。屋根のある家を持たないだけなのだ。夜は蚊よけのためもあって、すっぽり顔まで薄い布で覆って寝てしまう。はじめは死体ではないかと思ってぎょっとしたが、外の世界から自分を遮断する効果的な方法なのだ。

通りをいきかう人々 サダル・ストリートは宿屋が多いから外国人、特に日本人、(旧西)ドイツ人、アメリカ人、そしてイギリス人が多い。たいていインド式の服を着て、ヒッピー風の感じである。そしていつも行き来しているのが乞食と、「ハッシッシあるよ」と小声で通りすがりに日本語でささやく大麻売りの商人。乞食はなにもいわないでぬっと手を差し出す。金をあげてもいいがきりがない。私の財力よりも、出会う乞食の数の方が多い。だから手足がないとか、母子連れなどと対象を限定するしかない。でも中には悪いやつもいる。「この子にミルクをください」と泣き叫ぶ女。「お金はいらないのです。あそこの店でミルクを買って、この子に渡してください」いやに英語が流ちょうだ。何かおかしい。ほんのわずかな小銭を渡して振り切って立ち去る。後で同じ場所を通りかかってみるとその女の夫がミルクを売る売店の経営者だった。夫婦ぐるみで乞食詐欺をたくらもうとしていたのだ。危うく引っかかるところだった。

ホテル探し このあたりの宿は、若者向きのドミトリー方式が多い。大部屋にベッドをいくつも並べて一晩10ルピー(約100円)以下で泊めてくれる。ベランダの上にテントを張った形式もある。もう一つは普通のシングル、ダブルの部屋を持つホテル形式。私は後者の、それもかなり値の張るホテルに泊まった。それでも275ルピー(2750円)だ。東インドは暑いので、シャワーは水が当たり前。バスタブなんて旅行中一度もみなかった。というよりはそんなものがつく程のホテルに泊まらなかったというべきか。ただ、大きな人間の入れそうな、プラスチックの桶がおいてあって、はじめはその中にはいるのかなと思っていたら実は洗濯用だった。中に入って足で踏んで洗う。河口の町だけあって水はふんだんに使える。トイレは水洗であるが、トイレット・ペーパーなしのインド式。水道の蛇口に小さな手桶がおいてあって、それで尻を洗い流す。次にタオルで水気をとる。最高に清潔で、痔にかかっている人には理想的。ただ、水のかけ方に少々テクニックがいるが。私は紙をあまり持っていかなかったので、もっぱらインド式に習熟した。誰かの書いたインド旅行記では、ことがすんだとたん、真下にいる豚が食べてしまう究極のトイレがあるそうだが、南インドに行かないとお目にかかれないらしい。さて、部屋の造りはイギリス植民地時代の形式を受け継いでいて、マレーシアなどと同じく、大きなプロペラが天井からぶら下がっており、それがブンブン回って涼しさと蚊よけの両方の目的を果たしてくれる。エアコンは最高の贅沢。ついにインドでは帰りの特急列車以外にはエアコンの部屋で寝る機会を逸した。寝るときには停電に気をつけよう。午前零時をすぎると、突然電気が消えることがある。たいていのホテルでは自家発電装置を備えていて、直ちにダッダッというディーゼルエンジンの音がとどろいてまもなくちらちらとながら明かりがつくようになるが、扇風機の止まっていた間に、蚊がワアーッと体に襲いかかってくる。明かりが再びつくと、白い漆喰の壁には眠たそうなヤモリがのそのそと這い回っていたものだ。

歩道でのオートバイ修理銀座散策 一夜明けた次の日、コルカタの銀座通りといえる、チョロンギー通りに出る。宿のあるサダル・ストリートとはT字型で交差していて、歩いて約5分で出られる。道路幅は広く、交通量は多いが、それぞれ片道1車線なので、車の走り方は競走馬が突進してくるように見える。両側にある歩道の一方はアーケード方式になっていて、たくさんの商店がひしめいている。もう一方は後ろが広大なサッカー場を含む公園なのでそのしきりとして倉庫風の建物が続いているだけで活気がない。さて、にぎやかなアーケードにはいると最初に目につくのはYMCAのホテル。ここはあいにく満員だった。西洋風の雰囲気があるし、安心して泊まれるらしく、外国人観光客の人気の的らしい。

コルカタ商人 官公庁街へ向かって通りをゆく。とたんに周りから声がかかる。日本語で「こんにちは」「うちの店によらない。見るだけ、見るだけ」彼らのしゃべる表現は決まっている。肌の色、服装から私をすぐ日本人だと見分ける。チベット人といわれたことも二回ほどあったが、ほとんどのインド人はすぐわかるらしい。日本人、お金持ち、だから直ちに我が店へ、とつながるわけだ。「こんにちは」といわれて笑顔で応対していたらその先歩けない。なんとしても自分が売りつけようとする商品を見てもらおうと必死だ。その執拗さ。しまい目には声がかかっても無視するようになった。この町は決して危険ではないが、(ニューヨークとは比べものにならない。武器を持っている人がいない。)人々は外国人に話しかけることに生き甲斐を感じているらしくて、ていねいに応対しているときりがないのだ。

裸の人間関係 しかし多くのインド人に話しかけられて、どうやら大きく2種類に分けられることがわかってきた。一つはもちろん商売目的。これはどんなに親しみがあってもすぐわかる。もう一つは本当に好奇心や親切心から。所在なさそうな老人が街角に突っ立っている。そこへ私が通りかかる。「あんた、何か探しておられるんかね。」と英語で尋ねられる。「ええ、タイ航空の事務所を探しているんですが。」こう答えると、とにかく懇切丁寧に教えてくれる。彼らはどうしようもないほど暇なのかもしれない。もっと深刻な言い方をすれば生活に刺激が少なく、うんざりしきっており、外国人と会話をすることによって気分転換を図っているのかもしれない。

町の南のはずれにあるコルカタの名前のもとであるヒンドゥー教のカーりー女神がまつってある寺院を探していたときは、おじいさんに見事、でたらめな場所を教えられた。ガイドブックにもそういうことは多いと警告されていたので、あまり腹も立たなかったが、袋小路に入り込み、帰るに帰られなくなり、地元のおじさんたちに道を尋ねようとした。ところがその人たちに英語が通じない。身振り手振りもどかしくしている うちに何事かと、一人二人と通行人が寄ってくる。

7人目ぐらいだろう。やっと大学生風の英語のしゃべれる、めがねをかけた若者が現れて、寺院への道がわかった。その男は親切にもせまい路地をいくつも通り抜け、向こう岸にその寺院が建っている、川のほとりの渡し船の船着き場まで連れてきてくれた。何にも金銭的なものを要求しない。これはインド旅行ではきわめて珍しいことなのだ。これには感激して、用意していた百円ライターをプレゼントした。このようにとても親切な人も多く、この国の人間ははっきりと明暗がよくわかる人が多いような気がする。隠したり、装ったり、振りをしたりするというような手合いが現れず、裸の関係で出会えるということだろうか。

利用できる交通機関 さてコルカタの町は自動車の通れる道路は朝から晩まで車の洪水、バスはラッシュアワーでなくとも超満員でドアから外にしがみつく人々で鈴なりである。前にあるラジエターのおおいはすべてのバスではずされている。というよりははじめからついていないのか。正面から見ると怪物が口を開けた恐ろしいイメージだ。コンテナトラックに窓をあけてバスに改造したものもあり、2階建てだ。輸送効率は抜群にいい。

地下鉄はあるものの、部分開通の状態で、まだ通勤客を効率よくこなすまでに至っていない。従って乗客の輸送はほとんどをバス、そしてもっと小回りの利くミニバスに頼っている。市電もあるが道路の混雑によって身動きがとれない状態だ。確かに同じ人口を持つ東京都でさえ、あの山手線の混雑が殺人的なのだから、この町ではいくらその前に「超」をつけても足りないのだ。ただしこれらの公共輸送機関は運賃が驚くほど安く、たとえば2,3キロの路線を市電でゆくとわずか35パイサ、つまり3円50銭ほどだ。

貧富の差 ところがなんとこの市電は2両編成でぼろぼろでも、1等と2等に分かれているのだ。この人口過密の国では市電だけではなく、鉄道も厳然と3つもの等級があるのだ。一つはカースト制度の影響であり、もう一つは貧しい人々と裕福な人々との間には2つの民族とでもいえそうな隔たりがあることを思い知らされる。市電の一等に乗る人はこぎれいな身なりで、女の人の着るサリーも美しい柄が多い。2等は労働者風と老人が多く、はっきりみすぼらしい身なりをしている。

私はそのどちらにも乗ってみて、違いに愕然とした。車掌はそれぞれの車両に一人づついて、検札や切符の販売をしている。さすが人手の余っている国だ。それにしてもその違いはとても日本の2等とグリーン車のようなものではなく、何かとてつもない越えられない階層の隔たりがあることがわかる。そしてそれは20年も前に書かれた誰かのインド紀行の記述と少しも変わっていないようなのである。

施しをするとき 日本人は世界で2番目に(もうじき3,4,5番目とどんどん下がっていくであろうが)経済的に豊かなのだから、乞食の多い国に行ったら大いに施しをすべきだ。われわれは自分たちの豊かな暮らしに慣れてしまって、<貧富の差>ということをまじめに考える機会がなかなかない。ことばで言ってもそれはとても実感できるものではないのだ。

確かにその国には無数の乞食がいて、自分の施しは大海の一滴に過ぎないけれども、その相手に会ったということは”一期一会(イチゴイチエ)”なのだから、この出会いを大切にしておきたい。出会いというのはままならぬものである。自分の片思いの恋人をいくら待ち伏せても現れなかったのに、すこしも会いたくないずうずうしい奴にはすんなり会ってしまうもの。ある人に街中で出会うということはきわめて偶然の出来事なのだ。たまたま、ある年ある日ある時間にある街角である人に出会ったとすればそれは何か天の配剤なのかもしれないと思いたい。 2009年11月記

歩道の風景 さて歩道に目を移してみると、比較的幅広い道に行商人たちがひしめいている。靴磨き、サンダル売り、水売り、果物売り、ありとあらゆる種類の露店が歩道に店を拡げている。そしてその間にはホームレスと乞食。乞食は両足がないとか、象皮病(ぞうひびょう)のために顎の下に頭ほどの大きなこぶをつけた老婆とかが歩道の真ん中に寝ている。だが通行人は誰も気にとめない。け飛ばしたり、追い払ったりすることもなく、ふれないように人々は回り道をして通り抜けてゆく。炎天下で寝ている少年もいる。

おそらく死体と思われるものもあったが、次の日にはどうなっているのだろう。しかし人々はそういう状態にまったく無関心であるというわけでもなさそうだ。そっと乞食の持っているアルミ缶をのぞいてみると、けっこう小銭が入っているから、喜捨(きしゃ)を必ずする信心深い人も多いのだろう。ただ先にも述べたように乞食の数があまりにも多く、すべての人を救おうと思っても無駄である。そこのところはインド人もよくわかっていて、一種諦観(ていかん)みたいなものがあるのかもしれない。

食べ物に慣れよ 至る所、カレーのにおいがする。カレーを我々の醤油のように料理の中心に使う、いわゆる”マサーラー”文化のど真ん中だ。日本のカレーライスのようにコクや香りがあるのと違い、ただひたすら唐辛子や他の特殊な香辛料を入れて辛くしたものだし、サラサラしていて粘り気はない。米はあるがこれも香りがなく、ただ水っぽい感じだが、これは炊き方が違うからだろう。これも粘りけがないので、箸でつかもうとするとこぼれ落ちてしまう。ナンはいわば、お好み焼きを作ろうとしたが、具を入れるのを忘れて、しかも水加減に失敗してできたという感じの舌触り、手触りである。

何度も定食屋に足を運び、隣の客の食っているものと同じものをくれとか、この店の一番人気のあるものをくれといってみたが、皆すべてカレーを一種のソースとしており、注文の仕方に慣れ、これが朝昼晩と続くにつれて苦痛になってきた。胃が辛い辛い!と悲鳴を上げている。昼間は暑くてサトウキビジュースやら椰子の実の汁やらをがぶがぶ飲む。この組み合わせが悪かったのだろう。ついに下痢が始まった。この下痢が1週間も続き、体力を大いに消耗することになる。

食事マナー このインド料理を多くの人は右手で食べる。だが脂っこいから、手についた食べ物の汚れは石鹸でないと落ちない。私は手で食べること自体はあまり抵抗を覚えなかったが、糞便の満ちあふれる街路を歩いた一日のおわりには、どんなに石鹸で手を洗っても細菌は落ちないような気がした。私も日本の清潔文明によって衰弱しているのだろう。ガイドブックにはインド人は誰でも手で食べると書いてあったが、大都市ではサラリーマン風の人は次第にフォークやナイフを使って食べる人が多くなっているような印象を受けた。

食器は多くが金属製だ。まるで昔の学生食堂のよう。瀬戸物の使用はわずかだ。列車の中ではインドの赤土をそのまま焼いた御猪口(おちょこ)のような容器もある。これは使い捨て。お茶は牛乳入りの紅茶(チャイ)が主体だが、入れ物は金属製か昔のギヤマンガラスのような薄く緑がかって、しかも気泡がちらりほらりみえるコップを使う。一緒についてくる金属製の深い受け皿にわざとお茶をこぼして冷ましてから飲む人もいる。

ガラスコップの方は逆三角形のデザインが気に入ったので、帰国の際に買ってかえった。露店では液体はこのガラスコップを使うが、固形物はたいてい木の葉っぱをうまく折って、皿代わりにして使う。だから食べた後、路上に捨てても腐って自然に還る。先進国のように石油で作った、いつまでも腐らない、発泡スチロール樹脂の皿を浪費したりはしないのだ。

この葉っぱのお皿を持って帰ろうと思い、洗って乾燥しておいた。ところがいざしまおうと思ってふと裏側を見たら、虫の卵がついていたのだ。これが日本に帰ってから孵化したのでは大問題だ。あきらめて捨てた。前にバンコックに行って籐のいすを買って帰ったときに、竹の中に穴をあけて暮らす虫の卵がついており、日本に帰ってからも相当期間、竹を食べながら生き続けたことがあるから要注意だ。だが、虫がついて汚いと思う反面、まだ農薬に冒されていない自然の豊かさをうらやましくも思う。

駅までの道のり 宿のあるサダル・ストリートから首都デリー行きの列車の出るハウラー駅までは川をわたって3キロほどのところにある。このルートを歩けばだいたいコルカタ市中心部は通ったことになるので、先に述べた銀座通りに当たるチョロンギー通りをさらに進む。大きな交差点を通りすぎると、ようやく官公庁らしいビルが見え始める。だいたいがイギリス植民地風の煉瓦づくりで相当に古く、かなり痛んでいる。東京銀行(今の東京三菱銀行)の支店があるというので行ってみたが、看板は貧弱でまるで食料品店のような大きさだった。さらに進むと真ん中に豊かな水をたたえた池を囲む広場に達する。その周りは州庁舎がたっている。

コルカタはインドでも最も文化的で先進的といわれる、西ベンガル州の州都である。だが北はネパール、東がバングラデッシュと国境を接しているので難民の流入が絶えず、財政的にはかなり苦しいようだ。それでも州庁舎はこの町でもっともまともな建物だった。ふと見るとミルクの販売所がある。水色の地に大きな水滴模様のマークで、あとでいろいろなところで見たが、都市生活者への配給をするためのステーションらしい。

田舎では牛が その家の前までつれてこられて、目の前で搾ってくれる。ここでは子供や女たちがみんな手にアルミの入れ物を持って並んでいる。これだけ牛がいるのだから牛乳の生産には困らないだろうと思う。実際インドの国民飲料はチャイと呼ばれ、紅茶とミルクを半々ずつ混ぜザラメ砂糖をたっぷり入れたものだ。これだけで大量のミルクを消費しているといえる。牛が町中でサトウキビの絞りかすなどのえさをあさり、ミルクを出す。配合飼料も世話もいらない、非常に効率的なシステムだ。ただしほとんどの牛は人間とおなじくやせこけている。

ボロ・バザール 州庁舎の建物をすぎると、雑多な露店が並ぶ市電通りが始まり、それは鉄橋のあるところまで続く。いわゆるボロ・バザールと呼ばれるところで市民に必要なものは何でも売っている。ここでチャイを入れるガラスコップと小さな茶碗を買う。茶碗はうわ薬を塗ってそれがたれて滴(しずく)になったまま乾いたもので、かえってその雑であることがほほえましい。

ここはコルカタのエネルギーの中心だ。人々がごった返し、生活道具のありとあらゆる種類を買い求め、値切り、はしごし、そして帰ってゆく。そのような露店の勢いの前には、背後に立ち並ぶふつうの商店などが影が薄く見えるくらいだ。これは香港の女人街を彷彿とさせる雰囲気であるが、もっと不潔で猥雑だ。歩道のすみには露店で使ったコップを洗ったり、包丁を研ぐ少年がいたりして、そこから流れ出る水が歩道を横断して車道に流れ込み、大きな水たまりを作っている。そこを人々は回り道を、または飛び越えてゆく。

フグリー川にかかる橋 道は左にカーブして、街の中心を流れるフグリー川へと向かう。そこには立派な鉄橋がかかり、人、人力車、タクシー、トラック、バスなどありとあらゆる交通の流れがここに集中する。なぜなら市の中心部がこのように川でを分断されながら、ほかに橋がないからだ。特に人の流れは見ものだ。頭に重い荷物を乗せてさっさと歩く人、同じく重い荷物を背負った老婆、暇そうな若者、すべてに庶民のエネルギーがあふれている。

橋の真ん中から見下ろすと、フグリー川の曲がりくねって地平線の彼方に消えてゆくのが見え、橋のたもとにはガート、つまり人々の沐浴のための石段が連なっているのが見える。実際そこまで降りていってみたがヒンドゥー教の聖地ヴァラナシでなくとも、このように大きな川さえあれば、人々はそこで水浴をし、身を清めるのだ。周りにはヒンドゥー教の神様をまつったお宮があり、周辺には花売りが群がり、お香のにおいが漂う。人々はお参りし、花を捧げ、身を清めて新しい一日に備える。

大混雑の駅 橋を越えるとやっとハウラー駅に達する。上野駅と東京駅のようにコルカタでも主要な駅は方面別に2つに分かれていて、首都デリーなどの北部へ向かうためにはこの駅を利用する。駅前は市電とバス、ミニバス、人力車のターミナルで、大変な人でごった返している。駅は終戦直後の上野駅といった感じだ。建物の暗い内部に一歩足を踏み入れると小便のにおいがツンと鼻をつく。列車を待つのか、家がないのか、コンクリートに寝ている人がかなりいるが、この人の流れでは踏みつけられない方がおかしい。

遅れるのが当たり前? 駅の売店で時刻表を買う。去年の秋の発行。一年に1,2度改訂するだけだ。この国では列車が正確に発着するのはきわめてまれなことだといわねばならない。ここからブッダガヤーに行く時には出発が3時間遅れたし、結局5回ほど列車に乗ったが平均2時間ぐらい遅れるのがざらである。インド人たちはそんなことには慣れっこなのだろう。プラットホームに持参の毛布を敷き、いびきをかいて寝ている。郷に入っては郷に従えの通り、私もいっさい時間のことを気にしないことにした。2週間後の飛行機にさえ間に合えば、どんなに遅れようと知ったことか。そう思ったら気分が変わった。

持参の毛布とピクニック用の敷布にくるまるとごろんと横になる。プラットホームのコンクリートの上は痰とホコリの入りまじったもので覆われているが、インド人たちもやっていることだし、まあいい、気にしないで目をつぶろう。目をつぶればなにも見えなくて怖くない、というダチョウの心境である。はじめのうち、駅のあちこちにおいてある痰壺が血の色で真っ赤なのを見て、これは結核患者の喀血のためなのだろうかとゾっとしたが、実はこの国では噛み煙草をたしなむ人が多く、そのかすをペッとあたり構わず地面に吐き捨てるのだ。その色がまったく血の色とそっくりなのであった。

混沌の町 コルカタには、はじめの3日間、帰る前の2日間滞在したが、はじめと後とではまるで印象が違う。はじめはカルチャー・ショックで打ちのめされ、この町の汚い面だけ目について仕方がなかったが、後期での滞在ではぐっと客観的になり、この町のおもしろさ、活気のすさまじさに感心するようになり、むしろ何か懐かしささえ感じたのである。得体の知れないものを売るおもしろい店が多く、中華をはじめとして料理もうまい。映画館には刺激を求めて、若者がどっと詰めかける。

ここは原初的なニューヨークであり、ありとあらゆるもののごたまぜで、混沌が支配する世界である。(皮肉なことに4月のニューヨークタイムズ紙では、ホームレスの問題を取り上げるとき、ニューヨークのことを”アメリカのコルカタ”と呼んでいた!)ただこの町で生き抜くには、したたかさと体力が要求されるのはいうまでもない。炎天下のサッカー場で平然と寝転がって本を読んでいる若者がいたが、ハワイのリゾートで昼寝をするようなわけにはいかないのだ。

第3章 ブッダガヤー 

第3章ブッダガヤー(1)  第3章ブッダガヤー(2)

ガヤー駅下車 この広いインドでは鉄道を使うのがもっとも確実な移動方法であるから、その沿線に近い観光名所をいくつか回ってみることにした。コルカタとデリー間は重要な幹線であり、本数は多く、複線電化されている。この路線をまずコルカタから6時間ほど行った、ガヤーの駅に下車した。ここはお釈迦様が悟りを開いた聖地として有名なので、ひとつその雰囲気に浸りたいと思ったからだった。だが現実は悪徳商人の横行、リュックサックをうしろからナイフで破り、中身を奪って逃げる、”切り裂き魔”の噂など、お釈迦様も嘆いていらっしゃるであろう、欲の世界であった。

輪タク騒動 3時間も遅れた列車を降りると、もう午後8時。駅の食堂で35ワットの薄暗い電球の下で食べたターリー(定食)もそこそこに駅前のホテルに飛び込んだ。幸いツインの部屋であったが空いており、蚊に悩まされ停電で何時間かを暗黒の中で過ごしたが、何とか一夜を明かすことができた。翌朝目的地へ向かうバスの乗り場まで、輪タクを雇う。コルカタでは人力車で、人間がひいて走るのだが、その他の地域では自転車で引っ張るのである。駅前とバスの発着所が離れているのは、車夫の生活を保護するためなのだろうか。無口でまじめそうな青年を選んで5ルピーで行ってもらう。(2年前に発行されたガイドブックには3ルピーでよいと書いてあったがインフレを考慮して)

運悪く途中でタイヤがパンク。彼は近くにいた同僚に呼びかけて5ルピーを3対2に分割して残りの区間を行ってもらう。私はこれで彼とは会うことはあるまいと思っていた。大勢の車夫がこの町にはいたからである。ところが夕方4時過ぎバスでこの停留所に戻ってみると、この青年はパンクを直してちゃんと待っているではないか。私が何時頃帰ってくるか知らないのだから、昼過ぎあたりから 何時間も待っていたのだろう。なんという気の長さ。それともよほど客に恵まれないのか。その日の往復10ルピー(100円)は彼にとっては珍しく大きな収入だったに違いない。駅前で料金を受け取るときの彼のうれしそうな顔が忘れられない。勤労の喜びの原点を見たようだ。

インドの田舎 駅の名前はガヤーだが、お釈迦様が悟りをひらいた地はブッダ・ガヤーと呼ばれ、バスで約30分ほど行ったところだ。ついにインドの田舎を見ることになる。小さな村だがその中心部にお釈迦様を記念する大きな塔がたっているので周辺から見てもすぐわかる。すぐ目の前を大きな川が流れているはずだが、今は乾期なのでまったく水がない。ただし、穴を掘れば10センチもいかないうちに砂の中に水がにじみ出てくる。枯れ川、いわゆるワジである。

さてこの町にはにこにこ顔で日本人観光客に近づいてきてジープでただで案内し、最後に自分たちの土産物屋に連れ込み、日本人が親しくしてくれる人にはなかなか断れない性質を利用して、とんでもなく高価な品物を買わせるという悪徳商人がいるそうだ。彼らについての情報はコルカタで知り合った、ガヤー在住の人から教えてもらったのだが、一人旅の者には危険な場所だと繰り返すので用心していた。案の定、バスがこの村に到着するとすぐに、2人組が寄ってきて村を案内するという。即座に自分は一日たっぷりあるから、自由に歩いて回ると言って断る。なおもしつこく食い下がるのを振り切って一人で歩き出す。日本人は一日4,5人ぐらいの割合でこの村を訪れるので、彼らにとっては一人でも逃したくないのだろう。

みんなで勢揃い地元の子供たちと 水のない川を横断して向こう岸へ歩く。途中から小学校3年生ぐらいの男の子がついてきて、しきりに英語で話しかけてくる。学校の授業は英語で行うのでかなりうまくしゃべれる。始業時は午前11時とかなり遅いし、午後2時には終わってしまうという。いやにのんびりしたカリキュラムだなと思うが、後で村の中の学校を通りかかったら、きちんとした机やいすはなく、広いベランダのようなところで学年に関係なく、みんなで集まる合同授業の形式が中心らしい。日本の海外援助もダムや製鉄所より彼らに机やいすを寄付することが先決なのだ。

川の向こう岸はいかにもひなびたインドの農村の雰囲気。牛がのんびりと草をはむ牧草地に、赤茶けた粘土づくりの家々が固まっている。先の男の子と一緒に見晴らしのいい土饅頭の上に登ると、どこからともなく子供たちが近よってきた。みんなもの珍しそうに見ている。仏塔の周りだけが観光地で、この川の反対側には観光客が滅多にこないのだろう。一人牛飼いをやっている20歳前後の青年が英語をしゃべれたので、少し聞いてみた。彼は学校に行ったことはない。どうやらカースト制度の壁のせいで、この村でも代々同じ職業を継いでいかなければならないらしい。首都のデリーにもコルカタにも行ったことがないという。

子供たちは実に人なつこく、みんなで記念撮影をした。4歳ぐらいの幼児が二人近づいてくる。この子らは鼻や耳に蠅がとまって離れず、ずっとまずしそうに見え、私の前に来ると手を差し出して「バクシー」とつぶやく。もうこの手の金銭請求には慣れっこになっていたので、小銭をあげたが、一見のどかな農村でも都会以上に困窮している家族が大勢いる。すぐ先の田圃では大人たちが忙しそうに脱穀をしていたが、近くの建物で見る限り、日本のような金ぴか御殿は見あたらない。案内役の小学生

乳粥の里 スジャータといえば、日本ではコーヒーに入れる濃縮ミルクを小さなパッケージに入れてある製品を思い出す人もあろう。昔この村にスジャータという娘がおり、修行に疲れ果てた釈迦に出会って、「乳粥」を食べさせ、それによって元気を回復した釈迦は川をわたって、今は大塔が建っている場所にたどり着き、菩提樹の木陰で悟りを開いたのだそうだ。実に気持ちのよい農村地帯でコルカタの塵芥にうんざりしていた気分を大いに変えてくれた。あぜ道を歩くと村の人々が「ナマステー(こんにちは)」と声をかけてくる。

先の小学生と別れた後、(ただ人なつこいだけだと思っていたら、ちゃんと「バクシー」を請求されたが)4歳ぐらいの男の子がついてきて離れない。言葉も通じないし、なにをしゃべってもオウム返しに同じことを言うだけ。挙げ句の果て、帰り道の枯れ川を横断するところまでついてきて、そのころには昼近くで気温がどんどん上昇していたから、このままではこの子は日射病にかかると思い、通りがかりの老人らしき人々の一団にわけを話して連れ帰ってもらった。この子ならバクシーを求めて地の果てまでついてきただろう。

焼きそば? 大塔の前に戻る。ここはいわゆる門前町で、露店や土産物屋が固まっていて、にぎやかなところだ。ここでチベット料理なるものを食べた。この町は各国から仏教徒が集まってくるわけで、チベットの僧侶たちも多く住んでいるため、このような店があるのだ。そしてインド料理を食べ飽きた外国人観光客の間にも好評である。モンゴル風のテントを張った店で、ラーメンと焼きそばみたいなものであったのに、そのなんとうまかったこと!あっという間に平らげてしまった。やっとカレーでないものが食えた!

村での昼寝 あまり暑いのでヒンドゥー教の神様がまつってあるお宮の陰でしばらく昼寝をした。小高い丘の上で田圃や畑が見渡せる。コルカタとは対照的にこの上なく静かだ。お宮は日本の木造のものとは違い、コンクリートないしは漆喰の石造りで、まるで防火用水の入れ物のようである。真っ白な階段でてっぺんに上がると、そこに神様がまつってあり、オレンジや黄色の派手な色の花が飾ってある。昼の間に老人が一人お参りにきた。こういうところは昔の日本の農村で、農民たちが神社にお参りするところと雰囲気といい、信仰心の深さといい、まったくそっくりだ。

乞食の列 しばらく静寂を楽しんだ後、午後遅くなって釈迦を記念する大塔へ向かう。入り口には乞食に喜捨するためだろう、1ルピーを10パイサの小銭9枚にくずして両替する露店が並んでいる。1パイサ一枚は手数料。私は軽い気持ちで少し両替してもらって、入り口へと赴いた。しまった!入り口から入場切符の販売窓口まで、50人ぐらいの乞食が列をなして待っている。みんな一斉に手を出して私を見つめている。すさまじい光景であったし、困ったことに乞食の数は私の持っている小銭の3倍はいる。

日本でなにに使われるかわからないお賽銭を神社仏閣に納めるのと違って、生身の人間が「金くれ!」と迫る様はきれい事に慣れた人間にとっては生皮をはがれる思いだ。しょうがないから門から順番に金の続く限り与えていった。父と子の親子は自分たちは2枚だと言ってきかない。まったくインドの日常では赤い羽募金とか歳末助け合い運動のようなオブラートに包まれたものなど存在せず、ただひたすら手をさしのべる「バクシー」の大合唱があるだけなのだ。そしてまた「貧困」とか「悲惨」といった抽象語がいかに現実離れした言葉かを思い知らされるのだ。ここでは町を歩けば、それらが体にじかにぶつかってくる。

悟りの場 乞食の列を通り抜けて靴を脱ぎ、何人かのガイドの申し出を振り切り、入場料を払ってやっと広大な庭園の中に足を踏み入れる。(カメラ持ち込みの場合はさらに料金をとられる)インドには釈迦の生まれた場所、布教を始めた場所、涅槃の場所、などが観光地となっているが、やはり悟りを開いた場所というのがもっとも意義深いだろう。大塔から少し離れたところに大きな蓮池があり、その真ん中にインド風の、つまりヒンドゥー教的な、目を大きく見開いた顔立ちの仏像が据えられていた。

インドでは仏教はヒンドゥー教の中に吸収された感じで衰え、宗教的な勢力地図からいえばまったくの少数派である。むしろたくさんいる神様の一人という感じだ。中近東からのイスラム教はパキスタンやバングラデッシュでは中心的存在だが、インドでもかなりの勢力は持っている。ただやはり、日本の神道に相当する、現世の御利益(ごりやく)を求める傾向の強いヒンドゥー教がなんといっても主流だ。だからこのガヤーでさえも、各国のお坊さんが修行する仏教のお寺のすぐ裏手にヒンドゥー教のお宮がいっぱい建っているのだ。

菩提樹 釈迦が悟りを開いたという菩提樹の下に建つ。仏教はインド人にとっては深遠すぎ、生活のエネルギーに満ちあふれた彼らにとっては物足りなかったのではないだろうか。それでもこの木の下にいると仏教徒でなくても何か瞑想に浸りたくなる。ヨーロッパからやってきた求道者たちの姿も目につく。だがその雰囲気も絵がはがき売りのかけ声によってつぶされてしまった。黄色い袈裟をきたチベット僧たちが行きかう。彼らの顔は日本人とそっくりだ。そしてここはインド文化圏。私もチベット人もこの国では異邦人なのだ。

帰路 大塔のてっぺんには登れないが、2階までは博物館のようになっている。周りは木立に囲まれて石塔が建ち並び、大変気持ちがよい。ここはフェンスで囲まれて外のインド社会とは隔てられているので、何とか園内に潜り込んでいる絵はがき売り以外は商売のにおいがしない。4時頃帰りのバスに乗る。途中、買ったばかりのぴかぴかの自転車に乗った商人に出会う。がっしりした実用車で、いいねとほめると1000ルピーだという。この近辺では個人所有の自転車もまだまだ贅沢品である。夕方ホテルに戻る。

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© 西田茂博 NISHIDA shigehiro

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