インド北部(2) Northern India

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カルカッタの繁華街

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インドの流行歌speaker

内容目次

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第4章 ヴァラナシ(原稿)

第5章 アグラ(原稿)

第6章 デリー(原稿)

第7章 帰国(原稿)

第8章 記録

第4章 ヴァラナシ 

第4章ヴァラナシ

ガンジスの流れ ガヤーの駅を翌朝発って、昼過ぎにはヴァラナシの駅に着く。列車でヴァラナシの町にはいるときの光景はすばらしい。ガンジス川にかかる鉄橋にさしかかると、靄の中にこの大河がS字型に蛇行しているのが見える。ヒマラヤに端を発し、はるばる流れてきたこの川は、ヴァラナシの町並みの手前で大きくカーブし、さらに数百キロ旅をしてベンガル湾へと注ぐ。大陸の川はミシシッピーもそうだったが、とてつもなく大きい。確かにすべてを飲み込む、輪廻の巨大な車輪に見えてくる。

駅からホテルへ 駅前はガヤーもそうだったが、さらにもっと多くの人々が布にくるまって地面に横たわって寝ている。路上生活者というよりは列車待ちの人々だ。ホテルに泊まれるのは外国人観光客と裕福なインド人だけで、大多数の庶民はこうやって駅前で一夜を明かす。全国から巡礼者たちが集まってくる。駅舎はインド随一の聖地だけあって、なかなか立派である。この前の総選挙の名残だろうか。VOTE FOR CPI(国民会議派に投票せよ)などと駅の壁にペンキでスプレーされているところなど、選挙制度の定着したインドらしい。宿は駅から歩いて5分の州政府直営のロッジに泊まれた。(輪タクはこんな距離でさえ乗れとしつこく言ってくる)ここは何となく安心できる。確かにこぎれいで中庭があって芝生に寝転がれるのがいい。そのせいか、西洋人がほとんどだ。かなり年輩の人も少なくない。ガンジス川から見たベナレス

川の畔へ 翌朝夜明けとともにガート(沐浴のための川に面した石段)に向けて出発。ガンジス川は早朝に行くとよい。人々が沐浴しているのが見られる。だがガヤーであれほど警戒していたのに、ここではボラれてしまった。前日約束した車夫が姿を現さなかったので、別の車夫を捜していると調子のよい男が現れて、10ルピーという安さで往復してくれると言う。だが目的地をはっきり指定するのを忘れてしまった。

一番人々の集まるガートに行ってもらえばよかったのだが、この男が連れてくれたところは、彼が連れてきた客を手こぎボートに斡旋すると、たぶんマージンをくれる男のところだった。1時間45ルピーはそのとき高いとは思わなかったが、後で比較してみるとひどくボラれたのだった。45ルピーは450円だから安いじゃないかと、為替相場で単純計算するとわからないが、この国では45ルピーは4500円の感じで考えるべきなのだ。どうも小人国に来たガリバーの心境で、当地の価値体系に合わせるのは一苦労である。

ボート遊覧 それでも、こぎ手つきの2時間は今までにない体験だった。朝の空気はすがすがしい。朝靄の中に川岸に沿ってガートが連なるのが見え、人々が朝の清めの儀式をやっている。ヨガの体操をしている人もいる。対岸は人の住まぬ牧草地で、おもしろい対照だ。2隻ほど小さなボートで魚を捕っている漁民の姿が見える。ここではガンジス川は大きくカーブしている、人の住まない内回りは浅く、ガートの立ち並ぶ外回りは非常に深い。人々がここで水浴し、ゴミを流し、火葬の灰を流しても汚れないわけがわかった。川底のこの深さのせいなのだ。雨季と乾季とでは10メートルぐらいの水位差になるというから驚きだ。ある建物には目盛りが彫ってあって、ある年の記録的な洪水での水位が示されている。それによれば、この辺り一面湖と化したと考えてもよさそうだ。また洪水によってピサの斜塔のように傾いた寺院もある。自然の猛威はやはり大陸的だ。古びた石造りの家の間には猿たちがたわむれている。

ボートこぎの身の上話 ボートのこぎ手は25歳で4人の子持ち。また生まれるという。それでいて兄が何10隻というボートのオーナーなのに対し、自分は月給わずか250ルピーでこき使われているとこぼす。どうしてそんなに子供を作るのかと聞くと、家族は大勢の方が楽しいし、政府の進める家族計画のやり方は好きでないという。日本では子供の数は減り、一人あたりの資源やエネルギー消費量はうなぎ登り、これに対してインドでは子供はますます増え、一人あたりの消費量は減るばかり。それから2日後に見た新聞ではインド政府もついに4人目を越える子供については「子供税」をかけることにしたと書いてあった。彼も自分の家族数について真剣に考えなければならないときが来ている。

火葬の煙 朝靄の中をボートはのんびりと進む。もっともにぎやかなガートを通過する。ここからは乗り合いのボートがいくつも出発している。ただしエンジン船はほとんどなく、みんな手こぎだ。おかげで早朝の静けさが満喫できる。物売り船が近づいてきて、ガンジスの聖水を入れた金属の容器や神像を売ろうとする。さてこのヴァラナシは聖地としてインド全国からヒンドゥー教徒が集まってくるのだが、なんといってもここで死んで焼いてもらい、その灰を川に流してもらうことがもっとも大きな望みなのだ。

その火葬場に近づく。火葬場といっても、川岸の石の平べったいところに薪を積んで野焼きをするだけだ。ここでは何も隠すところはない。ちょうど一人焼き終わったところだった。親族がまわりで見守っている。まだ足が一本燃えていなくて、薪の間から見えている。それを係りの男が薪をかき回して、燃えやすい位置に置き換える。周りには犬や牛、建物の上には野猿さえ走り回っている。大勢の観光客も周りに行き来している。地元の男が誰かカメラで撮影してはいないかと監視している。火葬場の悲壮感といったものは何もない。あっけらかんとして、ごく自然に物事が営ま れている。そうだ、人生はこんな風にすっと燃え、すっと川の流れに消えてゆくものなのだ。日本の火葬場で重油で焼き、自動的に焼き上がり、それでいて何かすごく重苦しい雰囲気を感じるのに対し、ここではさわやかな朝風を感じるだけだった。

ガンジスの朝風 川面をわたる風はインドでは考えられないほど涼しい。ガートが延々と続いて遠くがかすんで見える。そしてそこで行われる人間の営みも川の流れのように逆らうことなく流れて行く。ボートでの旅は正味2時間。陸上とは違った味わいがあった。

第5章 アグラ 

第5章アグラ(1) 第5章アグラ(2)

乗り違えた! ヴァラナシからアグラまでは10時間以上かかり、ぐっとデリーに近づく。だがここでは列車を乗り違えるという大失敗をしてしまった。ヴァラナシで列車が2編成に分割され、両方ともデリーへ向かうのだが、一方はアグラを経由しないのだ。あわててそちらの方に乗ってしまったのだ。せっかく予約した寝台に知らない男が寝ている。仕方がないのでとりあえずニューデリー駅まで行き、そこで乗り換えてもう一度アグラまで戻った。

インドの国鉄はこのような場合鷹揚で、間違えて大回りをして目的地に着いても別に料金を新たに請求しない。駅の案内所の人はこともなげに乗る列車を教えてくれた。しかしこれらの列車の混雑したこと。乗り違えたからせっかく予約した座席にも座れず、連結器の上の通路にごろ寝。終戦直後の引き揚げ列車の混み具合である。毛布を持参してきて本当によかった。それでも入り口の前だから駅に着くたびに人々が出入りして熟睡するどころではない。しかもこの列車は急行といいながら各駅のようにしょっちゅう停車する。

もっと大変な輪タク騒動 アグラに近づくと、列車内で一人の男が近づいてきて、自分はオート三輪の運転手でタジ・マハールへ安く連れて行くという。30ルピーに値切ってみたが、どうもこの男の態度が気に入らなかったので断ると、駅を出てもついてくる。駅前にいる、やせて純朴そうな輪タクの車夫に頼もうとすると、くだんの男はその車のタイヤの空気を抜いてしまったのだ。これには私も大変腹が立ち、険悪な空気になった。

向こうにはもう一人助太刀がおり、もうつかみ合い寸前になるところだったが、タイヤの空気を抜かれた車夫の兄が間に入ってきて、自分がオート三輪で連れて行くと言ったので、やっとごたごたを振り切って出発した。後で聞くと最初に列車の中で私に話しかけてきた男は、札付きの危険な男でこの町でも厄介者になっているらしい。傷害事件にならなくて本当によかった。まったくインドの観光地は油断がならない。特にこの町はツアーで行かないと危険がいっぱいだ。コルカタの方が汚いけれどよっぽどのんびりできたなあ。

赤い岩の砦 アグラといえばアグラ城とタジ・マハールだ。新しい運転手はまずアグラ城へ連れていってくれた。彼は場外で待ち、私は戻ってくる時間を約束して一人で見てくる。入場料を払うと中は物売りもいないし、客の大部分は西洋人なのでほっとする。ムガール帝国の遺跡の中で得た一時のくつろぎ。赤い岩でできた城の壁はこのぎらぎら輝くインドの空のもとで静まり返っている。塔の上から見渡すと、遙かに川の流れと、タジ・マハールの優美な姿が目に映る。平原をバックにすばらしいパノラマだ。

土産物屋巡り 彼の車に戻るとタジ・マハールに行く前に2,3件の店を紹介したいという。そらきた。土産物屋で買い物をさせるのだな。この男はおとなしいけれども、車夫の収入だけでは暮らしてゆけないのだろう。やはり店に客を紹介してそのマージンをもらいたいのだ。彼についてはそんなに危険な気はしなかったので、同意して、まず絨毯屋へつれていってもらった。ここはなかなかいい絨毯を手織で製造直売しているところで、一見ペルシャ製のようなデザインも見受けられた。値段についての知識があれば、大きいのを買ったのだろうが、安いのか高いのか見当がつかなかったので、用心のため、小さい玄関用のマットだけ買った。値段の交渉をしている最中、この店のエア・コンは止まり、店の主人はあわてて自家発電に切り替えたものだ。

次の店はタジ・マハールに使われている大理石にこれまた同じデザインで彫り込んだ小机、灰皿、絵皿などを売る店。このデザインはきれいな赤い花を並べたモチーフなのだが、何かもの悲しく好きになれない。タジ・マハールは后(きさき)の死を嘆いて王が作った大きなお墓なのだから。こういう時英語は便利だ。「このデザインは私の気に入り ません。だから買う気になれません。」と日本語ではなかなかいえない。でも英語でならすぐ横にアメリカ人らしい老夫婦がしゃべっているのをまねをして、はっきり断ることができる。日本人がイエス・ノーをいえないのはこの日本語の特質によるのではないか。

骨董品屋のおやじ 3軒目は表向きは指輪や金属製品を売っているのだが、何か、ヤバイ雰囲気のする店。思った通り、店の主人は「投資」の話を持ち出した。今いくらいくら振り込めば、日本に帰って2倍だか3倍だかになって金が戻ってくるなどと、怪しげな話。今までにサインした日本人の契約書の束を見せられる。これははっきり断る。わざわざインドまで来て、あの豊田商事事件の二の舞をすることもあるまい。さらに連れて行かれたのが骨董品屋だった。

ここの主人はこれから日本人観光客を相手に本格的に商売を始めたいので、日本語を習い始めたところ。商品を私に売りつけるのはそっちのけで、(私の風体ではとても金がないとみたか)しきりに様々な単語の日本語訳を尋ねるのだ。ジュースを一本ごちそうになって、何も買わずに出てきた。彼が私のために特別半値で300ルピーで売りたいと言った、彫り物のある真鍮(しんちゅう)の花瓶は、デリーに行ってから訪れた工芸品展示所では75ルピーで売っていた。あぶない、あぶない。わざわざ4軒も回ったが、アグラの商人像を垣間見た気がして、古代の建物を見るよりおもしろい経験になった。特にあの骨董品屋の主人は私の教えてあげた日本語の単語を、今頃一生懸命暗記しているかな。

悲しげな大理石 やっとタジ・マハールにつれていってもらう。運転手はまた外で待ち、私は一人で入場料を払い、中に入る。インドの壮大な建物にある中庭には、必ずと言っていいほどプールがついているのは、一種の冷房効果を求めてなのだそうだ。庭園に水を流れ込ませ、浅いプールに水をたたえ、その気化熱で周辺を涼しく保つことが、古代から行われたらしい。このタジ・マハールにもすばらしい長方形のプールが幾何学的美しさで並んでいる。実際その日は大変な暑さで、木陰にいないとたちまち日射病になりそうだった。ミネラル・ウオーターを飲みつつ前進する。

タジ・マハールはムガール帝国の王様が死んだ后の思い出に作った、一種のお墓だ。中に入ると大理石でできた夫婦の棺が仲良くおかれている。たぶん盗難を避けるためであろうか、地下にも同じ棺がもう一組置いてある。地下の棺が本物だったのだろう。これを作るのが当時の失業者対策に役立ったのかどうかは知らないが、20数年の歳月をかけさせた、ムガール帝国の権力の強さは、エジプトのピラミッドを思い出させる。

先に述べたように、壁にはもの悲しい花模様が彫られている。白地に赤い花がうなだれたようにモチーフを作っているパターンだ。町で売られている布にもここからとったデザインが結構多い。建物は壮大で美しい。だが自分で撮った写真は百科事典にのっていたそれと同じ構図で、今ひとつ新鮮味に欠けていた。まったくの左右対称で、幾何学的完璧さを持ち、その周りにうごめく人間世界とはあまりにもかけ離れた姿をしていたからである。

推薦状を書いてくれ!  昼をだいぶ過ぎてレストランで昼食をとり、予定していた列車に乗るため、駅へ送ってもらう。この運転手は朝からずっと私につきあい、外で待ち、アグラを文字通り一周して駅まで帰ってきたのだった。これで30ルピー。安いだろうか。そりゃあ安い。いくら物価の安いインドでもかわいそうだ。彼は手元にこの町での車夫のための標準料金表を持っていて、それによると大幅にディスカウントしたらしい。それで百円ライターをあげる。さらに10ルピーをバクシーとしてあげる。

近いうちに結婚するそうだ。これまたインドではたいそう費用がかかるらしい。やはり親のため。伝統には従わなければならない。彼はそれでも足りず、何かくれという。その腕時計でもいいし、日本のTシャツをくれとねだり出す。残念ながらこちらは旅に最小限しか持たない主義だ。そのかわり日本語で「この男は信用できます。アグラに来た際は、彼のオート三輪にのってください」という推薦状を書いてあげた。また誰か日本人観光客がこの町を訪れたとき、これを見て利用してくれるだろう。

彼らにとって日本からの観光客は本当にドル箱なのだ。毎朝、列車の到着する時刻になると、気前のいい日本人が降りてこないかと首を長くして運転手たちは待つ。(アメリカ人には期待していないそうだ。彼らは最小限しか払わないし、乗り物に乗らないで、すたすた歩く連中が多いと車夫たちは嘆いていた。)だから今朝のような激しい客の奪い合いも起こるのだ。

彼に別れを告げ、プラットホームに立って、そんなことを考えていたら、なんと朝に喧嘩になるところだった男の横につきそっていた、助太刀(すけだち)の男がやってきて、見送りに来たのだという。実は自分も推薦状を書いてほしいと、頼みにやってきたのだ。これには苦笑してしまう。前に誰か日本人に書いてもらった、よれよれになった推薦状を見せてくれたが、筆者がふざけた奴で、「・・・死郎」とか「東京都東区」などと、ありもしない住所を書いてあった。この男にボラれた腹いせかもしれない。

このことを日本語の読めないこの男に英語で教えてやると、がっかりした様子で自分のために新しく書いてくれと言う。でも君に乗せてもらったわけではないからと、丁重に断り、また日本人がやってきて真心を込めてサービスをしたら、きっとそのお客さんはきっと君に推薦状を書いてくれるよ、正直は最善の策だよと、 このまだ若いインド人運転手を慰めておいた。そうこうしているうちに、私をこの一日乗せてくれた運転手もプラットホームに上がってきて(入場券などいらない!)様子をうかがいながら、見送りに来てくれた。二人に見送られ、私は2時過ぎのニューデリー行きの超満員列車に何とか乗ったのだった。到着は夜9時頃になるだろうか。

第6章 デリー 

第6章デリー

下痢がひどい 間違い列車にアグラでのごたごた、そして3時間以上の立ちっぱなしの列車で、もうニューデリー駅に着いたときはくたくただった。ホテルはどこも超満員で、さんざん歩いてやっと見つけた部屋はなんとベッドが7つもある大部屋で私一人。それでも100ルピーで泊まれた。このころ下痢がひどくなり、体力は急速に消耗しつつあった。10日に及ぶ旅の疲れもたまってきたらしい。もう限界だという気もした。

でも寝ているより好奇心の方が強い。ウンコをこらえながら回ることにした。しかし動き回るにはデリーは広すぎる。いちいち探しながら回っていたら、体が持たない。そこで思いついたのが観光バス。ニューデリー駅にはちゃんと観光案内所があって、そこで金を払い込むと半日の観光に参加することができるのだ。午前の部と午後の部をあわせても、たった45ルピー。ところがバスの出発場所までオート三輪で往復30ルピーもかかる。何かおかしい。どうも公共の部門と、プライベートな部門との価格差が大きすぎるような気がしてならない。

記念碑の多い街 いざ利用してみると、今まで一人でわたり合い、交渉して、苦労してきたのが嘘のようだ。観光バスの客はほとんどがヨーロッパからの一人か二人でやってきた若者たち。日本人は午後の部では私一人。横に座ったイギリス人は25歳。仕事を辞めて3ヶ月(ビザ期限ぎりぎり)のインド旅行をするとか。さすが余暇先進国イギリスでも、3ヶ月の旅をするとなると仕事は退職しなければならないのか。

ガイドはインド人だが、さすがに今まであった中で一番英語の発音がきれいだ。この国では大臣ですら teacher をティチャルと、おかしな具合に発音するのだから。説明はとても丁寧でなかなか紳士的な人だった。このバスのおかげで、旧市街(オールドデリー)と新市街(ニューデリー)の主な観光名所をもれなく回ることができた。もっともこの町はあまり見るべきところはないが。インデラ・ガンジーやネールを祭った廟なども見たが、あまり印象にない。でも浅草寺のような雰囲気のヒンドゥー教の寺院とか、涼しくて静けさだけが支配する壮大なイスラム教のモスクはすばらしかった。

チェックアウト騒ぎ さて何となく取り澄ました首都デリーの町でも、やはり人間くさい事件は起こった。2泊したホテルを引き払うとき、出入りの際にいつも挨拶する、愛想の良い男が精算に来た。それもカウンターではなく部屋まで来て、料金の内訳を言うのだ。確か60ルピーのはずだったのにサービス料に20ルピー、税金に20ルピー、合計100ルピーをよこせという。おかしい。今までサービス料はともかく税金なんかとられたことはなかった。こいつだまし取ろうとしているなと直感した。「よしわかった。ここに領収書を書いてもらおう。名前をサインしてくれ。私は夕方またここによって、おまえのマスターに改めて聞いてみる。」と言ってやった。

この言葉でびくついたのだろう。外に出てオート三輪の運転手と交渉をしている間に、うつむきながら20ルピーを返しに来た。そのかわり領収書を返してほしいという。小心な男だ。こうやってみると、どうも出会ったインド人たちは金銭的にはあまり公明正大でないのも多いようだ。これは多くのインドでの暮らしを描いたドキュメンタリーでも共通していっている。インドには精神世界のみで生きているだとか、物質的快楽を求めぬ人々が多いともいわれるが、なかなかステレオタイプにははまりにくい国民が多い。インド商人はユダヤ人、華僑と並び、いやそれ以上に商売上手なのだ。

冷房つきだ! デリーに2泊したのち、再びコルカタに向かうことにした。この距離約1400キロ。東京駅ー姫路駅間を往復する距離だ。夕方5時に出発して翌朝の10時に着く予定だった。行きは2等列車でインド庶民の気分をいやと言うほど味わったので、帰りはこの国一番の特急で、寝台の一等にすることにした。しかし願いもむなしく3時間遅れて着いたが。しかし車内はエア・コンが効いて快適だったし、食事は晩も朝もまるで機内食のように無料サービスなのである。向かい側に座った女の人はアメリカ、コロラド州の田舎から出てきたと称するカメラ・ウーマン。50歳は確実にすぎている。どうせ田舎に戻っても誰も待ち受けている家族がいないから、写真を撮りながら世界を気ままに回っているという。インドは4度目だといい、東南アジアの国々にはほとんど行っている。この年での気持ちの若さ、行動力、そして灼熱の太陽にもめげない適応力。感服する。もう一人の男はインドかぶれで、神々の話や、精神世界の不思議さについて口角泡をとばしていたが、車内の涼しさのために、そしてつもりつもった疲れのために私はいつしか眠りに落ちてしまっていた。

第7章 帰国

第7章帰国(1) 第7章帰国(2)

何というビールのうまさ! 再びコルカタに戻ると、あのときの涼しさはどこへやら、猛烈な暑さになっていた。36度を超えている。もう乾期も終わりに近いので、その乾燥度もすさまじい。再び同じホテルに泊まる。予約しておいてよかった。「旦那、ビールはどうです。インドのブラック・ラベルはうまいですよ!」ホテルの従業員の言葉に心おどる。まったくインドでは大麻のような麻薬の方が、酒より手に入りやすいのではないかと思われるくらいだ。酒屋はほんの数えるほどしかない。運ばれてきたビールは生ぬるかったが、その酔いに満喫した。またどういう訳かコカ・コーラがたまらなく飲みたくなった。そして紅茶でなく、うまい珈琲が。ぱさぱさでないパンが。

コルカタの駅前やバス乗り場に行くと、男たちがたむろしている。わたしが日本人だと知ると、たちまち話しかけてきて、それが夕方だったりすると大勢の仕事仲間がわたしを取り囲んで質問攻めだ。日本への関心は高い。それに中国やタイと違ってまだ日本企業の進出も本格的でないから、彼らにとっては興味津々なのだろう。

デリーへ向かう前に、この町で変な男と知り合っていた。彼は国語(ヒンディー語)の教師で、何百という方言や地方語が入り乱れるこの国で、公用語の普及という任務を担っているのだ。再びコルカタに戻ってきてからも、わたしにつきまとい、日本や日本語についていろいろな質問をしてくる。そして自分はもうじき結婚する予定。そしたら日本に新婚旅行にくるので、そのときは迎えに来てほしいという。

インド博物館の前で落ち合う約束をしたが、急用でわたしが来れなくなったときには、丸一日その場所で待っていたり、「おいしい飲み物を売る店を教えてやる」といわれ、ヨーグルトをジュースにしたようなものを飲まされ(うまかった!)たものの、支払いは全部わたしがすることになっていたりして、どうもよくわからない。でも、これがなんか典型的なインド人のような気がした。

やはり多様性の魅力が その物質的不便さを考えれば、確かにもう2度と行きたくない国だといえよう。特にそのときは下痢のため、かなり体力が衰弱していたからなおさらだった。体力がなく、物質的繁栄にどっぷり浸かっている人には、下手をすると死を招く。だがこの13日間の間に体験したことは決して日本ではもちろん、アメリカででも得られないものばかりだった。日本ではもう30年も昔に消え去ってしまったものといってもいいだろう。アメリカの画一化された生活や町並みとも、まったく異質のものといってもいいだろう。

今度はインドのどこに 帰国してから2週間もたつと、すべての体験が客観的に見えてきて、今度はヒマラヤ方面と南インドにも行って、また違った面を見たくなってくる。糞と痰のために遠ざかるにはあまりにももったいない部分が、インドの内部には隠されているのだ。インドが将来どんな国になるのか、誰にもわからない。この恒久的な貧困状態を脱して西欧化への道をたどるのか。確かにその傾向は首都などにははっきり見られた。インドは日本の明治維新や敗戦のような巨大な歴史的激動を経験していない。イギリスからの独立も人々の生活に根本的な変化は何ももたらさなかったし、それどころかイギリスの社会制度のよい面は今でも英語という言語も含めて根強く残っているのである。ということは多民族国家でもあるし、その人口の多さから考えても、大きくこれから方向変換することは考えにくい。

鎖国的政策は続くのか? 国産車のアンバッサダーやコカ・コーラ風の国産飲料、サム・アップに象徴される自給自足的態度は、これからも国内で維持されるだろう。もちろん時の政府は西側に追いつこうと必死だ。外国人向けの特急列車の切符はドル建てでないと買えない。外貨を入れようと必死なのだ。一方で3ヶ月の制限付きのビザの制度は外国人観光客の流入をかなり押さえる効果があると思われる。まさか中国のように西洋の悪徳思想を防止したいという発想からではないと思うが。去年の選挙で勝ったガンジーの流れをくまない方の政党による新しい政府は、インド経済の浮上に必死のようだ。列車は遅れ、航空機は墜落続きでその建て直しは容易ではないのだが、先に述べた子供税をはじめとして、とにかく西欧に追いつきたいという気持ちが見てとれる。

ただこの傾向は独立直後のガンジー・ネールらの唱えた思想からはだんだん遠ざかってきていることは否定できない。よく1人のアメリカ人の消費するエネルギー量は、インド人6人分に相当するといわれるけれど、インド人はこのままでいいと思っていないし、やはりアメリカ人並に消費したいという願望を持っていることは、13日の間に接した人々を見ても明らかだ。ただ貧困がそれを許さないだけであり、よくインドをたたえる本にその自然に反しない生き方を高く評価する向きがあり、私もその見方に反対ではないけれど、日本も昔はそうだったのだし、農薬や殺虫剤に苦しめられたあげく、その反省から生まれた西欧の緑の党などの発想とは次元がまったく違うのだ。

島崎藤村はいるか? さて、国全体の方向性はともかく、社会構造の方ももっと保守的で動きの少ないものだ。一言で言うと、インド人の個人生活は非常に抑圧されていると思う。それは共産主義国の不自由とも違うし、全体主義国家のような上からの完璧な統制とも違う。それはカースト制度に代表される伝統的農耕社会の、個人をがんじがらめにする因習、風習の網の目なのだ。だからデモをして反抗したり、論文を掲げて白熱した論争をするような対象でもない。問題は古い世代の若い世代に対する強力な押さえつけであり、それにより結婚、職業選択など、あらゆる面で個人の自由が利かないということだ。これを西洋の尺度でとらえればきわめて閉塞した状態というわけで、これを打破するのは容易ならざることだろう。

もっとも、当のインド人たちは我々から見て心配するほど不幸に感じてはいないらしい。一つには情報が限られていて、ごくわずかのエリートをのぞいて世界の実体、特にアメリカナイズされた文化を知らないということもあろう。マクドナルドやコカコーラには今の時点では無縁なのだ。ただ恋愛などへのあこがれはあり、ベッド・シーンはおろか、裸も御法度にな っているインド国産映画のキス・シーンにさえも羨望のまなざしが向けられること自体、若者が殻を出たいという気持ちは強く感じられる。インドは一時期のイランのように、狂信的宗教指導者によって牛耳られているわけではないのだから、いずれはたとえば、インド版島崎藤村による、「破戒」などのようなものが徐々に登場して、世の中も少しずつリベラルになってゆくのだろうか。

閉鎖された女性社会 今度の旅行で気づいたことの一つに、女の人とほとんど口を利かなかったことだ。男性とはもう、うんざりするくらい話をしたのに、向こうから話しかけてくる女性はまったくなく、こちらからもとても話しにくい状況なのだ。電車やバスの中でも女性たちは知らない同士でも固まって座っている。一度、私が気づかないでその中に腰掛けたら、ほかの男性から注意を受け、男の座っている席へ移れ、といわれた。女性専用席があるわけではないが、家族で乗車する場合をのぞいて男と女の世界がはっきりと分かれているのだ。この点は非常にイスラム的であり、女性はベールをかぶることはなくとも、男性とは精神的な「鉄のベール」をおろしている。だから恋人同士が仲良く手をつないでなどという光景は日本の明治時代と同様に、周りからは噂の種になったり、白い目で見られたりすることになるのだ。コルカタであった若い男は近く結婚する予定の女性をまだ見たこともない、と平気で言った。

子供天国 これに対して子供はどうか。インドの子供は世界でもっとも生き生きしていると言っても過言ではあるまい。学校でしっかり勉強し、家へ帰ればきちんと手伝いをし、多くは親顔負けの仕事をこなして、あるいは「バクシー」を連発してしっかり金をもうけ、もちろん徹底的に遊ぶ。生活のあらゆる面で充実していると言っていいだろう。どの子もみんな明るく、泥だらけであったり、鼻水を垂らした子であっても、日本の塾帰りの生徒たちによく見受けられる「生活の疲れ」などはみじんもない。

これはやはり、まだ社会のがんじがらめの網に掛かっていないこともあろうが、なんといっても何でも自分でやれないと生きてゆけない社会環境の厳しさのためだろう。電化製品のおかげで手伝うことを失い、日常生活の何もかも母親任せの、あのドラエモンの中に出てくるノビタ型の子供には一人も出会わなかった。特にコルカタのカーリー・ガート寺院で待ちかまえていた自称ガイドの少年グループの気迫には負けてしまった。フランス映画「わんぱく戦争」の子供たちみたいだ。子供の元気な国には未来がある。今どんなに貧しくとも、将来には希望の光がある。インド人が子沢山を喜ぶのは、案外こういうところからきているのかもしれない。

再訪に備えて 帰国の時が迫ってきた。カレーにうんざりし、コカ・コーラとビールがしきりに飲みたかった。酷暑のコルカタのダムダム空港の展望台に立つと、どこまでも青い空が広がっていた。見慣れた赤土とその間に見え隠れする石造りの家、そして亜熱帯性の植物。到着したときとまったく同じ風景だが、もう一度来るようにと手招きしているように思える。立派な建物や広大な自然よりも、だまされたり、ボラれたり、親切にされたりしたことのほうがはるかに印象に残っている。今度訪れたときもそうなるといい。

第8章 記録 

旅行期間 1990年3月11日より25日まで

3月11日 成田空港18時10分発、バンコック着23時10分(ノースウエスト航空)

3月12日 バンコック発11時45分、コルカタ着12時40分(タイ航空)

3月13/14日 コルカタ滞在

3月15日 ガヤ行きの列車に乗る、夕刻到着、ガヤー泊

3月16日 ガヤー・ブッダガヤー見学、ガヤー泊

3月17日 ヴァラナシ行きの列車に乗る、午後到着、ヴァラナシ泊

3月18日 ヴァラナシ見学、午後(乗り間違いのため)デリー行きの列車に乗る、車中泊

3月19日 翌朝デリー経由で午前アグラ着、アグラ見学、午後に再びデリー行きに乗る、夜到着、デリー泊

3月20日 オールド・デリー見学、夕刻コルカタ行きの寝台特急に乗る、車中泊

カルカッタの人力車3月22/23日 コルカタ滞在

3月24日 コルカタ発13時55分、バンコック着17時40分(タイ航空)

3月25日 バンコック発07時、成田着14時45分(ノースウエスト航空)

総費用

航空券13万円・保険1万1千310円・外貨(ルピー・ドル)4万5千円

合計約19万円

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© 西田茂博 NISHIDA shigehiro

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