イタリア Italy

イタリア奇想録

(1992年)

ローマのサンピエトロ寺院

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目次

第1章 イタリアへの道

第2章 イタリア語を中心とした語学的考察

第3章 フィレンツェ 第4章 ヴェネツィア

第5章 ミラノとコモ湖 第6章 ローマ

第7章 交通機関 第8章 レストラン

第9章 ホテルにて 第10章 帰国

第11章 記録

第1章 イタリアへの道

端緒  湾岸戦争のおかげで1991年にはどこにも海外旅行に出かけられなかった。あの壮絶なインド旅行のあとでは、ユーラシア大陸の隅々まで見てみたいという気持ちから、今度の目的地はトルコに行こうと決めていたのだが、家族4人で旅行をすると決まって、比較的安全なヨーロッパに急遽、目的地を変更することとなった。イギリスは目に見えない財産が豊かだが、子供が見て分かるような所は少ない。スペインはオリンピックを控えて、落ち着かないし、物価が上昇している。フランスはパリを除いては、いまひとつプランが思いつかない。ドイツはほかのヨーロッパの都市をまわった後の方がいいだろう。でもイタリアなら目に見える文化遺産は豊かだし、食べ物も良さそうだし、魅力的な都市が数多くある!よしイタリアに決めた!
 
インドとの共通点  タイのあるインドシナ半島、インド亜大陸、そしてイタリアは一つの共通点がある。それはみな、ユーラシア大陸の南の端に半島の形で垂れ下がっていることだ。海に面し、それぞれの国の南部と北部には大きな経済的、文化的隔たりが見られる。今回のイタリアは北部の都市を巡るだけだったが、そのコースの取り方は、ほぼインドの場合と同じように鉄道を主に利用し、最後に寝台列車で出発地に戻る形式にした。インドの南部に行っていないのと同じように、イタリア南部にも行っていない今回は、未完成の旅である。来年はナポリやシチリア島に行ってみたい。

第2章 イタリア語を中心とした語学的考察

イタリア語速成  イタリアでは英語が通じるのが、高級ホテルやレストランと空港ぐらいなもので、その他の場所ではイタリア語で話し合わなければならない。ローマやミラノの街角に駐車してある車のフロントガラスには「英会話教室生徒募集中!」のビラがワイパーにはさんであったのだ。イタリア人もEC統合に向けて、英語を学ぼうという気になったか。でもその熱意の結果が現われるのは、数年後になりそうだ。今回の旅行のため、去年の10月からNHKラジオのイタリア語講座を聞き始めて旅行に備えた。その効果はあったか?残念ながら最も効果があがり、熱心に勉強したのは出発のわずか3日前であった。普段20分の講座を聴くことは、仕事の忙しさや、その他しなければならない用事で、至難の業だし、疲れた頭では集中できないことがほとんどだ。

とっさの一言  結局文法構造の大まかな点は習得したものの、6ヶ月はあまりに長かった。結論を先に言えば、外国語の習得は、短期決戦で行くのが最も効果的である。「必要は発明の母」と言うが、「必要は上達の母」でもあろう。主発前の3日間は数字の暗記と「どこDove」「いくらQuanto」から始まり、使うことが予想される、ぎりぎりの会話表現と単語をテキストから抜き書きして、自分なりの会話集を作った。そしてそれらをできる限り、暗記した。こうやって作った「虎の巻」と英伊、伊英辞書はいつもポケットに潜ませて、商店で、駅で大活躍をしてもらった。いや、質問がうますぎて、相手のイタリア人がこの日本人はイタリア語が話せると勘違いしたらしく、ナチュラル・スピードでまくし立てられ、あわてたこともあった。でもどこの国を旅行するにしても、その国の言葉をちょっとでも口にすると、とたんに相手の態度が変わり、とてもやりやすくなる。特に日本人が英語以外を話すことは彼らにとって驚異であるようだ。

短期決戦  今度旅に出る際に、新しい言語を習得するときは今までの方針を変えて、2週間ぐらいでびっちり学べる教材にしようと思う。6ヶ月のNHK講座は長すぎて、中だるみを起こす。幸いなことに、イタリア語の発音がきわめて易しく、英語と文法構造が大きく違っているわけではないので、そのおかげでだいぶ助かった。たとえば、街角で見るポスターや広告を見ても、それは英語と明らかに語源の同じ単語が目に付き、大体の内容の解読は決して難しいことではない。このことは他のヨーロッパ言語にも当てはまるのではないだろうか。これからは世界各地の基幹的言語、たとえばアラビア語、スワヒリ語、中国語、トルコ語などをきちんと習得していれば、それぞれの系列下に入る言語は、比較的容易に入っていけるであろう。

第3章 フィレンツェ

フィレンツェの夜は更けて建物の内と外  この町の楽しさは、36もある博物館や美術館にあるだけではない。町中にあふれる、イタリア臭さにもある。中央市場付近に広がる、テントを張った露天商の列。彼らは店舗を構える店の人と違い、昼休みを2時間もとるようなことはない。朝早くやってきて、テントを立て、夕方遅くまで営業している。広場にいる観光客とそれに群がる商人や得体の知れない人たち。(日本のテレホン・カードを集めているから、使い古しでいいからぜひ譲ってくれ、と言ってきた若い男もいた。)そして他の町にも共通することだが、とても自動車では通り抜けられそうもない、人間か犬しか通れない、狭くて小便臭い、高い屋根に囲まれた路地。東京の江戸以来の下町にも似た、よそ者が気楽に入っていけそうもない雰囲気だ。いや2年前のインドのカルカッタとも似ているではないか。乞食や糞はないけれど、基本的な町の配置はそっくりだった。外壁はほとんど崩れかけている。何百年もたって、風化したような赤煉瓦の壁が町中を覆っている。しかしその中は普通の近代的マンションと同じように、清潔で明るく機能的である。建物の内部は先進的な工夫がなされて、外壁とは極 端な対照をなしているのだ。商店はどんな大きな店も、一階にひっそりと目立たない看板を立てて営業している。大きな看板がこれでもか、これでもかと前にしゃしゃり出て、結局何の店があるか分からない、香港の通りとはまるで正反対である。

町の空間ピアッツァ  そしてその迷路のような路地を抜けると、突然広場Piazzaに出る。広場は公園ではない。木が生えていたり、噴水があることもあるが、基本的には人々が流入し、また散って行くところだ。それぞれの広場には、トレード・マークになるような石像や銅像が建っている。そこには人々があふれているが、煉瓦に囲まれた、立派なプライベート・ルームに住む人々には欠かすことのできない、開放的な空間なのだろう。日本の都市では、人々は狭い住居に押し込められ、その上気晴らしにうろつくことのできる,広場のような公的空間もない。二重苦である。交通渋滞を我慢しても、どこか遠くのテーマ・パークか行楽地に出かけるしかない。この町を流れる川に、ベッキオ橋というのが架かっているが、その橋は両側が宝石店で占められている。(その売値は法外に高いという印象を持った。)全部つながっていて、橋の上の長屋だ。ここでは橋は川を横断するためのものだけでなく、繁華街でもあり、広場でもある。店舗の面積が狭くてもすむ、宝石商やユニークな土産物屋にはうってつけの場所であったのだ。

Duomo丸屋根のシンボル  フィレンツェのランドマークと言えば、ドウオーモDuomoだ。これは大聖堂(Cathedral)とは違うそうだが、やはりその大きな特徴は、その巨大な丸屋根だろう。ミラノのドウオーモのような尖塔で飾られているのと違い、その屋根の作る大空間は教会の内部をきわめて大きく見せている。丸屋根の付け根は、何10メートルもの下を見ながら、体が高所恐怖症で引きつる高さの通路をまわって行く。その通路は下をよく見ると、オーバーハングしていて、こんなにたくさんの観光客の体重を支えられるのかと、ふと心配になるほどだ。頂上にあがると、下界は一面、赤い屋根の世界。少し黒みを帯びた屋根瓦が、低い丘陵に抱かれて、広がっている。醜い高層ビルは見えない。緑と赤がしっくりしたコントラストを描いている。その下でうごめく人間とは別に、神の国からの眺めがここにはあった。この町に二泊。短かすぎる。

第4章 ヴェネツィア 

ベネチアの運河海にできた町  この地には17世紀ヴェネツィア博物館というのがあって、当時の館と、そのときに用いられた家具や食器が陳列されている。カ・レッツォニコ(Ca'Rezzonico)という、すてきな名前だ。そこの簡単な町の起源にまつわる話によれば、ヴェネツィアは浅瀬の海で、北からの野蛮人たちに追われた祖先たちはそこに石を置き、その上に石造りの家を建て、町を形成した。だから家々を結ぶ大通りとは運河であり、無数の橋がかかっている。駅からサン・マルコ広場まで往きは徒歩で行ったが、狭い路地を表示板と観光客の流れを目当てに、次々に通り抜けて、10本以上の橋を渡って、やっとたどり着いた。路地の幅は広くて3メートル、狭いところは1メートルにならないところもある。この狭いところを世界の観光客が通るのだから、商店が並ばないはずはない。約4キロあまり、両側には宝石店からスーパーに至るまで、軒を並べている。店主たちは日本人観光客の増加のせいか、片言の日本語を繰る者が多い。

トイレ観察  イタリアの他の都市でもそうだが、トイレが少ない。サン・マルコ広場に近づくと、やっとトイレの表示を見つけた。男女兼用で有料(500リラ)である。中に怖いおばさんが立っていて、、8つほどある便所のドアが開くたびに次の人、と指示をしている。トイレが少ないのは、運河が多く、生活排水の処理の問題と関係があるのだろう。トイレと言えば、男性用の小便の便器はなんと高いのだろう。やはり足の長さと関係があるのだろうが、つま先立ちをしないと届かないのだ。足台がほしい。ちいさな男の子はもちろん、大便用でやるしかない。

ベニス・山下清サンマルコ広場  この町の中心地、サン・マルコ広場は鳩がいっぱいだ。そしてそこをぐるりと取り囲んでいる回廊にはヴェネツィア・ガラスを売る店がずらりと並んでいる。広場に椅子とテーブルを出している、軽食を食べさせる店に気をつけねばならない。なぜならうっかり注文してそのテーブルで食べると言ってしまうと、ネクタイを締めたウエイターが食べ物を厳かに運んできてはくれるが、そのあとで目玉の飛び出るほどのテーブル・チャージを取るからだ。庶民はテイク・アウトの形式の店でサンドイッチを買い、歩きながら口にほうばる。

町の裏側 この町の定期バスはもちろん船であって、各駅停車と快速の2種類がある。各駅停車は渡し船の代わりであって、100メートルほどの幅の運河をジグザグに進む。3月の夕方の風は冷たいが、ゆっくり運河をさかのぼるのは両側に立ち並ぶ見事な建築を眺めながら進むので、この町の雰囲気を満喫するには最高の方法だ。船は国鉄サンタ・ルチア駅の前でほとんどの乗客を降ろしたが、この先はどこまで進むのか好奇心に駆られて、そのまま乗っていると、なんと町の外の造船所や石油タンクが立ち並ぶ、工業地帯に連れていかれてしまった。その風景は横浜港のコンビナートを思わせる、もの悲しい風景であった。定期船はその一隅に作られた、小さな船着き場を終点として、しばらく停泊したあと、造船所の従業員らしき人々を乗せて、再びゴンドラの浮かぶ市街地に戻ったが、ここでふと思ったのは、ディズニーランドの小さなボートでアトラクションを回る仕組みを作った人たちは、この町をモデルにしたのではないかということだった。船で進みながら眺めを楽しむこと、町外れはまさに舞台裏という感じのヴェネツィアの雰囲気そのものなのだ。住む人はあまり居心地が良 くないだろうが、観光客から見ると、実に楽しい、何が起こるか分からない町なのだ。

サンマルコ広場 おみやげのいろいろ この地域のおみやげとしてはカーニバルに使う仮面がある。これは直径40センチに及ぶものから2センチぐらいのミニサイズに至るまで、さまざまな大きさの目の部分に穴があき、赤や青の奇妙な彩色をした、気味の悪いデザインで書かれている。この顔の形は実は、アメリカ南部、それもニューオリンズで見かけたものとそっくりなのだ。何か歴史的関連があるのだろうか。あとは豚の人形。笑っているもの、抱き合っているもの、寝ているものなど、人間を風刺しているようで、妙にリアリティにあふれた表情をしている。そしてヴェネツィア・ガラスの伝統に基づく、ガラス細工のおもちゃがたくさんある。先ほどの豚の人形から、小さな演奏者が勢揃いしたオーケストラに至る、楽しいミニチュアワールドを繰り広げている。そしてそれらの専門店も何軒もあるのだ。もちろん本物のヴェネツィア・ガラスを売る店はもっと多い。あの赤い色を透かしてみる器は、遠くペルシャのガラス器、そしてインドのタジ・マハールを思い起こすデザインが潜んでいる。日本の百貨店がこのすてきな品を大量に買い付けて、金だけはある、俗悪連中の目に触れることがありませんよ うに!

歩く楽しさ  車の通らない道とはなんとすばらしいことだろう。何度散歩しても楽しい。狭い道の角の向こう側には何があるのだろう。迷路から迷路、広場から広場へと歩くときの興奮は、高速道路の整備された大都市にはとても考えられないことだ。橋の欄干は所々、すり減っている。何百年もの間、無数の旅人が通り過ぎたに違いない。あの「イタリア紀行」を書いたゲーテも含めて。そして今日もまたこの橋を、絶えることなく渡ってゆく。

第5章 ミラノとコモ湖 

3つの顔を持った町  近代都市はその利便性と引き替えに、伝統的なものを犠牲にするもので、ミラノもその例外ではない。少なくとも国鉄中央駅からドウオーモに至る広い道路は、イタリアの古い都市の持っていたぬくもりの中に、近代的感覚と合理性が遠慮会釈なく入ってきている。この町にはかなりの高層ビルが建ってきているし、これからもどんどん増え続けるだろう。ビジネス街の真ん中のブッフェ(立ちのみ珈琲店)に入ると、その中には大勢の日本人ビジネスマンがいて、「仕事」の話をしているのだった。もちろんここもドウオーモをはじめとして、多くの遺産が残されているが、それとは別に、世界的に有名なファッション街が存在する。だが一般の消費者が買い物のできるような所ではなく、世界中の衣料関係の、バイヤーたちの引き合いを待つところ、と言った方が適切なようだ。またニューヨークを思わせるような庶民感覚あふれる下町が、ブエノスアイレス通りと称するあたりに広がっている。この通りの名はイタリア人が数多く南米に移民を送り込んでいるせいだろうか。午後いっぱいこの地域を歩いてみたが、ミラノは3つの顔をもっているといえようか。

ケーブルカーから見たコモ湖コモ湖の魅力  この町はスイス国境には列車で1時間あまりだ。この付近は湖がたくさんある。昔の氷河が溶けてできたので、川のように細長い。コモ湖もその一つでYの字を逆さにしたような格好をしており、それを取り巻く山々は、峠を越えれば向こうはスイスだ。ミラノからローカル列車で45分。目の前に広がる湖は山中湖という感じだが、それもそのはず、夏場は別荘に大勢の人が泊まるので有名なところなのだ。昔の手帖を頼りにかつての求婚者を訪ね歩くという映画、「舞踏会の手帖」の舞台ともなった、ロマンチックなところだ。湖岸には、電圧のボルトのもとである、ボルタの博物館がある。あとで知ったが、これはリラ札の図柄になっていた。彼は日本だと寺田寅彦のような、国民的偉人なのだ。近くの崖のような、急な山はケーブルカーが通っている。サン頂駅からはスイスの山々が見えた。まだ3月だから、遊覧船のほうは就航していないけれども、湖岸の各地を結ぶ定期船を利用して、いくつかの船着き場を訪れてみた。煉瓦と赤い屋根の家々は急な山の斜面に、しがみついている。別荘地は閑散としているけれども、ベニスの運河を幅広くしたような眺めである。スイスの雰囲気がじかに伝わってくるような、きりっと冷たい 風の吹き渡る、湖面であった。イタリアは古代の遺産が多いから、美術館や博物館巡りが主になるが、自然の美しさも捨てたものではない。のんきそうな野良犬につきまとわれたりしてリゾートやらゴルフ場やら、派手な看板に毒されない風景が広がっていて、ほっとした気持ちになる。

第6章 ローマ 

スペイン広場  この町はミラノと違って、経済的な力はそんなに強くない。町中が遺跡だらけで、バスに乗って回ってみると、公園の代わりにローマ時代のあとがあちこちに見られる。だから児童公園みたいなのは少なくとも市街地には見られない。あの「ローマの休日」で有名なスペイン広場に行けば、日本人はもちろん、世界中の観光客が集まり、その人種の多様さに目をみはる。この点ではローマはニューヨークと同様の強烈な吸引力をもっていると思う。若い日本人観光客が時差のせいか、歩きすぎたせいか、疲れ果ててスペイン階段の上で眠りこけている。みんなオードリー・ヘップバーンのようにまず、茶色の花崗岩の石段の上に腰を下ろして、下の広場を眺めるのだ。とにかく階段の上は人がものすごく多く、まるで真夏の海水浴場のように人々の間をすり抜けていかなければならないほどだ。

トレビの泉へ  この広場から様々なブティックや専門店が軒を連ねているが、その主役は日本人女性のようだ。目を皿のようにして、ショウウインドーに食い入る女性の後ろを、ふくれ面をした男性がついて行く。あるいは待っているのにうんざりした男性に、置いて行かれてなきべそをかいている女性がいる。我々のように自由行動で旅行しているのと違い、「・・旅行社」の添乗員が団体を引き連れて歩いているのをかなり目にした。この人の流れはトレビの泉まで続く。この泉はちょっとわかりにくいところにあるが、そこも大勢の人で埋まっている。ローマの町は全体としてそれほどごみごみしたところではないのだが、このように有名な観光スポットになると、とんでもない人数が集まっている。

笑顔  泉から中心のテルミニ駅まで歩いた。途中に三越があり、ここは日本人のオアシスといえようか。全く日本国内と同じサービスが受けられる。中にいる客はほとんど日本人だから、みんなほっとした表情をしている。釣り銭のごまかしもないし、言葉でうろたえることもない。もっともイタリア人の陽気な顔があればいいのだが、日本人店員のきまじめな顔だけなのは興ざめだ。マクドナルドの値段表に「スマイル0円」とあるのを思い出す。今度のイタリア旅行で一番すてきな笑顔はバチカン広場の近くのバール(軽食屋)で、サンドイッチを注文したときにいた娘で、あのさわやかな笑顔は忘れられない。春風のような顔で、何でこんな町中にいるのだろうかと不思議な気がしたのを覚えている。

公衆浴場跡  町外れにはカラカラ浴場跡がある。コロッセオと違い、有料だし、(1万リラ)少し離れているので観光バスはあまり訪れない。ただ、今は春休みだろうか。小中学生がやたら多い。でもこの巨大な公衆浴場はまさにローマの力を身近に感じさせられる。その床のモザイク模様と壁画の一部が一大娯楽場だったことを示している。

カタコンベ  さらに郊外へ出ると、旧アッピア街道があり、その沿道にカタコンベが散在している。この街道は旧東海道とか、旧日光街道を思い出させ、何か過ぎ去った昔をしのばせるのにぴったりだ。今にもローマの兵士たちが、馬に乗ってやってきそうなところである。沿道沿いには糸杉が並び、周りは緑の畑とローマ特有の松が点在している。観光客もまばらだ。そして所々に迫害を受けたキリスト教徒の集会所であり、墓場であるカタコンベがいくつかある。英語やスペイン語など、主要な言語で説明してくれる、ガイド付きである。あまり内部が迷路のように複雑なので、一人で勝手に入ってはいけないのだそうだ。その中の一つに入ってみたが、骨やさまざまな道具などは博物館などに移管されているものの、その巨大な洞窟は初期キリスト教徒の苦難を忍ばせるものだった。

第7章 交通機関 

全線パスが便利  ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ、コモ湖、そして再びローマへの道のりはすべてイタリア国鉄全国パスを利用した。これをあらかじめ日本で買っておくと、普通列車だけでなく、特急にも乗ることができる。一つ一つ切符を買う場合に比べて、割安かどうかはさだかではないが、駅の窓口に並ぶ長蛇の列を見れば、おおいに時間の節約にはなったことは確実だ。以前アメリカをグレイハウンドバスで回ったときもパスが大いに威力を発揮したが、各都市を回る場合には大変便利だ。

列車は遅れないか?  鉄道のダイヤはほぼ正確だが、(たまたまか?)駅の出発番線が簡単に変更になってしまうのには閉口する。駅のアナウンスでイタリア語と英語で代わる代わる伝えてくれるのだが、重い荷物を抱えて、大勢の人々がいっせいに他のホームへわたらねばならないのは大変不便だ。列車のスピードはかなりあり、乗り心地も悪くない。座席は2等であっても、日本の列車と比べて遜色なく、シートも両側に首を支える枕が膨らんでついているのが、居眠りをするのに大変都合がよい。コンパートメントも何回か利用したが、透明なガラスのドアがついて、暖房や冷房効果はかなり良い。ただ驚くべきことにEC特急列車であっても、2等の場合、トンネルに入っても電灯が点灯せず、鼻をつままれても分からないほどの真っ暗闇が続くのだ。イタリア人たちは慣れっこになっているようだが、読書などももちろん、中断せねばならず、オリエント急行殺人事件もこんな暗闇なら容易に準備ができるのではないかと勘ぐってしまうほどだ。コンパートメント沿いの通路は、あまり広くないが、所々に折り畳み式のいすがあって、混んでいるときは引き出して座ることができる。ち ょどバスの補助席みたいな感じで、なかなか気が利いている。駅を出発するとき、けたたましいベルや、変な音楽がなったりせず、静かに動き始めるのがよい。駅に近づくと、手短かに駅名を伊独英の3カ国語でアナウンスするだけだ。

スイス風田園風景  車窓に移るイタリアの田園風景は美しい。どこまでも続く、ゆったりとした起伏の丘は、たいていが牧草地で、牛や馬が点在している。小麦は3月の頃はまだ土が掘り返してあるだけだ。高くそびえる山は、アルプスに近づかないと見られない。風景の奥行きは日本より遙かに深い。日本の場合は、垣根、兵、家屋、看板その他によって後ろの眺めが遮られることが多いが、ここでは地平線まで見渡せる場合がある。国土の広さは同じ位なのに驚きだ。耕地は手入れがよく、行き届いている。アルプスの少女ハイジが住んでいる、と言ってもおかしくない牧歌的な農場が連なっている。日本の田舎は年々荒れてきている。休耕田やら造成中の工業団地やら、そして小さな丘には平気で切り通しをつけたり、削り取ったりする。田園の美しさはその国の農業に対する力の入れ方に比例すると思う。EC諸国は政府から手厚い補助金をもらって、アメリカから非難されているが、無視すればよい。自営農民がやる気を起こして農業を繁栄させ、国民の胃袋を満たすという、重要な役目を忘れてはいけないだろう。あのすばらしいイタリア料理もこの田園地帯があって初めて存在する ことも。

キセルは多いか  さて、鉄道の話に戻ると、改札口はあるけれども、入るときに駅員が軽く切符をチェックするだけで、あとは車内検札がかなり厳重だといえる。駅を出るときは全くのチェックなしのフリーパス。切符を持っていないで乗車すると、高い料金を払わせられるそうだ。ミラノ・ローマ間の寝台列車では、車掌が外国人のパスポートを取り上げたまま、朝まで返してくれない。我々の車掌は朝寝坊をして、ローマに近づく直前まで寝ていて、あわててアンダーシャツ姿でパスポートを配るといった醜態を演じた。何かとてもイタリアらしい感じだ。

かわいい自動車  本当は鉄道ではなく、レンタカーを使って、田舎の隅々まで行きたかった。しかし10日間という限られた日数では、時差ボケを乗り越えて右側通行の道を運転することは危険と判断して、やめたのだが、今度はヨーロッパじゅうをの利回してみたい。そんなわけで、イタリアの自動車交通とはあまり接する機会がなかったが、一般に町中ではみんなのろのろ走っており、歩行者は、日本を除く他の国と同様、赤信号を遵守しようという姿勢はない。おばあさんがよたよたしながら、渋滞した大通りをわたって行く。日本では20年前に姿を消した、懐かしきオート三輪がたくさん見受けられる。そして車のサイズは軽自動車並みが圧倒的に多い。しかもみんな愛らしいデザインだ。狭い国土、道幅を拡げられない古い町並みを考えれば、大型車は不便この上ないのだろう。日本は道路が狭いくせに、2000cc級以上のばかげた大きさの車がのさばって、渋滞に拍車をかけている。日本も昔ながらの城下町では特にどこに行っても狭いのに。

いずこも交通事故  朝にホテルの窓を開けて下を見るとびっくりする。通りは一面、夜を明かした路上駐車の列だ。別に駐車違反になることはないらしい。(それとも警察の方であきらめているのか?)大通りではあまりそんなことはないが、ちょっと狭い路地に入り込むと、止めてある車で身動きがならないほどだ。交通渋滞と事故は世界の大都市で、いずこも同じ。高速道路では猛スピードでとばしているそうだが、事故は多いのだろうか。列車の窓から、大変ショッキングな看板が道路沿いに立っているのを何度か目にした。死体に白いシートがかぶせてあって、そこから道路上に赤黒い血が流れ出て、血だまりを作っている。すぐそのそばの道ばたには死体の遺族らしい人がうずくまって泣いている。あなたが事故を起こすとこうなるのです、というメッセージだ。記録に写真を撮ろうと思ったがやめた。日本ではあまりに強烈すぎて、とても人目に出せるようなものではない。気持ち悪いが、確かに運転者に警告するには抜群の効果がある。

バスをのりこなす  ローマ市内ではバスを利用したが、一般にバスは旅行者にはてごわい相手だ。時刻表などあてにならないし、停留所ははっきりしないから、運転手か乗客に降りる場所を言って、教えてもらわねばならない。路線はどこでも番号で示してあるが、どういう経路を通るか、それをたどるだけでも一苦労だ。この国のバスは鉄道よりも、さらに乗車券についてはルーズで、乗客は乗っておりてゆくだけで、そばから見ると、みんなただ乗りをしているように見える。実際無賃乗車は多いようだ。時たま車内検札をするようだが、普段は運転手は切符についてはまったく目もくれず、ただ運転をするだけだ。運賃に定期券、お釣り、はたまた回数券まで売る日本のワンマンバスの運転手さんは大いそがしでご苦労様だ。労働がきつすぎる。いや、交通安全にも関わってくるのではないか。

地下鉄は安い  ローマとミラノには地下鉄がある。町中が遺跡だらけだから、掘るのにはさぞ苦労したことだろう。路線の数が少ないから、誰でも乗りこなせる。均一料金でミラノなら100円程度(1000リラ)、ローマなら60円(600リラ)だから交通料金はほかの物価と比べると格安といえる。朝の通勤時間は非常に混む。スリや得体の知れない人も乗っている。急加速、急停車で何かにつかまっていないとひっくり返る。だが人列車やり過ごすと、次の列車は空いている。その次はまた混んでいる。こんな風に互い違いに混むのは、日本の通勤客のように、1列車やり過ごして乗ろうという知恵が働かないせいらしい。通勤地獄が本格的にはなっていないイタリアではの話である。

第8章 レストラン 

こじんまりした雰囲気 食のイタリアの名の通り、どこのレストランも味の良さ、値段の安さでは文句を言うことはほとんどない。特に田舎風、地方都市風のレストランは家族で営業したりしていて、雰囲気がとてもよい。白ワインは食欲をとてもそそるし、酒の飲めない人には、ミネラル・ウオーターもなかなかいける。もっとも炭酸入りのミネラルは好き嫌いがあるようだが、何も言わないとウエイターは、この泡立つ水を持ってくる。はっきり「ノーガス」といわねばならない。日本に帰ってからは、なるべくイタリア料理は食べないようにしている。別にどちらがうまいかまずいかを比較したくないし、思い出を大切にしたいからだ。また行けばいいじゃないか。東京にいて世界中の料理を思うままに食べられることは果たして幸福なことか?

コース料理 味とは別にやはりイタリアならではの、雰囲気というものがあるのだ。第1の皿でスパゲティーやラザーニャなどのでんぷん質を食べ、第2の皿で肉か魚類を注文するが、この順序はよくできたもので、逆だと肉か魚を食べ過ぎて、予算を超過してしまうだろうが、まず炭水化物である程度、腹を膨らましておくと、特に子供や婦人は第2皿にゆくころにはかなりおなかが膨れていて、あまり食べずにすむ。もちろんそれでもまだ食べたりない人には、食卓にパンや塩をまぶしたポッキーみたいなものが用意されているから、それをこころゆくまでかじればよい。やはりイタリア料理の本質はチーズの使い方にあろう。また焼き魚にもたっぷりかけているオリーブ油も、料理を脂っこいけれども全体として、大変食べ応えのあるものにしている。

豊かな食生活 ウエイターたちは大変陽気で愛想がよい。特に子供をとても可愛がっている。レストランにもよると思うが、少しも堅苦しいところはなく、存分に食べることに専念できる。日本の高級レストランではウエイターは客にプレッシャーを与えるのが仕事のようだ。コースものは一人約2000円(2万リラ)で食べられるから、やはり割安といえる。またこれが日本だと高くてうまいか、安くてまずいかで、本当に客のことを考えた店はいったいあるのか。また、立ち食いの軽食屋(バール)などではコーヒーやサンドイッチが150円(1500リラ)で食べれるから、朝食や昼食はいくらでも安くできる。市場にいって、野菜の値段を見たら、アスパラガス、りんご、オレンジなど、新鮮だし、太く大きくて、自炊すれば一層安くつく。ここに生活大国イタリアの顔が覗いている。食費と交通費の安いところ、できれば住宅費の安いところが天国といえるが、イタリアは少なくとも、はじめの2つは工夫次第でとても安い。

第9章  ホテルにて 

ホテルを探す 今回の旅は今まで通り、ホテルはガイドブックあたりからだいたい目安を付けて置いて、鉄道の駅で降りたら、すぐに駅前のホテル街をアタックすることにした。最初の夜だけは旅行社の方で予約を取ってもらったので、空港に着くなり、そこまで旅行社の送迎車で送ってもらった。飛行機が夜に到着するときは、この方式に限る。翌日から帰るまでの9泊を4つの都市で5つのホテルに泊まった。この国では星印がホテルの値段や格の目安になる。1つ星が最低ランク、5つ星が最高ランクだ。一人旅なら1つ星で十分だ。家族旅行で2つ星、できたら3ツ星というところか。3ツ星のツインで12万から20万リラ(1万2千円から1万4千円くらい)でそれに2つの補助ベッドをつけて、朝食を頼むと20万リラというところだった。すべての部屋のドアの裏側には政府の定めた料金を書いた証明書が張ってあるので、それを基本にして料金を決める。まだ3月始めは閑散期に当たるらしく、たいていのホテルでは料金を譲歩した。

古き良き雰囲気 日本のような大きなビル形式のホテルはわずかしかなく、(と言うよりはそんなところにはあえていかなかったのだが)ほとんどが4階建てぐらいのアパートの中を改造したもので、5部屋ぐらいだから雑居ホテルと呼んでもよい。中には各階にそれぞれ格の違うホテルが入り口を構えているところも多く見受けられた。他のイタリアの住居と同じく、外の壁は何百年もの古さを感じさせるが、中はきれいに壁にペンキを塗って快適にインテリアを工夫している。4階ぐらいになると、エレベーターを使うが、たいていのものが大変な時代物で「昇降機」と呼んだ方がふさわしいくらいで、手で外側と内側の2つの扉を開けるのである。映画「パリの屋根の下」に出てくるしろものだ。3つ星レベルだと、バスがなくて、シャワーだけの所も多い。それも最近になって応急工事で取り付けたようで、とても狭い。朝食は質素で、パンと珈琲だけのコンチネンタル方式。バターやジャムがつくが、卵やらベーコンやらの、にぎやかなアメリカン・ブレックファストになれたものには少々物足りないかもしれない。でもパンはとてもうまい。堅くて香りがあって、手のひらに入るサイ ズだ。

ホテルで見たテレビ放送 室内にはテレビをおいているところもあった。この国のテレビ番組では、アニメは相当数が日本から輸入されていて、なじみ深い主人公がイタリア語でしゃべり、中に出てくる町の看板が漢字だったりするのは滑稽であった。香港でも、世界中至る所でも、日本製アニメが幅を利かしている。どうしてあんなに動きの少ない、目と口しか表情のないアニメがこんなに出回っているんだろう。昔のアメリカ映画の漫画は、それこそしっぽや耳たぶまで動く、全身で動作をあらわす主人公ばかりだったのに。日本でも朝の奥様番組の中で、商品をデモンストレーションして格安でおわけしますから、次の電話番号でお申し込みください、といった構成が増えてきたが、この国ではなんとこの形式の商品販売促進を専門にする、放送局があるのだ。これはイタリア全国どこでも見られるチャンネルで、それぞれの担当の解説者が、文字通り口角泡をとばして自社の製品のすばらしさ、安さ、を宣伝しまくる。イタリア語が分からなくても彼らの売ろうという熱意が伝わってくる。次第に早口になり、興奮してくる。机をたたいて大声を出し、必死の販売攻勢なのだ。秋葉原や御 徒町で街角での、小物を売りつけようと怒鳴っている、あの寅さん風のしゃべり方なのだ。売ろうとしているものは包丁、自動車の洗浄器具、ベッドカバーなどのような家庭用品が多く、ほかの品物と抱き合わせで買わせようとするものもあったが、どうやらこのチャンネルでは宗教団体とか政治結社、心理講座といったものも扱っているらしい。これらの宣伝ではたっぷり時間をかけ、しゃべっている人の姿は見えないが、たとえば手のひらだけを映し出して、一種独特の雰囲気を作り出し、視聴者を引きつけるものらしい。テレビの新しい応用といえようか。日本では強烈すぎてお役所の許可が出ないか、おとなしく放送局側が自主規制してしまいそうだ。

チップを渡す チップはどこの国でも旅行社にとっては悩みの種だが、この国のホテルでは、特にわたすことはしなかった。というのもホテルの規模が小さくて、家庭的雰囲気なので、掃除のおばさんまで、フロント係と親族関係に見えてしまうからだ。でもガイドブックには、チップをわたす必要があると書いてあるし、すくなくともタクシーやウエイターには渡す必要があろう。アメリカと比べて気がついたのは、立ち飲み珈琲のカウンターでさえも、人々は飲んだあと、珈琲の受け皿に小銭を置いてゆく人も多いことだ。このようにチップ一つとっても、アメリカ、ヨーロッパ、そしてまたインドと見ているとだいぶやり方が違う。

ツアーにない経験 今回の旅はホテル探しから始まった。これは旅を続ける上でいつも悩みの、または不安の種であり、同時に旅の醍醐味でもある。今夜は柔らかなベッドにありつけるだろうか、こんな思いはパック旅行にはない。列車が駅に着いて駅前広場に降り立つ。さて、ここはこの地図のどこにあたるのだろう。ホテル街は遠いのかしら。全部満室だったらどうしよう。ほら、客引きが近づいてきたぞ。ああいうのにはボラれるおそれがある。じゃあ、まずあの街路からあたってみるか、等々。

ケチャップ事件 ローマに早朝着いたときもそんな具合だった。駅構内の客引きをかいくぐり、西口前を通っている街路を2本ほど越えたとき、前をゆく妻と長男のオーバーに赤い糸が付いているのに気づいた。いや違う、ケチャップだ。どこかでチューブ入りのをかけられたのだ。あわてて紙で拭き取ると、通行人が2,3人近寄ってきて、ティッシュを差し出してくれた。そのうちのひとりがオーバーを脱げと言う。脱がない、というと、ちぇっと舌打ちしていってしまった。この手口は?善良な通行人に紛れた犯人は二人以上でペアを組み、一人が巧みにケチャップをかける。もう一人が親切なふりをして近寄り、コートを脱いだところでカバンをひったくる。そういうケースが多いそうだ。実地教育を受けてしまった。特にウロウロしている日本人の場合には狙われやすい。旅行社の人の話によると、このやり口が最近増えているという。帰りの成田空港でも、ジーパンにケチャップの付いた跡がある若者がいた。ホテル探しも楽ではない。

第10章  帰国 

多様性の魅力 またイタリアに行きたいかと聞かれたら、ためらいなくイエスと答えるだろう。いや世界中のこの国を訪れた観光客はみなそういうだろう。それはなぜかと言えば、この国中に人間味があるのだ。組織人間や官僚人間や機械人間ではなく、普通の人間が大勢歩いているのだ。インドも人情があふれていたが、生活がどん底だった。イタリアも他のヨーロッパ諸国と比べたら、経済学の見地からすれば、決して豊かではないし、社会の仕組みも能率的ではない。しかしやっぱり生活大国なのだ。人間がただ生活費を稼ぐだけのために、盲目的の組織のために働くことほどばかばかしいことはないと思う。その点、かなりちぐはぐではあるが、この国では個人が生きている。中央政府は影がうすく、地方都市がそれぞれ個性を持っていて元気だ。要するに100年前にガリバルディがイタリアを統一する前と地域的特色の点であまり変わらず、支離滅裂な点があるのかもしれないが、にもかかわらず多様性を武器に未来に生きようとしている感じがする。

人々の表情 豊かな文化遺産の上にのっかって、貯金を食いつぶしているという人もいよう。でも荒野から出発したアメリカやカナダと違い、文化の深層にかつてのルネサンスを起こしたような火種がこもっているような気がしてならない。古い崩れたような煉瓦の建物に出入りする人々は、それとは対照的に、表情が豊かだ。東京やシンガポールで見るような、ぶすっとして疲れた顔は滅多にイタリアではお目にかからない。顔つきが沈んでいないのだ。いつも会社の通勤で疲れた顔をして、ドリンク剤を飲みつつ、世界で最長の平均寿命を達成するより、おもしろおかしく生きて早死にした方がいいような気がするなあ。

おみやげ 日本に持ち帰った、自分のためのお土産は、ワインや食べ物以外に3つある。一つはエスプレッソの作れる、一人用のコーヒーポット。今までになくコク、苦みのある珈琲が作れる。ローマのイトーヨーカ堂みたいなディスカウントストアで買った。もう一つは折り畳み傘。鉛筆の形をした入れ物にはいったもので、小学生臭いが、小さくて携帯に便利だし、鮮やかな緑の色が楽しい。ミラノのドウオーモの横の、市内ただ一つの百貨店で買った。3つ目はCDを一枚。「愛のセレナーデ」(Serate D'Amore)というタイトルの、最近のイタリアのヒット曲のオムニバスである。60,70年代のサンレモ音楽祭入賞曲がほしかったのだが、見つからず、こちらはミーナの名前があったので買ってしまったのものだが、昔のカンツオーネの伝統に違わず、心にしみる、なかなかすてきな愛の歌が16曲入っている。これはローマのスーパーに付属するレコード店で買った。このCDが今度のイタリア旅行を一番思い出させる。

第11章  記録 

旅行期間 1992年3月11日より21日まで。4人での家族旅行(妻、長男、次男)往復の航空切符と最初の夜のホテルのみ事前に用意し、その他は自由旅行

3月11日(水曜)

朝6時52分辻堂駅発。普通電車を乗りついで、約3時間後に成田空港着。昼12時20分発アリタリア航空AZ1789便。定時発。同日モスクワを経由した後、19時20分より少し早くローマ着。旅行会社EURO-SKY TOURの迎えのリムジンで21時頃ホテルNOVA DOMUS(4つ星)に宿泊。

3月12日(木曜)

イタリア商業銀行で、トラベラーズチェックを現金化した後、10時25分発の列車でフィレンツエへ。13時30分頃到着。14時頃HOTEL LOMBARDI(2つ星)に宿泊。後に市内散策。ドウオーモの内部と屋根の上を見学。疲れ果てて夕食抜き。

3月13日(金曜)

前日に続き市内散策。中央市場、ベッキオ橋周辺とウフィッツイ美術館を中心に訪れる。

3月14日(土曜)

フィレンツエから9時50分発のEC特急でヴェネツイアへ。列車内はかなり混雑。しばらく立つ。12時15分頃ヴェネツイア・サンタルチア駅到着。2時頃HOTEL SPAGNA(3つ星)入り。駅前からサン・マルコ広場まで歩く。帰りは運河をゆく定期船(VAPORETTO)で駅前に戻る。

3月15日(日曜)

再び徒歩でリアルと橋を経て、狭い小路を抜けて、17世紀ヴェネツイア博物館(CA'REZZONICO)を経て、サン・マルコ広場へ。寺院と鐘楼を訪れる。再び徒歩でホテルに戻る。

3月16日(月曜)

サンタルチア駅8時25分発のIC(INTER CITY)でミラノへ。11時25分到着。昼頃HOTEL FLORIDA(3つ星)入り。駅前から徒歩でスカラ座の前を通り、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア(中世風アーケード)を抜けてドウオーモに向かう。その丸屋根の上にあがって町並みを眺めたあと、百貨店RINASCENTEをのぞく。鉛筆の形をしたすてきな折り畳み傘がたった17000リラ。後、再び徒歩でファッション街のモンテ・ナポレオーネ通りを抜けて、庶民の行きかう下町ブエノス・アイレス通りへ向かう。この途中で偶然にも別のツアーに参加していた、藤沢の近所の人と路上で出会う。いくつかの店をのぞいたあと、リマ広場から駅前のホテルに戻る。10キロ近い道のりであった。

3月17日(火曜)

ミラノ発10時25分の列車で北のコモ湖に向かう。11時3分着。徒歩で湖岸に向かう。途中ボルタ博物館に立ち寄り、見学。そのあと近くの山にあるケーブルカーで山頂へ。再び下に降りて、昼食のあと、湖の各地を結ぶ定期船で5つめの寄港地URIOまで往復する。所要約90分。夕刻ミラノに戻る。夕食後ミラノ発22時55分のローマ行き特急列車の簡易寝台に乗り込む。車中泊。

3月18日(水曜)

朝の6時30分、ローマ・テルミニ駅着。駅前のTOURING HOTEL(3つ星)入り。ホテル探しの途中で、何者かによって妻と長男は後ろからケチャップをかけられる。午前中は地下鉄でサン・ピエトロ広場へ行き、寺院と博物館を見学。昼食のあと、再び地下鉄でコロッセオに向かう。ただし水曜日は休館日で中に入れず。再び地下鉄にのり、スペイン広場前で下車。ここから高級商店街を抜けて、徒歩でトレビの泉を通り、テルミニ駅へと向かう。

3月19日(木曜)

午前中はバチカンの周辺の商店をまわった後、午後はコロッセオからバスでカラカラ浴場へ行く。さらにバスで旧アッピア街道を通ってサン・カッリストのカタコンベにゆく。英語によるガイド付きで30分ほど地下の内部を巡る。帰りもバスに乗り、コロッセオ経由で地下鉄エキサン・ジョバンニに向かう。焼き栗2000リラで8個。周辺をまわった後、ホテルに戻る。

3月20日(金曜)

9時に旅行社の人に迎えに来てもらって空港に向かう。11時45分発のアリタリア航空AZ1782便でミラノ経由で成田に向かう。

3月21日(土曜)

午前10時20分成田着。(約1時間遅れ)

おわり

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