(1993年)

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追記;青森市訪問記

前日ハートランド切符(15000円)を買い、10月23日午前5時発東海道線辻堂駅発東京行きに乗る。あたりは真っ暗。東京駅にて6時ちょうど初の東北新幹線の盛岡行き「やまびこ31号に乗る。定期列車なので混んでいると思ってはいたがなんと仙台まで座れなかった。乗客の大部分がわたしのと同じ切符を買って乗っているようだ。中年夫婦での旅行が目立つ。

北上するにつれて空模様が怪しくなる。雨がぱらつき視界が悪い。仙台以北は各駅に止まるので少しづつ乗客は減ってきたが、やはり盛岡での乗り換えが非常に多いらしい。9時28分盛岡に定時到着。直ちに9時39分発「はつかり3号」に乗る。これも大変混んでいたが運良く座れた。新幹線と比べてなんと遅いことか。特に八戸までは上り坂のせいか古い特急車両があえぎながら登って行く。だんだん天気が悪くなりついに雨が降り出した。

盛岡でも岩手山が雲に隠れて見えなかったが、ますます視界が悪くなった。特急なのに窓ガラスが汚い。八戸に近づく。去年車で訪れたのと全くイメージが違う。たんぼの真ん中をつききっていきなり駅に着く感じ。市街の交通渋滞があることなんか想像もつかない。このあと野辺地、浅虫温泉を経て青森に午前11時57分到着。本州最北の県庁所在地には昼前についてしまった。

;このあと「たざわ20号」で12時11分出発で、弘前に12時41分到着。これはかなり空いていてひとりでワンボックスを占領できるくらいだ。ラジオを聴いてみるが方向によって感度がだいぶ違う。青森放送では津軽弁を使って多くの番組を構成しているとのこと。彼らの言葉に対する誇りと執着を感じる。素晴らしいことだ。日本人は(いやどの国民でもそうだが)標準語とふるさとの方言とのバイリンガルであるべきだ。

弘前が近づくにつれて岩木山が見えてきた。盛岡に岩手山が象徴であるように弘前にはこの3つのこぶを持った山がトレードマークなのだ。広いたんぼの向こうにぽつんと山がそびえている。もっともこの日は北西の季節風が強くて山頂は隠れていたが。

弘前駅に降り立つ。壁には大きなパネルがあって生産されているあらゆる種類の林檎の絵が描かれている。外に出ると商店街が広がっているが雑踏はなく学校帰りの高校生が目立つ程度だった。ちょうど20年前の仙台のような感じだ。盛岡もそうだったが弘前はさらに時代がさかのぼった古き良き仙台の雰囲気が濃厚だ。

駅から歩いてすぐのビジネスホテルに部屋をとる。古くて余りきれいではないが明日の朝の出発を考えてここにした。一階がパチンコ屋、二階が飲食店、そして三階がフロントで4,5階が客室になっている。全部同じ経営体のようだが多角的営業でうまくやっているのだろう。

途中で買った納豆巻き(これがなかなかうまい。コンビニで買ったが手作りとのこと。6本で280円)と卵サンドを食べながら、弘前城公園へと向かう。江戸時代の武家屋敷の土地割りをよく残した地域が保存されていた。みんな同じ黒い門構えをしているのですぐわかる。とても落ち着いた町並みで所々に大都会ではとても考えられないような樹齢の大木が道路沿いに立っている。高山にもこんなのがあったし、ニューオリンズにもこのような町並みがあった。

石場屋住宅公園の入り口には昔の商家が残っていて石場屋住宅といい、重要文化財である。この家のデザインが気に入っていったん公園の中に入っていったものの、また戻ってきて道ばたに腰を下ろしてスケッチを始めた。観光客や地元の中学生が珍しそうに眺めて行く。そのうち夕暮れになり、手がかじかむほどの寒さになってきたのだが。

公園のなかでは秋祭りと称して菊人形展や屋台が並んでいた。おでんの具として巻き貝があったので、それを買って食べてみる。サザエやアワビのような香りがあるわけではないが、歯触りはよい。天守閣というものの、実際には小さな建物だったが、堀と見事に紅葉した公園の樹木のなかでなかなかきれいだ。

この町は建物がよく保存されていて、教会や昔の銀行の建物もスケッチしたくなるような姿をしている。(もっとも西洋建築で細部にこだわるといつ描き上がるかわからないほどだ。)途中商店街をのぞきながら帰った。何でも東京より少なくとも10円安い感じだ。(市場で買った饅頭も70円のところが60円でずっとうまかった)

いったんホテルに帰り一眠りした後、駅前にある津軽三味線をライブで聞かせる居酒屋にはいる。中は満員で団体客まで入っていたようだが何とかカウンターに入り込んだ。(あとで女主人に別のところに移動させられたが)メニューは大したことはないが、三味線の演奏は良かった。その演奏の仕方はモダン・ジャズを思わせる。もっともボスである山田千里という人は自分では弾かず、司会役で20代前後の弟子たちが合奏や独奏をやっていたが、なかなか見事なものだった。

弟子たちは居酒屋のウエイトレスであり、ウエイターでもあるのだ。出番になるとさっとステージに上がり、みんなの喝采を浴び、終わると指示されたところに熱燗を運ぶ。山田という人はムツゴロウみたいな風采で、全国的に有名な人であるらしいが、ここでは店の会計もやっている。しかしその慣れない手つきで電卓をいじるさまはやはりこの人は弦を相手に格闘したほうが似合うようだった。

9時半頃店を出るとそとは激しい雨。雨を避けて走るうちふと食い足りない思いがして近くのラーメン屋に飛び込んだ。なかなかうまい。あとで思うのだが東北の町は小さくてひなびたところほどラーメンがうまい。はじめひとりだったがあとで雨に濡れた中年の男性勝木次と飛び込んできた注文していた。

翌日は弘前駅一番列車4時45分発の五能線の鰺ヶ沢行きに乗る。まだまわりは真っ暗だが広い米作地帯を走ってゆくのがわかる。乗客は二両編成でたった二人。反対方向はもっと乗っていたが超ローカル列車だといえる。6時をすぎるとあたりが薄明るくなり、左手に岩木山が広い平野の中にぽつんと見えてきた。

寒冷前線が近づいているということで雲行きが急に怪しくなってきて、終着駅の鰺ヶ沢駅に6時についたときは空から冷たい雨が、それも小粒の雹がたたきつけてきた。この町は港町で漁港のそばにある公園まで乗り換えの時間を利用して行ってみたが、とんでもない突風が吹いていて海は一面真っ白だった。

6時33分にこの駅を発ち十二湖駅に向かう。ここからはワンマンカーになり、料金は降りるときに運転手の目の前にある料金箱に入れる。強風のため時速25キロ運転で、まるで自転車のような進み方をした区間もあったが、6分ほど遅れただけで8時50分頃に到着した。駅は国道と海岸に挟まれたところで、民宿や食堂が4件ほど建っているだけだ。すぐ目の前に「十二湖入り口」の看板があり、そこらから車道に沿って山奥へ上がってゆく。

日本キャニオン ここら辺は岩木山から広がるヒバの原生林として有名で、自然が余り壊されずに残っているところだ。4キロほど上がったところに昔の火山活動で生まれたたくさんの池があり、それらが十二湖と呼ばれる。渓谷の突き当たりには「日本キャニオン」と呼ばれる断崖があって、近づいてみると大したことはないが遠くから見るとなかなかの自然の造形である。

数ある散策コースのうち、長くて先のわからない道に入り込んでしまい、そこから戻るのに多くの時間を費やしてしまった。でもその先で見た例のキャニオンは紅葉のなかでとてもきれいだったので、早速スケッチブックを出して写生した。雨が時々降ってきたりしてコンディションは良くなかったけれども何とか一枚仕上げた。帰りはあちこち見物して回ったおかげで時間が足りなくなり、12時41分の列車に間に合うようにほとんど駆け足で駅に戻る羽目になった。結構楽しいハイキングではあったが。

しかし駅に着いてみると強風のため、列車は大幅に遅れ、少しも急ぐ必要はなかったのだ。駅には中年の女性の4人グループがいてカメラのシャッターを押させられた。そのあとはよくしゃべること。列車が来たときには2両編成だったので、すかさず別の車両に乗り込んだ。

列車の遅れのため予定が大幅に狂い、新潟に行くことはあきらめてとりあえず秋田県の能代駅に降り立った。2時を大きく回っており、連絡している特急に乗れなかったからだ。思いもかけなかった町でぶらつきまたラーメンをすする。

ここのラーメンもうまかった。チャーシューがたっぷり入っていて500円。首都圏の800円の価値がある。小さく汚い店だが、出前のおじさんがしょっちゅう出入りしているのでうまいとみた。このあと町をぶらつく。「趣味の食料品屋」と称する奇妙な店でハタハタの干物を探すが無くてかわりにスルメを買う。これが意外とうまかった。

さあ帰ろう。切符の期限は月曜日の午前零時までだ。隣の駅、東能代まで行き、そこから「たざわ20号」で盛岡に向かう。16時12分発で18時52分着。ここで夕食を取ったあと20時発の「やまびこ28号」で22時46分に東京着。旅はすぐに実行すべし。行かないでいると必ず後悔する。行って後悔したことは一度もない。どんな旅でも必ず非日常的体験が待っているからだ。但しひとり旅の場合。それから、カメラを持ってゆくよりスケッチブックを持っていくような余裕の旅をしたいものだ。

1993年10月作成1999年10月改訂

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追加記録

青森市訪問記(2010年3月)

2010年、スキーの帰りに青森市を訪れる。官営年間に漁村であったこの場所が、北海道への交通の要所として脚光を浴びてから発展し、現在では30万人を数える。だが日本のほかのどの地方都市の例に漏れず、高齢少子化の波はここにも容赦なく押し寄せている。

青森駅の中央口は、ほかの都市と変わらず目抜き通りがあり、そこだけは華やかに見える。だが西口は小屋のような駅舎であり、その背後には空き家になったがそれを取り壊す金も工面できないような戦後60年以上を経た建物がたくさん並んでいる。新興都市の安っぽいデザインの建物と違って、昭和中期にタイムスリップしたような錯覚を覚える。

また店舗は比較的新しくても早々に閉店したらしく、どこもかしこも「テナント募集」の張り紙だらけだ。一方ちょっと郊外に出れば、車でしか行けない大規模店舗が展開している。そして車に乗る市民は朝と夕暮れには身動きできないほどの渋滞を作り出す。

郊外の店がまだにぎわっているうちはいい。彼らは逃げ足が速いから、不況と高齢化によっていったん客足が落ちると、たちまち町から去っていくだろう。近くの店を失った市民はさらに遠くの店をこれまた自動車で目指さなければいけないという悪循環が続く。店舗を駅前に集中させ、公共交通機関も求心的に中央駅に向かわせ、郊外店の展開を規制する措置を行政がとってさえおれば、現在のような情けない事態を招かずに済んだのだ。

衰退に歯止めをかけようと必死の市当局はかつて青函連絡船でにぎわった港湾地域を観光施設で埋めるつもりであるらしい。物産館を作り、かつての連絡船「八甲田丸」を係留して見学施設に変え、石川さゆりの歌った「津軽海峡冬景色」の歌碑が立つ。「ラブリッジ」という名前の港を一望する(恋人たちのための?)遊歩道を作り、そして来年の完成を目指してねぶた祭りのための大劇場を建設中である。今は冬だから観光客の姿はないが、これから夏にかけて多く人が訪れるであろう。衰退する広大な地域を背後に抱えて、果たしてこの大規模な投資は見合うものだろうか?

青森市は八甲田山系の続きなのであろうか、市内にかなり多くの温泉を持つ。単純泉だが、冬季以外は加熱する必要はない。平均して400円の入場料で、地元の人でにぎわっている。青森市は温泉町というイメージはないだけに意外だった。多くが道の込み入った住宅街のど真ん中にある。だから観光客が訪れることはめったにない。

ふたつの温泉を訪れたが(出町温泉・沖館温泉)、いずれも建物の構造が独特で天井が平らではなく、男湯と女湯の境目を尾根とした急傾斜になっている。温泉の湧き口はまるで墓標のようなデザインで、なかなか荘厳な雰囲気がある。観光コースのひとつに迷路のような住宅街を抜けての「温泉めぐり」などおもしろいかも。

2011年の新幹線開通は、県民にとって25年も待たされたわけだが、もはや遅すぎた。東京資本は、ここに投資してももはや戻ってくるものがないことを悟っている。後は残された歴史的観光遺産を大切に保存しながら観光客の落とすお金を期待するしかない。だが、この地域はリンゴをはじめとして豊かな海産物の宝庫でもある。やはり地方都市は第1次産業を大切に守りながら工夫を凝らし、地味でも”持続的”な社会を作っていかなければならない。

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© 西田茂博 NISHIDA shigehiro

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