韓国

(1995年)

ソウル市・東大門

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目次

第1章 博多から釜山へ 第2章 慶州  第3章 ソウルへ 第4章 記録

  第5章 ソウル再訪(2014年) 第6章 釜山再訪 木浦・麗水(2018年)

第1章 博多から釜山へ 

言葉はうろ覚えながら・・・ 1994年の11月頃から韓国語を練習し始めた。出発した95年3月20日の時点ではレッスン18までで、大事な文法事項はまだしっかりとは理解していなかったが、時間が迫っているので急遽出発した。この旅行は日本に隣接する国々の言葉、朝鮮語、中国語、ロシア語を順番に覚えていこうとする計画の一部である。これらの国々は地理的に近いから他の国々比べて比較的低費用で行けるし、これからも繰り返し出かけることができる。

地を這う海外旅行 さて今までの外国旅行は成田から航空機で行くのが当然であった。しかし韓国ほどの近さなら、少なくとも往路だけは陸路、海路で行ってみようと思いついたのだ。そこで遣隋使や遣唐使、その他か数え切れない数の大陸を行き来した人々のたどったコースを行ってみることにした。新宿駅の高速バスターミナル。ここは長野方面へのバスでいつもごった返しているところだが、夕方まだ明るい5時10分になると博多行きの夜行バスが出る。(15000円)これは日本最長のバス路線である。

博多へ 高齢者は全くおらず、乗客はその運賃の安さのせいか、ほとんどが学生であり、春休みに入っていたので私が最後で満席になった。到着は翌朝7時40分のはずであったが途中兵庫県内では阪神大震災による道路の破損を修復するため工事中で、そのため2時間45分も予定より遅れてしまった。博多駅に着いたのが9時10分。船のチェックイン締め切りは9時30分。博多駅構内を走り抜けタクシー乗り場に急いだ。その間に気づいたことだが、さすが韓国に近いということで博多駅の施設表示板にはローマ字のほかハングル文字がそえてあるのだ。

ビートル2世号 フェリーターミナルに9時25分に到着。5分前でセーフ。もし間に合わなかったら下関まで戻り、夕方のフェリーで到着は翌朝になっているところ。今回選んだのはやや運賃は高いが(12400円)は博多港と釜山港との200キロを約3時間弱で結ぶビートル2世号という水中翼船である。船は小型であるが時速80キロで朝鮮海峡を突っ走る。九州に住む人にとってはこれがもっとも手軽に外国へ出かける方法である。高校生の旅行らしき団体やら、夫婦者、あらゆる人々が乗っていて、外国へ行くという気分はあまりしない。せいぜい船内の売店が免税で、たとえばビールが150円ですむといったところか。

朝鮮海峡 博多港を出たときは霧がかかったように曇っていたが、玄界灘を過ぎると強い南風で海面が波立っていた。しかし水中翼船は船全体が浮いているためほとんど揺れがない。平たいテーブルの上を滑っているようである。左に壱岐らしき島影が見える。約200キロの距離を交通渋滞もなく同じ速度で突っ走るのだから快適である。1時間半もすると左に対馬が見えてきた。まだ日本領なのだ。しかし釜山はもうすぐである。

大陸の先端 かすかに右手前方に山らしきものが現れ、そこに高層アパートがへばりついているのが見える。生まれて初めて海から臨む外国である。船は港の正面へと向かってゆく。とんがり帽子のような山にはさまれ、アパートや家々がその斜面の上の方に並んでいる様は港の中央にあるクレーン群とともに小さな香港を思わせる。じっさい香港もまだ小さな港だった頃こんなだったのではないだろうか。

釜山の港釜山から入国 韓国と日本との間では短期間の観光目的では去年からビザが免除されている。(それ以前は共産圏との対立が激しく、スパイをおそれて入国審査は厳重をきわめた)入国審査は簡単で、両替を済ませて(854.73ウオン=100円)15分もしないうちに町に出てしまった。飛行機の場合だと、空港からダウンタウンまで相当離れているからそれらを結ぶ交通機関をおりるまでその国に着いた気がしないものだが、フェリーターミナルから自分で歩いて出るといきなりバスの警笛やトラックの轟音が聞こえてくるのは変な気持ちだ。タクシーの運転手が日本語でどこに行くのかと聞くので、「チハチョル(地下鉄)」と叫ぶ。初めての韓国語だ。通じた。駅の場所を教えてもらう。「コマップスムニダ(ありがとう)」とこたえて町に出る。

ホテル探し 地図にあるとおり、山手のほうへまっすぐ上がってゆく。地下鉄の駅のある広い通りをこえるとその先は神戸と同じように山の斜面に沿って家が幾重にも重なっている。旅館は40段もある階段を上り詰めたところにある通りにあった。一泊8000ウオン(1000円弱)の格安旅館である。奥さんはだめだが、主人は日本語が大変うまい。4畳に満たない小さな部屋にテレビとベッドがあるだけで、便所と洗面は共同である。風呂は銭湯が100メートルの所にあるので問題ない。部屋に落ち着いたのが3時前。ゆっくりしているひまはない。直ちに町に飛び出す。好奇心が休むひまを与えない。

分からぬ看板ばかり 町並みは神戸に似て海岸線と平行してたくさんの道路が通じている。通ってゆく自動車はトラックなどはやや古い型が多いが自動車は日本のものとほとんど遜色はない。となりの地下鉄の駅が国鉄釜山駅なのでそこまで歩くつもりで広い道路を進む。やはり何といってもハングル文字の看板の洪水だ。今までの読み方の練習が生ぬるかったことを後悔する。読み終わるのにやたら時間がかかるのだ。特に食べ物屋とそれ例外とを区別するのが難しい。看板はどれも同じようなものだし、扉や壁にもあまり特徴がない。何を商売にしているかドアでも開けて中をのぞかないとわからないくらい互いによく似ているのだ。途中目の前に高架道路が立ちはだかっていて歩道が大きく迂回しているので釜山駅に行くのは諦めて引き返すことにした。

車優先社会 韓国にいた間気がついたのだが、全く車優先で、歩行者はいつもつらい目にあわなければならない。歩道橋は少なくあの日本の道路の目障りな風景を見なくてすむ。そのかわり地下道が特にソウルでは完備している。しかし歩行者が階段を上り下りしなければならないことに変わりはない。そして横断歩道が事故防止のためでもあろうが非常に少ないし、歩行者が渡っていても止まって待ってくれる車は少ないのだ。また車椅子のためのスロープなどは10年先だろう。

初めての昼食 とにかく戻ることにするが昼御飯をまだ食べていないし、3時も過ぎたので腹が減ってきた。いよいよシクタン(食堂)探しだ。みつけられねば飢え死にする。看板の文字を読むのに必死だ。今来た広い道ではなくせまい裏小路を行ってみた。豆腐屋さんやお菓子屋があるのできっと近くに食べるところがあるだろう。すりガラスなどで中が見えない店が多い。どうも気後れする。一見、中がよく見える店があった。中には客は一人もいない。それはそうだろう。3時頃食べに来る人はあまりいない。まず表の看板にある料理名を読んでみる。、全く聞いたこともない料理ばっかりだ。訳の分からないものを注文してとても口に入らないものが出てきたらどうしよう。数あるメニューの中に「-タン」と書いてあるのを見つける。これはスープである意味だ。中に何が入っているのであれ、きっと飲み干せるだろう。正式な名前は「ヘムロテンタン」という。これを何度も店の外で繰り返しきれいに発音できるようになったと確信をもつと店の中に入ってみた。置くに調理台があり、女の人が一人座っている。向こうが笑顔を見せて「いらっしゃいませ」と韓国語で言ったようだっ たので、早速この名前を行ってみた。最初はよく聞き取れてもらえなかったらしく首を傾げていたが、3回目くらいにやっとわかったらしくうなずいてくれた。そして「-パブ」としきりに言う。ご飯のことだが何でこんなことを言うのかわからなかったので適当にうなずいておいた。あとでわかったことだが、スープにご飯が付属しているということだったのだ。さて女の人は早速調理台に向かうと忙しそうに料理を始めた。

カメノテのお吸い物? 簡単な作りのシクタンであって普通の家庭のダイニングキッチンと変わりない。違うのは対面式ダイニングの部分に客用のテーブルが3つほどついているということだけだ。しきりに火を付けたり、包丁を使ったり、ジュージュー焼いたり。その間何が出てくるか楽しみに待つ。なかなかスリルのあるものだ。できた。まず大きなどんぶりにスープが盛られている。相当なボリュームだ。中を見ると貝がいっぱい入っている。カラス貝らしき物、アサリ、ハマグリ、つまりこのスープはいろいろな種類の貝のごった煮だったのだ。釜山の付近でとれた様々な貝が入ってそれがワカメなどと一体となってスープの味わいを作っている。中にかんでもかみ切れないものが入っている。吐き出してみる何とカメノテだった。あの潮の引いたあとの磯の岩にへばりついている亀の手の形をした奇妙な生き物だ。これは食べるものではないらしい。かむといい味の汁が出てきたからきっとダシをとるためのものだろう。さてそのほかにご飯の入った茶碗、キムチ、おひたしの入った小皿、そして何と卵焼きの小皿が着いているのである。立派なディナーである。5000ウオンだから 600円弱であり、栄養のバランスのとれた申し分のない午後の食事であった。まずは成功した。女の人に「マシッソヨ(おいしかった)」「スゴハセヨ(さようなら)」と言って店を出た。これで自信がついた。異国の味の楽しみの始まりである。

旅人は高いところへ 途中に旅行代理店があった。ソウルから成田へ向かう帰りの航空券を買う。日本で逆向きを買うと400ドルを超えるのにこちらからなら少しディスカウントしてもらって210ドルである。いまさらながら料金格差の大きさに驚く。日曜日が満席だったので、土曜日の朝一番にしてもらう。これで帰りの乗り物は確保できた。腹ごしらえがすみ、帰りのことも決まったのでいよいよ町の中心部に向かう。今まで新しい町に来てその一番高いところから町を見下ろすことを欠かしたことはない。そう、この町にもあるのだ。釜山タワーが。宿泊している場所から海岸線と平行に西へ向かっていくとだんだん上り坂になる。狭い山に囲まれた地形の中でここだけイボのようにボコンと出ているのが釜山タワーのある丘である。

上からの眺め 大した高さではないがカラオケ、バー、スナックの並ぶ急な坂を上ってゆくと「竜頭山公園」に出た。その真ん中にタワーがある。人々が弁当を広げたり、韓国の歌謡曲や民謡を大声を張り上げて楽しんでいる。花壇に囲まれた真ん中の銅像は昔の兵士の姿である。これはガイドブックでおなじみだ。早速タワーのてっぺんに上がってみる。海岸のすぐ近くまで急な山が迫っている。そして狭い平野部にたくさんの建物が密集している。木造ではなくほとんどが石造りだ。このタワーの立つ丘がいわゆるセントラルパークになっていて、その周りに繁華街が海までつながっている。大きな港には橋が二本架かっていてその向こうは島だ。その島には釜を逆さにしたような山がそびえているのである。交通量が大変多い。高速道路も見える。東のほうには国鉄釜山駅の貨物ヤードがのびているのが見える。さすが韓国第2の都市である。展望台は若いカップルでいっぱいである。これから行く先を景色を眺めながら決める。地図を見ただけではどうしてもつかめない地理的な感覚は上から眺めるとすぐにわかる。まず海へ向かって進む。そこは鮮魚を扱うチャガルチ市場がある。そこ を通り抜けたら再び内陸部へ上がっていって「国際市場」とよばれる通りを行ってみよう。

なまもの市場 海のほうへ下っていくと海のにおいがする。人々が忙しそうに行きかうようになる。市場の入り口に出た。そこは魚でなく、ひもの、昆布、朝鮮人参などを扱う問屋の並ぶ通りだ。狭いので車はほとんどは行って来ず、歩きやすい。人々は観光客らしきものを見かけると声をかけてくる。その先は工具、船具、シートなどを扱う店がずらりと並んでいる。あれ、道を間違ったかなと思っていたら先にタワーから見た大きな橋のたもとに出た。ここから海に出るとそこは魚を材料にした露店の建ち並ぶ、海のにおいのぷんぷんする通りなのだった。はじめは赤提灯のように小さな屋台でさしみや焼き魚を肴に焼酎をあおっている姿がちらほらだったが前に進むにつれてだんだんにぎやかさを増し、ついに道路いっぱい、両側だけでは足りず、真ん中にもリヤカーをおいて商売する一大食品市場の中に突入したのだった。その種類の多いこと。まだうねっている海蛇みたいな魚、エイ、なまこ、ほや、その他考えつく限りありとあらゆる海産物が並べられ、おかずととして買ってゆく人もいれば、屋台のテントの中でいっぱいやっている人もいる。庶民のエネルギーのたまり場である。 こんな生々しい市場を今まで見たことがない。

山盛り販売 日本でも香港でもニューヨークでもカルカッタでも市場はあったが、これほどの熱気は初めてであった。韓国の人はこの手の商売が得意なのだろう。ニューヨークで多くの八百屋が韓国人によって経営されていたが、こんな環境から育ってきたのだろうか。視線が合うと大変だ。すぐに品物を持ち上げて声をかけてくる。しかし商売人の数が多すぎはしないか。買い物客より多いのではないか。売り手の大部分は50歳前後のおばさんである。大きな店もあるが個人で地面に十数匹の魚を拡げて売れるのを辛抱強く待っているのもいる。中にはどうみても鮮度の落ちてい魚を売っている人もたくさんいた。決して売れて儲かってしょうがないというような事態ではない。むしろ売れ残った魚をどうするのかなと気になる。この露店の通りが延々と1キロ以上も続くのだから驚きだ。そのうちあることに気づいた。どの露店も品物がかごや箱に山盛りなのである。景気いいなあ。こんなにたくさん安く買えるならすばらしい、と思いきや、実はざるを裏返しにしてその上にていねいに商品を並べているのを目撃したのである。からくりがわかった。ざるの上に並べるとまるで商品があふ れんばかりにあるような気がする。それが延々と続くのだから、そのインパクトは大きい。

端から端まで しかしここ釜山で暮らしてこんなに新鮮な材料で毎日の食卓をにぎわせたらどんなにいいだろう。日本の魚屋のように冷凍ものや、ひものが主な売れ筋であるのとは大違いだ。しかもこの市場は一部を除いてまだ観光化していない。町中に魚屋や八百屋がほとんどないかわり、地元の人はみなここに集まってくるのだ。歩いているうちに魚屋が減り、八百屋や果物屋が増え、中には傘や鞄などの日用品を扱う店も増えてきた。そろそろ市場も終わりに近い。すでに地下鉄のひと駅と半分の距離に達している。

国際市場 海岸から引き上げて今度は内陸へ向かう。国際市場とよばれる通りにはいる。ここもひと、ひと、ひとでいっぱいである。通りは3重構造だ。まず立派な店構えのブティックなど。次に簡単なテントを張って、箱の中に果物などを入れて売っている簡易露店。そして最後に道ばたにでんと腰を下ろし地面に直接イチゴなどを新聞紙やざるの中に入れて売っているおばちゃんたち。この3者が渾然一体となってこの市場が生まれている。地べたに座り込んでいる一人からイチゴを買ったが500グラムももらってあとで見たらつぶれたりいたんだりしたものだらけだった。あれは生食するのではなく、ジャムにするべきものなのだ。通行人は宵っ張りだ。9時を過ぎても人通りが衰えない。大きな店はしまってしまうものの、露店は午前零時までつきあうらしい。大きな本通りより、横へ入った小さな路地ほど面白い。若者たち、特に若い女の子たちが露店に群がってスナックをむさぼっている。ポテトチップスのようなもの、細長いはんぺんのようなもの(ポットッキ)、餃子やシュウマイ、肉まんの類、何でもそろっている。

夕食の場所を探して 路地から路地へとまっすぐ進まずジグザグに進むうち宿泊する宿の近くの大通りに出た。見るとある建物の前に若い、まだあどけない顔も混じる兵隊さんが直立不動の姿勢で数人立っている。あとでわかったが、彼らは徴兵訓練を受けている人たちなのである。夜の町の安全を守るため、警察代わりに街角に立って見張りをしているのである。訓練と町の安全確保。一石二鳥である。初めて見たときはカーキ色の軍服だから少し驚いたが、丸腰だし、通行人もまるで気にしていないのである。夕食の場所を探す。昼の経験で度胸もついたから宿泊している場所の近くを見てみる。せまい通りなのだが下町風で銭湯から交番、鉄工所まで何でもそろっている。食堂も200メートルほどの所に5,6軒もある。こじんまりした、母と娘でやっている食堂に入ってみる。すでに3人の男の先客がいて、口角泡をとばして議論しあっている。こちらをちらっと見たきり猛烈な勢いで相手をうち負かそうと早口でしゃべっている。聞くところによると朝鮮のひとは西洋人並に自己主張が強いそうな。

初めての夕食 スカルピッチムを注文する。豚肉を鍋の中で野菜と共に煮たものだ。とてもおいしい。キムチに加えて、あとで知ったのだが豚肉につけるためのアミの塩から、そして何と緑の唐辛子3本が味噌とともにそえてあった。食事そのものは辛くないのだが、唐辛子をちょっと齧って胃袋が火事になった。でも他の客もそれをバリバリ齧っているわけでもなさそうだ。あとでちらりと見るとたいてい残している。先客がビールを飲んでいたのでこちらも「メクチュ」を注文する。OB ビールといって癖のない味である。ビールの分だけ高くついたが、おいしいし、安いし(1000ウオン)韓国の庶民の味はなかなかいける。

第2章 慶州 

慶州へは乗り換えが大変 少し酔っぱらった気分で宿に戻る。狭い部屋とはいえ、さすが韓国風の宿である。ちゃんと床にはオンドルが付けられていて、裸足で立つとほのかに暖かい。いや真夜中になると布団をけ飛ばしたくなるほど部屋全体が暑くなった。3月はもう厳寒期ではないし、この日は特に暖かだったせいもある。翌朝、7時に宿を出て日帰りの予定で慶州に向かう。実はバスターミナルにたどり着くのが大変なのだ。韓国では交通渋滞がはげしいので、長距離バスは郊外に設置したターミナルから発着する。それが何と宿の近くの地下鉄から数えて13番目の駅で降り、さらに市内バスに乗り換えてやっと着くのだ。せめてその地下鉄の駅の横にでも作ってくれればいいのに。歩いても15分以上の距離にあるのである。しかし明日はソウルに向かうバスもここから出発するのだから予行演習のためにも行ってみなければならない。宿を出て45分後、やっと「コソクボストミナル(高速バスターミナル)」に到着。

バスか列車か? バスはこの国の最も重要な交通機関といえる。何しろ国鉄を使うと慶州行きの列車は一日に3本しかない。はじめから競争することを諦めているようだ。しかも値段も高いし。バスのほうは30分間隔ぐらいで出ているから便利この上ない。いずれは韓国にもJRならぬKRが誕生するのだろうか。面白いことに鉄道の一等車に相当する区別がバスにも存在するのである。優等バスは普通のに比べて値段は1.5倍するが快適で乗り心地はよい。行きはこれにのり、帰りは普通バスで帰ってきた。所要時間は同じだ。バスの運転手の飛ばすこと。普通はバスの運転はゆったりして次々と周りの車に追い越されると思っていたが、ここではどのバスも他の車、特に乗用車に追い越されまいとエンジンの回転数を猛烈に上げてばく進する。巨大な車体がのたうつ様ははじめのうちはちゃんと掴まっていないと怖いくらいだ。

コソクボス風景 ターミナルを出てしばらく渋滞している市街地を通ったあと、高速道路にはいる。思ったよりすいていた。これは京釜高速道路とよばれ、日本の東名に当たる最も重要な路線である。はじめのうちは片側3車線で、田舎にはいると2車線となったが、一部で工事をしているところをのぞくととてもスムーズだった。ただ路面の舗装の仕方が粗末でアスファルトの多重構造ではなくコンクリートを流しただけだから継ぎ目や小さな穴の衝撃がじかにバスに伝わってくるのである。これで大雨で路面が滑りやすくなったときの事故の多発が心配される。しかも中央分離帯というのがこれはソウルに着くまでただのコンクリートのついたてなのである。中にはただのガードレールという区間もあった。一説によれば有事にはこの道は直ちにこれらを取り払って戦闘機の滑走路になるとか。だから幅を持たせたり、芝生や樹木を植え込んだ所はほとんどなかった。もっとも中央線を乗り越えてしまうような正面衝突の場合、そんなものもあまり役に立たないが。また道路と外側の境界もガードレール一本、農村地域ではその外があぜ道なのであった。犬や幼児が道路に迷い込んできたら、 スピードだけは日本以上なのだからどうなるのか恐ろしい。

鳥の巣 さて釜山から離れると低い山の連なる農村地帯にはいった。樹木は生えているがかなりまばらである。しかも冬枯れのためみな茶色に見える。ここら辺は急な渓谷とか天突く急な山といったものが見あたらない。緩やかではないが標高2,3百メートル級の山が続いているだけだ。面白いことにポプラのような背の高い木には必ずといっていいほど鳥が小枝を集めて丸い巣を作っている。それが遠くからでもとてもよく目に付くのだ。ソウルの町の真ん中にある宮殿の林にもあった。日本では列車や自動車の車窓から鳥の巣が見えることが今時あるだろうか。釜山の市場で見た豊富な水産物やこれらの鳥の巣を見ると、まだまだ自然がよく残っていることがわかる。寒々とはしているがやはりユーラシア大陸なのだ。(追記:これらの巣は「カチ」と呼ばれ、韓国の国鳥であるカササギのものであるという。この鳥は佐賀県の県鳥でもある。)

冷気のただよう慶州 ほぼ定刻通りに慶州に着く。さすが有数の観光地だけあって、タクシー乗り場から次々と観光客が目的地をめざして出発して行く。空気が釜山とは比べものにならないくらい冷たい。しかも雨が降りそうだ。徒歩でゆけるところに限ることにする。まずコーヒーショップで体を温めたあと、巨大な古墳公園の塀に沿って歩き出す。小さな町だが落ちついた城下町という感じで、歩いていて楽しい。天文台の跡や古代の貴族が遊んだ池を通り過ぎた後、国立博物館に到達した。やはりここに入らなければ慶州がなんですばらしいのかわからないではないか。幸い入り口の所には日本語の解説カセットレコーダを貸し出していた。これは大成功だった。テープの案内通り展示を見て回ったが、非常によくわかった。

大陸的デザイン 周りを見るとただぶらぶらと通過する人と、引率された騒がしい小中学生が物珍しそうにこちらを見ている。ガイドを付けるのもいいが、人件費もかかるし、ここはそんなに人が大勢来ているわけではない。ローマのカタコンベでは英語、中国語、フランス語、韓国語のガイドがそれぞれのグループを引率していたが、それは洞窟の中で観光客が迷わないようにするためだった。展示では金製品が多い。きらきらした冠や耳輪、指輪など昔の輝きを失っていない。ここは王国の首都で、数多くの遺品が古墳の中から出土した。やはり日本の品物と違い、デザインは大陸的である。大ざっぱなのであるが、それは中国にもタイにも、インドにも共通していえることだ。博物館の外に出ると雨。休憩所でククスを食べる。うどんとそばの中間だ。いや太い素麺というべきか。汁は関西風の味に似ている。小皿に大根の漬け物やキムチが付いてくるのが日本と違うところ。最後に巨大な鐘を見てここを出る。

仏国寺、極楽殿バスがきた! 本当はこれで帰ろうかとも思ったがもう一つの名所「仏国寺」を見たくなった。試しにバス停に立っていると偶然にもすぐにバスがやってきたのだ。このチャンスを逃す手はない。30分ほど、運転手の暴走運転の後、山の中腹にある寺の前に到着した。慶州のさらに山奥に入ったところにこの寺はあるわけだが、その大きさは再建されたあとでも相当の規模だ。ただ気になるのは屋根の横木は多くの日本の寺と違い彫刻されているのではなく緑系統のペンキで描いてあることだ。韓国中どこに行ってもそれは同じだったが、やはり木は柔らかいのだから、透かし彫りなり、何か手の込んだ細工がされていればと思う。さらに気になるのは釜山といい、この仏国寺といい、日本の侵略の記録が多く残されていることだ。秀吉の朝鮮征伐、韓国併合後の日本の領有の残した跡が至るところにある。すべて昔のこととはいえ、東南アジアを行くときは必ず付いてまわるものなのだ。今後、フィリピンや台湾などでも多く見受けることだろう。

栗はおやつに最適 帰りに焼きグリを買う。うまい。あまり甘くはないが、スナックとしては最高だ。山門に続く道ばたで売っているおばあさんから買う。帰路は別のルートでバスに乗る。途中湖の周りにできたリゾート地を通過する。山中湖のようにホテルやさまざまな施設が建ち並び夏はさぞ人が集まることだろう。帰りの釜山行きのバスに乗ろうとすると客引きがもう観光は終わったかときいてくる。やはりこの地でもインドのブッダガヤーの時のような連中がおみやげ屋に連れ込もうと待ちかまえているらしい。釜山のバスターミナルには5時頃到着。帰りもスムーズだった。

再び釜山の町へ 宿に帰り着くと早速モギョクタン(銭湯)に入りに行く。高い煙突がそびえているのは日本と同じだが、入り口がわかりにくい。特にここではビルの中のビリヤード場の入り口と一緒になっているのでなおさらだった。階段の踊り場のところが窓口になっていてそこで1900ウオンを支払う。銭湯は床屋とたいてい一体になっているのだ。だから入り口には床屋のマークである回転する螺旋がある。脱衣所なども同じ。お湯は冷たいの、暖かいの、熱いのとなかなかきめ細かい。サウナと蒸気浴の施設が付いている。狭いホテルの浴槽より、銭湯で長々と横たわるほうが旅の疲れもよくとれる。風呂から上がると再び町に出る。昨日歩いた国際市場近辺はまだ見残したところがあるので、夕食がてら出てみようと思い立ったわけだ。ホテルの部屋でテレビを見ているなんてもったいない。雑踏の中を歩いていて楽しい。人々の顔は日本人と似ている。でも微妙な差があって、特に日焼けしていたり、目尻の部分に特徴があるときはやはり朝鮮人特有の表情となる。向こうも日本人とすぐわかるようだ。帰りにKマートで明日の朝のための食料を買い込む。コンビニエンスといっ ても品揃えは日本とだいぶ違う。規制が緩いせいかほとんどが酒類を販売している。飲み物は牛乳のほかに果物を混ぜたドリンクが多い。特にイチゴミルクに人気があるようだった。

第3章 ソウルへ 

幹線高速道路を行く 翌朝早く宿を出て昨日慶州に行くとき利用したバスターミナルへ向かう。今度は荷物の一切合切を持ってだからなかなかつらい。ソウル行きの切符を買って乗り込む。今度も優等バスでなかなか快適だ。15800ウオンで1700円ほどで、こと交通費に関する限り、日本とは雲泥の差である。頻繁に出発するのでそれ程込み合っていない。7時40分に出発したので400キロの道のりでは1時頃着く予定だった。しかしやはり道路の渋滞で到着したのは2時をまわっていたが、ここで国鉄の特急セマウル号を使うべきだったと後悔した。同じ時間に出発すれば、12時前にソウルに着いてしまうのだ。そうすれば午後を有効に利用できる。しかし後の祭り。途中テグとかテジョンといった大都市のインターに近づくたびに激しい渋滞に巻き込まれたのだった。ルートは昨日も通った京釜高速道路を終点まで行ったわけだ。全行程、高い山はほとんどない。うねるような丘や小高い山があるだけで枯れ野を突っ走る。日本と違い、人家や人工的なものがまったく目に入らない区間が結構続く。

アメリカ南部バス旅行を思い出す 日本の場合は看板やらサイロやらどんなに田舎でも目に付くものだが、ここではまったくの自然だけの部分も多いのだ。その点アメリカの高速道路の風景に似ている。ここでもFMラジオを持ち出して車窓を眺めながら音楽を楽しんだ。大都市に近づくと音声が鮮明になり、田舎になると電波が弱く聞こえにくくなる。アメリカと違って放送局がひしめいている状態ではない。日本と同じくらいまばらだ。バスににはトイレがなく5時間あまりの間サービスエリアに休憩したのはたった一回だった。ソウルに到着したのがまたまた郊外の高速バスターミナル。但し今度は地下鉄の駅ととなりあわせになっているので乗り換えは楽だった。ここから乗り慣れた地下鉄に乗って都心部の「鐘路」へ向かう。大都会では地下鉄さえ乗り方をマスターすれば怖いことはない。バスはどこにつれていかれるか不安でならないけど駅から歩くことをいとわなければ、こんな確実で安い輸送機関はない。

ソウルを歩く 鐘路に向かったのはYMCAホテルがあったからだ。値段といい、場所といい、一番入りやすいといえる。残念ながら旅人はみんなそう考えているらしく満室であった。しかしYMCAの後背地には旅館街がひしめいている。格は落ちるにしても選り取りみどりだ。気さくなおばさんがやっている旅館に決める。今度はシャワーもトイレも付いている。18000ウオンで2000円というところか。まだ3時を過ぎたばかりだったので、早速南大門へ行ってみる。ソウル最大の市場である。どうも地下鉄の路線がうまくその方向へ向いていないので大通りを歩いてみることにした。わかりやすい近代都市だから、迷う不安はほとんどない。始めてきたのではないみたいだ。地下鉄の駅を出てすぐこの駅名の元である鐘つき堂を左に見る。

本屋とデパート さらに行くと交差点に半地下式の書店が目に入った。ついつい入ってみると何とその売り場面積の広いこと!向こう端が見えないほどなのだ。ここでだいぶ時間を費やしたが、英語関係の書物の次に多いのはやはり日本語関係の辞書や参考書だった。いろいろな種類の韓日・日韓辞典がそろっているて、若い人が熱心に見比べている。その他の国の言葉の辞典も豊富で、語学熱は日本以上だと思った。さらに大通りを進むと日本でも有名なロッテ百貨店に出た。ここは日本人だらけ。特に9階の免税品コーナーは日本語しか聞こえてこない。「あなた日本人でしょ。どこかであったよ。」と年輩の男性がエスカレーターで話しかけてくる。きれいな服を着た日本女性や母娘や腹の突き出たおじさんたちがルイ・ヴィトンのお店なんかに群がっている。何となく場違いな感じで早々とその場を去る。

南大門市場南大門市場 ロッテを出て右の方へ曲がって行くと先に南大門が見えてきた。思ったほど遠いわけではない。門を中心にロータリーになっていて、その一角が大きな市場になっている。そのにぎやかなこと、もちろん釜山の市場を遙かに上回る。ここでは衣料、食器、食品、生活に必要なものは何でも間に合ってしまう。こういう市場が成立するのは巨大なスーパーマーケットがまだ未成熟な段階にあるからだろうが、このようなところは何も買わないでただぶらぶら歩いているだけでも楽しい。ついつい日本製の水泳パンツを買ってしまったが、もちろん日本で売られているよりも遙かに安くだ。さらに進んでソウル駅まで行き、そこでセマウル号にのればよかったと改めて後悔した。駅の構内は巨大で大勢の旅行者がいたが、バスターミナルのような明るさはない。宿に戻る途中の小路で店の外で魚を焼いている食堂があった。早速中に入って「センソン(魚)」と言うがそのあとの言葉が出てこない。店のおばさんは韓国人ではないとわかったらしく、笑いながら「グイ(焼き)」と付け足してくれた。肉には飽きていたのでこの一見サンマ(実はそうではないらしい)に似た魚をあてにひとびんの焼酎「チンロ(真露)」を飲んだ。小瓶にしてはやや量が多い。すっかり酔った。

寒さに震える花嫁 翌日国立博物館に行ってみる。内容は慶州とあまり違いはなかったが、となりの宮殿(景福宮)の中にあった民俗博物館は実物模型がいっぱいあって、韓国の日常生活がよくわかった。学問臭さがなくてとても面白い。これはガイドブックにも簡単にしか触れられていない。穴場だ。景福宮は昔の王朝の遺跡だがその建築のすばらしさのせいか、新婚カップルの記念写真の背景になっているのである。花嫁は半袖のすけすけのウエディングドレスで今にも雨が降りそうな寒さに打ち震えながら、カメラマンの前でポーズを取っている。ここでは観光客の言葉の中に中国語も聞こえたから台湾からの人々も多いのだろう。

東大門市場 今度はとって返して東大門へ行ってみる。南大門ほどではないにしてもここもソウルの東部を担う重要な市場になっていた。ただ、それ程泥臭さはなく、おとなしい感じだ。衣料品、靴の販売が目立っていた。ここで露店でポンデギを見つけたので食べてみる。蚕のさなぎを醤油で煮たものだ。糠(ぬか)を食べているような、あまりおいしいとはいえないが、よく噛むとなかなかスナックとしては向いている。紙コップに入れてもらって食べる。

再び高いところへ おみやげをあちらこちらで買い込んだ後、宿に戻り、夜のプランを考える。今夜ソウル、韓国最後の夜だ。どこへ行くべきか。もちろんソウルタワーに上って夜景の見学だろう。日が暮れるとソウル駅から山に登り始めた。途中にロープウエイがあり、それで3分あまりで頂上に達する。タワーは釜山のそれとそっくりだったが、山に囲まれ、漢江の両岸に発達したソウルの眺めは雄大である。何本もの河に架かった橋に車が流れて明るい光線を作っている。残念ながらおみやげ屋のライトが明るすぎて、それがガラスに反射して見にくいのが難点であったが。9時の最終ロープウエイでしたに戻ったあと、繁華街のミョンドン(明洞)を歩く。途中ビビンバの専門店で石焼きの器に入っているのを食べてみたがとてもおいしかった。生卵、野菜、ご飯をジュージューいっている熱い器の中で素早くかき混ぜながら食するのである。総合栄養食と漢字で書いてあったがその通りだ。ここを出てミョンドンの町を歩く。有名な繁華街なのに、バキュームカーが道の真ん中にいてある店から吸い出している。ホースがピョンピョンはねている。ここは下水道はないのかしら。

ソウルの繁華街日本語特訓 そのうち一人の若者が韓国語で話しかけてくる。聞き取れなかったので「イルボンサラミムニダ(私は日本人だ)」というと自分は日本語を勉強しているのでぜひ話し相手になってほしいという。昔インドのアグラでも骨董屋の親父に日本語を尋ねられたことがあった。またたのまれたのだ。私が韓国語を話すのできっと勉強中の人にちがいないと思ったのだという。近くのコーヒーショップにはいる。29歳の貿易会社の社員である。かなり流暢に日本語がしゃべれるが、漢字の読みとりに悩んでいた。軍隊をクンタイといってみたり、部分はなぜププンではなくてブブンなのかと。そういわれてみると読み仮名は何でこんなに複雑怪奇なのか。彼が日本人と結婚している姉のいる東京を訪れた話などして一時間ぐらい過ごした。

なんと近い国 翌日は朝一番で金浦空港から旅立つ。地下鉄でソウル駅に出たあと、KALリムジンサービスで空港に向かう。バスストップで一緒に待っていた若い女性から韓国語がうまいと言われる。やはり勉強したかいがあった。成田までの飛行時間はたった1時間35分。実に近い。特に行くときは地面を這い、海面をかすめて進んだわけだからなおさらあっけなく感じる。距離的にも文化的にも韓国は近い。今までの海外旅行の中で最もカルチャーショックを感じることが少なかった。

ハングルが読めるか しかし言葉の壁は厚い。韓国の普通の人々は日本の場合と同じく、ほとんど英語が話せない。通じるのは大ホテルと旅行代理店ぐらいなものである。韓国語は日本語と文法構造が同じだからやはり英語は苦手なのだ。うまく話せるには文の構造に対する意識の大改革が必要なのだ。そして何といってもハングル文字がある。アルファベットと同じく表音文字だから読むことは楽そうにみえるが、これがなんの、なれるまで時間がかかることおびただしい。日本人観光客は誰もハングルなんて勉強しようとしない。百貨店の店員は日本語をしゃべってくれるから。でも昔読んだ小田実の「何でも見てやろう」を思い出す。彼は大学で古代ギリシャ語を専攻したのだが、実際ギリシャのタベルナ(食堂)で周りの人々に(現代)ギリシャ語で話しかけ、周りの人はギリシャ語を話す日本人がいるということで驚きおそれたという。実に痛快な話だ。自分たちの母国語を話してくれる外人はどこでも歓迎される。やはりこのエピソードを忘れてはなるまい。さらに韓国語は文法構造は確かに日本語とそっくりだが、語彙はまるで違うし、似ているようで漢字の読み方も大変癖がある。このようなことが韓国と日本との交流を妨げてきたのかもしれないが、ひとつこの言葉の壁をぶち破るために韓国語の勉強にもっと力を入れたいものだ。

第4章 記録  

1995年3月20日より25日まで

3月20日 夕方新宿出発(博多行き長距離バス)
3月21日 午前9時博多着、長距離フェリー乗り場より水中翼船に乗る、3時間後釜山着、釜山市内見物
3月22日 慶州へバスで日帰り旅行
3月23日 朝、釜山出発(ソウル行き長距離バス)夕方ソウル着、ソウル市内見物
3月24日 ソウル市内見物
3月25日 午前ソウル空港より出発、成田着

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