文明時評

きつね

ライフスタイルに関わる、偏見と独断に満ちた考察

テレビを止めてラジオを聴こう

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かつて評論家の大宅壮一が、テレビの出現にいち早く、「一億総白痴化」を唱えたのはずいぶん昔のことになるが、彼の毒舌はどうやら当たったらしい。テレビの害については多くのことが言われ続けたけども、ほかに娯楽のない人にとっては、これなしで済ませることのできない生活道具の一部になってしまった。今、開発途上国でも、テレビ放送があるところでは、経済的余裕ができてまず最初に購入するのがテレビである。日本の昭和30年代と全く同じだ。

アメリカや日本では、テレビの出現以前に、映画の全盛時代が存在した。そのため有能な監督、プロデューサーが多くいたために、新しい媒体の出現に張り切った彼らの多くがテレビ番組の制作に協力したのである。結局それは映画人口を減らし、自らの首を絞めることにはなったが、テレビの黎明期はそのためか、新鮮で、心のこもった作品がかなり多く、今の年輩の人たちも(私も含めて)懐かしさを感じる番組が少なからずある。

だが、アメリカでも日本でも、経済成長が、スポンサーの力を強め、放送局の数も増すにつれて、「大量生産」の時代がやってきた。だが、情報は自動車とは違う。作れば作るほど、自動車は均一性を生かして、製品の信頼度は上がり、価格も下がるが、情報の大量生産は、ただ内容の希薄化、アイディアの枯渇を招くだけだ。

それに加えて、恐るべき視聴率競争、スポンサーの意向に添えない番組の降板、24時間垂れ流し番組、とテレビの質を下げる原因が次々に出現した。最初の頃は NHK だけでしかも、夕方しか放送しなかった時代があったなんて誰も信じない。放送局はただ、時間を埋めることだけを考えているだけだ。

もしこれで番組の質が落ちなかったら奇跡だ。そもそもテレビがただであり、スポンサーの落とす広告料金で成り立っている限りはこのような運命を辿るしかないのである。国営放送では国家の介入が恐ろしいし、 NHK のような集金制度では、その規模に限りがあり、今後の存続が難しい(日本人は、まだ大部分が正直にも渋々ながら払っているようだが)。

テレビ番組の制作は大変な金がかかる。これが業界の思惑と結びついて、大衆が最も好むような番組づくりに追われることになる。結局、最も視聴率の高い番組が最大の広告効果をもたらすために、この悪循環は際限なく続く。

視聴者のほうも、すっかり怠惰な生活になれ、自分で工夫して娯楽を楽しむのを止めて、すっかり受動的になり、特に夕食後の時間を何となくテレビを眺めて過ごす癖が付いてしまい、「カウチポテト」はすっかり生活の中に根付いている。価値あるものは待っていてもやって来ないのに。しかも一説による、アルツハイマー症はテレビの視聴によって誘発されるとも言われる。

関西では「老人クサイ」という言葉をよく使うが、テレビの試聴ほどよくこれにあてはまるものはない。若者であっても何にもしないで、ただボケッと画面を見つめる、すべては放送局がお膳立てしたもの、というこの図式は、まさにこのイメージに当てはまる。そもそも休息や気分転換の手段としてテレビを利用すること自体が、寒々としているではないか?

そもそも現代人はテレビなしには家族との時間を過ごすこともできなくなっている。お見合いの条件にテレビを置かないことをあげてみよう。まったく誰も相手にしてくれないことを保証する。テレビがなければ、家族の間が気まずくてやってられないのだ。そういう家族ならただちに解散することをおすすめする。

このようなテレビ制作側と視聴者とのもたれあいがすっかりできあがってしまった中では、とても番組の向上どころか、視聴者の求めに応じて暴力やセックスの度合いを高めるしか方法がない。主婦の「巷の噂」願望に応じ、労働者諸君が疲れ果て、自分で考える気力を無くし「深刻」な番組を見たがらない場合には、これは恐るべき速度で進行する。放送局のもそのことがわかっていて誰にでもわかりやすいような番組づくりをするが、これは情報の「希薄化」に他ならない。

バラエティーショーやクイズ番組などは、1950年代にアメリカのテレビで発明され、日本にその形式が移入されたものだ。アメリカ国民の好きなプラグマティズムがよく表れている。特にクイズ形式というのは、視聴者にものを考えさせず、ただ知識の有無だけを即座に語らせる形式だ。視聴者を飽きさせず、しかも自分の知識が増えたように錯覚させるにはこれが一番なのだ。その結果あらゆる面から考えて判断を下す力を奪われ、よそから与えられる画一的な知識だけで満足する受け身的な生活態度が知らず知らずのうちに身に付く。そもそも多くは週一回放送されるために、プロデューサーたちが大急ぎでかき集めた内容なんてきちんとまとまっているはずがないではないか。

結局人間が、楽なものがあればすぐに飛びつくという習性がある以上、テレビはその要求にこたえる最大の娯楽施設になってしまっているのだ。だが、そのまま一生をテレビ漬けで過ごすことに割り切れない人もいるだろう。テレビのない夜は、50年前までは当たり前だったのだが、自ら工夫して楽しい時間を作るという努力は、有史以来、余りおこなわれてこなかったようだ。何よりもテレビは「時間どろぼう」だということを肝に銘じるべきだ。

今、テレビ業界では、着々とデジタル化が進みつつある。受像器の値段が高いので、不況が収まらないうちは、当分普及しないだろうが、ろくな番組を作らず、機械だけを性能の優れたものにするなんて、視聴者をバカにしたはなしだ。白黒でもサイレントでもいい、ましな見応えのある番組を作れ。今のままだと、番組の98パーセントはクズであり、たった2パーセントを見るために機械を買うのはばかげている。

テレビが突然故障したことのある人ならわかるように、突然夜の生活からテレビを奪われると、すっかり惰性に慣れきっている人間は途方に暮れてしまう。何をやったらいいかわからないし、自分の生活の空しさが大きな空洞となって夜の闇に現れるから、人はいても立っても居られなくなってしまう。昔のように草鞋やかごを編んだり、編み物をしていたときのような、手慰みになるものがおいそれとは見つからないからだ。

そこで、テレビから離脱したい人にはラジオを勧める。放送されてきたものをただ聞くという点ではテレビと同じく受動的なのだが、突然のライフスタイルの変化について行けそうもない人には、ちょうど手頃な「過渡的」手段だといえる。少なくとも視覚情報をテレビに奪われずに済む。

なぜなら、耳は今まで通り、聞いているのだが、目がブラウン管から自由になったために、ほかの者に目を移すことができるようになるのだ。それは本になるか、編み物になるか、絵筆になるか、将棋盤になるかは人によって違うだろうが、ここから確実に新しい生活方法が開けてくるのだ。

ラジオは「ながら」するのに適している。音楽を聴くのものよいのだが、ラジオのニュースは今まで通り、テレビと同じ速報性を持ってくれるし、ゲストを招いての対話は、テレビのようなやらせの通用しない場面である。

この間も NHK で宮城まり子のインタヴユーをやっていたけれども、そのとつとつとした語り口から彼女の人柄がにじみ出て、実際に会わなくても十分に伝わってきた。その他 DJ のモノローグにせよ、相談コーナーのお話にせよ、人の話をただ聞くのはいかによく入ってくるかに驚かされる。テレビのように不要な照明や衣裳、顔つきや仕草などに惑わされることなく、話の内容がストレートに入ってくるのである。

そしてそれと同時に、楽器演奏のように音を立てること以外のことならたいていのことができるのである。皆さんもぜひ夜長に感じたら、ラジオ・プラスアルファで過ごしてみたらどうだろう。きっと実に新鮮な生き方できそうな気がするだろう。

1999年12月作成2003年4月追加

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