文明時評

きつね

ライフスタイルに関わる、偏見と独断に満ちた考察

忙しさ考

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小津安二郎監督の名作「東京物語」はなぜ高い評価を受けているかといえば、それまでの日本が農耕を中心とする「ゲマインシャフト」社会であり、人々の絆は良くも悪くも息苦しいほどの固く結ばれていたのに対し、第2次、第3次産業の発達が強引に「ゲゼルシャフト」社会へ引きずり込んでいこうとする過程を見事に描いていたことも指摘できよう。

だからこの映画のキーワードは「忙しさ」だと思うのだ。広島県福山市に住む老夫婦は、東京にいる二人の子供たちを久しぶりに尋ねる。だが医者になった長男、美容院を営む長女は、毎日の生活に追われて、満足に自分の親たちの相手さえできない。熱海に招待するが、お金を出してやるだけだ。ただ、戦死したもう一人の息子の嫁が夫婦を東京の町に案内し、自分の義理の両親に優しく接する。

福山に帰った後、母親のほうはからだの調子をくずして死んでしまうのだが、その葬式が終わるとみな急いで東京へ帰ってしまうのだ。優しい嫁はしばらくいてくれるものの、それも帰り、父親は小学校の教員をしている末娘と共に残される。

だが、特に長男や長女ががもともと情がなく、冷たいというわけではないのだ。日本の「活気ある」経済成長が、彼らに肉親の死をゆっくり看取るひまさえ与えないのだ。だが忙しさにかこつけて、人々はいつの間にか本当に心が冷たくなってゆく。

今の時代は、繁栄と生活水準の向上、便利さの向上は、途方もない価値のあるものを置き去りにしてまっしぐらに未来へ向かって進んでいる。この映画を見ても、自分たちから何が失われているのかも全く気づかずにいる人々も少なくないだろう。

人々は「退屈さ」を恐れる。また「貧困」からはもちろんのがれたいと思う。だがその個々の希望が社会の一大潮流となるとき、勤労はとてつもなく価値のあるものとして前面に押し出されてきたのだ。

田舎の人々はその変化の少ない(心を研ぎすませれば、いくらでも変化は見いだせるのだが)環境から逃れたいと都会へ出てくる。都会の便利さ、華々しさ、速いテンポはそのような人々の心を魅了したのだ。

だがだからといって彼らの生活信条が確固としたもので、生きることに喜びを見いだすことができるような太い生き方ができるわけではない。物質的生活は豊かになっても、ほんのわずかなすき間には自分たちの生活の空洞が見え隠れする。

その空洞を埋めるために宗教の世界に浸ったり、酒などによる酩酊状態に求めたり、さまざまな逃避の方法が存在しているが、一つだけ社会的に公認されたやり方があった。それが「忙中暇なし」なのである。

英語では busy は形容詞だが、その名詞形は business である。「忙しい状態」とは「会社でさまざまな用件をこなしてゆくこと」と全く同意義に扱われるようになったのだ。

忙しいと、他のことを考えずに済む。退屈せずに済む。人生の空しさを見ずに済む。場合によっては死の恐怖も一時忘れることができる。さらになおいいことに、まわりから「怠け者」と呼ばれないだけでなく、収入が増える。

忙しさが大義名分となり、どんな人間的義務も避けて通れるようになる。老いた両親の東京案内など、いくらでも断ることができる。重病の妻や息子の看護も金さえ十分に補給すれば、完全看護に任せていい。

これだけのメリットが現代社会にはあるのだから、先進国をはじめとして、物質的繁栄に目覚めた人々が忙しさに夢中になるのも無理はない。「忙しい」は、それを口にするだけでなんでも許される魔法の言葉なのである。

社会学を学ぶ人々にとっての傑作に、マックス・ウエーバーの「プロテスタントと資本主義の倫理」という本がある。この本には、宗教改革を経てカトリックから独立した人々が、いかに巧みに近代社会の「金儲け」の要請を自らの新宗教に取り込んだかをわかりやすく描いている。

おかげで欧米では、「怠け者」は神の意志に反する「罪」となってしまった。日本ではブラブラしていると、「ムラ」のおきてに反する行為として村八分のような扱いを受けることになってしまった。現在では「覇気がない」というような言葉で非難する。洋の東西を問わず、勤労は美徳なのである。

ここに目を付けたのが、雇用者である。低賃金と長時間労働をどこかの妥協点で結び合わせれば、自分たちに最大限の収入が転がり込むことに気づいたのである。確かに昔のように奴隷のような働かせ方はできない。だが、忙しさに「酩酊」する人々を心理的にコントロールすることはむずかしいことではない。

たとえば競争である。忙しさが道徳的にも高いものだと思いこませ、互いに競わせる。よく働いた者、勤勉な者が表彰される。負けた者は次回は忙しさの点で相手を上回ってやろうと心に誓う。「負けて悔しい」というような心理構造を賞賛するような仕組みににいつの間にか洗脳されているのである。

雇用者はかつてイギリスが好んで植民地経営に用いた「分割統治」の原理を自分の会社の職場に持ち込むことを考えつく。競い、争っている本人たちは気づかなくとも、全体としての生産効率は着実に上がってゆくのだ。

かつてローマ帝国のガレー船漕ぎとしてひどい扱いを受けた奴隷たちを、現代の人々はあんな風にならなくて良かったと思いこんでいる。だが、自分の置かれている状態をはっきり見極めている者は少ない。

たとえばローン制度。だれでも「一国の主」になるのが当然だという風潮が流される。一戸建てを買わなければ男ではない、というようにあおり立てられる。妻や子供から自分の部屋や、広い庭が欲しいと言い立てられる。

借金をすることは、返済期間中自らを奴隷にするのと同意義のはずなのに、それをあえて実行するのは、社会的圧力とまわりの称賛への期待が大きいからに他ならない。

たとえば新製品。実際の技術の進歩からすれば10年に一回で十分なはずの自動車のモデルチェンジを5年以下に短縮する。ゴミを大量生産することはわかっていながら、すでに出した製品を陳腐化ささせて新しいものを買わせるあこぎな風潮。

だがこれは個々の会社を責めても意味がないのだ。これをしなければその会社は脱落するようになっているからである。かくして不要なモノが市場にあふれ返り、人々は不要なものを買うために一生懸命働く。

たとえば大型化、豪勢化。新製品を出さなくとも、利益率を出すためには規模を大きくすればよい。それまでよりもパワーの増大した掃除機やヘア・ドライヤー。人々はパワフルになったり、豪勢な飾りがつくと喜ぶ。この点では、きれいなガラス玉をもらって喜んでいたかつての土民たちからみて、何の変化もないわけだが、おかげで浪費が加速化する。

たとえば上下関係の明確化。人々を必要以上に序列化し、上への上昇志向を刺激することによって、より忙しくさせる。本来は能率的な組織を目指して作られたはずの命令系統は、いつの間にか人々の目的達成の標的にすり替えられている。人々は自分の地位の上下に一喜一憂し、一段階でも上へ這い上りたいと考える。

インドのカースト制度は悲惨なシステムだが、固定されていて上へ昇れないという点だけはむしろ福音である。現代社会のカースト制度はわざと流動性を持つように作られている。したがって人々は自分が上昇できるという幻想を持つ。それが高給と引き替えにストレスに満ちた状態であることに気づく人は少ない。

たとえばアリ・ハチ化。現代の文明国ではどこでも少子化が進んでいる。女性が子供を産まなくなった原因は決して経済的なものではない。「男女平等」というスローガンのもとでの総労働者化への構想が実現進行中なのである。

将来的には、子供を産むことが専門の多産系の女性と、アリやハチと同じように働くことが専門の女性労働者に分化することだろう。女性たちははじめのうち、自分が働いて自分の自由にできる金を持てることに嬉々としていた。だががそのうち、あることに気づきだしている。

かつては旦那一人で家を建てることもできた。現代では、ローン地獄に加え、夫婦共稼ぎでないと普通は家が建たないようになっている。技術の進歩の裏でこのような「貧困化」が進んでいることにすべての人が気づくのはいつのことだろうか?

たとえば、電化神話。女性は解放されたと思いこんでいる。それが法律的な意味でか、経済的な意味でかその明確な境界線はだれにもわからない。ただ、自らの過酷な家事労働が現在では非常に楽になったために、それを「自由」と勘違いをしている女性が多い。

これが単なるより安い労働市場への「動員令」に過ぎないと気づくとすれば、ローンをしてまで電化製品を買い込むこともなくなるだろうに。自分の生活を楽に、便利にする電化製品を買うために働きに出る。働いて疲れて帰ってきて、その製品を手に入れる。狭苦しいかごの中で一生懸命車を回し続けるハツカネズミを笑う気力もないほど疲れて。

たとえばテレビやゲーム。忙しさも、体力や気力に限界がある。次の忙しさに耐えるためには、全く無為な時間を過ごすことが必要だ。テレビやテレビゲームはそのために考え出された、と思いたくなるだろう。人々はそれらにひたすら目を向け、集中する。

忙しさにかまけている人は人生について深い思いをいたしてはならない。いやできない。なるべく浅薄で、あとが残らないような時間の使い方をする必要があるのだ。一番安全なのは大多数がやっていることをまねること。これが精神的にも安心し、余計なことを考えないからだ。

たとえば経済のギャンブル化。アメリカの世界に対する最も大きな貢献は、経済をゲーム化し、さらに賭博場に変えたことだろう。自分の能力や努力で富や地位を得たと自負している人はいいとしても、そのどちらも得られない人々のフラストレーションのはけ口を用意しておかなければならない。

これに対する最も利口な解決策は、ギャンブルの要素を経済に持ち込むことだったのだ。実力勝負が自分にあっていない大多数の人々をこちらに向けさせ、少なくとも社会全体に参加しているという錯覚を抱かせるには、株や投資信託、さらにくじなどに狂奔させることがベストである。

かくしてアメリカの繁栄は、世界中の射倖心豊かな人々のおかげでますますその程度を高めることになったのである。超低金利に悩む、日本のお金持ちも少なからず参加しているのは周知の通りである。

たとえば効率化。普通、人々は効率化、能率化が進めば今までよりも仕事量が減って余った時間が有意義に使えるだろうと、ぼんやり思いこんでいる。だがそのように使われたことは歴史上一度もなかったといってよい。

今までの仕事が8時間かかっていたのを4時間で済ませるようになったとすれば、さらに4時間新しい仕事を与えられるだけのことである。しかもその4時間の終わりごろには相当疲れているから能率が下がってしまい、さらに残業を抱え込むことになる。それでも多くの人々は嬉々として働いている。最後まで忙しくしていられるからだ。

昔の人は、久しぶりに雪が降ったり、山が紅葉で赤や黄色におおわれるとそれを愛でたり気持が生き生きしたりしたものだ。現代人は忙しさのために心が摩耗しており、もうそんなことをする気力はない。ただ自分に広告によって植え付けられた欲を満たすためにただあくせく働くだけなのだ。

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だが、社会制度が改められ、週休二日、三日制になればそれでいいのかといえば決してそうはならない。今の独創性を奪われた日本人では長期休暇を取っても暇を持て余していらいらするばかりである。それこそ朝から晩までテレビ漬けということになりかねない。

それは、自立した人間が作られていないからだ。子供の時から、自由な時間を創造的に過ごす方法など誰も教えてくれない。そんな考えなど勤勉さが尊ばれる雰囲気の中で一笑に付されるか、ひょっとして危険視されるのが落ちである。

そもそも仕事で忙しくしているのは、精神的な空白を埋めるためであることが多い。仕事はお金をくれるだけでなく、何もすることなくむなしく時を過ごしたり、近所の人からぶらぶらしていると見られることなしに生きるためには実に便利な方便なのだ。

このような人が休みを取っても肉体的精神的な疲労を取るための単なる「休息」であることが多い。このような人ばかりの社会であれば、週休1日、いや月休2日ぐらいで十分だ。

こういう人はいわゆる「ファルニエンテ farniente イタリア語・無為)に浸りきることすらできない。昼寝する猫のように徹底してそのようなライフスタイルにはいることができるならそれも結構だが、いずれはそれに我慢ができなくなりお仕着せの楽しみを探し求めることになる。

ディズニーランドに代表されるテーマパークはこのような現代人の渇望感にうまく答えている。つまり清潔で明るく、家族全員で楽しめて、客の希望に全面的に答えられるようにすっかり手はずが整えられている。客は何の努力も必要がないように作られているのだ。

テレビゲームも同様だ。ゲームの作成者は、知恵の限りを尽くしてゲームを構成し、あらゆる秘密の手段を用意し、客の楽しみに備える。客は見事に「遊ばせてもらう」。テーマパークもテレビゲームも実に自分の時間を「食って」くれるのだ。

こうやって考えると自立的に何かを工夫して自分の時間を過ごすことは実に難しいことがわかる。皮肉なことに、仕事の「忙しさ」を逃れた人が、自立的生活を確立するために苦闘し大変「忙しく」なることは往々にして見られることだ。

だが、自分の生活を再編成することは絶対に必要である。現代社会において生活のあらゆる部分が分断され他の人に依存するようになってしまっている場合が多い中、食も衣も住もできるだけ自分の力ですませ、その中で自分の興味を追求する試みは決して無駄ではないだろう。

人はまず暇でなければいけないのではないだろうか。そこからはじめていろんなことを考えるゆとりが生まれ、ようやく”文化”が出来上がる。世界中を見渡してみよう。忙しい人々の群れる国には何の文化も生まれていない。安っぽい大量生産の似非文化漬けになった人々がいるだけだ。

かつての日本では、ゆとりのある生活を楽しめる階級があった。彼らは書院造やら、歌舞伎やら、山水画やらを次々と生み出した。ところが戦後の高度成長期になってからの日本はいったいどうなってしまったのだろう。後世に誇りをもって残せる仕事をいったい誰がやっているというのか?

「人間国宝」という人たちは自分たちの想像力で無から祐を作り出した人々ではなく、忠実に伝統を守って見事に現代に再現させている人々なのだから悲しくなる。クリエーターはどこにいってしまったのか?

2000年11月初稿2009年4月追加

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