文明時評

きつね

ライフスタイルに関わる、偏見と独断に満ちた考察

養殖漁業から管理漁業へ

HOME > Think for yourself > 文明時評 > 漁業

最近の日本沿岸地域での漁獲量の減少は目を覆いたくなる。沿岸の水質汚染、山林伐採による有機物供給の減少、埋め立てや人工海岸の増加がその原因だが、中でも最も顕著なのが「獲りすぎ」である。

獲りすぎになったのは、皮肉にも漁業の機械化、船の大型化、効率的な漁網の使用のためである。昔から人々は、できるだけ多くの魚を捕まえたくてうずうずしていた。だが、波間に飛び跳ねる魚たちを見ながらどうすることもできないでいた。

だがエンジン船が普及し、丈夫なナイロンの網や、それを使った底引き漁法が至るところで行われるようになると、金に飢えた漁民たちは水産資源に殺到し、この30年ぐらいの間に、魚種によっては、情けないほどの漁獲しか期待できなくなった。

秋田県沿岸でかつて海が波立つほどいたハタハタは、刑務所のおかずにしかならなかったという。北海道の砂浜に押し寄せたニシン、肥料を作るために獲った房総九十九里浜のサンマなど、今では到底想像できないほどの自然の恵みが日本のまわりに溢れていた。

それが今ではどうだろう。もし膨大な資金を使って世界中の海から買ってこなければ、日本の食卓に魚が出る日はもうほとんどない。かつてにぎわった港に行っても売っているのは冷凍や干物ばかりで「地魚」がすっかり目立たぬようになってしまった。

かつてはちょっとした砂浜なら、「地引き網」があって、観光客も加わってみんなで引き上げてみると、あまりに魚が多くて、網が破れる心配をしなければならなかった。それが今では洗面器一杯ぐらいの魚と、あとはコーラの空き缶が混じっているだけなのだ。

この深刻な状況を前にして、手をこまねいているのが今の漁業だ。減っていると泣きながら、それでも日銭を稼ぐために今日も出航してゆく。だが、陸上動物の場合と同じく、「絶滅」という言葉が海の世界にないわけではない。

器用でこまめな日本人がそこで考えついたのが、「養殖」である。陸上における「ハウス栽培」の発想が、さっそく海の中にも適用された。網やその他の手段で、外海と隔絶し、そこの中でエサを与えて集中的に望む種類を増やす考えである。

これがまだ小規模に行われ、真珠のような少量生産にとどまっているうちはよかった。しかしいったん現金収入の見込みが出てくると、多くのひとが手がけて日本中に、ホタテ、カキ、ホヤ、ハマチ、と増殖方法の確立されたものは次々と大規模に養殖されるようになった。

養殖は、人間が好きなようにコントロールできるから、技術の勝利だといわれる。だがそのコントロールの方法とは、反自然に徹することなのだ。しかも元手がかかってしまう。

狭い中で密集した飼い方をするから当然病気が広まりやすい。そのための薬剤投与。いくら純粋培養といってもほかの種類が入り込んでくるので、ちょうど陸上での雑草駆除と同じく、薬や道具で維持をしていかなければならない。そして何と言ってもエサ。

現代農業が肥料なくしてやっていけないことにだれも疑いを入れない。同様に魚にも大量のエサが与えられる。そこから生じるフン公害、汚染、病気。

膨大な金を施設と維持費に投資し、赤潮のような突然の災厄におびえ、出荷の時には作り過ぎや、輸入増加による市場価格の低下におびえる。しかも天然物と比較され、たいていは一段下のレベルに置かれる。

何もいいことはない。あるのは生産者の胃の痛みだけだ。ひと冬中重油を焚き続けるハウス栽培にせよ、海の養殖にせよ、土を使わない水耕栽培や植物工場にせよ、技術者達が得意になって考案する「施設」を作ること自体が、その生産を「非永続」的にしている。

人間の浅はかな知恵は「現金収入」のことしか考えないから、いつもこの調子で、失敗したあとは枯れ草が覆う廃墟だけが残る。そしてその行為の蓄積が世界の陸地も海もますます荒れ果てさせてゆくのだ。

永続的生産を目指すのなら、それこそ人間の知恵を存分に使って自然の生産量を維持したまま、その「一部」を頂くという発想に戻すしかない。結局、触れるものはみんな金になって欲しいというミダス王的発想が今の農漁業を駄目にしているのだから。

終戦直後の頃、湘南のある海岸がアメリカの進駐軍の射撃演習場となり、一般住民は立ち入りを禁止された。周辺の漁民もその海域は航行できないことになった。すでに相模湾の漁獲は戦前から下降気味だったのだが、進駐軍が5年後に引き上げたあと、再び網を入れたところ、魚が捕れすぎて網が破れるほどだったという。

このエピソードは重要な教訓を含んでいる。さすがに現代の汚染と環境悪化は昭和20年代の清浄な海とは比べようもないが、わずか5年ほどの「休漁」で、自然はたちどころに盛り返すことがわかる。

すでに述べたハタハタも、獲るのを差し控えているうちに少しずつではあるが、その数は増えてきている。取り返しがつかなくなるほど獲り尽くしてしまった場合は論外だが、ある程度でとまっているならば、かつての漁獲量に迫ることは可能なのだ。

この方法は「管理漁業」と呼ばれる。比較的狭い水域ならば、中小の漁協でも実行することが可能だ。たとえば、山間部のヤマメやニジマスなどの川魚や、福島県北部のホッキ貝などはいい例だ。

だがただ数年休めばいいというものではない。まず専門の海洋生態学者を動員し、綿密な生物調査を行い、その生産量の実態を完全に把握する必要がある。次に人間がどれだけとっても全体のバランスに影響がないかを計算し、さらに気候変動や、海流の影響や外界からやって来る生物の影響も勘案して、その年の最適漁獲量を算出する。

実はこの作業が実に大変なことなのだ。というよりはこれほど多くの因子を抱えると人間の知恵では、正確な天気予報の場合と同じように、お手上げになってしまう。

今生物学者たちが得意になってやっている、クローン化とか、遺伝子をいじくり回して都合の良いように作り替えることは、実は単純そのものでいくらでも発達可能なのだが、こと複雑な自然のネットワークを解析をするとなると、からきし駄目なのだ。

だが将来的に多変数解析の発達を期待するとして、そのような調査の後、地元の漁協が中心になって違反者は許さない厳格な管理漁業を確立すべきなのだ。

沿岸漁業の場合、賢い指導者がいれば多くの場合実行可能であろう。生態学者による綿密な調査と予測によって、大漁も不漁もなく、市場価格の変動も最小限に抑え込むことができる。

考えてみれば「大漁貧乏」ほどばかげたことはない。漁民は獲ったものを市場で安く買いたたかれ、一方で膨大な水産資源の無駄を出している。管理漁業の最大のメリットは市場価格の安定と、息子や娘もあとを継ぐ気になれる生産の永続性である。

今までの自然からの「略奪」は一切止めなければならない。自然の食糧生産量は膨大だが、また一定でもある。人間の欲は無限だから、自然がそれに応じられるはずはない。人間の経済活動と利潤追求をこれに合わせては絶対いけないのである。

「安く、大量に」というスローガンは、食糧問題では禁句である。ガソリンと違う。「安定価格で、適切量」をモットーに進めていかなければならない。

追記

2004年はサンマが大量に獲れた。というよりは獲ったのだ。それも無計画に。何が起こったか?ばかばかしいほどの価格の低下である。サンマが一匹50円だ。これを喜んでいるのでは消費者としては失格である。

50円という値段は、「安い」ということではなく、誰ももう飽きて食べなくなったということなのだ。一方では貴重な森林をつぶして牛を育てるための牧草地がどんどん生まれている。これによっていかに資源が浪費され、来年へ漁獲が一層不透明になった。

きちんと生態学者が海にいるサンマの量をきちんと計算し、人間の食べる分はこのくらい、海の他の生物(大型の魚)が食べる分はこれくらいとはじき出し、これをきちんと実行に移していれば、こんなバカなことは起こらないのだ。

2000年11月初稿2004年1月追加

HOME > Think for yourself > 文明時評 > 漁業

© Champong

inserted by FC2 system