文明時評

きつね

ライフスタイルに関わる、偏見と独断に満ちた考察
いかなる点で日本はもうダメか

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バブルの崩壊以来、日本の景気は一向に上向きにならず、単に経済的な病(やまい)だけでなく、文化的社会的な問題が次々と吹き出してきている。少し世界の歴史を勉強したならば、ローマ帝国、ポルトガル、スペイン、イギリスなどが、それぞれの繁栄の絶頂からいかに滑り落ちたかを思い出すことだろう。

それらの前例を当てはめれば、日本が「アジアの病人」になるのはそう遠いことではなく、あと25年以内に現実化すると思われる。一国や一つの文明の成長は早いものだが、没落への道はもっと早い。

まず日本の経済面で見れば、本来世界中で進んでいる改革をためらい、これまでの負の遺産の処理を先延ばしにしてきたことだ。これは単に銀行の不良債権の問題ではない。官僚が旧来の支配体制をがっちりと握り、規制撤廃の波が来ると、あわてて日本経済の特色も考えもせず、いきなり他の国のまねをする。

会社や銀行があると、これまで蓄積した膨大な資金を税金から引っぱり出して、これを救済しようとする。これも効果がないとさらに資金を上乗せし、これがいつの間にか膨大な借金となって国民の肩にのしかかることとなった。だが経済面での没落は、戦後50年間の高度成長を楽しんできたのだから、当然起こりうることで、これを防ぐことはまず無理だ。

これを社会を担う個人の方へ目を向けてみると、実はもっと前から大きな変化が目に見えぬところで進んできたことが今になってわかる。1990年代が始まった頃、学校で飼っている小動物;ウサギやニワトリなど、が次々に惨殺される事件が相次いだ。海岸で足を切り取られた鳩が発見されたり、串を刺された猫なども現れた。だが警察はたかが動物だということでそれ以上深く追求しなかったらしい。

これがストレスに押しつぶされ出口のなくなった子供たちのはけ口だと早く気づいておれば、また別の手だてもあったことだろう。この状態は大人たちが気づかぬまま深く選考し、それが首を切ったり浮浪者を蹴って殺したり、小動物に対するのとまったく同じ手口で表面に現れてきているのである。

原因はいろいろある。だが江戸時代にだってあったはずのいじめが陰湿化することでわかるように、本来からあった人間性のひずみが管理社会と、テレビに代表される無益な情報の氾濫で増幅されてきているのである。

さらに悪いことには、日本がたまたま「豊かな社会」を実現してしまったことである。何もかもが便利になり、手作業とか手間を必要とすることがまったくと言っていいほど省みられなくなってしまった。そのため器用という言葉が死語になってしまったのだ。

自分で木を切ってきて犬小屋を作る、屋根に雨漏りがするから板きれを持ってきて修理する、お正月が近づいたから餅米を買ってきてふかし餅を杵でつく、自分の食べる野菜は自分で作る、道路に穴があいているから土を運び込んで平らにならす、等々、こういう当たり前のことができなくてもまったくかまわなくなった。

卵焼きすら焼けない、包丁が使えない、などとどう考えても病気としか言いようのないことが当たり前になっている。手がジャガイモのように不器用でもまったく心配することがない。便利な情報機器はちまたにあふれているが、その基本動作はまったくわからなくとも、操作には巧みになれる。

「豊かな社会」では医学の進歩のおかげで、蚊もシラミもいない世界が実現しようとしている。もともと清潔好きだった日本人が逆性石鹸や中性洗剤を手にしたとき、究極の目標は無菌世界となる。そこでは強力な免疫力はいらない。すべて薬によって不調を回復させることができる。

現代日本の不幸は経済力の低下と、すでにこの豊かな社会に生まれすっかりそこで適応してしまった新しい世代の人間の出現が「一致」してしまったことにある。歴史的にこのような組み合わせは前代未聞である。

経済的に低下しても、柔軟でハングリーな世代がそろっておればその国は息を吹き返す希望がある。国民が意気阻喪していても、面倒見のよい大国がパトロンになってくれればそれなりに繁栄するかもしれない。ところがこの国の絶望的な点は、そのいずれにも恵まれていないことである。

世界的に有名な日本産の自動車会社、コンピュータ、その他の競争力のある企業は、どんどん外国の若い力を借り、本当の意味での多国籍企業にならなくてはならない。国内からの優秀な頭脳の供給は、質が次第に低下してゆく傾向にあるからだ。

一方中小企業は、これまで専門的で熟練した技術者のおかげでこの国の産業を支えてきたが、国の助成もなく、忍耐力のある若者の減少により、今や危機に瀕している。これまた外国からのハングリーな若者を呼び寄せて訓練したいところだが、物価も高く飽和感のある日本社会の中で働くより、技術を身につけたら故国に戻って成長の手助けをした方がいいと考える者は増えていくだろう。

この最悪のシナリオに、高齢化社会が重くのしかかる。これは他の産業の高度に発達した国ではどこでも経験することだが、独創力や柔軟な思考がますます要求される現代にあっては、最も大きなハンディキャップとなる。

このような悲惨な未来に手をこまねいて待っているしかないのだろうか。教育も、制度改革も効果はないのだろうか。誰か有能な政治家が一気にこの状況を打開してくれないだろうか。「この国には何でもある、希望を除いては」と言われるような状況に・・・

問題になっているのは、人間の資質の低下である。方法は新しい血を入れるしかない。日本特有の甘やかし親やテレビや管理社会に汚染されていない若い労働力の導入だけだ。日本の人口の比率のうち、25パーセントが外国生まれによって占められるようになれば日本は変わる。

日本文化の破壊を危惧する人がいるかもしれない。だが魅力のある文化遺産は残るはずだ。生き残った文化は、新しい日本の多国籍社会の中で新たなる文化を生み出すかもしれない。

貧しい農村に生まれ、一旗揚げようという希望を持つ若者が、自由に日本に入り、住み着くことができれば、きっとこの社会は活性化するに違いない。やってくる側も受け入れる側もはじめは文化の衝突にとまどい、しばしばそれは深刻な事態を招くことはあっても、社会の流動化の増大は、必ずいい結果を生むであろう。しかも日本の人口はこれから減少をたどり、50年後には半減するという説もあるくらいだから、それを補うにも適切な手段だといえよう。

もっとも,この案は外国人になじめない日本人には無理だという説もある。関東大震災の時に朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだという噂が流れ、多くが虐殺されたことを考えると、民族間の摩擦が社会危機に至る可能性もある。

ただし、日本人の名誉のために言っておくと、フランスでのアルジェリア人、イギリスでのインド人、ドイツでのトルコ人、いずれも似たような状況になった。つまり、少しでも社会の不満がくすぶると、真っ先に新参者にその矛先が向けられるからだ。どの国の国民も、良い人もいれば悪人もいるというごく当たり前のことが通用しないことは歴史が証明している。

もしこのままの状態で、対症療法しか打つ手がないとすれば、この国の運命はもう定まってしまっている。しかも昔なら「国破れて山河あり」となろうが、今この国がつぶれれば「国破れて谷間にはゴミが、地中には放射性廃棄物あり」という、取り返しのつかない未来を待つだけなのである。

2001年2月初稿

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