文明時評

きつね

ライフスタイルに関わる、偏見と独断に満ちた考察
インターネットのあるべき姿

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1973年にインターネットが発明されてから、またたくまに世界中に広まったが、その便利さと、他の通信方式を上回る簡便さが、20世紀最大の発明のひとつに数えられていい。

ただこの応用がどのような方向へ向かったが問題であった。オリンピックを思い出すと、かつては厳格なアマチュアリズムが支配していたスポーツの世界だったが、今や選手は動く広告塔となり、能力があるということは多額の収入を得るプロになるというのが当然となってしまった。今やオリンピックでアマチュアリズムの声を聞くことはまったくない。死語となったのだ。

同様にインターネットの応用方法が考えられたとき、時は商業主義のまっただ中だった。しかし一つ特筆しておくべきことは、このシステムを発明実用化した人々は、特許料とかライセンスを受け取っていないと言うことである。

この世界での偉大な発明や思いつきは、しばしばまったくフリーで人々に公開する場合が多く見受けられる。これが人類共通の財産、ちょうど空気や水と同じだからということだろうか。

世界中の人類活動が、全て商業主義化し、誰もが金儲けに必死になってそれ自体が人生の目的になっているとき、まったく無償でそのアイディアを公開することは実にすがすがしいことだ。そうでないと、あのダイナマイトを発明したノーベルのように、自分は巨万の富を得ても、それが人殺しに使われた後ろめたさで、ノーベル賞でも残さないと気がすまないことになりかねない。

やはりインターネットは無償の情報機関であるべきだ。人々が自分の主義首長を思い思いに発表する場が与えられるべきだ。プロバイダーに払う実費は仕方がないとしても、それ以外には基本的に、山で大声を上げるのが自由であるのと同様に、すべての人々に情報発信の権利が認められるべきである。

これはいまだに厳格な中央集権や独裁体制にしがみつく政府を揺るがすには素晴らしい手段だし、実際これによってこの十数年には大きな変化があった。国境も検閲もお構いなく通り抜けてしまう、これがインターネットのもっとも素晴らしい点だといえる。

だからこそ、これを手段にして金儲けをしようとした連中が、うまくいかないのは当然だといえる。つい数年前まで、人々はネットによって大金が儲けられると勘違いして、ネット事業に殺到した。投資家もそう信じて事業を始める人に気前よく資金を提供した。これで株価が異常に上がったが、これはただ資金が集まったというだけで、別に収益があったという印ではない。これを無知な人々は儲かっていると勘違いした。

勘違いの一つは広告の可能性。雑誌や新聞と同じように広告を出せば、これを見て買う人が増えるという期待のもとに、同じようにネットに広告を掲載したのはよかったのだが、コンピュータのせまい画面では、新聞の3行広告程度のインパクトしかない。ましてやそこをクリックしてまで詳しく見ようという人はごくわずかで、たとえそのような広告が存在しなかったなら、自分で探して情報を得ていたことだろう。

つまり広告の効果は従来の媒体に比べて、人々の長期的な注目を集めないということなのだ。新聞であれば、一日のうちに何度もその同じ場所を目にすることもあろう。ところがネットの広告は次々とサーフしてゆくときの点景に過ぎない。テレビのように繰り返し視聴者の深層心理をくすぐるという芸当もできない。

かくして広告の効果が怪しくなってきたあたりで、これが積極的な金儲け手段としてはあまり熱意を持ってみられなくなってきている。これから先、誰かが手を引けば、その連鎖反応は、全体の広告の大きな退潮を招くことだろう。もうすでに始まっているという人もいる。

次にネット商売が脚光を浴びた。店舗もいらない。通信販売につきものの分厚いカタログもいらない。人々はボタン一つで注文を出しすぐに希望の品物が届くと宣伝された。

ところが実際やってみると、豪華な写真と対面できるカタログと違い、パソコンの画面では、今ひとつ買いたいものの実感がわからない。注文を受けてもすぐに配送するためには自分のところに巨大な倉庫を持って常に在庫を抱えておかなければならない。在庫を抱えるのがいやならば国内各地に待機する連絡所を持ち、それらと常に緊密な連絡体制を取っていなければならない。

そして最後にこれを梱包し、運送会社に頼んで注文者の自宅まで無事とどけなければならない。もし途中で破損があった場合を考えて保険をかけておかなければならない。そしてそれらすべてを円滑に勧めるためには、多くのスタッフがきちんとした管理体制を、昼夜分かたずとっていなければならないのだ。

このために膨大なコストがかかり、結局採算がとれそうもないことが今やってみてはっきりしてきたのだ。つまりインターネットは巨大システムが管理して押し進める体制には向かないということ。代わりに個人の小規模な1対1のような取引には最適であるということだ。

だがすでに投資した膨大な資金は早く取り返さなければならない。思い切りの悪い投資家たちは、いつか黒字転換する日を夢見て、今日もネット商売にしがみつく。

インターネットは小口の情報交換には最高の効率を発揮する。また、普通の人が求めないような特殊な製品の少量取引にも向いている。例えば「青汁」などは、飲む人の数も限られ、製品も大量生産というわけにもいかないから、日本中のスーパーの棚に置いたり、ましてや代理店を置くような場合よりよっぽど小回りが利く。

書籍にしても大勢の人が買うような雑誌やベストセラーは、書店で見て買ったほうがよい。ごく専門的な希観本や限定出版のものに関してのみ、ネット販売が威力を発揮する。またまったく無人の荒野に住む人に配達する場合などだ。

「不用品交換」もネットは有望な分野である。なぜなら基本的に、この取引は個人間で行われるからだ。仲介したサイトが手間賃を取るのは致し方ないが、そのうち無料で利用できるようなシステムを誰かが開発することだろう。

インターネットが、マスメディアのように一つ上の「発信所」から一方的に情報を配るシステムとは根本的に違う以上、これをマスメディアのように利用しようというのがまちがっている。何しろ「網の目」なのだから。極言すればインターネットは商業主義にはなじまない、本質的にアマチュアリズムの道具であり、またこれからもそうあるべきなのだ。

2001年2月初稿

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