文明時評

きつね

ライフスタイルに関わる、偏見と独断に満ちた考察
薬を買うのを止めよう

HOME > Think for yourself > 文明時評 > 薬

今の平均的日本人にとって、「薬を買うのを止める」というのは、日本が今すぐ沈没する、というのと同じくらい考えられないことである。それほど国民的生活の中にすっかり「薬」というものが定着してしまっている。

この状況は、アメリカ合衆国や韓国にはかなわないかもしれないが、昔から「越中富山の薬屋さん」で知られているように、伝統的な薬好きは今に始まったことではない。

新聞やテレビコマーシャルに登場する薬の宣伝の華々しさ、頻繁に現れるその回数を見よ。考えてみれば、製薬とは、分量的にはごくわずかな分量しか作らないので、農業とか製鉄と違って、巨大なトラックで運送する必要もない。1トンも作れば、それを日本中に配布することができる。

その身の軽さも手伝って、きめこまかい宣伝が製薬会社の生命線となった。だから人々が喜ぶような、元気が出そうなコマーシャルをすっかり記憶してくれるまで繰り返すことによって、日本人の「健康不安」に便乗することができたのである。

ヒットラーの有名な言葉に「小さなうそではだませないが、大きなうそは誰も疑わない」と言う通り、日本中が薬、それも国家のお墨付きとあらば、誰もその効果を疑わないという製薬会社にとっては実に都合の良い状況ができ上がっている。

しかも日本人は元々忙し好きである。「さよなら」と言う代わりに「がんばってね」という言葉が多用されるくらい、この国では「努力すること」「根を詰めて苦しさも我慢すること」が尊重される。

だが、日本人もスーパーマンではないから、時には、いやしょっちゅう体調を崩す。日本の夏は湿度が高くて、アフリカ人もびっくりするほど耐え難いし、冬はその場所にもよるが、予想以上の厳しさがある。

だが、日本人は大昔から「やせ我慢」をすることが美徳とされてきた。だが、時には本当にしんどいこともある。しかもそれを周りの人に感づかれるのが辛い。どんなに酩酊しても酔ってないふりをし、どんなにストレスでガタガタになっていても、どこ吹く風と言った風情でいたいのだ。

このときにその辛さを一時でも忘れさせてくれる薬があったらどんなにいいだろう。人々がドリンク剤や強壮剤に飛びついたのもこのような文化的背景があったからだ。

かくして、医者の処方のいらない売薬の売り上げは、国家の経済の屋台骨を支えるほどにもなった。だが、その裏には利益を第一に考える人々がうごめいている。

「プラシーボ」という言葉がある。「偽薬」だ。新しく開発された薬の実質的効果を試すために、全くその問題となる成分を含まない、例えばうどん粉でできた固まりを患者に、本物だとだまして飲ませる。

心理的効果とは軽度の病気の場合は、実に大きな影響を与えるらしい。それはガンとか肝臓病もプラシーボで効くと言ったら、その非科学性を糾弾されるだろうが、ちょっとしたストレス、疲れ、悩み、鼻風邪ぐらいであれば、心理的にいやされれば、実に効果的だということをわれわれは経験的に知っているはずだ。

これが実際の売薬に応用されている。その薬は価格が高ければ高い程よい。ちょうど家庭教師の授業料と同じで、高い方がありがたいのだ。しかも世の中には、この種の暗示にコロリとだまされてしまう人の方が多い。

例えば風邪薬。これを飲む人は、体重25キロにもならない小学校低学年の女の子から、太りすぎの120キロにもなるサラリーマンまで、「普通の人々」を対象にしている。だが、これほどの幅の中に、単一の薬、いわゆる大衆薬がすべて効き目をあらわすものだろうか?

体重だけではない、人々の体質には驚くほど多様性がある。アトピー性の者、わずかな物質でアレルギーを起こす者、大量の毒物を飲んでもまったく変化を生じない鈍感な者。

人間の体内ではビタミンCは作れないことになっているが、突然変異とやらで、大量に生産できる人も、この地球上にはきっといるはずだ。サーカスで、燃えさかる火の上や、鋲の上を歩いても平気だったり、ガラスの破片の飲み込んでニコニコしている人もいる。

こんなに変異の多い「人類」を相手に、効き目のある薬を売り出すこと自体が、非科学的で、場合によっては詐欺行為となるのではないだろうか?しかも、その効き目も、逆にインチキ性も、誰もが納得ゆくように証明することができないのが現状だ。証明するにも、「変数」が多すぎて、人間の単純な頭では解を出すことができないのだ。

学者の客観的意見が人々の生活に正確に反映されない例もかなり多い。例えば「塩分」。ナトリウムが多すぎると高血圧になりやすいから、食事は「減塩」を励行しようと、大々的に騒がれた。各食品メーカーは、「減塩食品」なるものを従来の製品に付け加えて、十分に利益を得たはずである。

だが、一日中ソファに座り込んで汗一つかかず、ファミコンやテレビの画面を見つめている人々(これが圧倒的に多いのは事実だが)と、炎天下の畑でキャベツの収穫をして、一日に2リットル以上の汗をかいている人々と、同一に論じることができるだろうか?

汗は、多量の塩分を体外に出してしまう。料理で塩分を取りすぎたかなと心配な人は、食物に含まれる塩分を減らして料理の味を落とすより、食後にサウナに入った方が賢いのでは?

塩は、不足すると、だるくなり体の新陳代謝が低下する。大岡昇平の「野火」という小説では、太平洋戦争の末期、主人公がフィリピンの無人の町で見つけた塩の固まりを持っているのを、仲間が見て小躍りする場面がある。まるですべての人々が同じく高血圧になりそうなように宣伝するのは許せない。

話を元に戻すと、それでも薬は売れ続ける。夏の暑い日、高速道路のサービスエリアにある自動販売機の前に10分立ってみるとよい。驚くほど多くの人々が、テレビでおなじみの名前のドリンク剤を買い求めてゆく。これらは(わざとなのか?)100ccぐらいしかなく、のどの渇きをいやすにはほど遠い。同じ値段で、350,いや500ccの飲み物だって買えるのだ。

人々は「効くかもしれない」が与えてくれる安心感に金を払う。「安心感を買うのだ」、そう割り切るならば、一つのまともな商売になるかもしれない。だが、賢明な人は、風邪薬より、「卵酒」を、強壮剤より、ニンニクのたっぷり入った餃子や、青野菜をたっぷり取ることを選ぶだろう。

そして、それでもとても直りそうもないと思ったら、仕方がない。医者の処方した薬を飲むことだ。だが、最近の医者もほとんど大衆薬と変わらないものを出しているから、相当重症になった場合に限る。それでも現在の医者の処方が、患者の体重、体質、病歴、薬に対する感受性などを綿密に考慮して投与されているといえる例はまだまだ少ないのだ。

まず第一に、たとえ素人であっても「薬」に対する信仰を捨てること。薬は「効く」ものではなく、「もしかしたら効く可能性があるかもしれないもの」としっかり認識しておくことだ。

2001年8月初稿

HOME > Think for yourself > 文明時評 > 薬

© Champong

inserted by FC2 system