文明時評

きつね

ライフスタイルに関わる、偏見と独断に満ちた考察
「研ぐ」「絞る」「削る」は
死語になったか?

”面倒くさい”はボケの始まり

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私の爺さんは、酒屋をやっていた。とはいっても昭和30年代に老齢で店を閉じるまで、地方都市の郊外に店を構えており、しかも裏には広大な畑も持っていたから、何でもやらなければならなかった。

酒を保管するためには、風通しのよい、夏には涼しい倉庫を造らねばならない。これは自分で作った。近くに店があまりなく、自分の店が代わりに他の食糧を供給することも期待されたくらいなので、自分で野菜を栽培し、鶏を飼った。トリ小屋はもちろん自作である。

盆暮れになると、酒だけでなく、お菓子も作る。饅頭や餅菓子の類だ。臼と杵を手に入れて、自分でつき、それを婆さんといっしょに、夜遅くまで手で丸めてあんこを入れて大量に作った。

いくら酒屋でも、客が多いから自分の庭を汚くしておくことはできない。爺さんは普通の農家と比べて恥ずかしくないように、庭を整備した。生け垣はもちろんのこと、松や観賞用の木を脚立を使って綺麗に切りそろえ、植木屋に負けない整え方をした。

野菜は自給である。自分のくみ取り便所でたまった屎尿を畑の真ん中の糞溜めに運ぶ(そのころは田舎の香水と呼ばれていた)。夏の暑い日差しは、そこから水分を取り去り、しばらくすると格好の肥料になった。これを桶に汲んで、肩に担ぎ、畑の畝に撒いていった。

几帳面だから、雑草は一本残らず徹底的に抜いた。タネがいいのか、土がいいのか、爺さんの作る野菜はどれをとってもすばらしいできだった。特にトウモロコシはうまかった。

裁縫は婆さんがやるはずだったが、目が悪かったために、多くの服は爺さんが縫った。当時の簡素な着物だが丁寧な縫製で、ほころびても、たちどころになおしてしまうのだった。

飼育動物は、ニワトリだけだった。庭に放し飼いにしておけば、落ちているトウモロコシなどを勝手についばんで、一家に困らないだけの卵を産んでくれた。もちろんある程度成長すれば、爺さんが自分で絞めて久しぶりのチキン料理となる。

大工仕事は、実に正確だった。裏に立てかけてある木材のなかで、目的にかないそうなものを見つけると、早速それを引っぱり出してきて、墨をしみこませた糸を木材に張る。直線が描かれると、少しもはずれずに鋸を当てることができるのだった。何ができるのかと待っていると、半日もしないうちに、小屋とか、屋根とかができあがってしまうのだった。

地方の中都市での交通機関はもちろん自転車だ。ブレーキは、今のように手で握るのではなく、ロードレーサーのように、ペダルをうしろ向きに回すと効くようになっている。前には大きな籠が付いていて、小さな女の子ならすっぽり入ってしまう。当時まだ舗装されていない、馬糞の散らばる埃だらけの道を、時にはリヤカーをうしろにつないで、爺さんは買い出しや、参拝などに出かけていったのだ。

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今、こんなにたくさんのことをこなせる人はどこにもいない。当時は、スーパーマンのように、なんでもひとりでできたのだ。当時、特に田舎では分業という考えがなかったから、誰でも少なくともこれ位を日常生活でおこなうだけの能力が必要とされたのだ。

このことを当時の人は当たり前だと思っていたし、小学校しか出ていなくて、読み書きとそろばんができるだけでも、生活能力はきわめて優秀だったのだ。しかもどこへでも自転車か徒歩ですたすた出かけてしまう体力も見落とすことができない。

それが今ではどうだろう。ナイフや包丁は切れなくなると、「研ぐ」べきだが、研ぎ器があるし、大量生産の安物は直ちに使い捨てだから研ぎ石の出番がないのだ。だからしっかりと角度を決めて、ていねいに刃の面を往復させるなどということは、現在の日本の家庭ではまったくあり得ない。そもそも包丁のない家庭が少なくないのだから、まったく話にならない。

洗濯物は「絞る」必要はない。すでに昭和30年代にはローラー絞り器というものがあったし、現在では遠心脱水機のほかに、熱で乾燥させるものがいくらでもある。手で握って雑巾を絞ろうにも、握力がなくなっているから水は少しも出ていかない。だらだら水の垂れるまま物干しにでもぶら下げておくか。

今、一体何を「削る」のだろう?鉛筆か?ナイフで均等に鉛筆の先を削り、芯をとがらせる人がいるだろうか?いや今はシャープ・ペンがあるからそんな問題は一切生じない。悠長に削っていたりしたら、勉強のじゃまになるとママに怒られる!カツオ節を削るか?削り器を使うだろうし、そもそもそんなものはあらかじめ機械で削って売っている。いや何とか食品会社の「ダシの粉末」が売っているじゃないか?竹ひごも、箸も、木材も、もはや削るものがまわりになくなった。

私の爺さんの時代からまだ50年もたっていない。それでもこのような大きな変化が起きた。これが「進歩」だという人がいれば、犬に食われるであろう。ただ、それぞれに費やされる時間が短縮されたと言うことだけだ。そしてその余った時間をテレビなんかを見て過ごしている。

爺さんの例で見てわかるように、人は個人差はあるが誰でもレオナルド・ダ・ビンチのような万能になれるのだ。みなその素質を持っているのだ。なぜならば、人間の大脳皮質には、手をコントロールする部分がものすごく大きくあり、これで一切の複雑な作業をやり遂げてきたのだから。

「研ぐ」「絞る」「削る」などを死語にした便利さは、人間を愚鈍にしたというほかない。さらにもっと高度な活動に余った時間を振り向けるとすれば話は別だが、そうはならなかった。一日24時間のうちにできることなど、たかがしれている。これまで、何百年、何千年と続けてきたことが、わずか50年ほどで変更できるはずがない。

これからもますます多くの手を使った表現の動詞が消えてゆく。人間はますます馬鹿になってゆく。一方で、専門化した発明家たちが自分たちの得意な分野での開発を一層進めてゆくだろう。

しかも恐ろしいことに、若い世代に、かつての器用だった時代がまったく伝わっていない。若い世代は、人間がそんなに器用になることができるなどとは夢にも思わずに一生を送るのだ。情報が豊かなはずのIT 時代における文化の断絶である。皮肉な言い方をすれば、現代文明は人間を馬鹿にするために日々研究にいそしんでいるのだ。

残念ながら、今のところ人間には、新しい機械や道具類を手に入れたとき、それを「使いこなす」知恵はない。知恵がないと、ただその便利さに依存するだけで、みずからの能力が向上するといった発展はあり得ないのだ。

このままだと人間の能力が衰亡する一途だという説は、この状況が説得力を与えている。この現象は日本だけではないだろうが、もともと日本人は手先が器用だと言われてきただけあって、その落差は目を覆うほどである。

この状況を救うには二つしか方法がない。一つは子供をロビンソン・クルーソーのような状況に追い込んでしまうような大災害が起こるのをひたすら待ち望むか、または徹底した教育カリキュラムで、小さい頃から訓練するかのどちらかだ。

だがいずれの方法も非現実的だ。そもそも人類には、みずからを次第に家畜化してゆく傾向があったわけだから、その行く手を阻止することはできないのかもしれない。固いものを噛む力がどんどん弱まっているのはそのいい例だ。

つまり人間の大脳に備わった、技術的発展能力は、どこかで袋小路になることは前もって予定されていることなのかもしれない。そうならば、一体人類はなぜ、100万年前、アフリカのサバンナで2本足でわざわざ立ち上がろうとしたのだろうか?

2001年8月初稿・2002年7月増補

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