文明時評

きつね

ライフスタイルに関わる、偏見と独断に満ちた考察
なぜ消費の増大なのか?

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世界的な不況が、テロ事件と共に各国を襲う。だが、これまで10年近くもアメリカは繁栄を享受してきたのだから、そろそろ景気が息切れを起こし、下降傾向になるのは当然であろう。

ただ気になることは、IT革命だ、これまでの産業の変化が根本から変質を遂げたといいながら、実際には昔ながらの景気と不景気の波を逃れることができなかったという皮肉である。

しかも、この数年間は、各企業は、みずからのスリム化、効率化を極限にまで切りつめたのではなかったか?コストを切りつめるために在庫を最小限にしたりした。にもかかわらずこのように、企業活動が停滞するということは、いかに企業そのものもつ構造がもろいかを如実に示している。

しかも最先端の技術を誇りながらも、トップのやっていることといったら、100年前と何ら変わらず、それが有能な人であればいいが、いったん無能な幹部が居座れば、その会社は、一番下っ端に至るまで解雇の苦しみを味わなくてはならない。

しかも人材の流動性が高まったといいながら、相も変わらずその責任をとる部署にいる人間の無能さが目立っている。半世紀前の「ピーターの法則」、つまりいかなる企業でも階層性を持つ限り、いつの間にかその部分は能力が十分でない者の出世によって占められるという経験則がしっかりと通用しているのだ。

そして現在、経済が左前になったときの、救済策は何か?減税か?利率の引き下げか?金融緩和か?公共事業を増やすことか?いや、そんな対症療法は、経済学を専攻する大学1年生でも思いつく。

しかも、グローバリゼーションと規制緩和は、すでに極限にまで押し進められてある。皮肉なことに、まだ「規制」が残っておればさらに規制を解除して活性化を図るという手はあるが、もう規制するものが残っていないのだ。

企業も贅肉を徹底的にそぎ落とし、これはちょうど、暑いからと言って手持ちの衣服をどんどん捨て去り、熱い間は薄着で快適に過ごしたものの、いざ寒さがぶり返したときに、着る服がなくてふるえているようなものである。

イギリスのサッチャー首相やアメリカのレーガン大統領は、その衣服を捨て去って身軽になる時代に生きたから、まわりから賞賛され先験的な政策を進めていると、各国がマネをしだした。

ところが、気の毒なことに21世紀最初のアメリカの大統領は、ちょうど景気後退の時期にさしかかってしまい、今までの調子良さはまったく通用しない時代に悪戦苦闘せざる得ない状況にある。

効果的な救済策はないのか?ある。それはどこの経済担当者もが行っていること、つまり「消費を再び拡大すること」だ。アメリカも、日本も、ヨーロッパも、少しでも景気が下向きになれば、最終的な解決策はこれしかない。その他の小手先の対策では、一時的な効果しか期待できないのである。

「消費の拡大」とは何か?つまりそれは個人個人が、せっせと車や住宅を買い、どんどんエネルギーや、資材を「浪費」することである。貯金をせず、早くものを手に入れるためには、ローンを組んでもどんどんものを買うことである。

消費文明のうま味に気づいた中国などでは、放っておいても人々はモノを手に入れるために、せっせと働きどんどん消費する。だが、先進国ではまったく事情が違うのだ。

すでに車は1台目は手に入れ、2台目もあり、3台目が必要かを考えている段階だ。住宅は土地さえ安ければ、すでに持ち家を多くの人々が手に入れている段階である。電化製品に至っては、このIT革命のおかげで、ある水準以上のコンピュータ関係の設備はほぼ一巡したし、冷蔵庫やテレビ、エアコンなどに関しては、買い換え需要しか存在しない。

先進国の人々の物質生活は、一応「飽和点」に達したといえる。広告業界は、もっと工夫を凝らせば、人々の欲望を肥大させることができると信じているようだが、すでに「消費疲れ」の兆候も見て取れる。この10年あまりの好況の間に人々はたくさんの借金もしているのである。これをまず返済せねばならない。

しかも物質や食糧が有り余る状況が、必ずしも幸福に結びつかないこともすでに体験しているから、ここに来て思い切った投資をするような品物はそう思いつくものでもない。

企業の生産活動も、消費が止まれば、減産に向かわざるを得ない。それは多くの場合首切りと、活動の縮小を生み出すから、国全体の規模からすれば、経済の縮小が間違いなくやってくる。

日本の場合、規制緩和の遅れと、公共企業に頼りすぎという特殊な事情があるが、アメリカやイギリスでは、すでにこの二つの障害は乗り越えたあとである。従って、彼らにしてみれば、客がもっと多くを買ってくれることを期待する以外にない。

だが買いたくないのを無理に買わせることはできない。たとえ魅力的な商品が現れたとて、パソコンのような世界全体を潤すような商品が早急に現れるわけはない。

世界の先進国の経済活動は、意外にも、資源の枯渇より、消費者の消費意欲の枯渇によって袋小路に入り込んだのである。これは、まだ日々の食糧さえままにならない人々から見ると、実に滑稽な状況だが、少なくとも技術だけはあってアメリカへの輸出でもって今まで持ってきた中進国にとっても深刻な打撃である。

今までのように、個人消費に頼った経済はいよいよ終わりを告げようとしている。個人が節約に励み、消費を最小限に切りつめることを大多数が実行するようになれば、その国の経済が壊滅するようでは、その根本が間違っていたことになる。

経済が繁栄するためには、われわれは得た収入をせっせと、消費・浪費に回さなければならないのか?節約やケチな生活は、非国民になるのだろうか?それならいっそのこと収入を減らしてもらったほうがよいのではないか?いかに我々の生活が今の経済体制にがっしりと組み込まれてしまっているかがわかる。

今こそ、つまりこの21世紀初頭こそ、この個人消費頼りの経済を順次廃止するべき時が来た。冷戦時代に自由主義経済と呼ばれていたものは死んだ。共産主義国家の大部分が、その政策に破綻を来したとき、資本主義経済が、そのあとを受け継ぎ、いつまでも人類の繁栄を支えると思いこんだ人も少なくなかったはずだ。

ところがその夢は、ベルリンの壁崩壊後、30年も立たぬうちに行き詰まったのである。人間の欲望の本質を見極めず、この事実を真っ正面から認めようとしない経済学者や経済評論家が今のところ大多数だが、すでに次の経済体制について見通しを持っている人もいる。

その具体的内容は未だにはっきりしてはいないものの、利潤、生産、消費のいずれにおいても「増大」を目指すものであってはいけないことは確かだ。そういわれると従来のような「停滞経済」しかないようだが、成長できないために停滞するのではなく、地球の大きさや資源量、人間活動の許容量から産出した範囲内に押さえ込むことを意味するのだ。

だが、破滅の時期は刻々と迫り、そもそも人類にとって22世紀など存在しないといっても少しも暴論とはならないときが目の前にあるのだが、それを見通している人は少ない。

当面可能な解決策は、消費を減らすことである。もしくは法制的に消費を無理矢理減らすことである。そして最も大事なことは、企業の体質を拡大ではなく、現状維持でもって長持ちさせるような方向に持って行かねばならない。

例えば今のアメリカ人はインド人の6倍近い量の食糧を消費し、国民の3分の1近くが肥満だといわれているが、インドの状況をもっと改善するためには、アメリカの消費量を減らす以外に手だてはない。地球は1個しかないのである。

同様に中国の人々が、現在のアメリカの生活程度を全員が享受することは、まさにSF小説の世界である。その水準を維持するためには、他の国民は全員餓死しなければならない。

このようなはっきりした現実を直視せず、明日の企業の株価の上下しか、多くの為政者は見ていない。経済学の研究者も、主流からはずれることを恐れて、そのようなこを口に出す人はほとんどいないのだ。

2001年9月初稿

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