文明時評

きつね

ライフスタイルに関わる、偏見と独断に満ちた考察
自由市場の欺瞞

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アメリカが鳴り物入りで、1990年代から押し進め、世界中に広めようとしているものに、グローバリゼーションに伴う、自由市場、自由競争のキャッチフレーズがある。世界中は、その言葉の魅力に惹かれ、どの国も表向きはこれを積極的に取り入れようとした。

そして今、このブームが世界中の「開けた」国々をとりあえず一巡し、その成果がようやく目に見えるようになってきた。そろそろ自由市場について総合評価を下すべき時が来たのだ。

これまで閉鎖的で、物資の流れがほとんどなかったが、地元の人々が豊かな生活にあこがれていた地域では、自由競争は歓迎された。政権を担当する政府は競ってこれを取り入れ、自国の経済の活性化を信じて疑わなかった。

しかしどんな場合でもそうだが、自由放任も、強力なコントロールも、いずれの極端も人間生活にとっては不幸な結果をもたらすことは長い歴史が証明している。自由競争の原理も結局は、歴史の法則に従うことになった。

これまで、フランスなどではかつて Laisser Faire 政策が実際に試みられ、文字通り「やりたい放題」の社会が出現して少なからぬ混乱が生じた。幸いこれはフランス国内の問題にとどまっていたために、すぐさま時の政権によって政策の方向転換がおこなわれ、今では小さな歴史的エピソードとなっている。

だが、これが世界的な規模でおこなわれると、その影響は深く広く及び、悪影響のもたらす損失は甚大なものになる。現在アフリカ、中東、中央アジア、南米のかなりの部分が貧困に悩み、世界市場が現在のように展開する前から、すでにはなはだしい国と国との間の貧富の隔たりが存在していた。もちろん世界の富の頂点に立っているのは、冷戦が終わってからは特にアメリカ合衆国である。

世界的な自由市場を実際に広めることを言い出したのは、アメリカだった。しかしなぜかは、今になってみれば当然わかる。自由市場の展開によって最も利益を受けるのは貧しい国々では決してなく、アメリカであることが明白になったからだ。

もちろんアメリカに続く多くの工業中心の国々も利益を受けたが、すでに多国籍企業を多数抱えていたのがアメリカだから、世界の市場に一番乗りして、利益を吸い尽くす準備はずっと前から整っていたのである。

自由市場における、最も期待できる点は、競争し合うことによってお互いが切磋琢磨され、相手よりもよりすぐれた性能を持ち、より安くできる商品が生まれるために、消費者が大いに利益を受けることだと言われる。確かにこのことは、この20年ほどの間の自動車の開発については、教科書に書いてあるかのように当てはまってきた。

だが、この思想を最初に提唱したのは、実はビジネスマンたちではない。アダム・スミスたちに代表されるようなイギリスの学者たちである。彼らは日常生活において、利潤を追求しているわけではない。彼らが自分で商店を経営したという話も聞かない。このことは彼らの発想が、学者としての客観的で無私の精神が通用する世界でこの考えが生まれたことを意味する。

これを立場を変えて言えば、ビジネスマンたちにとっては、望ましい市場の形態について、また違った受け取られ方をしてきたといえる。それまでの商習慣は、和を好む日本人たちは、談合というシステムを作りだし、ヨーロッパ人たちはギルドを作り、また貿易にをする場合には、関税を自由にかけて、それぞれの利益を守る方法を古代から作り上げてきた。

つまり、一口で言えば、商人たちは、自分たちで自由貿易を推進しようという機運は一つもなく、むしろ逆に既得権を守るために、中に閉じこもるという逆の方向に進むべく工夫してきたのだといえる。

実業に取り組む人々の本音は、決して自由な競争ではない。それは体力を消耗するだけでなく、常にプレッシャーに曝され、競争相手につぶされる恐れで夜も眠れない。こんなことが長く続いたら、腰を落ち着けて長い間に熟成されるような商品を作ることなど思いもよらない。四半期の、いや悪くすると今週の売り上げさえ達成できればそれでよいという短期的な展望にのみ経営が縛られることになる。

実業家たちは、実は競争を「減らし」たいのだ。その一つにシェアの獲得がある。とにかく今の経営の収支は犠牲にしても、業界の中でのシェアを増やし、自分たちのなわばりを作ることに心血を注いできた。そのためには、どんな膨大な広告費をかけても、どんなにさしあたりのコストがかさんでもかまわないのだ。

また、「談合」は、競争を避けて安定した経営を望む複数の経営者たちが、自然発生的に作り上げてきたものだ。談合に加わった者同士は、相手への一定限度以上の挑発を避け、また談合に加わらない業者は排除し、最終的にはその業界に新規参入が出てこないように敷居を高くする。

アメリカ人たちはその国民性から談合は好まないようだが、そのかわり「買収」をおこなう。特に「敵対的買収」は、露骨に自分の競争相手を買い取るので、まるで自分より大きい相手を飲み込んでしまう蛇のようなものだ。また、「合併」「吸収」のように、少なくとも表向きは相互の合意にも続くと思われるのもある。

これらの動きによる弊害があまりに大きくなったために、ついに「独占禁止法」が登場した。独占によって消費者の選択の幅が狭まり、価格が上昇するという、およそ自由市場の求めることとは逆の方向に進みだしたために、各国政府はあわてて法規制を強めざるを得なくなったのだ。一連の法律は一時的には効果を発揮したが、そのうちザル法に変質し、名ばかりの規制策となって現在に至っている。

労働組合も、自由競争の名の下にその力を弱められた。それも、ならず者をピケに動員するような粗暴なやり方ではなく、労働組合ががんばっていたのでは競争相手に勝てないのではないか、という従業員の恐怖感に訴えた巧妙な論理である。かくして労働組合は多くが「自主的に」その要求を軟化させ、それが組合員の減少を引き起こし、すっかり企業側に取り込まれてしまった。

このように放っておけば、ビジネスマンたちは自然に競争を排除する方向へ動くの自然なのだ。自由市場が自然なのではない。それは理想的な競争状態を夢見たユートピアなのだ。もちろんこの世でのその実現は不可能だし、実現の方向に持っていくことすら、ビジネスマンではない人々、たとえば法学者や公正な政治家たちの不断の努力がなければ、たちまちのうちに霧散してしまう性格のものである。

ここでもう一度、アメリカが最初に自由貿易主義を唱えだしたことを考えてみよう。彼らがこれを言い出したのも、一番先にこれによって利益が得られると直感したからに他ならない。アメリカ以外の地域で、アメリカの資本力、経営力に太刀打ちできるところはほとんどない。ということは、真空の中に吹き出した空気があっという間に容器に充満するのと同じ理屈で、世界中がアメリカ資本に席巻されることを、あらかじめ計算していたのだということがわかる。

事実そのようになった。世界を旅行して、もはやKFCやマクドナルドの店を見ない場所は南極ぐらいしかない。怒濤の資本の流れは、各国に細々とやっていた地元産業をあっという間になぎ倒してしまった。このように自由市場という名の舞台では、特に勢力の強い者がすぐに実権を握り、たちまちのうちに自由競争という状態は消滅することがわかるだろう。

次に待ち受けているものは何か?それはおきまりの既得権の維持であり、今まで言及した過去の商人たちのさまざまな知恵の蓄積が再び適用される。いったん巨大資本がおさまってしまえば、新規にその業界に入り込むことはほとんど不可能に近い。かくして自由市場は死滅する。競争によってお互いが高め合うにも、相手がおらず安定はしていても、画一化され寡占や独占で支配された状態が続く。

我々は、自由競争、自由市場の美しい文句に惑わされ過ぎた。その本質を理解していなかった。実はこれらの言葉が、大資本による世界支配の口実に過ぎないことを今、悟ったわけだ。だがもう遅すぎる。今ではタイ国の田舎にも、アメリカやヨーロッパ資本の清潔で巨大なスーパーが次々と作られている。時計の針を逆戻りさせることはできない。政治家たちに、巨大利権を排除するような法律を作れるだろうか?

2002年4月初稿

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