文明時評

きつね

ライフスタイルに関わる、偏見と独断に満ちた考察
なぜ日本の若者は画一化が
進むのか?

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大都会における若者の群は、携帯電話を10分おきにチェックし、金太郎アメのように似た顔つき、服装、そして若い女の子の場合には、有名アイドルと寸分違わない化粧法で身繕いをして歩き回る。

若者の間における考え方や外観の類似傾向はこの10年の間にますます加速化しているようである。その原因はどこにあるのか?また、街頭でインタヴューをうけても「ウン」とか「ええ」としか答えられない失語症的傾向はなぜ変わらないのか?

島国だったこともあろうが、これまでは日本人としてのアイデンティティについてはあまり問題にされなかったが、ここにきて国際的な競争の中にさらされる中で、「自分とは何か」について何も考えていない現状は、国際社会の間ではいうまでもなく、日本社会の中で、彼らの多くの一貫した、予測のできる行動を不可能にしてしまっている。

確かにこれまでも外国の雑誌で日本が紹介されるときは、軍隊式の教育をおこなう小学校や中学校の様子が大々的に描写されてきたものだ。その教育方法が、創造力や想像力をを増したり、それぞれの個性を伸ばす代わりに、目立つ部分をつみ取って、みんな同じにしようとする風潮が、戦前から強かったことが繰り返し言われてきた。

この傾向は、アジアの諸国に大なり小なりある傾向でもある。シンガポールでも、韓国でも日本と同じような受験戦争があるから、その目標に向かって暗記中心の教育を押し進めれば、当然軍隊式の規律正しさだけを追求する教室ができあがってしまうのいたし方ないことなのかもしれない。

このような風潮の前に現れた、メディア技術の発達は、世界のどの国でもそうであるように、決してひとりひとりの個性化、多様化を増大させることには役立たなかったようだ。むしろ逆に没個性化の方に強く作用したようだ。

特に女の子にこの傾向はつよい。というのも女性の世界では、封建時代以来、行動規制が非情に強く働いてきたからだ。戦後のいわゆる「女性解放」によって女性は行動規範から自由になったかに見えたのもつかの間、今度は新しい現代における「仲間規範」にもっとがんじがらめに縛られてしまって、むしろ状況は悪化して袋小路に入り込んでしまっているようだ。

ストーカーなどによるセクシャル・ハラスメントがますますひどくなって、一人歩きも危険になっただけではない。たとえば都会では、化粧をしなければ出歩けない状況になった。うっかり素顔で出歩こうものなら、朝起きたばかりなのかと冷やかされるのはまだましな方だ。かつては学校の先生が女生徒たちの髪の長さやスカート丈を厳しくチェックしたのに、今では女生徒同士が冷ややかな目で監視しあうことも少なくない。その規範に反したときの罰は、たとえば「無視」だ。

秋田県の田舎でも、九州の海岸でも、テレビによって渋谷の女の子たちのファッションがほとんど同時に観察できるということは、地方に住む少女たちにとって、独自なデザインを自分で工夫するという方向には決して向かなかった。単に、サルまねをするだけに終わってしまっている。テレビの伝える文化は、個々人の知識や思考力を強めるどころか、思想の政治的強権によらない、平準化を招いてしまっている。

しかも多くの若者の小集団の中では、現代文明特有の個人への目に見えない圧力が働いている。これはあのアメリカにさえ見られる顕著な現象である。かつてカウボーイの国だったのに、人々が都会に集まるにつれて、独立独歩の精神は不要になり、その代わり大企業の中で、クビにならないように働くことに全力を尽くすサラリーマンの群が、この開拓精神が売り物だった国に出現してもう50年以上になるのである。

この平準化の傾向は、世界中のいわゆる先進国と呼ばれるすべての国に見られる。そして江戸時代から没個性化が奨励されてきた日本では、この要素が一層の触媒として働き、驚くべき速度での画一化が進んでいるのである。

若者にとって最もいやなことは「浮いてしまう」ことであり、人と違ってしまうことを積極的に避ける傾向である。こうなるとせっかく持っていた自らの才能や能力も生かせずに終わってしまう場合が多い。もちろん自らの思想を育てることなど思いもよらない。そして相互監視の枠組みが個人をしっかりと押さえ込む。戦争中の「五人組」の制度がどっこい、今も生きているのだ。

このような危険な傾向に加えて、狭い人間関係の中で自分を抑えなければならない状況は、各個人に強烈なストレスを与えている。それは少年には、暴力的なはけ口を求めさせるか、極端な引きこもり傾向を引き起こすなどの症状が現れている。

少女の場合には、拒食症、過食症、身の回りを片づけられない症候群などが最も顕著な例であるが、化粧の名目で四六時中自分のからだをいじっていないといられない傾向もストレスの現れである。成人女性の場合には、子供を産まないことによる閉塞感をストレスとしてため込む場合もある。

女性のストレス耐性は、男性に比べると限界近くで急に低下する場合が多い。これまで家庭内での生活が社会的にも慣習的にも安定していた時代には、問題がなかったが、社会に働きに出ることが多くなると、アルコール依存、喫煙への依存が急に大きくなり、男性以上に回復が難しいケースが増えている。女性の社会進出は、権利の増大を実現したが、生活の質はそれと引き替えに貧しくなってしまったのだ。

列車内での公衆の面前での化粧について、ある心理学者が、病的な傾向にあるといっていたが、強すぎるストレスに適応して完璧に外の世界を遮断してしまう事例が最近では多くなってきている。これまではウォークマンでヘッドホンの音量を最大に上げて自分の世界に浸ることがよくおこなわれていたけれども、最近ではそのような機器類を使用しなくても、自ら殻を作り上げ、外界から完全に分離することができる若者も増えているようだ。

若者の内面だけではない。取り巻く環境も驚くべきスピードで画一化の波が押し寄せている。たとえばコンビニやファストフードの店による猛烈なフランチャイズ化である。どの町に行っても全く同じ看板の牛丼や、ハンバーガー・ショップが建ち並び、町並みは日本中、いやアメリカでもカナダでも、どんどん似通ってきてしまっている。

かつては同じ看板で同じ味を提供することで、消費者に安心感を持ってもらうのが、フランチャイズ化の目的だったのに、これが国中にあまりに広がりすぎると、止めることのできない同一構造の繰り返しが至るところで繰り広げられることになる。かくして若者たちは食べるものも、着るものもみな同じになってゆく。

若い女性のブランド志向も同じ系統に属する。ただ、これは日本が経済的に豊かであるから可能になったわけであるが、そのブランドの製造元は儲かって、うれしくてたまらないだろうが、金に飽かせたみな同じデザインのバッグを買うことは、もちろん世界中の物笑いの種になっている。(これまで)世界第2位だった物質文明によってふやけてしまった生活が露呈してしまっているともいえる。

髪を染めることに関しても、驚くべき同一性が観察される。そもそも黄色人種の顔色からして、ブロンドや茶色は、似合わないことはわかっていても、これほど染めた頭が普及すると、自分の好みからやめることができなくなり、むしろ黒髪のままでいることに「勇気」がいるように変わってしまっている。30年前に髪を染めたりすれば、特殊な業界に属する人だと思われ、視線を感じるだけでもかなりの気丈な人でないと耐えられなかっただろう。今日では逆に染めないことが異端児の証明となる。

もしこれでどこかの有名なアイドルや漫画のキャラクターが、黒髪への復帰を始めたりすれば、またまたたく間に全体が戻ってしまうことだろう。ついこの間まで、「厚底靴」が流行していたと思ったら、あっという間に姿を消してしまったのを思い出すとよい。流行の気まぐれは、これまでにないほど大規模に推移するので、資源の点からも大変な無駄を引き起こしている。大多数の厚底靴は、今やそれぞれの靴箱の中で出番を待つことなく眠っているだろうし、早々と処分されているものも少なくあるまい。

これから先、画一化は若者をどのような方向に向かわせるのか?いったん行動がパターン化されてしまえば、文化の流れが、分断されてそれぞれが孤立化するような事態にならない限り、これが多様化することは、、止まることはないだろう。

最も心配されることは、ヒットラーのような天才的カリスマによって政治的に利用されるときである。この点で現代社会の民主主義はきわめてもろいといわれる。戦争の記憶も老人たちと共に遠くへ去ってしまい、若者に伝えられる機会も少ない。しかもマスメディアの発達が顕著になればなるほど、危険度は増してゆくのだ。テレビの効果的な衝撃的画像によって、人々はものを考えることなく、直線的に行動することが考えられる。

商業的にも利用される。現代の企業は、心理学の最新成果をフルに利用して、宣伝合戦に挑む。どんなくだらない商品でも、テレビのコマーシャルが魅力的であれば、ものをかんがえない人々はすぐに飛びつく。多くの若者に、自分たちが「繰られている」という意識がまったくない。

金儲けしか考えないような企業は、その行動がすべて comspiracy (陰謀)の塊だというだという認識がまるでない、無防備な存在なのだ。かくして砂糖水に等しい栄養ドリンクやら、詐欺まがいの大衆薬などが堂々と売られ、それを人々は疑いもしないで買ってゆく。

またオリジナルな考えが出にくくなるために、思考の範囲や可能性が狭まり、いざというときの解決策がなかなか出にくくなる。これは高度な判断力が要求されるときに、実に不安な状況である。昔から「多様性」は安全弁だといわれていた。風変わりな考え、異端者、時代に無視された考えなどは、状況が変わればとたんに必要とされる場合が少なくないからである。

生物たちも、多様性を極限まで押し進めてきたおかげで、地球環境の激変を何とか乗り切ってきた。日本にとって、若者の間に多様性が失われてしまうことは、滅亡への危惧をしのばせるのに十分なのである。

2002年5月初稿

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