文明時評

ライフスタイルに関わる、偏見と独断に満ちた考察
最後の日本人??

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戦前生まれの人であれば、男なら自転車のパンク修理、犬小屋づくり、屋根瓦の雨漏り修理を、また女の人であれば、梅干しづくり、お手製のワンピース、自分で編んだ靴下とかセーター、といった経験を持っている人は多いだろう。

むしろそのような経験を持っていない人の方が割合としては少数派に属する。というのも自分でやらなければ、大金持ちでない限りこれらの品物をそろえることができなかったからだ。自分がどんなに不器用だと自覚していようとも、実際に作ってみるしかなかったのだ。

中にはそのうちのどれかを職業に選び、見事な工芸品を作るとか、誰にも負けない美味しい料理を作るとか、人間重要文化財に選ばれないまでも、巷では師と仰がれるような域に達した人も少なくない。

そのような人々も高齢に達し、少しずつこの世の中から消えていっている。しかしなによりも恐ろしいことは、この人々とともに、文化遺産も生活遺産も雪崩をうって消滅しているということだ。後継者不足は、日本のどんな部門でも進行中である。

実は戦争直後から10数年まで、日本人は世界でも驚くべき「器用」な国民として名声を馳せてきた。特に時計とか刃物などの精密な道具、機械類、木造建築における技術は、とてもほかの国民には真似のできない領域に達していたものが少なくない。

しかし、21世紀になって50歳以下で「器用」だという人はほんの一握りしかいなくなり、この言葉はほとんど死語になった。考えてみれば驚くべき変化である。ほんの4,50年前まで盛んだった技術、工芸、芸術、農業技術など、いわゆる「手間のかかる」ものが今になって一斉に消えようとしているのだから。一時期小学生が、小刀で鉛筆を削れないことが話題になったこともあった。今では、「削る」のはもう特殊な技能だと言っても誇張ではない。

確かに自然界における動植物の絶滅も深刻な問題だが、いわゆる「日本文化」という名で何百年も続いてきたものが今消えようとする事態とは、身震いがするほど恐ろしいことになったものだ。もちろんこの流れは個人はもちろん、大小のグループによる少々の努力で止められるものではない。今ただ黙って崩れていくのを見るほかはないのだ。

これは日本だけでなく、いわゆる「現代文明」にさらされたすべての国々で起こっていることだが、この国における崩壊のスピードは、アメリカの影響が強烈で、文化の規模が小さいだけにほかのどこよりも速い。

現在(2002年)から数えて、あと20年以内に、「最後の日本人」は確実にこの世から姿を消す。それまでに若い人がその遺産の幾ばくかを受け継ぐ可能性はわずかしかない。戦前だったら当たり前のことだったちょっとした技術や技能がどこかの博物館に残るだけとなる。

なぜこんなことになったのだ。室町時代ぐらいから今までの歴史を振り返ってみれば、親から子へと伝統や文化はほぼきちんと伝えられてきた。人々の平均寿命が今と比べて短くても、今よりも遙かに不便で貧困であっても、そのペースはずっと変わっていない。

それが昭和35年あたりから、おかしくなり世代による引継ぎが突然止まってしまった。これは普通に言う「世代の断絶」というものではない。もっと大きな、「ライフ・スタイル」の変質なのだ。新しくできたライフ・スタイルは、「受け継いでいかない、使い捨ての文化」だから、何か新しいものが生まれたとしても、必ずその場限りなのである。

しかもさらに新しいものを加速度的に作っていかなくてはならないから、用意されている才能や材料は瞬く間に消費される。さらに消費する側は、自分で作り出す能力を持たないから、すべて「お金」との交換でまかなう。

せっかく古代に発明された「貨幣」だったが、長い歴史の中で行き着くところまで行き着いて、ついに国民の大部分がその欲望のほとんどをこれ満たす時代になってしまった。かつては王侯貴族の特権であった貨幣による欲望充足は、今や日常的になったのだ。

この時点で、かつての「器用」な世代は終わりを告げる。これからの人々は、自分の必要とするものを自らの手で作る必要はほとんどなくなった。つまり「万能人間」、少なくとも「こまめな人間」は現代文明では、完全に存在価値を失ったのである。むしろそういう人間はモノを買わないから、市場経済の敵でさえある。

結局、終戦の無一文の中から人々が目指していたものは何だったのか?人々が「希望」に燃えていたというのは何だったのか?どうやら単なる物質的便利さと豊かさだけだったらしい。自らの生活能力と引き替えに、安楽生活を目指していたにすぎなかったことが今になってよくわかる。

よく、貧しい国々の子供たちや、日本の終戦直後の子供たちの目は澄んでいて輝いていると言われる。成長し豊かになって何でも自分の物質的欲求がかなうようになると、目が濁ってくる。あの澄んだ目は何だったのか?単に物質的幸福を夢見るだけだったのだろうか?確かに子供は純真だろう。だが、無知なだけに人生の本質など何も分かっちゃいないわけだから、当然そのまま突き進めば、欲求不満とストレスに満ちた大人になってしまうのだ。

今、中国をはじめとして、急速な経済発展を遂げる国々の子供たちは、はじめは何でも自分で工夫して生活を支えてきても、次第に目が濁っていくだろう。彼らも大人になる頃には豊かな生活を実現し、そこで日本と同じようなパターンが出現することになる。最後の中国人、最後のインド人がこの世を去るのはずっと後のことだろうが。

2002年8月初稿

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