文明時評

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きつね

ヤキトリはどこで作られるのか

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日頃食べているヤキトリがどのようにしてどこで作られているかを考えるひとはあまりいないだろう。材料として運び込まれるとき、冷凍でパックされてきているぐらいは想像はつく。また、居酒屋で食べたり、屋台でおいしそうな煙をあげているのを見て、結構安いものだと気づいたひともいるだろう。

自分でヤキトリを作ったことのある人は、肉を細かく切り、野菜を添えたり、タレを付けたり、形を整えたり、下準備がなかなか大変だということも知っているだろう。最近は設備が整っているから、そのあと焼くのはかんたんだ。だがいったい誰がヤキトリを串に刺しているのか?

答えは、タイをはじめとする東南アジアの若い女性たちである。日本の食品会社や商社は現地に出かけていって、できるだけ賃金を安く抑えることのできそうな場所を選んで、女工を集め、ポリエチレン袋に詰めて冷凍するまでの工程を任せる。彼女らは我慢強い。毎日毎日、朝から晩まで鶏をさばき、タレに浸けて串に刺すという単調な作業を繰り返す。貴重な現金収入になる。

かつて日本にも「女工哀史」という本が出されるような時代があった。同じように農村の女性が集められ紡績工場で、一日に十数時間もほとんど強制労働をさせられた。日本の工業化は、社会科の教科書にあるように、軽工業の発達から始まったのである。資本は蓄積され、さらに大規模な重工業、造船へとつながっていった。

今、タイで働く女性の仕事もそれに似ているように思える。だが、彼女らの仕事には未来がない。なぜかというと「便利さ」という麻薬にとりつかれた日本人の使い走りになってしまっているからだ。日本の若い女性のほとんどは、もはヤキトリづくりのような手間のかかる作業は行わない。携帯電話のボタンを押すのに忙しいからだ。

日本人は、これを進歩と呼ぶ。忙しくて、自分の食べる分でさえ作る時間がないことを誇りにしている。その結果、ヤキトリづくりは海外に回されるのだ。経済評論家によれば、彼女らの働きによってタイの農村における現金収入が増え、生活水準が上がるのは結構なことだという。

確かにタイでもテレビなどは一般家庭の普通の家具になりつつある。確かに物質的に豊かになった。だが、タイ人たちも、将来日本のように豊かな生活を取り入れたあかつきには、さらに自分たちよりも貧しい国を探して、そこでヤキトリづくりをやらせるのだろうか。

ヤキトリづくりがタイに回ってくるのは、為替レートの大幅な違いによる。確かに現状ではタイでヤキトリを作れば、日本で作るよりも大幅に安くできる。そして日本のほとんどの供給業者がこの方式を採用しているために、もうこの価格については、これ以上高い値段で売ることが超高級品である場合を除いてはとうてい考えられないレベルに固定してしまっている。

日本の人々は自分でヤキトリを作らなくなった。貧しい人に肩代わりをさせて自分たちの生活をエンジョイするようになった。ここに目に見えないモラル・ハザードが生じている。ひとが自立した生活を捨て、下位の者に生活の維持を依存するようになった例は、ローマ帝国やギリシャを引き合いに出すまでもなく、世界中の特権階級の凋落の原因となったことは歴史が教えている。

日本人は国内では相当の高収入のある人でも、自宅に使用人を置くことは少ない。人件費が滅法高いからだ。だが途上国の駐在員になった人たちは、現地のメイドは手軽に雇えるために、平気で使っている。このように金が許すならば、労働をどんどん下位の者にまかせていく。

だが、国民規模でそのような風習が定着すると、どんなことが起こるだろうか。楽な生活に味をしめてますますエスカレートしていくことになる。金が続く限りは。この傾向は止めようがなく、面倒な作業はどんどん海外へ移される。作業に伴う技術やコツなども、次第に国内では忘れられてゆき、後継者はいない。

すでに日本で売られているエビは、東南アジアの海岸地帯のマングローブを伐採して作った池で、暑さと不潔な環境での病気予防のために抗生物質を撒いて養殖した製品に占められている。

魚は、その小骨のあることが若い消費者のの間で不満のもとであった。国内の魚の消費量が減少の一途をたどっているのはそのせいだと言われている。タイなどの器用で忍耐強い女性たちは日々、日本人が骨なし魚を食べることができるようにと、昼も夜も、小骨を抜く作業に追われている。近い将来、すべての魚肉は獣肉のように食べられる日が来るかもしれない。

ロール・キャベツもバンコック近郊あたりの工場でせっせと作られている。レストランで出てくるような大物でなく、寿司ぐらいの可愛いやつだ。挽肉に、キャベツをきれいに巻くのも手先が器用でていねいでなければできない。日本の男性は言うに及ばず、仕事のできるキャリア・ウーマンの中には内心そういう作業を「汚らわしい」とさえ思っているだろう。でもスーパーに行けば総菜としては手軽だから平気で買い物かごに放り込む。

貿易自由化とはいったい何だったのだろうか。自分のないものをお互いに交換しあうというと聞こえはいいが、それはかつて隊商が行き交った時代の考え方の延長であって、現代社会では生産物を外部に依存して自らの自給体制を崩壊する方向に働いている。

しかしこういう事態が続くのは、今のような為替レートの差が存在している間だけだ。現在の日本経済の衰退のスピードでいくと、近い将来、おそらく2010年頃には、そのような余裕がなくなっているだろう。だが、そのころには日本国内にそのような作業を引き受ける人材もなく、いよいよ本物の破綻がやってくるのかもしれない。

2003年5月初稿

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