文明時評

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きつね

NHK受信料を拒否しない理由

NHK は政治家への事前説明をやめよ!

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ひとときNHKに受信料を拒否するのが当たり前のような風潮があった。私もそのうちのひとりであった。なぜ大して見もしないのに月々テレビをもっているだけで金を払わなければならないのか?ばかばかしい!!と思っていた。

だが、それはジャーナリズムが明るい自由な未来を開くという素朴な信仰があったからこそであった。今は違う。現代のマスコミがどんどん不健全な方向に進み、言論の自由などというものを絵に描いたモチどころか、それすらあきらめてしまうような暗い未来が見えてきたためだ。

それは皮肉にも、規制緩和という世界的に大きな流れから始まった。これまで企業活動をがんじがらめに縛っていた規制を撤廃し、自由に企業の自主性に任せて経済活動を盛んにしようという試みだった。

かつてのアメリカのレーガン大統領、イギリスのサッチャー首相がこの政策を一躍世界的なものにした。おかげでイギリスは、衰退から立ち直り、アメリカも不況を克服できたかのように見えた。

だが、政治の世界で何事もやりすぎると必ず弊害が生じる。政治で最も大切なのが妥協だと言われるのはそのせいだ。規制緩和は過当競争を生み、勝ち組と負け組を作り出した。その典型的な例が航空業界であろう。

飛行機は、その運賃しか競争の決め手がない。出発時刻とか運行便の数とか、スチュワーデスのサービスとか、ましてや機内食のうまさなどは他社を負かす決定的な要因とはならない。

おかげで運賃値下げに各社は体力を消耗させ、戦争などが起こって需要が減ると、もろくも倒れた。かつては世界中の空港で見かけたパン・アメリカン航空ももはや歴史の教科書にしかない。

規制緩和は、報道界にどんな影響を与えただろうか。まずほかの企業と同じく、合併や業務の多角化が自由にできるようになった。新聞や民営テレビは、広告収入が頼りなので、広告主との関係が一層緊密になる。今まで以上にスポンサーの意向に左右されるようになったのだ。

また国や地域によって異なるが、地方には大小の小規模の新聞社が存在し、それぞれの独立性を守ることもあって外部資本の導入を制限する場合が多かったが、これも撤廃された。

マスコミは、国全体の景気がいいときは、広告を出そうとするスポンサーが群がり、大変儲かる事業である。さらに様々な媒体が技術的に可能になるにつれ、電信電話業界や、まるで報道には関係のない業種の人間の中にも、うまい汁を吸おうとこの世界に近づいてくるものも現れた。

これまではどちらかというと文筆の立つ、あるいは知識人ぶる人々の牙城であったはずの新聞業界が、いつの間にか他の分野の人々が目に付くようになったのである。これは新しい血を入れるという点からは歓迎すべきことであったけれども、報道の本質をわきまえない、報道を単なる金儲けの道具としか見ない連中も入り込んできた。

その典型的な例がマードックであろう。彼の頭の中には「巨大化」によって収入を最大限にすることしかない。今のところ衛星テレビへの途方もない巨額投資のため、黒字に転換する見通しは立っていないが、いずれは一大マスコミ帝国を支配するつもりでいる。いや、すでに一般の新聞やテレビでは、その地位にある。

彼らのマスコミの使命に対する関心がきわめて薄いために、その「帝国」は帝王の意向のままに動くのが当然と考えるようになる。これは、フランス革命の時に自由主義者たちが予想した国家権力による言論の弾圧とはまったく違った問題である。私企業が巨大化したために、私企業自体が言論を抑圧し、自分の都合のよい方へ向かわせる権力を獲得したのだ。

規制緩和が行われる前から、地方ではすでに新聞やテレビは「系列化」が進んでいた。マスコミで扱うニュースが、ますますグローバルになるにつれ、中小の報道機関では事件のカバーが手に余るようになった。それで大都市の大手の報道機関が先頭に立って、地方の零細企業をまとめだしたのだ。すでに中央の大手新聞社がいつの間にかそれらの中小新聞や放送局の株主におさまっている。

規制緩和になり、今や資本の注入も、合併、吸収も大ぴらにできるようになった。このような駆け引きに長けた人物がどんどん弱い報道機関を吸収して自分のなすがままにしたいと願うのも当然だろう。

規制緩和を実行した政治家たちには、このような事態が展開することについての洞察力が足りなかった。というよりも他の分野と同じレベルにしか報道機関を見ておらず、恐るべき宣伝や扇動の道具になるという認識があまりに不足していた。

だがもう遅い。パンドラの箱は開け放たれ、伝統的に報道機関の独立性を尊重する国でさえも、不況で各社の体力が落ちる度に系列化が進められ、少数による独占体制が進んでいる。

これが、報道機関の重要性の認識が浸透していない国であると事態は悲惨である。残念ながら、ピュリッツァー賞を誇るアメリカのマスコミも、大衆のレベルが少しも向上していないために、まったくの後進国だと言っていい。確かにきわめて優れた報道人や批評家はいるにはいるが、あまりに非力で数が少なく、国全体の田舎根性には抗すべくもない。

イラク戦争を見ても判るように、同時テロによる国民の動揺を巧みに利用したブッシュ大統領の論理にコロリと騙され、大量破壊兵器が見つからなくても平気で戦争の正当性を信じるようなレベルの低さである。報道機関は戦争中だけはそろって愛国的となり、戦争反対意見は非国民として排斥される。

これはアメリカ国民も、彼らに読ませたり見せたりするアメリカの報道機関も実のところはまだ幼年期にあり、成熟した世論を作るレベルに遙かに達していないためである。民営の報道機関は結局はスポンサーの奴隷である。テレビにおける視聴率競争がそれを雄弁に物語っている。スポンサーの意向にはずれるような内容はいっさい報道、放映されない。

我々はこのような民間報道機関の限界をはっきり知っておくべきである。そしてその報道内容を見たり聞いたりするときは、必ずその分を差し引いて読むという習慣を身につけなければならない。

たとえばトヨタ自動車がスポンサーになった番組で悲惨な交通事故のドラマを流すだろうか?大正製薬がスポンサーで、薬害を扱ったドラマを流すだろうか?たとえスポンサーが太っ腹だったとしても、小心で保身に汲々とするプロデューサーなら、間違いなく「自己規制」をするだろう。

また不偏不党とか、中立的というのが最も危ない。これは何も確固とした報道指針をもたないと言っているのと同じだからである。共産党支持だとか、極右だとか、イスラム原理主義だとか、表看板をしっかり出しているのはその立場を知った上なら、安心して受け止めることができる。彼らがその看板に反することをしたりすれば直ちに読者や視聴者を失うからである。

だが、一般の人々はそこまで極端な立場に立てないのが大多数である。だが、大衆を馬鹿にした番組を四六時中流している大多数の放送局がこれ以上増えないようにするために、現在のマスコミをもう一度見直してみる必要があろう。

それが、ラジオの発明された当時からあった、「公共放送」の存在である。このタイプのマスコミを思いついたひとは、現代のスポンサーの横暴をすでに予知していたのだろうか。人間は金を与えられると、与えた人間の言いなりになる、という古来の知恵を知っていたひとだろうか。

公共放送の草分けはイギリスのBBCである。創立以来、その独立性を保つために大変な努力を重ねてきた。公共放送は民間企業によって支配されてはならないだけではない。

もちろんときの政府からも独立性を保っていなければならない。公共放送は、国の機関とは密接な関係にあるから、それを維持するのは大変なことだ。常に「野党」であることが求められる。与党にすり寄ったら、その存在価値はない。ごく当たり前のこととして、NHK はまず政治家への事前説明のような、「権力へのイヌ」と誤解されるような慣習は極力避けなければいけない。

BBCが本当にその使命を今日に至るまで果たしてきたかは、今後の調査によるとして、ヨーロッパ各国にある公共放送局、そして日本のNHKも含めて、このし企業万能の時代に、絶対に存続させておかなければならないものである。

ここでNHKを擁護するつもりはないし、そのお役所性には昔から多くの批判を集めてはいるが、NHKの抱える問題は、民放の抱える問題とは対極にある。ということはNHKには、少なくともこれまで述べてきた民放の言論上の支配・被支配問題はあまりないということだ。

NHKの受信料支払いを拒否しない理由はここにある。もしNHKの番組で、民放のようにコマーシャルだらけになったらどうであろうか。世界の出来事を知るのに、いったい何を信用したらいいというのだ??民間報道機関の限界を考えると、有料というのは報道の独立性を考える上ではどうしても必要になるのだ。数多く出現した有料有線テレビの料金と比較すればNHKの料金は大変お得ではある。

しかしハイビジョンに多額の金を投資する問題はどうか?数年後には今までの放送電波が廃止され、ハイビジョンになるが、当然のことながら、全世帯に普及するまでは、高価な機械の購入を強制される。映画館の鮮明な画像を見た人にとって、ハイビジョンの画像なんかたいしたことない。双方向だなどと言うがそんなものはインターネットでとっくに実現している。

ハイビジョンになったところで、放送内容が良くなるわけではない。せいぜい海や川の映像がきれいになる程度のもの。そんなものに金を投じる価値があるだろうか。放送内容のレベルを上げることに金を使った方がはるかに価値のあることだと思う。受信料を取り立てるなら、すべて放送内容のために金をかけるべきだ。

2004年には、職員の汚職が相次いだ。これはまさに「巨大化」のツケである。組織が複雑化すると、どうしても目が行き届かなくなる。一方的な機械的管理に頼らざるを得なくなる。大きな転換期に海老原会長のように拡大主義を信奉し判断力のない指導者がいると組織の改善が滞り、下手すると逆戻りする。

彼らは旧態依然の「規模の巨大化」とか「技術革新」を繁栄のしるしだと思いこんでいる。我々がNHKに期待するのは、スポンサーによって牛耳られることのない独立性の高い報道だけである。デジタル化なんぞ民間に任しておけばよい。繰り返すが、技術革新は放送内容の向上と何の関係もないのである。

人々は受信料の支払いに関してはシビアだ。強制的でないしその内容が「ためにならない」となれば支払い拒否が相次ぐ。NHKが汚職にまみれたり、無駄遣いをしているように見えたらたちどころに人々は支払いをやめるだろう。

人々の支持をとりつけるためには公共放送の原点に立ち戻らなければなるまい。巨大化への道を改め、技術至上主義をやめ、民放と同じような内容を避け、政治的圧力に対しても毅然たる態度を保ち続ける必要がある。例えばニュースとその解説専門局になるのもよい。政府機関や大企業の触手が伸びることのない、独立した組織は現代にいたりますますその必要性が叫ばれているのだ。

2004年の暮れには韓国に慰安婦をテーマにしたドキュメンタリーが自民党の幹部によって圧力を受けたという報道が流れた。報道した朝日新聞とNHKは相互の意見を譲らないままだ。その審議はともかく、このような噂が流れるということは、NHK内部に自民党と仲良くしたいという連中が巣くっているからに他ならない。

自民党はその体質からして、圧力をかけたのは間違いないだろうが、NHKがその制作品の放映にあたって、政治家に対して「事前説明」をする必要なんてまったくない。これが慣習化しているなら即座にやめさせなければならない。

ジャーナリズムに一番大切なのは、時の政権に対しては常に敵対するという「野党性」なのである。御用会社は報道の死を意味する。今のNHK会長はその事を曖昧な表現にすることなく、きちんと明らかにするべきだ。

2005年2月にはライブドアがニッポン放送の株を多数買い占めた。資本主義の原則からすれば、株式会社の公共性ゆえ、誰でも株を買ってさらにその会社の支配権を握るのは当然である。だがこれがメディアであるということがかかわってくると別の問題が生じる。

アメリカ、オーストラリアのように「メディア王」がどんどん新聞社や放送局を買い取り系列におさめてしまい、ジャーナリズムの世界を「寡占化」してしまう恐ろしい現象が日々進んでいる。そこでは取材記者の主張もその社主に左右される。逆鱗に触れればボツやクビにもなりかねない。

ジャーナリズムは「独立系」が望ましいのだ。その点からすればNHKは「敵対的買収」から守られているし、表向きは政治家の「圧力」もものとしないことになっている(もちろんその点はプロデューサーたちの心意気によるが)。

2003年5月初稿2005年10月追加

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