文明時評

ライフスタイルに関わる、偏見と独断に満ちた考察

きつね

オリンピックへの疑義

HOME > Think for yourself > 文明時評 > オリンピック

近代オリンピックはどこへいくのか。2004年に発祥の地アテネで開催されたその大会運営とスポーツ界における位置は、年々変わってきた。かつてあった素朴さは姿を消し、金メダルをたくさんさらっていくのはトレーニングに大金をかけることのできる豊かな国々だけである。いまやグローバリズムがはびこる世界にふさわしいかたちを取るようになってきた。

問題は4つの観点から論じることができる。

コマーシャリズム; オリンピックにアマチュアだけでなくプロの選手が参加できるようになって以来、選手たちのはく靴も服装も様変わりしてしまった。走る広告塔とよばれるほどのどぎつい企業のロゴを臆面もなく掲げた選手たちは、表向きにも陰に隠れても金を受け取り、生活費や訓練費用に使ってきた。

選手たちが事前に企業から依頼を受けているのだろう。試合が終わったすぐそのあとにテレビカメラに向けてポーズを取るようになった。まるで自分の身につけていた服装や靴のおかげで勝ったのだと言わんばかりに。

金メダルは、その後のコマーシャル出演や計り知れない収入の保証書である。スポーツが現代社会の利潤追求にすっかり組み込まれるとき、そこには運動することを愛する気持ちとか健康増進という考えはすっかり排除される。そこには冷徹な計算だけが存在するのだ。巨大化はますます多くのスポンサー企業を生み、彼らの製品宣伝の格好の場になっているのだ。

世界のテレビ放送網は、オリンピックの放映権に支払う金にうろたえている。開催国が必ず黒字決算をするようになってしまったために、権利料の支払いが途方もなく増えてしまったのである。結局これはスポンサーが支払ったり、有料テレビでは視聴者が払うことになる。

巨額のカネが行き交う世界では必ず仲介者や中間搾取者が発生するが、スポーツ放送も例外ではない。これまでも汚職や使い込み、横流しが何度も警告されてきたが、そのたびにうやむやにする力が働いて何一つ解決されたことはない。

開催国になることは非常にうまみのあることなので、各国が次回オリンピックの開催を希望する。開催国選定に際しては、札束攻勢に動じない選定委員が何人いることだろう。しかし長野オリンピックの場合でもわかるように、重要な証拠書類は隠滅されている。

コマーシャリズムはスポーツとは無縁のものなのだが、今ではこれなしにはスポーツが成立しないほどになっている。個人では巨額のトレーニング費用や時間、渡航費用などを捻出することが不可能になっている。今後は巨大化がいっそう進むであろう。そこには人間性などつゆほども考えられない組織で運営がされていくのだ。

ドーピング;

農産物にありとあらゆる遺伝子操作が試みられる時代に、検査に引っかかることのない薬は開発することは簡単である。選手が勝つためには自分の健康を犠牲にしてもファウストに魂を売り渡すことをこんなに安易にするようになった時代は今までにないだろう。

なるほど今後は健康を犠牲にしなくても済むような薬剤も開発されることだろう。スポーツの精神の中枢ははフェアプレイであった。それが現代ではものの見事に蹂躙、無視されている。それにしてもこれほどにスポーツも「肉体機械」の争いにならなかったらドーピング開発競争も起こらなかったことだろう。

おそらく今まで薬を常用していた選手たちは、中高年になるとそれまでにかけていた負荷が一気に現れて大勢の者たちが病気になり、そして死亡することだろう。自らの責任でやっていたなら自業自得ということになろうが、それにしてもこれが一般的風潮になってしまったのが現代のスポーツ界なのだ。

技術の発達は何も薬剤に限ったことではない。スポーツとは高性能の機械や道具を使いこなすことだと信じて疑わない人も大勢いる。本来の肉体の競り合いから、いつの間にか技術競争になってしまった例が跡を絶たない。

ヨット競技では「ワン・デザイン・クラス」というのがあって、各選手の使用する艇を厳密に計測・検査して同じ条件にし、その上で選手の技量を競う。よりすぐれた運動靴、水着を開発することは、選手の能力によらない部分で勝つことになり、これもドーピングに通じる現象である。

ドーピングがばれることによって現れる最も著しい現象は、観客のスポーツ観戦離れである。筋肉増強剤で鍛えた体で勝利したとしても、そんなものは見ているだけでばかばかしい。だが、その可能性も承知の上で選手も監督も魔法の薬に手を伸ばす。そしてそれが一般化したときには、肉体同士の戦いは消滅するのだ。

ナショナリズム;

国家がその国威発揚のためにオリンピックを利用することほど危険なことはない。人々が熱狂し理性的な判断を失っているところに政治的意図を吹き込むことはヒットラーによるベルリン大会以後つねに行われてきた。

メダルの獲得数に一喜一憂し、金メダルを取ることで嬌声をあげ、アナウンサーが絶叫する。サッカーにおける暴動化までにはいかないにしても、そこには単なる勝敗にこだわるだけの狭量な精神が跋扈する。

人間の運動能力の向上も限界に近いと言われている。だが人々が関心を持つのは世界記録の更新ではなく、自国の優勝である。マスコミがそれをあおり立てる。日本人の場合は集団主義の傾向が強いからこれに軽々と乗せられてしまう。

選手の方も、いつの間にかメダルを取ることが唯一の目的となる。本人はその種目が好きで才能もあるからこれまでがんばってきたのだろうが、ナショナリズムの波に飲み込まれてすっかりメダル獲得マシンになりきってしまう。そしてメダルを取り損なうと全人生が壊滅したかのような騒ぎとなる。

運良くメダルを獲得した選手は、「みんなのために」がんばったのだと発言する。これは日本特有のナショナリズムの表現の仕方であろうが、「自分のため」というよりは、まわりの受けがよいこと気遣った上なのであろう。

彼らにとっては、巨額の収入と名誉を報酬としてもらえるのだから、練習にも身が入るわけだが、マスコミにしてみれば視聴率を上げるための格好の道具として利用している。2008年には中国が国家全体の威信をかけて選手たちを駆り立てることになる。

エリート主義;

一体いつからスポーツはやるものから見るものへと変わったのか。オリンピックが近づけば新しいタイプのテレビの売れ行きがよくなる時代である。競技を行う「演技者」とそれを眺める「観客」はいっそう分離が進んでいる。

毎年体育の日に発表される児童の体力低下や肥満児の増加はすっかり当たり前の傾向となってしまった。たとえば逆上がりのできる子供はすっかり減った。かつては逆上がりができないといじめられたものだが、今では逆上がりのできる子が珍しいということでいじめられる。

年々スポーツクラブに所属する少年少女が増えている。これはスポーツに対する関心が高まったからではない。近所に広い遊び場がなく、子供の共同体も崩壊しているからとりあえずその代用として親が行かせているだけである。

だから彼らも18歳を過ぎる頃からスポーツをほとんどしなくなり、正真正銘のカウチポテトとなる。また若い女性の多くは自分に厳しいダイエットを課しているから、体を思い切り動かす体力はなくなっている。歩くこともなく肉体労働は機械がやってくれるから、スポーツに無縁な人は徹底的に無縁になった時代なのだ。

一方で才能のある少年少女は早くから訓練を受け、ひたすら勝つためにトレーニングされる。将来メダリストになれば生活が保障されるのだから、そのための職業訓練だといってもいい。このようにして商業主義にしっかり組み込まれた選手育成が開始される。

自ら運動をしないでテレビで眺めるだけの大衆と、世界水準に届くように徹底的に訓練されるスターたち。その間のギャップは年々広がるばかりだ。確かに国際大会などでめざましい活躍をしたりすればそのスポーツの愛好者は増える。だがそれは幼少時においてだけであって、それが高齢者になるまで続くことはほとんどない。

もともと日本にはスポーツを楽しむという生活習慣が存在しなかったのだ。余暇という言葉さえ十分に理解されていないお国柄である。だから80歳になっても遠出を楽しむサイクリストとか水泳愛好者などがいると、テレビや新聞で報道されるほどなのだ。

現代では高齢化社会のゆとりがまだあるので70歳以上のスポーツ愛好者は増えているが、悲惨なのは働き盛り、つまり人生のうちで最も体を動かすことを必要としている世代の運動量がゼロに近いことだろう。平日は残業でこき使われ、休日はじっとしている。

このような実態ではオリンピック選手の活躍といっても本当のスポーツの楽しさを教えることにはなっておらず、ただいたずらにショー化が進んでいるだけなのだ。誰もが楽しく体を動かしたくなる社会とはほど遠い。

オリンピックの廃止、または縮小を

このようにしてみると、現代社会におけるオリンピックは自由主義経済の持つひずみを一気に背負い、本来のスポーツからあまりに遠いところに来てしまったことがわかる。開催国は国威発揚のために大金を使い、自然を破壊して作った競技施設は大会後あまり使われぬまま、建設業者だけが一時的に潤う。

赤字を出さぬようにしてすすめる運営方式は、全体の商業化を進めモラル・ハザードがひどくなった。巨大化が進んだオリンピックでなくとも、テニスのウィンブルドンのように、ほかにそれぞれの競技には固有の大会がある。それで十分ではないか。

総花的に一カ所に集めて競技を行い、警備や維持に巨大な負担をかけるより、それぞれの競技の愛好者が小さな規模でおこなった方が悪影響ははるかに少なくて済む。この際全体オリンピックを廃止するか分会を開催し、その開催地も数カ所に限定するなどすれば、本来のスポーツの持ち味が十分に生かされるのではないか。

2004年8月初稿

HOME > Think for yourself > 文明時評 > オリンピック

© Champong

inserted by FC2 system