文明時評

ライフスタイルに関わる、偏見と独断に満ちた考察

きつね

国民洗脳の道具

テレビ・携帯電話・自動車

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久しぶりにテレビを見る。驚くべき事に「民放」というのは朝から晩までコマーシャルを見させるところなのだと改めて感心した。それも同じスクリプトを立て続けに繰り返すところもある。それにつけてもさらに感心するのはおとなしく人々は画面を見続けていることだ。私は5分と持たなかった。私の短い人生が、くだらない商品の宣伝のために浸食されてゆく・・・もちろんそれ以上に価値のあることをやっているわけではないが、少なくとも自分が主導でやっていることだ。

それにしても世界中のどんな開発途上国に行っても、テレビの普及はごく当たり前になろうとしている。文盲率が改善される以前に、新聞が配達される前に、人々が基本的な生活技術を学ぶ前に、この恐ろしい怪物は茶の間を占拠している。そしてそのことを人々は喜んで歓迎している。

スイッチを入れている限り、絶え間なく流されるコマーシャルから逃げられない。かつて洗脳といえば毛沢東主義とかスターリン主義がやり玉に挙がったものだが、今日の洗脳はもっと怖い。洗脳の目的は「従順な消費者」を作ること。つまり必要のないものを借金をしてまで買うような行動を個人の基本的習慣として植え付けることだ。

その先兵はテレビである。現在、どんな開発途上国でも、何はさておきテレビだけは備えるという風潮が広まっている。コマーシャルのおまけにつく「おもしろい番組」につられて人々はテレビにかじりつき、知らず知らずのうちに買わせるべき商品の情報を脳の中に植え付けられているのだ。

番組を人々の鑑賞させるのがテレビの目的なのは1960年代ぐらいまでで、それ以降は企業と協力する心理学者の強力な後援のもと、人々が無意識に購買行動に走るようにありとあらゆる手段を用いている。かつてサブリミナル subliminal 方式といって、番組の間に宣伝したい商品の映像を何十分の一秒といったごく短時間に流す方法が採られたことがあった。この後では明らかにその商品の売り上げが上昇した。

さすがにこれは消費者を欺く方法だということで法律で取り締まっている国も多いが、なにぶんこれが発明されたのは20世紀の中頃である。これからもう50年以上たっている。素人にはわからないもっと巧妙で汚い方法が発明されているに違いない。とにかくテレビのスイッチを入れないことがまず大切なのである。もっともあのSF小説、「華氏451度」では、テレビをつけないでいると公安局が様子をうかがいに来るそうだが。

それにしてもニュースキャスターとは何者か?ひとりかふたりの人気ある人間がニュースを読み上げその批判をするのを同時に何百万、何千万人の人々が聞いているという事実だけでも鳥肌がたつ思いだ。しかし人々はそんなことに気をとめもしないし、放送局側ではもっと人々を注目させるようなカリスマ色の強い人材を求めている。「中央」放送局という発想はこれが怖いのだ。

テレビが普及し始めた頃、日本の親や先生は「1日2時間」までと視聴時間を制限していた。これでも一生のうちの12分の1を占めるほどだから多すぎるとは思うが、まあこのくらいで止めておけば実害は少ないだろう。だが今の子どもたちでそんな短い時間しか見ない子はまれだ。少なくともほかに強制的な用事がない限り、4,6時間ぐらいは平気で見てしまう。

2時間ぐらいまでなら、学校の勉強でも経験しているとおり、集中力が最大限に使われて実りある時間を過ごすこともできる。しかしそれを過ぎてただ眺めていても漫然と時間が過ぎていくだけなのだ。リラックスやストレス解消、疲労回復のいずれにも中途半端な時間を過ごすことになる。

しかし制作する側がなんとしても番組を見せようと最大限の努力をするし、人々の心理に関しても綿密な調査が行われているから、人々はテレビを見るのをやめることができないでいる。制作者側の「奴隷化計画」は見事成功したのである。あとは洗脳すべき情報を絶え間なく繰り返し流してやるだけでいい。

洗脳されたくない人は、テレビと完全に縁を切ればよい。他の情報源が多様に存在する今、テレビが無くとも何も困ることはない。ニュース、天気予報に関してはラジオがあり、文章形式に関してはインターネットや新聞があり、公共放送を選べばコマーシャルと完全に縁が切れる。民放ラジオはコマーシャルはあるものの、四六時中流していたら誰も聞かなくなるから、テレビとは比較にならないほどおとなしい。

携帯電話も同様である。これは一見普通の電話の延長として害がないように思える。確かに携帯電話が普及する以前から「トランシーバー」を愛用してきた人やトラックやタクシーの運転手にとってはこれまで非常に便利になった。

だが一般の人々が電話機を持ち歩くということはいつ連絡が葉一滴や市内かと常に電話機に張り付いていることを意味する。運転手なら仕事の一部だからそれでよい。だが、街を歩いてあるいは電車の仲で常に音声さらにメールの到着を四六時中見張っていることは多大なるストレス、言い換えれば鎖でつながれた猫みたいなものだ。

しかし「便利」だというだけで人々はその不自由を受け入れ今では何にも感じていない。かつてある大会社の重役が電話のないところで休暇を過ごし、警備の人も何百メートルだ化常に離れているように命じたという。それほどまでに「連絡を待つ」というのはストレスフルな事なのである。

しかもその高い料金(2005年1月現在である電話会社の一人平均使用料金は7190円)を支払わされている一方で仲間が持っているために自分も持たざるを得ないという、現代日本社会特有の現象もある。人々のネットワークが個人個人の「必要」に関係なく電話に関する出費を強いる構造になっている。

これを人々は「科学技術の進んだ社会」と呼ぶ。普通の人は全く価値観や科学技術のレベルの違う世界に言ってみない限り、自分たちのやっている異常性には気づけないし、気づく気もない。

車が日本国民のなかに浸透してゆくうち、携帯電話とまったく同じ事が起こった。日本は鉄道網やバスの路線がかつては十分に発達し、車がなければ不便だというような僻地は少なかった。それは過疎化が深刻でなかったし、商店や役所のような毎日ゆく必要のある場所と自分たちが住む場所が多くは歩ける距離にあったからだ。

都市に人口が集中して久しい。上記の条件はそろっている。にもかかわらず人々は不要な車を買う。巨大スーパーやモールは郊外の安い土地に建設される。そしてそのようなところに行くためには車がなければならないほど自宅から離れている。レストランやコンビニも必ず駐車場がなければたちゆかないようになった。

人々が車を買ったからそうなったのか?それとも人々が車を買わざるをえないように都市構造が変えられてしまったのか?アメリカの例を引けばもちろん後者である。アメリカでは市電を買収してそれを意図的に倒産させることによって人々が車を買わざるを得ない状況に追い込まれた。

環境整備を怠っておきながら都市の内部がまるで住むに適さないかのように宣伝し、郊外へ土地を買い家を建てることを民間も役所も一緒になって人々に勧めた。アメリカのような広大な土地と同じ条件でもないのに無理矢理日本の狭い土地は駐車場のためにつぶされている。

車一台を置くのに2坪。このような途方もない無駄を重ねた上に相次ぐ道路拡張の果ての大渋滞と無くならない交通事故。それに対して一切社会的責任を負わずに我知らぬ顔で生産に励む自動車会社。このような一連の構造を意図的に作り上げたのは言うまでもなく戦後の経済構造である。

自動車生産とその消費は膨大な物資の浪費が前提になる。いまどきほとんどの乗用車は1トンを越えている。金属と燃料の途方もない消費のもとに我々の「豊かな」社会は作られており、今更そこからおりることはできない。だから人々はなんとしてでも車を買わなければならないのである。

テレビ、携帯、自動車、この3つは現代文明を支える代表選手である。そして社会は人々を徹底的にコントロールしてまでこれらを買わせなければならない。この文明が続く限り未来永劫に・・・

2005年1月初稿

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